大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その12

『密厳経』には、「『十地経』『華厳経』など、『大樹経』と『神通経』・『勝鬘経』および他の経典など、みなこの経典から出ている。このような『密厳経』は、一切経の中で勝れている」とある。『大雲経』には、「この経典はすなわち諸経典の転輪聖王のような王である。それはなぜか。この経典の中に、衆生の実性、仏性常住の法蔵が説かれているからである」とある。

六波羅蜜経』には(注:これ以降の各経典の引用文は、それぞれ非常に長いので注意が必要である)、「過去の無量の諸仏が説いた正法、および私が今説くところの、いわゆる八万四千の諸の妙法蘊(みょうほううん・妙なる教えの集まりという意味)を総合的に見て、五つに分類できる。一つは素咀纜(そたらん・経蔵、経典のこと)、二つは毘奈耶(びなや・律蔵、戒律のこと)、三つは阿毘達磨(あびだるま・論蔵、経典を解釈した論書のこと)四つは般若波羅蜜(はんにゃはらみつ・慧蔵、智慧のこと)、五つは陀羅尼門(だらにもん・密蔵、密教のこと)である。この五種の蔵をもって人々を教化する。もしその人々が、経典を理解し、戒律によって煩悩を調伏し、正しく教えを理解し、智慧を持つ、ということができなければ、またあるいは、その人々が、諸の悪業となる四重罪(しじゅうざい・姦淫、盗み、殺生、妄語)・八重罪(はちじゅうざい・異性と接触する四つのバターンを四重罪に加える)・五無間罪(ごむけんざい・最も重い五種の罪。父を殺す、母を殺す、阿羅漢を殺す、仏の身に傷をつける、僧団を破壊する)・「方等経」を謗る一闡提(いっせんだい・仏となることができない者)などの種々の重罪を犯したならば、これらを即座に消滅させ、速やかに解脱させ、瞬間的に涅槃を悟ることができるように、諸の陀羅尼蔵を説くのである。この五つの法蔵は、たとえば、乳・酪・生蘇・熟蘇および妙なる醍醐のようである。総持門(そうじもん・陀羅尼門のこと)とは、たとえば醍醐のようである。醍醐の味は、乳・酪・蘇の中にで妙なる味であり、第一であり、よく諸の病を除き、多くの人々の身心を安楽にさせる。総持門はこの五つの中で最も第一である。よく重罪を除く」とある(注:『六波羅蜜経』は密教経典であるので、このように陀羅尼を強調する)。

また、『解深密経』には、「その時に勝義生菩薩は、また仏に申し上げた。世尊は、最初、悟りを開かれた時、波羅痆斯(はらなし・ヴァーラーナシー)の近くにある仙人堕処(注:仙人住処の誤訳)と呼ばれる鹿野苑において、ただ声聞乗を起こさせるために、四諦の相をもって正しい教えを語られました。これは非常に希有な教えでした。一切世間の諸の天人など、このような教えを説く者はありませんでした。しかし、その時に語られた教えには、さらにその上の教えがあり、まだ加えられる余地のある未了義の教えでした。そのため、さまざまな論争を引き起こすものでした。そして世尊は、昔第二時の時に(注:大乗仏教が興った時を指す)、ただ大乗の心を起こして修行する者のために、一切の法はみな無自性であり、無生無滅・本来寂静であり、自性涅槃であるために、隠密の相をもって正しい教えを語られました。これは非常に希有な教えでした。しかし、その時に語られた教えには、さらにその上の教えがあり、まだ加えられる余地のある未了義の教えでした。そのため、さまざまな論争を引き起こすものでした。世尊は、今、第三時の時(注:大乗仏教の中においてもさらに究極的な教を説く時という意味)において、普くすべての教えを総括する心を起こす者のために、一切の法はみな無自性・無生無滅・本来寂静であり、自性涅槃であり、無自性の性により、顕了の相をもって正しい教えを語られました。これは最も希有な教です。今、世尊が語られる教えは、無上であり、それ以上加えられる余地のない真実の了義です。さまざまな論争を引き起こすものではありません」とある。

大般若経』には、「聴聞するところの世間および出世間の教えに従って、よく方便を用いて、大変深い般若の理法に出会って入り、さまざまに行なわれるところの世間の事業もまた、般若をもって法性に出会って入り、その中のひとつとして法性から漏れ出るものを見ない」とある。『大日経』第一巻には、「秘密主よ。大乗の行があって、何にも依らない教えの心を起こす。法に我性はない。なぜであろうか。昔、修行した者のように、すべての根本にある阿頼耶識を観察して自性は幻のようだと知るからである」とある。また、「秘密主よ。このように無我を捨て、心主が自在であり自心の本性は生じないことを悟る」とある。また、「空性は感覚器官とその対象を離れ、無相にして対象もなく、あらゆる無駄な論議を越えて虚空と等しい。究極的な自性もない」とある。また、「大日如来は秘密主に次のように告げられた。秘密主よ。菩提とは何か。真実の自心を知ることである」とある。

華厳経』には、「一切世界のあらゆる衆生が、声聞道を求めることは少ない。縁覚を求めることもまた少ない。大乗を求める者は非常に少ない。大乗を求める者はなお容易だとしても、その教えを信じることは非常に難しい。ましてや、その教えをよく受け保ち、正しく念じ、教えの通りに修行し、真実に理解することはなお難しい。もし三千大千界(さんぜんだいせんせかい・すべての世界を指す)を頭の上に掲げて一劫の間、身動きしないということができたとしても、それはまだ難しくはない。この大乗の教えを信ずる者を指して、本当に困難なことをしているという。塵の数ほどの多くの衆生に対して、一劫の間、その願うところの物を与え続けたとしても、その者の功徳が最上であるとはいえない。この大乗の教えを信じる者を最も勝れているとする。もし、掌をもって十の仏国土刹を持ち、虚空の中に一劫の間留まったとしても、その行為はまだ難しいとはいえない。この大乗の教えを信じる者を指して、本当に困難なことをしているという。十の仏国土をすべて塵にしたような数の衆生に対し、一劫の間、その願うところの物を与え続けたとしても、その者の功徳が最上であるとはいえない。この大乗の教えを信じる者を最も勝れているとする。十の仏国土を塵にしたような数のあらゆる如来を、一劫の間、恭敬して供養したとしても、この経典を受け保つ者の功徳の方が、最も勝れているとする」とある。

『涅槃経』には、「このあらゆる大乗方等経典に記されている無量の功徳をすべて成就したとしても、この経典に比べれば、その違いを喩えをもって表現しようとしても、百千万億さらにどんな算数をもってその譬喩を数えても及ばない。善男子、たとえば、牛より乳を出し、乳より酪を出し、酪より生蘇を出し、生蘇より熟蘇を出し、熟蘇より醍醐を出せば、醍醐は最上である。その醍醐を飲む者はあらゆる病を除き、その醍醐の効能にすべての薬の効能が含まれるようなものである。よき男子よ。仏もまたそのようである。仏より「十二部経」を出し、「十二部経」より修多羅を出し、修多羅より「方等経」を出し、「方等経」より般若波羅蜜を出し、般若波羅蜜より大涅槃を出す。それは醍醐のようだ。この醍醐は仏性の喩えである」とある。

これらの経文を『法華経』の「昔説き、今説き、これからも説くであろう」という言葉や六難九易と比較すれば、月と星を並べ、九つの山と須弥山を比べるようなものである。しかし、華厳宗の澄観、法相・三論・真言などの慈恩大師・嘉祥大師・弘法大師などの仏の眼を持っているような人たちは、なおこのような文に惑わされている。ましてや、盲目のようなこの世の学者たちは、正しく勝劣を論じられるであろうか。黒白のように明らかであり、須弥山と芥子粒との勝劣に迷っている。ましてや、虚空のような理法に迷わないことがあろうか。教えの浅深を知らなければ、理法の浅深を論じることができる者はない。巻も違えば文も前後すれば、教門の真実を表現することが難しいので、ここで愚者のために文を記そうと思う。王といっても、小王と大王の違いがある。すべてのものに、少ないものと満ちているものの違いがある。乳の五味のたとえに、すべての経典を対象としたものと、各経典を対象としたものがある。『六波羅蜜経』は人間の成仏を説いて、永遠の無性の成仏は説かない。ましてや、久遠実成を明らかにするわけがない。なお、『涅槃経』の五味の喩えも及ばない。ましてや、『法華経』の迹門と本門の比較においてはなおさらである。しかし、日本の弘法大師は、この経文に迷って、『法華経』を第四の熟蘇味に入れている。第五の醍醐味だとする総持門は、『涅槃経』にも及ばない。どうするつもりだろうか。しかし、「中国の人師は争って醍醐を盗む」と言って、天台大師などを盗人と記している。「惜しいことに、古賢たちは醍醐を味わっていない」などと自ら嘆いている。

(注:繰り返し述べているように、大乗経典は釈迦の教えではなく、紀元前後に起った仏教の宗教改革である大乗仏教の運動の中で、各大乗仏教のグループが自らの主張を釈迦が語ったかのように記して、創作したものである。そのため、当然、自らの経典が最高のものだということを、言葉を尽くして、また、あらゆる喩えを以って表現している。上にあげられた各経典の主張は、みな同じ意図をもって記された同じような言葉であって、そこに何ら根本的な差異はないのである)。

(つづく)