大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その13

このようなことはさて置く。私たちの一門の者のために記そう。他人は信じなければただの逆縁(ぎゃくえん・正しい教えに対する妨げという意味)である。一渧をなめて大海の塩を知り、一華を見て春を感ぜよ。万里を渡って宋に入らずとも、三年をかけてインドの霊鷲山に行かなくても、竜樹のように竜宮に入らなくても、無著菩薩のように弥勒菩薩に会わなくても、『法華経』の二処三会の座にいなくても、釈迦一代の教えの勝劣は知ることができるのである。

蛇は七日前から洪水が来ることを知る。竜の眷属だからである。烏は年間の吉凶を知る。過去世に陰陽師だったからである。鳥は飛ぶ徳は人よりも勝れている。日蓮は諸経典の勝劣を知ることにおいては、華厳の澄観、三論の嘉祥大師、法相の慈恩大師、真言弘法大師よりも勝れている。天台大師・伝教大師の跡を忍ぶためである。この人々が天台大師・伝教大師に帰依しなければ、謗法の誤りを免れることができるだろうか。今の世において、日本で第一に富んでいる者は日蓮である。命は『法華経』に捧げる。名を後代に留めるべきである。大海の主となれば、あらゆる河川の神はみな従う。須弥山の王にあらゆる山の神が従わないことがあるだろうか。『法華経』の六難九易を論じれば、一切経を読まなくても従うべきである。「見宝塔品」の三つの勅命と、「提婆達多品」の二つの勅命がある。提婆達多は一闡提であったが、天王如来となるという授記を受けた。『涅槃経』四十巻の現実的な証はこの品にある。仏に反逆した善星比丘や父を殺した阿闍世などの無量の五逆罪と謗法の者に対しても、その極悪人の頭の提婆達多の一人をあげて、他のすべての者に当てはまることを示したのである。一切の五逆罪・七逆罪・謗法・一闡提の者たちは、天王如来に当てはめて尽くされるのである。毒薬が変じて甘露となるのである。他のどんな味よりも勝れているのである。竜女が成仏するということは、この一人のことではない。すべての女人の成仏を表わすのである。『法華経』以前の諸の小乗経には、女人の成仏は許されていない。あらゆる大乗経には、女人の成仏往生を許すようだが、一度男子になってからの成仏であり、その一念にすべてが備わっているという一念三千の真理による成仏ではないので、有名無実の成仏往生である。一をあげて、他のあらゆることを喩えるということであり、竜女が成仏することは、末代の女人の成仏往生の道を踏み開けたことである。儒家の孝養は今の一生の間だけに限られる。未来の父母を助けるわけではないので、外家の聖賢は有名無実である。外道は過去世と未来世を知っているが、父母を助ける道はない。仏道こそ父母の後世を助けることができるので、真実の聖賢の名はここにあるべきである。しかし、『法華経』以前の大小乗の経宗は、自身の得道でさえも叶わない。ましてや父母の得道は言うまでもない。ただ文だけあって義ない。今、『法華経』の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏も表われ、提婆達多のような悪人成仏の時、慈父の成仏も表われるのである。この経は内典の孝経である。以上、「提婆達多品」の二つの勅命について述べた。

以上、「提婆達多品」の二つと「見宝塔品」の三つとを合わせた五つの仏の勅命に驚いて、続く「勧持品」の経典流布についての言葉がある。明らかな鏡のような経文を出して、今の世の禅・律・念仏者、ならびにその信徒たちの謗法を知らせよう。日蓮という者は、去年九月十二日子丑の時に首をはねられた。その魂魄は佐渡の国に至って、年が明けた二月の雪の中で書を記して、有縁の弟子へ送るのだが、それは怖ろしいようで、私は怖れてはいない。確かに、見る人は怖れるであろう。この書は釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏が未来世について予言したことを、この日本の今の世に映した明らかな鏡である。形見と見るべきである。「勧持品」には、「ただ願わくは心配なさいませんように。仏の滅度の後の恐るべき悪しき世の中において、私たちは広く述べ伝えます。多くの無智の人々は悪口罵倒し、および刀杖を加える者もいるでしょう。私たちはみな忍びます。悪しき世の中の比丘は、誤った知識をもって心がねじ曲がり、悟ってもいないにもかかわらず悟ったと思い、高慢な思いに満たされています。あるいは人里離れた静かな場所にあって、貧しい衣をまとって、自ら真の道を修行していると言い、一般の人々を軽蔑する者がいるでしょう。利養を貪るために一般の人々に教えを説いて、この世に受け入れられ、神通力を持った阿羅漢のように敬われる者がいるでしょう。このような人は悪しき心を抱き、常に世俗のことを思いながら、出家者を名乗りながら、私たちをしきりに非難するでしょう。しかも次のように言うでしょう。『この多くの僧侶たちは、利養を貪るために、外道を説く。自らこの経典を作って、世間の人を惑わしている。名聞を求めるために、あらゆる方法でこの経を説いている』。常に大衆の中にあって私たちを排除しようと、国王や大臣や婆羅門や在家信者、および僧侶たちに向かって、私たちを非難し悪く言い、『彼らは邪見の人であり外道の論議を説いている』と言うでしょう。私たちは仏を敬うが故に、すべてこの多くの悪を忍びましょう。さらに軽蔑されて、『あなたたちはみな仏ですね』と言われるでしょう。このような軽蔑の言葉を、私たちは忍んで受けましょう。時代そのものが汚れている悪しき世の中には、多くの恐るべきことがあるでしょう。悪鬼がその身に入って、私たちを罵詈罵倒するでしょう。私たちは仏を敬い信じて、まさに忍耐の鎧をつけましょう。この経を説くために、この多くの難事を忍びましょう。私たちは身命を愛さず、ただこの上ない道を惜しみます。私たちは来世においても、仏からゆだねられた教を守り保ちましょう。世尊はご存じでありましょう。汚れた世の悪しき僧侶は、仏の方便、すなわち相手の能力に応じた教えを知らず、私たちに悪しき言葉を浴びせて、寺院から追い出し除名するでしょう」とある。

(注:ここに見られる迫害は、まさに『法華経』を創作してそれを仏の言葉だとして広めている教団に対する、特に小乗仏教教団からのものである。これは間違いなく、実際にあったものであろう。「自らこの経典を作って、世間の人を惑わしている」とは、まさに『法華経』の教団をはじめ、他の大乗仏教のグループすべてに当てはまる非難である。伝統的な教団、すなわち小乗仏教教団から見れば、大乗仏教の教えは、それこそ外道にしか見えないはずである。もちろん、罵詈雑言はじめ、刀杖を加えられることもあったであろう。そして、伝統的な教団の中に、この革新的な大乗仏教運動に賛同するものがいれば、間違いなく除名されたであろう。そしてそのように強い迫害にあっているからこそ、大乗仏教教団は、伝統的な教団の人々を、悪鬼が入った者という最悪な評価を加えているわけである)。

『法華文句記』第八巻には、「この文は三つに分けられる。初めの一行は共通して邪人について明らかにしている。すなわち、世俗の衆生である。次の一行は仏門に入った者の増上慢の者について明らかにしている。次の七行は聖人の段階に至った者の増上慢について明らかにしている。この三つの中では、最初の者は忍ぶことができる。次は、前の者よりは困難である。そして第三の者たちは最も甚だしい。この段階に進めば進むほど、その考えを改めることができなくなるからである」とある。智度法師の『東春』には、「初めの有諸という言葉より下の五行において、第一の一偈は三業の悪を忍ぶことを教える。その者たちは仏教以外の悪なる人々である。次に悪世という言葉の下の一偈は、増上慢の出家の人々である。第三の或有阿練若という言葉より下の三偈は、すなわち、出家の者たちが集まる場所の、すべての悪人を総括している」とある。また、「常在大衆という言葉より下の二行は、公の権威に向かって法を毀り人を謗ることである」とある。

『涅槃経』第九巻には、「よき男子よ。ある一闡提がいて、阿羅漢の像を作って静かな場所に住み、方等大乗経典を誹謗している。多くの凡夫の人々はそれを見て、これは真の阿羅漢であり大菩薩だという」とある。また、「その時にこの経典を、この世界に広く流布すべきである。この時に、まさにさまざまな悪比丘がいて、この経典を抜き取って省略し、多くの箇所に分割して、よく正法の色香美味を減らすであろう。このさまざまな悪人は、またこのような経典を読誦すると言っても、如来の深密の要義を削減して、世間的な文学的であるが内容のない言葉を入れるであろう。前を引き抜き後に付け、後を引き抜き前に付け、前後を中に付け、中を前後に付ける。まさに知るべきである。このようなさまざまな悪比丘は、悪魔の伴侶である」とある。

『般泥洹経』第六巻には、「阿羅漢に似ている一闡提がいて、悪業を行なう。一闡提に似ている阿羅漢がいて、慈心を行なう。阿羅漢に似ている闡提がいるとは、この人々は、方等を誹謗するのである。一闡提に似ている阿羅漢とは、声聞の教えを破棄して、広く方等を説くのである。衆生に対して、私たちはあなたたちと同じく共に菩薩である。なぜならば、すべての人々に如来の本性があるためである、と言う。しかし、人々は、この人は一闡提だと言うのである」とある。『涅槃経』には、「私の涅槃の後から正法が滅んだ後に至り、像法の中においてまさに次のような比丘がいるであろう。戒律を持っているようであり、少し経典を読誦し、飲食を貪り、その身を長く養う。袈裟を着ていると言っても、猟師が獲物を狙うようなものであり、猫が鼠を狙うようなものである。そして常に、私は阿羅漢の位を得たと言うであろう。外に向かっては、賢く善い面を現わし、内には貪欲や妬みを抱く。真理は言葉にできないと、ひたすら黙っている教えを受けた婆羅門などのようである。実に沙門ではないにもかかわらず、沙門の姿を現わし、邪見を盛んにして正法を誹謗するであろう」とある。

(つづく)