大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その30

法華経』現代語訳と解説 その30

 

妙法蓮華経 従地涌出品 第十五

 

その時に、他の方角の仏国土から来た、大河の砂の数を八倍したほど多くの数の大いなる菩薩たちは、大衆の中において起立し、合掌し、礼拝して仏に次のように申しあげた(注1)。

「世尊よ。私たちが仏の滅度の後に、この娑婆世界にあって、努め精進し、この経典を受持し、読誦し、書写し、供養することをお許しいただけましたら、この国土において、広くこの教えを述べ伝えます」。

その時に仏は、多くの菩薩たちに次のように語られた。

「良き男子たちよ。やめなさい。あなたたちがこの経を守り保つ必要はない。なぜならば、私の国土である娑婆世界には、すでに大河の砂の数を六万倍したほどの数の大いなる菩薩たちがいる。その一人一人の菩薩には、それぞれまた大河の砂の数を六万倍したほどの数の従者がある。彼らが私の滅度の後に、この経典を守り保ち、読誦し、広く説くであろう」(注2)。

仏がこのように語られた時、娑婆世界のすべての国土が、みな揺れ動き地が裂け、その中から無量千万億の大いなる菩薩たちが湧き出た。この多くの菩薩たちは、体が金色であり、優れた相を持ち、無量の光明を放っていた。以前より娑婆世界の下にある虚空の中にいたのであり、釈迦牟尼仏が彼らのことを説いている声を聞いて、下から来たのである(注3)。

その一人一人の菩薩は、みな大衆を導くべき指導者である。それぞれ、大河の砂の数を六万倍したほどの数の従者を率いている。また、大河の砂の数を五万倍、四万倍、三万倍、二万倍、一万倍したほどの数の従者を率いている者たちもいる。さらにまた、大河の砂の数と同じほど、その半分ほど、その四分の一ほど、あるいは大河の砂の数を千憶の千万億倍した数で割った数の従者を率いている者もいる。さらに、千憶の千万億倍した数、また億万の従者を率いている者もいる。さらにまた、千万、百万、一万、また、千、百、十、また、五、四、三、二、一の弟子を率いている者もいる。さらにまた、従者はおらず、一人で悟りの道を願う者もいる。このように、彼らの数は算数や比喩を用いても知ることができないほどであった。

このあらゆる菩薩は、地より出で、それぞれ空中に留まっている、七宝の妙塔の中の多宝如来釈迦牟尼仏の所に詣でた。そして、二世尊に向かい、頭を足につけて礼拝し、さらに多くの宝樹の下にある獅子座に座っている仏の所にも行き、礼拝して、右に三度回り、敬い合掌し、多くの菩薩のさまざまな讃嘆の方法をもって褒め称え、座の片隅に座って、喜んで二世尊を仰ぎ見た。

この多くの大いなる菩薩たちは、このように地より涌出して、それぞれの讃嘆の方法をもって仏を褒め称えている間に、五十小劫が過ぎていった。その間、釈迦牟尼仏は黙って座っておられた。また聴衆の人々も、みな黙って五十小劫の間座っていた。しかし、仏の神通力の故に、その聴衆は半日ほどの時間にしか感じなかった。その時、聴衆はまた仏の神通力をもって、多くの苦薩たちが、無量百千万億の国土の空中に満ちている光景を見た。

この菩薩たちの中に、四人の導師があった。最初の菩薩を上行(じょうぎょう)と名づけ、二人目を無辺行(むへんぎょう)と名づけ、三人目を浄行(じょうぎょう)と名づけ、四人目を安立行(あんりつぎょう)と名づける。この四大菩薩は、他の菩薩たちの中において、最も上に位置する上首の導師である(注4)。

この四大菩薩は、大衆の前にあって、それぞれ合掌し、釈迦牟尼仏を仰ぎ見て、次のように尋ねた。

「世尊よ。病少なく悩み少なく、安らかにいらっしゃいますか。まさに悟りに導く者たちは、教えをよく受けるでしょうか。世尊を疲れさせるようなことはないでしょうか」。

その時、四大菩薩は偈の形をもって次のように語った。

「世尊は安らかに 病少なく悩み少なくいらっしゃいますか 衆生を教化するにあたり お疲れはないでしょうか また多くの衆生は 教化をよく受けるでしょうか 世尊を疲れさせるようなことはないでしょうか」

その時に世尊は、多くの菩薩大衆の中において、次のようにおっしゃった。

「その通りだ、その通りだ。多くの良き男子たちよ。如来は安らかに病少なく悩みも少ない。多くの衆生は、教化しやすい。疲れもない。なぜならば、この多くの衆生は、過去世より常に私の教化を受けて来たのだ。また、過去の諸仏に対して、供養し尊び、多くの善根を種えて来たのだ。この多くの衆生は、私を見ただけで、私の説教を聞いただけで、すぐにみな信じ受け入れ、みな如来智慧を理解している。もっとも、最初から修習して、小乗を学んだ者は除くが、そのような者たちも、今はまたこの経を聞いて、仏の智慧を理解している」。

その時に多くの大菩薩たちは、偈の形をもって次のように語った。

「良いことです 良いことです 大いなる雄者である世尊よ 多くの衆生は教化しやすく よく諸仏の非常に深い智慧を求め 聞いて信じ理解する 私たちは随喜します」

その時に世尊は、上首の多くの大菩薩を讃歎して、次のようにおっしゃった。

「良いことだ、良いことだ。良き男子たちよ。あなたたちはよく如来に対して、随喜の心を起こした」。

 

注1・今回からは、第十五章にあたる「従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)」となる。伝統的な法華経の解釈では、法華経を前半と後半に分け、前半を迹門(しゃくもん)と名付け、後半を本門(ほんもん)と名付けるということはすでに述べた。そして、今回の箇所から本門となるわけであるが、これもすでに述べたが、第十章にあたる「法師品」から文章の形が一変しているので、『法華経』成立史的に見れば、すでに「法師品」から後半に入っていると言える。

注2・すでに「勧持品第十三」において、菩薩たちや阿羅漢たちが、この『法華経』を広めることを誓っており、その時は、釈迦はそれを拒まなかった。ではなぜ、今回ではそれを拒むのであろうか。ここでは、「他の方角の仏国土から来た」菩薩たちが、この娑婆世界で『法華経』を広めようと言ったので、それは拒まれたのだ、という説もある。しかし、最も尊い経典ならば、誰がどこで広めようとも、それは受け入れられるべきではないだろうか。現実的な理由として、「勧持品」と、この「従地涌出品」を記したグループが違う、ということがあげられる。何よりも「勧持品」は迹門の範囲であり、今回からは本門となる。このようなところにも、少なくとも迹門と本門を記した大乗のグループは異なっているということが伺われるのである。

注3・無数の菩薩たちが、以前より娑婆世界の下にある虚空の中にいたと言われても、人間の常識的には納得することなどできない。娑婆世界は、私たちが住んでいるこの世のことである。この世の下に虚空世界がある、というようなことは想像すらできない。しかし、繰り返し述べているように、『法華経』は歴史的釈迦の教えではない。『法華経』は霊的真理を、歴史上の釈迦とその仏教用語を用いて記した宗教書である。娑婆世界において、このようなことが起こった、とあっても、それは人間の目に見える形で起こったことではなく、霊的次元でのことである。したがって、『法華経』を通して霊的真理を受け取れば、それでじゅうぶんなのであるから、人間の常識では理解しにくい場面が続いても、それに翻弄されないように読み進めるべきなのである。

注4・この地面から涌き出した菩薩たちを「地涌の菩薩」と呼ぶ。結局、この娑婆世界で『法華経』を述べ伝える者は地涌の菩薩たちだ、ということである。そして、地涌の菩薩たちの中で、トップ4である四大菩薩の名前が挙げられているが、最初が上行菩薩であり、日蓮上人は自分自身をこの菩薩の生まれ変わりだと称したことは有名である。