大乗経典と論書の現代語訳と解説

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『法華経』現代語訳と解説 その42

法華経』現代語訳と解説 その42

 

妙法蓮華経 薬王菩薩本事品 第二十三

 

その時に、宿王華(しゅくおうけ)菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。薬王(やくおう)菩薩は、娑婆世界においてどのようなわざを行なうのでしょうか。世尊よ。この薬王菩薩は、百千万億那由他難行苦行をしています。良き方である世尊よ。願わくは説いてください。多くの天竜八部衆、また他の国土より来た菩薩、および声聞たちはそれを聞いてみな喜ぶでしょう」(注1)。

その時に仏は、宿王華菩薩に次のように語られた。

「無量の大河の砂の数ほどの年数が過ぎた遠い過去に、仏がいた。その名を、日月浄明徳(にちがつじょうみょうとく)如来といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達し、世間を理解し、無上のお方であり、人を良く導き、天と人との師であり、仏であり、世尊である。その仏に八十億の大いなる菩薩たちと、大河の砂を七十二倍した数の大いなる声聞たちがいた。その仏の寿命は四万二千劫、菩薩の寿命もまた同じであった。

その国には、女人、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅等、およびあらゆる災難などはなかった。地は手のひらのように平らであり、瑠璃でできていた。宝樹は厳かに壮大であり、宝の網はその上を覆い、宝の華の幕が垂れ、宝の瓶、香炉などが国の境を囲っていた。一つの樹に七宝によってできた台があった。その樹の高さも非常に高かった。その多くの宝の樹には、菩薩や声聞がいて、その下に座っていた。多くの宝の台の上に、それぞれ百億の諸天がいて、天の伎楽を演奏し、仏を讃嘆する歌をもって供養していた。

その時、その仏は一切衆生憙見(いっさいしゅじょうきけん)菩薩、および多くの菩薩たちや多くの声聞たちのために、『法華経』を説かれた。

この一切衆生憙見菩薩は自ら願って苦行を修し、日月浄明徳仏の教えに従って精進して、一心に仏を求め続けて万二千歳が満ちたところで、現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい・注2)を得た。この三昧を得て、大いに喜んで、次のように思った。

『私が現一切色身三昧を得ることができたのは、法華経を聞いたからである。私は今、まさに日月浄明徳仏および法華経を供養しよう』。

こうして即時にこの三昧に入って、虚空の中において、天の華や栴檀を降らせ、それらを虚空の中に満たして雲のようにして下し、この大陸の果てにある栴檀の香を降らせた。これらの価値は、この娑婆世界そのものに匹敵する。このようにして仏を供養した。

この供養をなし終わって、三昧より立って次のように思った。

『私は神通力をもって仏を供養したが、自分の身体をもって供養することには及ばない』。こうして即座に、多くの香である栴檀・薫陸(くんろく)・兜楼婆(とろば)・畢力迦(ひつりきか)・沈水(じんすい)・膠香(きょうこう・注3)を飲み、また瞻蔔(せんぼく・注4)などの多くの華の香りの油を飲み続けて、千二百年が満ちた時、さらに香油を身体に塗り、日月浄明徳仏の前において、天の宝の衣をもって自ら身体にまとい、多くの香油を注ぎ、神通力によって自らの身体を燃やした。その光明は広く大河の砂を八十億倍したほどの数の世界を照らした。

その中の諸仏は、同時にこれを褒めて、次のように言った。

『良いことだ、良いことだ。良き男子よ。これこそ真の精進である。これこそ真の教えのゆえに如来を供養することだ。もし華や香、瓔珞、焼香、抹香、塗香、天の布、旗や傘、およびこの大陸の果てにある栴檀の香などの諸物をもって供養するとしても、これには及ばない。たとい国や城や妻子を捨てることも、またこれには及ばない。良き男子よ。これこそ第一の施しである。多くの施しの中で、最も尊く最上である。教えのゆえに、多くの如来を供養したからである』

このように語って、諸仏はそれぞれ沈黙した。

その身体の火は、千二百年燃え続け、その後、その身体は燃え尽きた。

一切衆生憙見菩薩は、このような教えに対する供養を行ない、命が終わった後は、また日月浄明徳仏の国の中に生まれて、その世では、浄徳王という者の家において、結跏趺坐(けっかふざ)して忽然と姿を現わし、その王である父親に向かって、偈の形をもって次のように語った。

『大王に申し上げます 私はかの場所において 即時に一切現諸身三昧を得て 大いに精進して その時の肉体を捨てたのです 』。

この偈を説き終わり、父に次のように語った。

『日月浄明徳仏は、今もこの世におられます。私は先の世でこの仏を供養し、すべての衆生の言葉を理解する陀羅尼を得(注5)、また、この法華経の八百千万億那由他の甄迦羅(けんがら)・頻婆羅(びんばら)・阿閦婆(あしゅくば・注6)などの偈を聞きました。大王よ。私は今、まさにこの仏を供養するために行きます』。

このように語り終わって、即座に七宝の台に座り、非常に高く虚空に昇って、仏の場所に到着し、頭面に仏の足をつけて礼拝し、十の指の爪を合わせて、偈の形をもって次のように仏を賛美した。

『その御顔は妙にして清らかで その光明はあらゆる方角を照らされます 私はかつて供養し また今お会いするために戻って来たのです 』。

その時に一切衆生憙見菩薩は、この偈を説き終わって、仏に次のように申し上げた。

『世尊よ。世尊はなおこの世にいらっしゃったのですね』。

その時に日月浄明徳仏は、一切衆生憙見菩薩に次のように語られた。

『良き男子よ。私は涅槃の時が近づき、滅度してすべてが尽きる時となった。その床を用意してほしい。私は今夜、まさに涅槃に入るであろう』。

また、一切衆生憙見菩薩に次のように告げられた。

『良き男子よ。私は仏の教えをあなたに委ねる。および多くの大弟子である菩薩たち、ならびに阿耨多羅三藐三菩提の教え、また七宝でできたすべての世界、あらゆる宝の樹、宝の台、および給侍する諸天を、すべてあなたに与える。私が滅度した後に残った舎利もまた、あなたに委ねる。まさにこの舎利があらゆるところで供養され、千の塔が建てられるようにせよ』。

このように日月浄明徳仏は一切衆生憙見菩薩に告げ終わって、夜半に涅槃に入られた。

その時、一切衆生憙見菩薩は、仏の滅度を見て嘆き悲しみ、仏を恋慕して、この大陸の果てにある栴檀の香木をもって薪とし、仏の身を焼いて供養した。その火が消えてから舎利を収集し、八万四千の宝瓶を作って、八万四千の塔を建てた。その塔はどの世界よりも高く、厳かに飾られ、多くの旗や幕が垂れ、多くの宝の鈴がかけられた。

その時、一切衆生憙見菩薩は次のように思った。

『私はこのように供養したけれども、これではまだ心が満たされない。私は今さらに舎利を供養しよう』。

そして、多くの菩薩、大弟子、および天、龍、夜叉などのすべての大衆に次のように語った。

『あなたがたはまさに私と心を一つにしてほしい。私は今、日月浄明徳仏の舎利を供養する』。

このように語ってから、八万四千の塔の前において、あらゆる福徳に満ちた荘厳なる肘(ひじ・注7)を七万二千年間燃やし続け、舎利を供養した。

それによって、無数の声聞を求める人々のうち、数えることができないほどの多くの人々が、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こし、みな、現一切色身三昧に入ることができた。

その時に多くの菩薩、天、人、阿修羅などの天的存在たちは、この菩薩の肘が焼けてなくなっているのを見て、とても悲しみ嘆いて、次のように言った。

『この一切衆生憙見菩薩は、私たちの師であり、私たちを教化された方である。しかし今、肘が焼けて不自由な身体になってしまった』。

その時に一切衆生憙見菩薩は、大衆の中において、次のように誓った。

『私は両方の肘を捨てても、必ず仏の金色の身を得るであろう。もしこの言葉が真実であり偽りでなければ、その証拠として、私の両方の肘は以前のように元通りになるであろう』。

この誓い終えたとき、両方の肘は自然に元通りになった。この菩薩の福徳と智慧が豊かであるためである。その時に、すべての世界は六通りに震動し、天より宝の華が降り、天や人は未曾有だと驚いた」。

仏はなおも続けて、宿王華菩薩に次のように語られた。

「あなたはどう思うか。一切衆生憙見菩薩は、誰でもない、今の薬王菩薩なのである。このように数えることもできないほど、その身を捨てて布施したのである。

宿王華菩薩よ。もし阿耨多羅三藐三菩提を求めようという心を起こす者は、手の指や足の指を燃やして仏塔に供養せよ。それは、国や城、妻子、およびすべての世界の山林、川や池、あらゆる珍宝をもって供養する者に勝るのである(注8)。

もしある人が、七宝をもってすべての世界を満たし、仏および大いなる菩薩、辟支仏、阿羅漢に供養したとする。その人が得るところの功徳も、たとえそれが最も大きな功徳の場合でも、この『法華経』の一句あるいは四句の偈を受持する功徳には、比べようもないほど小さい。

宿王華菩薩よ。たとえばすべての川の流れ、江河の水と比べても、海の水が比べようもないほど第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。多くの如来が説いた経典の中において、最も深大である。また、この世界にあるすべての山の中で、須弥山が第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。諸経の中において、最も高いのである。またあらゆる星の中で、月が最も第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。千万憶の諸経の教え中において、最も明るいのである。また、太陽があらゆる闇を除くように、この『法華経』もまたこれと同じである。すべての不善の闇を破るのである。また、あらゆる王の中で、転輪聖王が最も第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。多くの経の中において、最も尊いのである。また、帝釈天が三十三天の中で王であるように、この経もまたこれと同じである。多くの経の中の王である。また、大梵天王が、すべての衆生の父であるように、この経もまたこれと同じである。すべての聖なる者、賢い者、学ぶべきことがある者、もはや学ぶべきことがない者、および菩薩の心を起こす者たちの父である。また、すべての凡夫の中で、須陀洹(しゅだおん)・斯陀含(しだごん)・阿那含(あなごん)・阿羅漢(あらかん)・辟支仏(びゃくしぶつ・注9)が第一であるように、この経もまたこれと同じである。すべての如来の所説、または菩薩の所説、または声聞の所説、あらゆる経の教えの中で、最も第一である。この経典を受持する者も、またこのようである。すべての衆生の中で第一である。すべての声聞、辟支仏の中で、菩薩が第一であるように、この経もまた同じである。すべての経の教えの中で、最も第一である。仏があらゆる教えの王であるように、この経もまた同じである。あらゆる経の中の王である。

 

注1・今回から、第二十三章にあたる「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)」である。「本事」とは「過去の話」という意味であり、遠い過去から前世に至るまでのことを指す。

ところで、直前の「嘱累品」は、『法華経』を委ねられた人々が大いに喜び、その中で釈迦如来が他国から来た諸仏に、本土に帰るよう促す場面で終わっている。まさに『法華経』が、クライマックスの盛り上がりの中で終わると思いきや、いきなり、「薬王菩薩について教えてください」と仏に質問する宿王華菩薩は、よほど空気の読めない人、ということになってしまう。ここまで『法華経』を読んでくると、誰もがこの章の冒頭で、そのような違和感を持つのではないだろうか。

法華経』は、この経典を創作したグループが、自分たちが確信する霊的真理に基づいて文を作り、また他のグループの文であっても、一致していると思われる経典を集めたりなどして編集し、出来上がっていった経典である。決して、実在した歴史的釈迦が一気に説いた経典ではない。したがって、必ずしも各章が順序よく成り立っているわけではない。したがって、このように連続して読むにあたっては、少々無理があると思われる節々も生じるわけである。

注2・「現一切色身三昧」 あらゆる衆生の姿を、自由に表すことができる三昧であると考えられる。

注3・「薫陸」は南インドで取れる香、「兜楼婆」は香り高い草、「畢力迦」は熱帯に育つ香木、「沈水」は沈香が取れる熱帯産の香木、「膠香」はウルシ科の木から取れるもので薬として用いられる。

注4・「瞻蔔」 クチナシのこと。

注5・「すべての衆生の言葉を理解する陀羅尼を得」 現一切色身三昧の言葉の面を強調した表現と思われる。

注6・「甄迦羅」は十六桁、「頻婆羅」は十八桁、「阿閦婆」は二十桁を表わす数名。

注7・「肘」 ひじと読むが、この場合は腕のこと。

注8・自分の手の指や足の指を燃やして供養するということは、もちろんこの世の話ではない。『法華経』は、この娑婆世界を含めたあらゆる仏国土の次元の話が語られているため、すべてをこの娑婆世界でのことと理解することは誤りである。また、最後の箇所に、たとい仏に対して大いなる供養をしたとしても、この『法華経』の一句でも受持する功徳は、それに比べ物にならないほど大きい、と繰り返し述べられているところから、その功徳を、菩薩が自分の身を燃やす供養に匹敵するほどであると暗に示していると考えられる。

注9・「須陀洹」・「斯陀含」・「阿那含」・「阿羅漢」の四つは、声聞の四果であり、「辟支仏」は縁覚のことであるため、つまり二乗を表わしている。