大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その27

法華経』現代語訳と解説 その27

 

妙法蓮華経勧持品第十三

 

その時に薬王菩薩摩訶薩と大楽説菩薩摩訶薩は、二万の付き従う菩薩たちと共に、みな仏の前において、次のように誓って言った。

「ただ願わくは世尊よ。ご心配なさらないように。私たちは仏の滅度の後に、まさにこの経典を保ち、読誦し、説くことをいたします。後の悪しき世の衆生は、善根は少なく、高慢であり、自分の利益を貪り、さらに不善根を増し、悟りから遠く離れています。そのような人々を教化することは難しいと言っても、私たちはまさに大いなる忍耐の力を起して、この経を読誦し、保ち説き、書写し、さまざまに供養して、身命を惜しむことはいたしません」。

その時に、会衆の中にいる、すでに記を授かった五百人の阿羅漢たちも、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私たちもまた自ら誓います。他の国土において、広くこの経を説きましょう」。

また、すでに記を授かった学無学の八千人は、座より立ち上がって合掌し、仏に向かって次のように誓って言った。

「世尊よ。私たちもまた、まさに他の国土において、広くこの経を説きましょう。なぜならば、この娑婆世界の中は、悪しき人が多く、高慢であり、功徳が浅薄であり、怒りや汚れや嘘偽りがあって、その心は不実であるからです」。

その時に、釈迦仏の母の姉妹であり育ての親である摩訶波闍波提比丘尼(まかはじゃはだいびくに)は、学無学の比丘尼六千人と共に、座より立って、一心に合掌し、世尊の御顔を仰いで視線をそらさなかった。

その時に世尊は憍曇弥(きょうどんみ・注1)に次のように語られた。

「なぜそのように、憂いの表情で如来を見るのか。私があなたの名前をあげて、阿耨多羅三藐三菩提を得るだろうという記を授けないとでも思っているのか。憍曇弥よ。私はすでに、すべての声聞は仏になるであろうと説いた。今、あなたは自分に対する記を知ろうとするならば、あなたは将来の世において、六万八千億の諸仏の教えを受けて、大いなる教えを説く師となるであろう。同じように、六千の学無学の比丘尼たちも、共に教えを説く師となるであろう。このように、次第に菩薩の道を備えて、ついに仏になるであろう。その名を、一切衆生憙見如来(いっさいしゅじょうきけんにょらい)といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達しており、世間を理解しており、無上のお方であり、人を良く導く方であり、天と人との師であり、仏であり、世尊である。憍曇弥よ。この一切衆生喜見仏は、六千の菩薩たちに順次に記を授け、みな阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう」(注2)。

その時に、羅睺羅の母である耶輸陀羅比丘尼(やしゅだらびくに)は次のように思った。

「世尊は、記を授ける中において、私だけの名を説かれていない」。

仏は耶輸陀羅に次のように語られた。

「あなたは来世の、百千万億の諸仏の教えを受け、菩薩の行を修習し、大いなる教えの師となり、次第に仏の道を成就して、それを具え、良き国において仏になるであろう。名を具足千万光相如来(ぐそくせんまんこうそうにょらい)といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達しており、世間を理解しており、無上のお方であり、人を良く導く方であり、天と人との師であり、仏であり、世尊である。その仏の寿命は無量阿僧祇劫である」。

その時に摩訶波闍波提比丘尼、および耶輸陀羅比丘尼、そしてその従者たちは、未曾有のことを得て、みな大いに歓喜して、すぐに仏の前において次のような偈を語った。

「導師である世尊よ 天と人とを安穏にされる 私たちは記を授かり 心安らかに満たされた」。

多くの比丘尼たちは、この偈を説き終って、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。私たちは他の国土において、広くこの経を述べ伝えましょう」

その時に世尊は、八十万億那由他菩薩摩訶薩たちをご覧になった。この多くの菩薩たちは、みなその位から退くことのない阿惟越致(あゆいおっち)であり、退くことのない教えを説き、さまざまな陀羅尼を得ている。この菩薩たちはすぐに座より立ち上がり、仏の前で一心に合掌して次のように思った。

「もし世尊が、私たちに、この経を保ち説くようにと告げられたならば、まさに仏の教えの通りに、広くこの教えを述べよう」。

また次のように思った。

「仏は今、何も語られずにおられるが、私たちはどうしたらよいのだろう」。

その時に多くの菩薩たちは、仏の意志を敬って従い、ならびに、自らの本願を満たそうと願って、仏の前において堂々と宣言して誓い、次のように申し上げた。

「世尊よ。私たちは如来の滅度の後に、あらゆる世界をめぐり、衆生に教えて、この経を書写し、受持し、読誦し、その真意を解説し、教えの通りに行ない、正しく記憶させましょう。これはすべて仏の権威の力によることです。ただ願わくは世尊よ。遠くにおられたとしても、私たちをお守りください」(注3)。

すぐに多くの菩薩たちも、共に声を同じくして、偈をもって次のように申し上げた。

「ただ願わくは 心配なさぬように 仏の滅度の後の 恐るべき悪しき世の中において 私たちは広く述べ伝えましょう 多くの無智の人々は 悪口罵倒し および刀杖を加える者もいるでしょう 私たちはみな忍びます 悪しき世の中の比丘は 誤った知識をもって心がねじ曲がり 悟ってもいないにもかかわらず悟ったと思い 高慢な思いに満たされています あるいは人里離れた静かな場所にあって 貧しい衣をまとって 自ら真の道を修行していると言い 一般の人々を軽蔑する者がいるでしょう 利養を貪るために 一般の人々に教えを説いて この世に受け入れられ 神通力を持った阿羅漢のように敬われる者がいるでしょう このような人は悪しき心を抱き 常に世俗のことを思いながら 出家者を名乗りながら 私たちをしきりに非難するでしょう しかも次のように言うでしょう この多くの僧侶たちは 利養を貪るために 外道を説く 自らこの経典を作って 世間の人を惑わしている 名聞を求めるために あらゆる方法でこの経を説いている 常に大衆の中にあって私たちを排除しようと 国王や大臣や婆羅門や在家信者 および僧侶たちに向かって 私たちを非難し悪く言い 彼らは邪見の人 外道の論議を説いていると言うでしょう 私たちは仏を敬うが故に すべてこの多くの悪を忍びましょう さらに軽蔑されて あなたたちはみな仏ですねと言われるでしょう このような軽蔑の言葉を 私たちは忍んで受けましょう 時代そのものが汚れている悪しき世の中には 多くの恐るべきことがあるでしょう 悪鬼がその身に入って 私たちを罵詈罵倒するでしょう 私たちは仏を敬い信じて まさに忍耐の鎧をつけましょう この経を説くために この多くの難事を忍びましょう 私たちは身命を愛さず ただこの上ない道を惜しみます 私たちは来世においても 仏からゆだねられた教を守り保ちましょう 世尊はご存じでありましょう 汚れた世の悪しき僧侶は 仏の方便 すなわち相手の能力に応じた教えを知らず 私たちに悪しき言葉を浴びせて 寺院から追い出し除名するでしょう このような多くの悪をも 仏の勧めを思って忍びましょう あらゆる町や村に教えを求める者がいるならば 私たちはその場所に行って 仏からゆだねられた教えを説きましょう 

私たちは世尊の使いです 人々の前に出ることに恐れはありません 私たちは努めて教えを説きましょう 願わくは仏よ 安心されますように 私たちは世尊の御前と 多くの仏国土から来られた諸仏の御前において この誓いの言葉を申し上げます 仏よ どうか私たちの心をご覧ください(注4)」。

 

注1・「憍曇弥」 摩訶波闍波提比丘尼の別名。

注2・ここで釈迦仏が語っているように、すでにすべての声聞たちも、未来世に仏になるであろうという記が授けられている。したがって、ここで摩訶波闍波提比丘尼が憂いのまなざしで釈迦仏を見上げる必要はない。それにもかかわらず、釈迦仏は彼女に気を授けた。このようなところにも、彼女が育ての親である、という親しみが感じられる。そしてそのようなことも、よしとされるわけである。またこのように、人間というものは、約束はできるだけ具体的に受けた方が安心する、という、これこそそのような業を持っていることは仕方のないことなのだ、ということである。また同様に、今度は、釈迦仏が出家する前の妃が登場するのである。

注3・この菩薩たちの告白からも伝わって来るが、前にも注として述べたように、『法華経』を創作した大乗のグループは、この『法華経』が釈迦如来にとって最後の説教という考えに立っており、そのため、多宝塔の中に多宝如来と並んで入ったわけである。しかし、「五時教判」などの伝統的な経典の順番についての解釈では、最後は『涅槃経』である。したがって、『法華経』に対する解釈の中で、この経典が最後だというものは皆無である。そもそも『涅槃経』は、その題名からも内容からも、明らかに釈迦如来の滅度の直前であるから、絶対に最後に位置するということは動かせない。たとえば天台教学において、『涅槃経』は『法華経』の補足的な役割だとされていることも、このような動かせない認識によるものと考えられる。しかし、『法華経』そのものを見れば、『法華経』以外の最後の経典とされるものについての認識は全くない。

注4・この偈の箇所は、『法華経』成立史を考える際にも非常に重要である。まさに、この通りのことを、この経典を創作したグループは、いわゆる小乗とされる伝統的な教団から言われ続けていたのは間違いない。特に、「自ら此の経典を作って、世間の人を誑惑す」という言葉などは、伝統的な教団の人なら、誰でも怒りと軽蔑をもって抱く感情である。