大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

報恩抄 その6

問う人が言います。『涅槃経』の文には、『涅槃経』の行者は爪上の土ほどだとあります。あなたは、それを『法華経』と言います。これはどうなのでしょうか。

答えます。『涅槃経』には、「『法華経』の中にある通りである」などの言葉があります。妙楽大師は、「大経自らが『法華経』を指して究極としている」と記しています。大経というのは『涅槃経』のことです。『涅槃経』は『法華経』を究極の教えとしています。しかし、涅槃宗の人が、『涅槃経』は『法華経』に勝ると言っていることは、主人を従者と言い、下郎を上郎と言う人です。『涅槃経』を読むということは、『法華経』を読むことです。たとえば、賢人は国主を重んずる者に対して、その人が自分を蔑んでいても喜ぶものです。『涅槃経』は『法華経』を下げて『涅槃経』を褒める人を、敵と憎むのです。

この例をもって知るべきです。『華厳経』・『観無量寿経』・『大日経』などを読む人も、『法華経』を劣ると読むならば、それらの経典の主旨に背くことであります。これをもって知るべきです。『法華経』を読む人は、この経を信じるようですが、他の経典でも悟りを得るとする人は、この経を読まぬ人です。

(注:『法華経』の真実の教えを解き明かした人物は、天台大師であり、日蓮上人も、日蓮上人の著作の最初から最後まで、天台大師の教えを正しいものとして記述を進めている。そして、天台大師講述の『法華玄義』こそ、天台大師が悟った『法華経』の真実の教えを詳しく解き明かしているものであり、もちろん日蓮上人も大前提としている。しかし、『法華玄義』によれば、『法華経』の真実の意義とその働きは、ひたすら、「開会(かいえ)の思想」であり、どのような経典も、すべて究極的には一つであるとするものであり、どの経典が勝れているとか劣っているとか、そのような論理ではなく、すべての経典が究極的な悟りに向かうものだと明らかにすることが、『法華経』の真実である。日蓮上人も、『立正安国論』の時点では、そのような思想に立って記述を進めていた。何よりも、阿弥陀仏の信心だけを取り、それを述べる経典だけを肯定し、他のすべての経典や教えを「取捨選択」して捨て去るという、法然上人の「選択(せんじゃく)の思想」は、『法華玄義』の思想と相反するものだからである。しかし、日蓮上人は、佐渡で記された『開目抄』以降、自分自身を『法華経』の行者だとして、とにかく『法華経』が第一なのだ、という信念に立って、すべてを語るようになった。そして、『法華経』を第一の経典だとしない思想に対しては、真っ向から対立しており、その言葉も、何々の経典より『法華経』が勝っている、という言葉ばかりを並べるようになっている。これは、天台大師の思想とずれが生じていると言わざるを得ない。そして、『法華経』の中に、「この経典こそ第一である」という言葉があるが、それは、他の経典をすべて総括して、究極的には一つであるとする思想の故に、『法華経』が第一なのである。また、大乗経典はすべて、歴史的釈迦の教えではないので、いくら『法華経』の中に、「この経典こそ第一である」という言葉があっても、それで『法華経』が他のすべての経典より勝っている、第一の経典だ、という証明にはならない。ただそれは、『法華経』を作成した大乗仏教のグループの自負の表われに過ぎない。以上述べたことは、明治以降の正しい仏教学の成果による正しい解釈である。天台大師も、どの経典よりも『法華経』が勝っている、第一だ、というのではなく、どんな経典でも、その内容で判断している。ただ『法華経』がどの経典よりも勝っていると言う言わないで、経典やその宗派を判断すべきではない)。

たとえば、嘉祥大師は、『法華玄論』という文十巻を著わして『法華経』を褒めていますが、妙楽大師は彼を責めて、「その中に『法華経』を誹謗する内容がある。どうして広く讃嘆するものとできようか」と言っています。『法華経』を破る人です。その結果、嘉祥大師は論破されて、天台大師に仕えて、「私は『法華経』を読まない、私がその経を読むならば、悪道は免れない」と言って、七年間、自分の身をもって、天台大師に河を渡らせるなどしました。慈恩大師は『法華玄賛』という『法華経』を褒める文十巻を著わしましたが、伝教大師は、「かえって『法華経』の心を殺している」と言っています。

このようなことをもって考えると、『法華経』を読み讃歎する人々の中にも、無間地獄に堕ちる人は多いのです。嘉祥大師・慈恩大師はすでに一乗を誹謗する人です。弘法大師・慈覚大師・智証大師はどうして『法華経』を侮辱する人でないことがありましょうか。嘉祥大師のように、自らの講義は廃して、人々を解散させ、身を橋のようにして天台大師に仕えても、それまでの『法華経』を誹謗する罪は残るでしょう。常不軽菩薩を軽蔑した者は、後に不軽菩薩に信伏し従ったが、前の重罪は残って、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちました。そうであるならば、弘法大師・慈覚大師・智証大師などは、自説を翻す心があるとしても、なお『法華経』を読むならば、重罪は消えがたいでしょう。翻す心がなければなおさらです。また、『法華経』を失い、真言の教えを昼夜に行い、朝暮に伝法することは言うまでもありません。世親菩薩・馬鳴菩薩は最初、小乗をもって大乗を破る罪を思い、舌を切ろうとしました。世親菩薩は、釈迦の教えであっても、『阿含経』を戯れでも舌の上に置くまいと誓い(注:皮肉なことに、『阿含経』こそ、最も歴史的釈迦の教えに近い経典である)、馬鳴菩薩は懺悔のために『起信論』を著わして、小乗を破られました。

嘉祥大師は天台大師に仕えて、百人余りの智者を前にして、五体を地に投げ、身体中に汗を流し、血の涙を流して、「今よりは自分の弟子に会うことはせず、『法華経』を講じることはしない。弟子の前で、『法華経』を講じれば、自分の力でこの経を知るようになったかのような印象を世に与える」と言って、天台大師よりも高僧老僧であったにもかかわらず、わざと人の見ているところで、天台大師を背負って河を渡し、講座の前で、天台大師を背中に乗せて高座に上げたといいます。そしてさらに、天台大師が亡くなった後には、隋の皇帝の前で、子供が母と別れた時のように、足を擦って泣いたといいます。嘉祥大師の『法華玄論』を見ると、それほど『法華経』を謗った著作には見えません。ただ『法華経』と他の大乗経典とは、教えは浅深の違いがあっても、その主旨は一つであると書いています。それが謗法の根本なのでしょうか。華厳宗の澄観も、真言の善無畏も、『大日経』と『法華経』とは、理法は一つであると記しています。嘉祥大師に咎があるとするならば、善無畏三蔵も咎は免れません。

その善無畏三蔵は中インドの国主でした。位を捨てて他国に至り、殊勝・招提の二人に会って『法華経』を受け、百千の石の塔を立てたので、『法華経』の行者と見えます。しかし、『大日経』を習ってから、『法華経』は『大日経』に劣ると思ったのでしょう。始めのうちは、そのようなことはありませんでしたが、中国に渡って、玄宗皇帝の師となり、天台宗に嫉妬の思いを持ったために、たちまち頓死して、二人の獄卒に鉄の七つの縄で縛られ、閻魔王宮に行きました。そこで、命はまだ尽きていないと帰されて、その時、『法華経』を謗法したからだと思ったのでしょうか、真言の観念・印・真言などを投げ捨てて、『法華経』の「この三界はすべての私のもの」という経文を唱え、その縄も切れて帰されました。また雨ごいを仰せつかって行なったところ、たちまち雨は降りましたが、大風も吹いて来て、国が荒れてしまいました。亡くなった時、弟子たちは集まって、立派な臨終だったと褒めましたが、無間地獄に堕ちました。

問う人が言います。どうしてそれがわかるのでしょうか。

答えます。彼の伝記を見ると「今、善無畏の遺形を見れば、大変縮こまって小さくなり、皮は黒く、骨が露わになっている」とあります。彼の弟子たちは、それが死後の地獄の相が現われたということを知らず、その徳が上げられたと思っていますが、書き表わされた文は、善無畏の咎を表わしています。死んで身が縮まって小さくなり、皮は黒く、骨が露わになるなどは、人が死して後、色が黒くなるのは地獄の業と定めているのは、仏の金言です(注:これはどう考えても、死んでミイラ化した姿であって、自然のことである。それを地獄に堕ちた証拠とすることはできない。また、それが仏の言葉だとすることは、不浄観の教えをここに持って来ているようである)。善無畏三蔵の地獄の業はなぜでしょうか。幼少にして位を捨てるということは、最も優れたことであり、第一の道心です。そして、月氏国の五十あまりの国を修行して回り、慈悲の心を起こして、中国に渡りました。インド、中国、日本など、この世に真言の教えを伝えて鈴を振ったのは、この人の功徳ではないか、どうして地獄に堕ちるのだろうかと思う人たちはよく調べるべきです。

また、金剛智三蔵は南インドの大王の太子でした。『金剛頂経』を中国に伝えました。その徳は善無畏と同様です。また善無畏とは、互いに相手を師としました。やがて、金剛智三蔵は勅宣によって雨の祈りをしたところ、七日のうちに雨が降りました。天子は大いに喜ばれましたが、たちまち大風が吹きつけて、王や臣下は興ざめして、使いを送って追放しました。しかし、いろいろ言って、まだ中国に留まっていました。そして、王の娘が亡くなったので、祈祷をするよう言われて、身代わりとして、殿上の二人の七歳の女子を薪に押し込めて、焼き殺してしまったことは、無慚なことです。それでも、王の娘は生きかえりませんでした(注:どこにこのようなことが記されているが知らないが、先ずはあり得ないことである)。

不空三蔵は金剛智と共に月氏国より来ました。これらのことを疑って、善無畏と金剛智が亡くなった後、月氏国に帰って竜智に会い、真言を習い直し、天台宗に帰依しましたが、心は帰っても、身は帰ることはありませんでした。雨の祈りをしたところ、三日としないうちに雨が降りました。天子は喜ばれて、自ら布施を授けました。しかし間もなく、大風が吹いて来て、内裏も被害をこうむり、天子の住まいも家来の宿舎も後形なく破壊されました。天子は大いに驚いて、風を留めよと宣旨を下しました。風はしばらくやんだかと思ったらまた吹いて、結局、数日間やむことはありませんでした。結局、使いが遣わされ、追放された後、風はやみました。この三人の悪風は、中国と日本のすべての真言師の大風です。その証拠に、文永十一年四月十二日の大風は、東寺第一の智者とされる阿弥陀堂加賀法印が雨ごいした結果の逆風です。善無畏・金剛智・不空の悪法を、少しも違えることなく伝えたためでしょうか。気の毒なことです。気の毒なことです。

弘法大師は天長元年の二月大旱魃の時、まず守敏(しゅびん)が雨ごいをして、七日のうちに雨を降らしました。ただしそれは、京中だけのことであって、田舎の方には降りませんでした。次に弘法大師が継いで祈りましたが、七日間、雨の気配はありませんでした。次いで二週間、三週間と雨雲はありませんでした。三週間たって、天子より和気真綱を使者として、雨ごいの捧げものを神泉苑に置いたところ、三日間、雨が降りました。このことを、弘法大師とその弟子たちは、その雨を奪い取って、自分たちが降らせた雨として、今に至るまで四百年あまり、弘法の雨と言っています。慈覚大師は夢で太陽を射たといいます。弘法大師は、弘仁九年の春に疫病が流行った時、祈ったところ、夜中に太陽が出現したと大嘘をついています。世の初めの成劫(じょうこう)よりこのかた、住劫(じゅうこう)の第九の減である今に至る二十九劫の間に、太陽が夜中に出たということはありません。慈覚大師は夢に太陽を射たといいます。内典五千七千巻、外典三千巻あまり、太陽を射たという夢は吉夢ということがあるでしょうか。阿修羅は帝釈天を憎んで、太陽を射たところ、その矢はかえって自分の眼に当たってしまいました。殷の紂王は太陽を的に射て、身を亡ぼしました。日本の神武天皇の御時、度美長(とみのおさ)と五瀬命(いつせのみこと・神武天皇の兄)が合戦した時、五瀬命の手に矢が当たりました。五瀬命は、「私たちは太陽の子孫である。太陽の方角に弓を引いたために、太陽から責められた」と言いました。阿闍世王は仏に帰依していましたが、内裏で寝ていたところ、驚いて飛び起き、家来たちに「太陽が地に落ちた夢を見た」と言いました。家来たちは、仏がご入滅なさったか、と言いました。須跋陀羅(しゅばっだら・釈迦の最後の弟子)の夢も同様でした。日本では、このような夢は忌むべきものです。そもそも神を天照(あまてらす)と言います。国を日本と言います。また、教主釈尊を日種と申し上げます。摩耶夫人が太陽を懐妊した夢を見てもうけられた太子だからです。慈覚大師は大日如来比叡山に立てて、釈迦仏を捨て、真言の『三部経』をあがめて『法華経』の三部の敵となったためにこの夢を見たのです(注:このようなことは決してない)。たとえば、中国の善導が、最初は密州の明勝という者に会って『法華経』を読みましたが、後には道綽に会って『法華経』を捨て、『観無量寿経』によって疏を作り、『法華経』を千人いても誰も仏にはなれない教えとして、念仏を十人いれば十人とも極楽に往生でき、百人いれば百人とも極楽に往生できるものと定めて、この義を成就するために、阿弥陀仏の前において誓いの祈りをしました。これが仏の心に適ったので、毎夜夢の中に常に一人の僧が現われ、教えを授けたといいます。そのため、自らの注釈書を経典のように扱うようにと言い、自ら著わした『観念法門』を経典と等しいとしたりしました。『法華経』には「もしこの教えを聞く者がいれば、一人として成仏しない者はない」とあり、善導は「千人いても一人も成仏する者はない」などと言っています。『法華経』と善導の教えは水と火のようなものです。善導は『観無量寿経』を、十人いれば十人往生して、百人いれば百人往生させる経典だとしています。『無量義経』には、『観無量寿経』は、「未だ真実を顕わしていない」とあります。『無量義経』と楊柳房(善導のこと)は天と地の違いです。これを阿弥陀仏の僧となって、真実だと証しても、どうして真実でありましょうか。そもそも阿弥陀仏は『法華経』の座に来て、舌を出だして『法華経』を証明したではないでしょうか。阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩勢至菩薩も、『法華経』の座にはいなかったのでしょうか。これらのことを思っても、慈覚大師の夢は災いであることがわかります。

 

(つづく)