大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 152

『法華玄義』現代語訳 152

 

Ⅱ.本門の十妙

 

妙について詳しく述べるにあたっての第二は、本門における十妙を明らかにすることである。ここで二つある。第一に、本と迹について解釈し、第二に、本門の十妙を明らかにする。

 

A.本と迹について

そもそも、次の六種(①~⑥)のように、本と迹という言葉の用いられ方はさまざまである。①本とは「理本」のことである。すなわち「実相一究竟」の道である。迹とは、あらゆる実在の実相を表現する理法的なことを除いて、その他の事象的なことをすべて迹と名付ける。また、②理法と事象をすべて本とし、理法や事象を言葉として説くことをみな「教迹(きょうしゃく)」と名付けるのである。また、③理法と事象の教えをみな本とし、その教えを受けて修行することを迹とする。人が訪れた場所には必ず足跡があり、その足跡をたどれば、その場所に到達するようなものである。また、④修行においては体験的に証が立てられるので、その体験を本とする。その体験によって働きを起こせば、その働きを迹とする。また、⑤実際に体験的に得た働きを本とし、それによって他の者たちを教化する働きを迹とする。また、⑥現在に顕わされた事柄を本とし、過去にすでに説かれた事柄を迹とする。この六つの意義をもって、以下、本と迹について説明をする(注:ここでは、まず本と迹について、広く言葉の意味から解釈している。本は根源という意味であり、迹とは、その根源から派生したものをいう。しかし、『法華経』における本、つまり本門は絶対的真理そのものを指し、迹は、絶対的真理は相対的言葉では表現できないことを知ったうえで、人々に伝えるため、この世に表わすために、言葉や行動で表現したものである。したがって、迹がなければ、本があるということが表現されないので、本も無きに等しくなってしまう。この後、本即迹ということが述べられるが、その意味はこれである。本門と迹門は、本来、そのような関係であるが、まずは言葉の意味から、広く各経典に記されている六通りのパターンがこれからあげられる)。

①.理法的なことと事象的なことについて本と迹を明らかにする

維摩経』に「無住の本からすべての実在が立つ」とある。無住の理法は、すなわち本時(ほんじ・仏に関する最初の時という意味)の実相真諦である。すべての実在は、この本時の真諦があらゆる現象となって現わされた俗諦である。実相の真実の本によって俗諦が現わされ、この俗諦である迹を通して、真実の本が顕わされるのである。本と迹が異なっているといっても、不思議(注:現在では不思議と言えば、わけがわからない、という意味で使われているが、本来は、言葉で表現できず、人間的な思考で理解することができない、という意味である。真理はまさに言葉で表現できず、人間的に理解できないので、不思議=真理である)であり一つである。このために、『法華経』に「すべての実在を観じれば、空であり実相である。ただ因縁をもって事象的に存在するように見え、真理を知らない見解が生じているように見せているのである」とある。

②.理法の教えにおいて本と迹を明らかにする

本時の次元において照らされる真諦と俗諦の二諦は、共に言葉で表現することができないので、みな本と名付けるのである。昔、仏は方便をもってこれを説き明かした。すなわち二諦の教えである。この教えを迹と名付ける。もし二諦の本がなければ、この二種の教えはない。もし教えという迹がなければ、どうして二諦の本を顕わすことができようか。本と迹が異なっているといっても、不思議という次元で一つである。『法華経』に「この教えは示すべきではない。言葉の相は寂滅している。方便の力をもって、五人の僧侶に説いたのである」とある。

③.教えと修行について本と迹を明らかにする

最初に昔の仏の教えを受けてこれを本とすれば、因である修行を実践して、悟りである果を得る。教えによって理法が明らかとなり、行を起こすのである。行によって教えに合致し、また理法を顕わすことができる。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「諸法は本来、常に自ら寂滅の相である。仏の弟子は道を行じ終わって、来世に仏となることができる」とある。

④.体験的証と働きについて本と迹を明らかにする

昔、最初に修行して理法に合致することによって、法身を証することを本とする。初めて法身の本を得るために、身体に合わせて応身の働きを起こす。こうして応身によって、法身を顕わすことができる。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「私は仏となってから今まで、非常に長い年月を経過していることは、ここに説いた通りである。ただ方便をもって衆生を教化して、このような教えを説いているのみである」とある。

⑤.働きと教化について本と迹を明らかにする

最初の本時の次元を実とし、その実において法身と応身の二身を得ることを本とする。その後の時間において、数多くの生まれ変わりを現わし、その法身と応身をさまざまな形で施すことを迹と名付ける。最初に法身と応身の本を得なければ、その後において法身と応身の迹はない。迹によって本を顕わす。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「これが私の方便である。諸仏も同じである」とある。

⑥.現在と過去において本と迹を明らかにする

法華経』が説かれる以前の経典において、すでに事象と理法そして権と実が説かれていることは、みな迹である。『法華経』に説かれる本時の事象と理法そして権と実は本と名付ける。『法華経』で明らかにされることが、本時の本でなければ、すでに説かれた経典の迹が下されることはない。すでに説かれたものが迹でなければ、どうして『法華経』の本が顕わされるだろうか。本と迹が異なっているといっても、不思議であり一つである。『法華経』に「諸仏の教えは長い時間の後、必ず真実の教えとなるであろう」とある。

もし『法華経』以前と『法華経』が説かれた今について本と迹を述べれば、以前の経典を指して迹とし、釈迦が悟りを開いた寂滅道場からの十麁・十妙をまとめてすべて迹と名付ける。『法華経』が説かれた今を指して本とするならば、総合的に遠く大通智勝如来の『法華経』の時のあらゆる麁とあらゆる妙もまとめてみな本とする。

もし権と実について本と迹を述べれば、権を指して迹とし、個別的に中間のあらゆる異なる名を持つ仏の十麁・十妙をまとめてみな権とする。実を指して本とし、最初の十麁・十妙をまとめてみな実とする。

もし『法華経』の本体とその働きについて本と迹を述べれば、働きを指して迹とし、最初の感応・神通・説法・眷属・利益の五妙をまとめる。『法華経』の本体を指して本として、最初からの三法妙をこれとする。

もし『法華経』の教えと修行について本と迹を述べれば、修行を指して迹とし、最初の行妙・位妙をまとめる。教えを指して本として、最初の智妙をこれとする。

もし理法と教えを本と迹とすれば、理法を指して本とし、最初からの境妙をそれとする。教えを指して迹とするならば、『法華経』を説いた本師の説法妙をそれとし、兼ねて本師の十妙をそれとする。

もし理法と事象を本と迹とするならば、事象を指して迹とし、『法華経』を説いたあらゆる麁の境をまとめる。理法を指して本とするならば、『法華経』を説いたあらゆる妙の境をまとめる。

最初の本を本とするならば、ただ本であって、迹ではない。最後に説かれた説法は、ただ迹であって本ではない。中間は迹であり、また本である。もし本の時がなければ、中間と最後の迹を下されることはない。もしすでに説かれた説法の迹がなければ、今説かれる『法華経』の本を顕わして得ることはできない。本と迹は異なっていても、不思議であり一つである。

法華玄義 現代語訳 151

『法華玄義』現代語訳 151

 

d.観心の利益について明らかにする

小乗は、心に生じたことでも、まだ身も口も動いていなければ、業とはしないことが明らかである。しかし、大乗は、一瞬の罪を作ることでも、それによって無間地獄に堕ちることを明らかにする。無間地獄は、大きな苦しみの報いの世界であり、さらに一瞬のことでも業を起こしてしまう場所である。心がわずかに動いてしまうと、重い業が作られてしまう。ましてや、九法界にそれが備わっていないわけがない。

もしよく心を清めれば、あらゆる業は清められる。浄心観とは、あらゆる心を観じ、すべての因縁によって生じた存在は、即空・即仮・即中の一心三観である。この観心をもって、心も心ではないと知り、心はただ名称に過ぎないと悟る。法は法ではないと知れば、法に主体である我(が)があるわけがない。名称に名称がないと知れば、名称に我があるわけがない。法に法がないと知れば、すなわち涅槃となる。この理解が起こる時、我も我のある所も雲の如く幻の如しと知る。すなわちこれが「その地において清涼を得る利益」である。信じ敬い懺悔し、あらゆる善心が生じて、空・仮・中において、心に勇ましさがあることは、因の利益である。一念一念が即空と相応することは、中草・上草・小樹などの利益である。一念一念が即仮と相応することは、大樹の利益である。一念一念が即中と相応することは、最実事の利益である。一念の利益の心において、七種に分別される。

ひたすら無生観の人は、ただ自分の心の利益だけを信じて、外部から仏の威力によって利益が加えられることを信じない。これは自性の愚痴に堕ちる。また、ひたすら外部からの仏から利益が加えられることを信じて、内心に利益を求めないことは、他性の愚痴に堕ちる。自他の共性の愚痴と無因の愚痴も、またわかるであろう。

自性の愚痴の人は、重い荷物を引く時に進まなければ、傍らから力をもらって助けられて進むことを、この世で見ているはずである。罪と垢が重い者であっても、仏の威力が働き、観心の智慧をもって利益が与えられることをなぜ信じないのか。またあなたはどこで無生の内観を得たのか。師に従ったからか。経典に従ったからか。自ら悟ったからか。師と経典はあなたにとって外部の条件である。もし自ら悟ったならば、必ず目に見えない次元からの働きかけを受けたからだ。あなたはその恩恵を知らないのであり、それはまるで樹木が太陽や月や風や雨の恩恵を知らないようなものだ。またあなたは次の三つのことを知らない。一つめは教えを信じない。二つめは自ら行じてばかりいて、外部から与えられることを求めない。三つめは人を教えない。ただこれはあなたの不信心が原因であり、外部から与える力がないからではない。ある経典に「内ではなく外ではなく、しかも内であり外である」とある。内であるために、諸仏の解脱は心の中に求めるべきであり、同時に外であるために、諸仏はその念を守護するのである。どうして外部からの利益を信じないのか。他性の愚痴と、自他の共性の愚痴と、無因の愚痴についても、またわかるであろう。即仮であるために自性なく、即空であるために他性なく、即中であるために共性なく、自他共に照らされるために無因性はない。

 

E.権実

(注:この段落を最後に、『法華玄義』の大半の紙面を使って説かれた「迹門の十妙」が終わるが、最後に、「十妙」のすべて対象として、それを「権実」ということをもってまとめる内容が記されている。原文では「第五に権実を結成す」と、いかにも「功徳利益妙」の第五番目の項目のように記された言葉がこの段落の最初に来ているが、内容的には明らかに「十妙」すべてを対象としたまとめの内容である。またその証拠に、「功徳利益妙」の最初の段落分けの箇所には、第四の「観心の利益について」という言葉までしか記されていない。そのため、原文にはないが、「迹門の十妙のまとめ」という見出しを付けた)。

権と実をもって迹門の十妙をまとめると次の通りである。

光宅寺法雲は「声聞、縁覚、菩薩の三教、三機、三人の境を照らすことを権とし、教一、理一、機一、人一の境を照らすことを実とする」と言っている。

しかし、この解釈は用いない。

すでに大乗の果をもって大の理法とするならば、どうして小乗の果をもって小の理法としないのであろうか。

彼は弁明して「小果は真理ではないので、その果をもって理法とはしない」と言っている。

もしそうであるならば、権教および権行の人は、なぜかつて真実ではなかったのか。すでに権教の修行者があるならば、なぜ権理を立てないのか。また権に理法がなければ、俗諦を諦と呼ぶべきではない。すでに俗諦と呼んでいるならば、権もただ三種の境とすべきではない。実に四種の境があるならば、因果は二つの法である。どうしてこの二つの法を理一とするのか。『法華経』に「すべての法を観じれば、そのままで如実の相である。行じることなく分別することもない」とある。どうして因果を分別して理一とするのか。もしそうであるならば、実相はなく、魔の説くところとなる。このために彼の解釈は用いない。

ここで真理を明らかにする。十麁の境を照らすことを権とし、十妙の境を照らすことを実とする。十麁とは、すなわち仏界以前の九法界における蔵教・通教・別教の十二因縁などのあらゆる麁の諦・智慧などから始まって麁の利益に至るまで、みな権とするのである。一方、十妙とは、すなわち理妙(注:原文には理妙とあるが、これは明らかに十妙の第一の境妙のことである)から始まって利益妙のことである。妙であるから実なのである。

また次に、十妙を表わすために、十麁の深い意味が開かれる必要がある。蓮の実のために花びらはあるとしても、花びらに隠れて蓮の実が見えないように、あらゆる教えを示し教え利益を与え随喜して、確かにそれらの教えに実があるのだが、実は顕われない。『法華経』に「如来の方便はその意義を理解することが難しい」とある。また、花びらが開いて蓮の実が現われることは、十麁を開いて十妙を顕わすことであるが、同時に十麁がないことの喩えとなる。ただ真理においては、一大事不可思議の境界から始まって一大事不可思議の利益があるのみである。僧肇(そうじょう)は「維摩経の最初の仏国品から始まって最後の法供養品に至るまで、すべて不可思議が明かされている」と言っている。今述べていることも全く同じである。麁を開いたならば、もはやすべてが妙となる。

また五味の喩えについて述べれば次の通りである(注:これ以降、いわゆる「五時」の分類を用いた内容となるが、それを「五味」の喩えで表現している記述は最初の「乳味」だけであり、それに続いては「三蔵」という言葉が用いられ、続いて「方等」『摩訶般若』『法華』『涅槃』という表記となっている。つまり統一が取れていない。したがって、それらはカッコの中の言葉で統一した)。

乳味(=華厳時)の教えは、十妙のために十麁を明らかにし、十麁を開いて十妙を顕わす。すなわち一権(別教)一実(円教)である。もし四悉檀について述べれば、六権(別教と円教の第一義悉檀以外の六つ)二実(別教と円教の第一義悉檀の二つ)である。もし四門(有門、空門、亦有亦空門、非有非空門)について述べれば、十二権四実(四悉檀のうち、第一義悉檀以外の三つにそれぞれ四門があるので十二の権となり、第一義悉檀に四門があるので、四の実となる)となる。

三蔵(=鹿苑時)について述べれば、最初から最後まで権であり、旅人を休ませるために仮に作られた町のようであり、子供をあやすために差し出された柳の葉のようなものである。また、この教えにおいては、他の人を教化することにおいては権であり、自分の修行においては実である。四悉檀について述べれば三権一実、四門について述べれば十二権四実である(四悉檀それぞれに四門があって合計十六となり、その内、第一義悉檀の四つが実であり、その他の十二は権となる)」。

方等(=方等時)について述べれば、四教すべてが備わっているので、蔵教・通教・別教のそれぞれの十妙で、三十種の権、円教の十種の実である。四悉檀について述べれば十四権二実(四教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十四は権となる)である。「四門」について述べれば五十六権八実(四悉檀の十四権二実それぞれに四門があるので、14×4の権であり、2×4の実となる)」である。

『摩訶般若』(=般若時)について述べれば、すでに三蔵教は廃され、ただ通教・別教・円教を用いるだけとなる。通教の十妙と別教の十妙の二十種を権とし、円教の十妙を実とする。四悉檀について述べれば「十権二実(三教それぞれに四悉檀があり、その内、別教と円教の第一義悉檀の二つが実であり、その他の十は権となる)である。四門について述べれば四十権八実(四悉檀の十権二実それぞれに四門がある)である。

法華経』(=法華涅槃時の中の法華)について述べれば、これまでのすべての教えを廃して、ただ一実を説くのみである。実の中には方便がないわけではないが、ただこれも実相の方便であるので、同じく実とする。ここで四悉檀について述べれば、まだ悟らなければ三権(第一義悉檀以外の三つ)であり、悟れば一実(第一義悉檀)である。四門について述べれば十二権四実(四悉檀の三権一実それぞれに四門がある)である。数としては三蔵教と同じとなるが、意義は天と地の違いである。三蔵教の十二権四実は、すべて権である。『法華経』はすべて実である。方等教と『般若』に異なる点を述べれば(注:ここに文はない)。このため、『法華経』に「ただこの上ない道を説き、真実の相を示すのみである」とある。この意味である。

さらに『涅槃』(=法華涅槃時の中の涅槃)について述べれば、『涅槃』は四教すべてを解釈している。またこれは三十権(蔵教、通教、別教のそれぞれ十妙)と十実(円教の十妙)である。数は、方等に似ているが、意義は全く異なっている。方等においては、別教と円教の二つは実に入り、蔵教と通教の二つは入らない。この『涅槃』は、四教すべてが実に入るのである。因においては三権一実となるが、果においては、四実となり、権はない。もし四悉檀について述べれば、十四権二実である。四門について述べれば、五十六権八実である。さらに因について述べれば五十六権であり、果について述べれば四実である。ただし、これは実のみであり、因に合わせて四実としているだけである(注:つまり因においては方等と同じだが、果においてはすべて実となるというのである)。これはすなわち四門より実に入る。果について述べれば、四実十二権(四教すべてに四悉檀があり十六となるが、その内、四教それぞれの第一義悉檀の四つが実となり、他の十二は権となる)。『法華』の意義も同じである。

このために知ることができる。あらゆる教えには同じく権と実があるが、それぞれの権と実は同じではない。あるいはすべて実であり、あるいはすべて権、またあるいは権と実が兼ね備わっている。これはすべて、相手の能力と情に合わせられているのであって、理法的には完全ではない。そこで、総合的に四教において権と実を判別すると次の通りである。三蔵教・通教・別教の三教について述べれば、これは権であり、円教を実とする。またあらゆる教えの権がまだ完全となっていないことを権とし、すでに完全となって開権顕実となることを実とする。この『法華経』はただひとつの完全な教えであるので実とし、また権を開くので実とするのである。

もし円教について述べれば、前の三教の三十麁を照らすことを権とし、十妙を照らすことを実とする。もし権を開いて完全とすることにおいて述べれば、三十麁を開いてすべて妙とすることを、ただ実とするのみである。このために妙という。もし理法を悟ることについて述べれば、理法自体には、権もなければ実もなく、何ら教えはない。子供を打つ真似をして導くように、権を説いて実を説くのである。これは麁である。理法はすなわち権もなければ実もない。このために妙というのである。

(注:以上をもって迹門の十妙が終わる)

法華玄義 現代語訳 150

『法華玄義』現代語訳 150

 

c.流通の利益について明らかにする

功徳利益妙について述べるにあたっての三つめは、「流通(るつう・教えが広められること)の利益について明らかにする」である。ここにおいて三つの項目を立てる。一つめは、師を出す、二つめは、法を出す、三つめは、利益を出す。

◎師を出す

経典を広める人は、凡人と聖人に通じていなければならない。法身の菩薩は、四弘誓願をもってその身を荘厳としている。この国土や他の国土、下の国土や上の国土に対して、権と実の七益・九益・十益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その法身を助けて、悟りの道を進ませる。

生身の菩薩も、この国土や他の国土に経典を広め、他の者たちに権と実の七益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その法身を助けて、生死の苦を減らし、しかし、それより上の国土に利益を与えることはできない。

凡夫の師は、またよくこの国土に経典を広め、他の者たちに権と実の七益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、五品弟子位を進ませる。このために『無量義経』に「病の導師がいる。こちら側の岸にいて、船を作って人をあちら側の岸に渡す」とある。これはこの意味である。

問う:凡夫はただ凡夫のために境を広め、凡夫に対して利益を得させるのだろうか。また聖人にも利益を得させるのだろうか。

答える:聖人に二種ある。一つめは小乗の聖人であり、二つめは大乗の聖人である。『法華経』に「もし真実に阿羅漢の位(=小乗)を得て、さらに滅度(めつど・完全な涅槃)を得たいと思って、余仏(よぶつ・説明は後に述べられる)に会えば、そこでそれを究めることができる」とある。南岳慧思は「初依(しょえ・最初の拠りどころとなる師)を余仏と名付ける。無明がまだ破られていないことを余として、よく如来の秘密の蔵を知り、深く円満な理法を悟っていることを仏と名付ける。仏の滅度の後に、真実に阿羅漢の位を得る者は、権と実に対して理解していない。もし初依に会えば、よく悟りを究めて相似即の利益を成就し、さらに進んで分真即の利益に入る」と言っている。この文は、凡夫の師が小乗の聖人のために経典を広めて利益を得させることを証明するのである。『法華経』に「六根清浄の人が教えを説くと、あらゆる方角の諸仏がみなこれを見ることを願い、説法がされている場所に集まって来る。すべての天龍は、この説法を聞いて、みな大いに歓喜する」とある。これもまた、凡夫の師が、偉大なる聖人のために説法することを証明している。

◎法を出す

経典を広めることは、明らかに聖人の言葉による。『法華経』には「もし衆生が信じ受け入れれば、まさに余の深い教えの中において教示し利益を与え喜ばせるべきである」とある。余とは方便を帯びている。「深い」とは中道を明らかにする。方便を帯びて中道を明らかにする教えは別教である。もしただ方便だけで中道を明らかにしなければ、通教と蔵教などである。『法華経』の文では、別教を用いて円教を助けることを認めている。しかし推測すると、またまさに通教を用いて円教を助けるべきである。また『法華経』に「さらに異なった方便をもって、第一義を助け顕わす」とある。どうして蔵教と通教を排除できようか。

ただ菩薩はすでに真実の智慧を得て、また権の意義を得ている。真実の智慧をもって権と混同せず、権は真実だとは言わない。ただ真実だけを広めても、衆生は信じないので、すべて真実のために権を施し、浅い意義をもって深い意義を助けるので、虚妄とはならない。これは権と実を並べて用いて経典を広めることである。『法華経』の「安楽行品」に「もし難問があれば、小乗の教えをもって答えず。ただ大乗をもって解説して、一切種智を得させるのである」とある。これはすなわちただ真実を用いて経典を広めることである。また「適宜に従って教えを説く」とある。これもまた権を排除しないことである。

今の時代の人は、教えを広める際に、あるいは大乗だけを用い、あるいは小乗だけを用いて、みな仏の真実の意義を得ていない。よく経典を広める者は、適宜に教えを与える。口では権を説くとしても、内心は真実の教えから外れていない。ただ衆生に対して権と実の七益を得させればよいのであるから、経典を広めるにあたってこだわりがない。

◎利益を出す

しかし、流通の利益は、『法華経』を序と正宗と流通の三段に分けた中の流通の段落を待たずに、まさにその利益が明らかにされている。正説の文の中で、すでに未来に経典が広められることにおける利益が示されている。『法華経』の「譬喩品」の後半や、「授記品」の末尾や、「法師品」の中に、みな『法華経』を広める功徳利益を明らかにしている。よく如来の滅度の後に、たった一句の偈でさえ聞く者に対して、最高の悟りを得る約束を与えている。ましてや経典を広める人はなおさらである。密かにたった一人に経典を説く者の功徳は多い。ましてや大衆に広く説く者はなおさらである。

法華経』の一句にでも随喜し、それを人に説き、またそれを聞いた人が人に伝えて、それが五十人めに至った随喜の功徳は、なお二乗の境界ではない。ましてや、最初に聞いて随喜する者の功徳はいかばかりであろうか。常不軽菩薩は『法華経』の一句を広めたために、六根清浄を得た。ましてや、経典のすべてを広める者はなおさらである。

五品弟子位の最初の「随喜品」の功徳は、無量億劫に五波羅蜜を行じた功徳を喩えとすることさえできないほど大きい。ましてや、五品すべてはいかばかりであろうか。あらゆる方角の空間に際限がないとしても、五品弟子位の人が経典を広めた功徳はそれよりも際限がない。『法華経』に「如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐る」とある。如来の教えはみな数えることは不可能である。ましてや、八万人の菩薩や千世界の微塵の数ほどの菩薩であっても、説くことは不可能である。しかも知ることも不可能である。ただ如来を除いて、すべて知る者はいない。

凡夫の師が経典を広めることは、凡夫に七益を与える。『法華経』に「この今日は閻浮提の人の病の良薬である。もしこの経典を聞けば、不老不死の者となる」とある。それは、老死の中において、老死の実相を知ることである。老死は果報の法則である。実相を知ることは、清涼(しょうりょう・この世の状況に影響されない理法的な次元を表わす言葉)の理性の妙の利益を得ることである。また果報の利益である。この『法華経』を保つために、安楽な国土に生まれ、蓮華の中にあって、貪欲に悩まされず、また十種の悩乱から離れることができ、菩薩の道を行じることができる。これをまた名字即の利益と名付ける。また観行即の妙である。また因を修す妙である。陀羅尼(だらに・教えを記憶する力)を得て、よく仮から空に入ることは、下・中・上の薬草の利益である。またこれは小樹の利益である。百千旋陀羅尼(ひゃくせんせんだらに・『法華経』の「普賢菩薩勧発品」で説かれる「三陀羅尼」の第二。教えを百千回説くことのできる力。第三が「法音方便陀羅尼」)」を得るのは、大樹の利益である。法音方便陀羅尼を得るのは、相似即の真実の利益である。もし一瞬でも聞くことができれば、即座に最高の悟りを究めることができる。これが真実の利益である。

また次に、人が水を求めて高原を掘り進めて、まだ乾いた土しか見ないのは、下・中・上の薬草の利益である。湿った泥を見るのは、小樹と大樹の利益である。水を得るのは、最実事の利益である。仏の滅度の後の五百年の間ですらこの利益を得る。ましてや、今の時代に『法華経』を広め、他の者を教化する者に、どうして七益がないことがあろうか。

法華玄義 現代語訳 149

『法華玄義』現代語訳 149

 

第二.近益近益を論じる

近益(ごんやく)とは、仏が悟りを開く寂滅道場に赴き、初めて悟りを成就して、教えを説き、生死の苦を減らす毒の太鼓と、道を増し加える天の太鼓を打って、衆生に利益を与え、『法華経』が説かれる直前までの利益についてである。『法華経』に至る前に限っては、利益もまた浅深の違いがある。煩悩が滅びることにおいても、遅早の違いがある。なぜなら、教えとはもともと聞く相手に合わせるものだからである。聞く相手には、三界の中の能力の高い者、低い者、そして三界の外の能力の高い者、低い者の四種がある。また教える教主にも、蔵教・通教・別教・円教の四種がある。みな法王と称し、王三昧を備え、自ら二十五有を破って、衆生に七益を与えることは、前に述べた通りである。

また、大乗小乗の経典に、仏は王三昧に入って、光を放って教えを説き、善道悪道のあらゆる衆生の果報の苦に利益を得させることを明らかにすることは、『阿含経』の中に説く通りである。「仏の光明を見て、仏の手に触れることを受けて、六道の苦患がすべて除かれる」とある。また『大品般若経』に「光を放って地獄の衆生を照らすと、その苦悩は即座に除かれ、他化自在天に生じる」とある。「苦悩は除かれる」とは、果の利益であり、「天に生じる」とは、因の利益である。『大品般若経』では「華葉の益」とある。

また、仏は光を放って、闇に閉ざされていた場所がすべて明らかとなる。その中にいた衆生は、お互いが見えるようになったので、「その中の衆生は瞬間的に生じたのだろうか」と思ったと『法華経』にある。これもまた果の利益である。

この因と果の利益は、四種の教主の仏が共通して施すものである。個別的にその利益を述べるならば、浅深の違いがある。つまり声聞は煩悩の本体を断じ、縁覚は習気を減らすのであり、これを中草と名付ける。

菩薩は煩悩を抑えて、衆生を教化する。このために『法華経』に「世尊と同じ境地を目指して、私も仏となって精進し禅定を行じよう」とある。これは上草と名付ける。またこれは三蔵教の教主の慈善根力の利益の相である。

法華経』に「あらゆる菩薩たちは、智慧が堅固であり、三界に精通して最上の教えを求める」とある。すなわち、声聞と縁覚と菩薩は、同じく無生を感じる。ただ、蔵教の析空観の智慧の利益があるのみではなく、さらに通教の巧みな体空観がある。これは小樹の増長の利益であり、通教の教主の利益の相である。

法華経』に「また禅定に住んで神通力を得る。諸法の空を聞いて、心が大いに歓喜する」とある。「禅定に住む」とは、九種の大いなる禅定に住むことである。「心が大いに歓喜する」とは、歓喜地の位に上ることである。(注:「行妙」の「出世間禅の総論」の項参照)。また「無数億百千の衆生を教化する」とあるのは、大樹の増長の利益である。ただ前の因と果の析空観と体空観の利益があるばかりではなく、分別道種智から一切種智の利益がある。これは別教の教主の利益の相である。

法華経』に、「今、あなたがたのために最も真実な教えを説こう」とある。これは前と同じ利益ではなく、無明を破って、仏性を顕わす究極的な最実事の利益である。これは円教の教主の利益の相である。

また次に、蔵教・通教・別教の利益は、劣っていて優れていない。そして優れているものが劣っているものを兼ねることは理解できるであろう。

また、五味の教えの喩えによれば、乳味の教えは因・果・大樹・最実事の四つの利益のみであり、小草・中草・上草・小樹の三草一木を明らかにしない。大乗の経典は声聞と縁覚の二乗の人の手には入らず、その人たちは、教えを聞いても耳の聞こえない人や口のきけない人のようであるためである。酪味の教えは、ただ果・小草・中草・上草の四つの利益があるのみである。生蘇味の教えは七益のすべてがある。熟蘇味の教えは、析空観の三草がなく、体空観などの七益がある。醍醐味はただ最実事の利益だけがある。前のあらゆる利益はみな麁であり、醍醐味はすなわち妙である。

寂滅道場から『法華経』に至るまでを、生身(しょうしん)の菩薩とし、ただ十益の中の八益までの利益を得て、十益の第九と第十の利益は得ていない。また「得る(=できる)」という意義があるのは、すなわち菩薩が法性身から分断生死に入って、願生・神通生・応生などの眷属となって、進んで無明を破り、残りの煩悩を断じて、すなわち第九と第十の利益を明らかにすることができるのである。このように、寂滅道場から『法華経』に至るまでは、概略的に十益とするのである。

問う:法身の菩薩は、応身仏の説法を聞いて、応身の中の利益にあずかり、また同時に法身の利益にあずかるのか。

答える:たとえば、鏡を磨けば、直ちに鏡が明瞭になって、物がよく映るようなものである。

また問う:応身が教えを聞いて利益を得て、法身も同じように利益を得るというならば、応身は病を表わすわけであり、同じように法身もまた病を表わすことがあるのか。

答える:この病はもし真実であったなら、応身が病めば、教えもまた病む。ただ応身の病は真実の病ではない。真実ではないので、応身に病がないので、法身にもまた病はない。またもし応身が病を現わすことが少ないならば、まさに知るべきである、法身の利益もまた少ない。もし応身が病を現わすことが広ければ、法身の利益もまた広い。ここで、あらゆる言葉をもって考察すれば、果がみずから利益を与えて、因は与えず、また因は利益を与えて、果は与えず、また共に利益を与えて、共に与えないこともある。これは現実の事柄である。理解すべきである。自ら破る利益、成就する利益、破って成就する利益、破らず成就しない利益もある。その破らず成就しない利益とは、前に述べた清涼の利益であり、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣の因は破る利益、最高の天の非想非非想天の因は成就する利益、その中間の世界は破って成就する利益である。

因の利益が自ら果の利益であり、果の利益が因の利益であるものがある。これは変易の因が果に変わる意味である。因の利益であって増道(悟りに進むこと)ではなく、果の利益であって損生(生死の苦を除くこと)ではなく、また因と果の利益であって、また因と果の利益ではないこともある。これは分段生死の果報の因と果である。因の利益であって同時に増道であり、果の利益であって同時に損生であり、因と果の利益になることがなく、因と果の利益になることがある。これは習因(しゅういん・修行して悟りという果を得るための原因となるものを指す)と習果である。真諦の利益であって、俗諦の利益ではないものは、二乗である。俗諦の利益であって、真諦の利益でないものは、蔵教の菩薩である。先に俗諦の利益であって、後に真諦の利益になるものも、蔵教の菩薩である。先に「真諦」の利益であって、後に「俗諦」の利益になるものは、通教の菩薩である。真諦と俗諦の利益であって、中道の利益ではなく、中道の利益であって、真諦と俗諦の利益ではないのは、別教である。真諦の利益がそのまま俗諦の利益であり、また中道の利益になるのが、円教である。

 

第三.法華経の利益を論じる

法華経』について見ると、七益がすべて備わっている。また区別があるようだが、区別はない。たとえば、芽と茎と枝と葉の成長は同じではないが、一つの地から生じているものであるというようなことである。七益は実に浅深の違いがあるが、すべて実相でないものはない。このために、区別があるようで区別はないのである。

あらゆる経典に区別があるのは麁の利益である。同じく『法華経』によれば、区別のない妙の利益である。あるいは、進んでさまざまな妙の利益に入り、あるいは位に立脚して妙の利益を成就する。進み入ることの利益とは、本来「その地において清涼を得る利益」であるが、さらに進んで大乗を発し、心は解けて明らかに清らかとなる。あるいは観行即の妙や相似即・分真即の妙に進む。本来は、人天の因の利益であるが、進んで相似即・分真即の位に入る。本来は小乗の学・無学の利益であるが、進んで無明を破り、分真即の妙の利益となる。たとえば、角笛に声を入れると大きくなるように、小乗を転じて大乗とする。通教別教の進んで入る利益はこれによって知るべきである。

位に立脚する利益とは、本来、麁の果である「その地において清涼を得る利益」であるが、そのままで理即の妙の利益となる。麁の因に立脚して、そのまま観行即の妙の利益となる。麁の学・無学の利益に立脚して、そのまま相似即の妙の利益となる。麁がそのまま妙となれば、進んで入る必要はない。通教・別教の利益はこれによって知るべきである。

進んで入る妙の利益は、すなわち麁の利益に相対して、妙の利益を明らかにすることである(=相待妙)。位に立脚する利益は、すなわち絶待妙の利益である。

あらゆる麁の利益をもって眷属を解釈すれば、果・因の二つの利益は、業生の眷属となる。中草・上草の二草小樹などは、願生・神通生の眷属となる。大樹の仏性を見ること以上の段階は、みな応生の眷属となる。

進んで入る利益と位に立脚する利益については、理即・名字即・観行即の妙は業生の眷属となり、相似即の妙は願生・神通生の眷属となり、分真即の妙は応生の眷属となる。

以上が『法華経』の利益である。

法華玄義 現代語訳 148

『法華玄義』現代語訳 148

 

◎問答

(注:原文には「問答」という段落分けはされていないが、明らかにここから問答をもって、以上の内容をまとめる箇所となる)。

麁と妙の衆生の感と、別教と円教の応、そして清浄の国土と汚れている国土、浅深の利益は、この十益を出ない。法界を包み込んで利益はあまねく行き渡っている。その概略的な意義はわかるであろう。多くの文を必要としない。これが大通智勝如来の所で打たれた毒の太鼓が生死を減らすにあたって、それを聞くことに遠近の違いがあり、生死を減らすことに遅早の違いがあり、また天の太鼓が道を増し加えるにあたって、それを聞くことに遠近の違いがあることである。このために、利益に深浅の違いがあり、業生と神通生と願生と応生の眷属の利益の違いがあるのである。

問う:最初に二十五有を破って利益を得れば、もはや有の破るところはないはずであり、さらに利益を論じるまでもなくなる。なぜ十益を論じる必要があるのか。

答える:最初に二十五有の果報の苦を破って、果報の利益を得させる。次に二十五有の因の苦を破って、因を修す利益を得させる。次に二十五有の見思惑の苦を破って、真諦三昧の利益を得させる。次に二十五有の空を破って、二十五有の仮に出て俗諦三昧の利益を得させる。次に二十五有の有と空の二極端を破って、中道王三昧の利益を顕わす。次に方便有余土を破って、二十五有の仮に出て、俗諦三昧と中道王三昧の二つの三昧の利益を得させる。次に実報土を破って、ただ深く中道王三昧の利益を顕わす。三諦がまだ明確に満足されていなければ、利益の意義は終わらない。そのために十益があるのである。

問う:三諦はただ究極的な境地にあるのか、あるいは凡人にも通じるのか。

答える:『大品般若経』に「衆生の色・受・想・行・識」とある。また「無等等の色・受・想・行・識」とある。また『仁王般若経』に「法性の色、法性の受・想・行・識」とある。『涅槃経』に「この色を滅することにより、常にある色を獲得する。受・想・行・識もまた同じである」とある。これはすなわち凡人から聖人に至るまで通じているということである。これは俗諦である。

維摩経』に「衆生の如と弥勒の如と賢聖の如は、一如であり二如はない」とある。『大品般若経』に「色も空であり、受・想・行・識も空である。もし涅槃以上のものがあれば、それは幻化のようなものである」とある。これはすなわち凡人から聖人に至るまでみな空であるということである。これは真諦である。

『涅槃経』に「二十五有に我があるのか。答える。我はあると。我とはすなわち仏性であり、仏性は中道である。因縁によって生じるすべては、一つの色、一つの香も中道でないものはない」とある。これはすなわち、凡人から聖人に至るまでみな中道第一義諦であるということである。

問う:遠い過去の利益を論じることにあたって、『法華経』に遠い過去について述べていることがさまざまである。第一は「久遠劫より今まで、涅槃の道を讃嘆して示し、生死の苦が永遠に尽きている。私は常にこのことを説いている」とある。第二は「私は昔、二万億の仏の所において、この上ない道を教えた」とある。第三は「前世からの因縁によって私は今まさに説くべきである」とある。これらのうち、どの経文を根拠として論じるのか。

答える:第一の文は「久遠劫より今まで」といっている。久遠という言葉は、実にはるか遠い昔ということであり、まだ本地を顕わしていない。これは中間ということを表現している。第二の文は「私は昔、二万億の仏の所において」とある。劫数が明らかにされていないので、どれくらいの過去か判別できない。次の文と比較すると、それほど遠い過去ではないようである。

ここで過去の利益について論じる場合、第三の文を取る。三千世界を墨として、東に千の世界を過ぎて墨を一点記す。その墨が尽きれば、その一点を記した世界と記さなかった世界を合わせて塵として、その一つの塵を一劫とする。それでも、その劫数を過ぎて、さらに無量無辺百千万億阿僧祇劫を過ぎている。このような経文を用いて、第二の文の「二万億の仏の所」という文と比較すると、それは昨日のようなものとなる。これを大乗の教えの初めとする。大通智勝如来は八千劫の間『法華経』を説き、その十六王子は八万四千劫にわたって『法華経』を講義したのである。

その経論は、文は広く時が深い。その時に聴衆は、すぐに悟る者もいれば、中間に教化を受け、あるいは近く教化を受ける。そのすべてが宝のある場所に至って、法性の身を受け、応生の眷属となる。内に秘めて外に現わして、さまざまに衆生を成熟させ、仏の働きをする。『維摩経』に「悟りを開いて教えを説くといっても、菩薩の道を行じる」とある。これはこの意味である。その時に聴衆は、まだ真実の利益を得ない。もし相似即位の利益は、生まれ変わっても忘れることはない。名字即位・観行即位の利益は、生まれ変われば忘れたり、忘れなかったりする。忘れた者は、もし善知識(ぜんちしき・仏の道に導いてくれる人)に会えば、過去世の善が再び生じる。もし悪友に会ってしまえば、その本心を失ってしまう。このために、その中間の時にさまざまに備える。あるいは多く大乗をもって成熟させ、あるいは多く小乗をもって成熟させる。

方便有余土に生じる者は、あらゆる道を説くとしても、その実は一乗のためである。またみな宝のある場所に至らせるのである。法性の身を受けて、その国において、第九、第十の利益を与えられる。千世界の微塵の数ほどの菩薩は、みなこれである。

これらの遠い過去にすでに悟りを究めていることを、久遠の利益と名付ける。その中の衆生は、今は声聞の位に留まる者がいる。このことについては、改めて近益を論じる項目で説く。

法華玄義 現代語訳 147

『法華玄義』現代語訳 147

 

○声聞の利益

声聞の利益とは、もし人が生死にとらわれるならば、死んでさらにこの世に生を受け、さらにまた死んで、それによって精神的に病んで、生まれ変わり死に変わりが際限なく続く。貪欲に覆われ、ヤクが自分の尾を追うように、そこから解き放たれることがない。このために『法華経』に「もし人が苦しみにあい、老病死から離れたいと思うならば、仏はそのために涅槃を説き、あらゆる苦しみを滅ぼし尽くさせる」とある。苦しみから離れたいと決心すれば、出家を求める。そのために、声聞の道を修行するのである。

そして戒律だけを保とうとしても、愛(あい・情緒的な煩悩)や見(けん・知的な煩悩)が、まるで煩悩の大海を渡り切ろうとする者が持つ浮袋を鬼が破るように、その戒律が清らかでなくなる。戒律が清らかでないなら、三昧(さんまい・この場合は禅定を指す)は成就しない。戒律と禅定がなければ、無漏は発しない。このために、一心に戒律と禅定と智慧を修すのである。前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界を破る無垢三昧などの四三昧の力が加わり、それらの世界に堕ちないようにさせ、戒律も清浄とさせる。

もし等しく禅定と智慧を修し、智慧に禅定が加われば、智慧は狂うことはない。もし禅定に智慧が加われば、禅定は愚かになることはない。これを賢(けん)と名付ける。賢は聖と隣り合う言葉である。この禅定と智慧を修すならば、頭が燃えていることを救おうとするように一心に精進して、飢え乾いた者が水を求めるように禅定の智慧を願い求めるようになる。しかし、二十一有(注:二十五有から地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣を除いた世界)の有漏の業に乱される。もしあらゆる三昧の力をこれに加えれば、禅定の観心が明確となり、四善根が成就し、煩悩を抑制することが成就する。瞬間的に真実の無漏を発して、須陀洹(しゅだおん・声聞の位の第一)を成就し、二十五有の見諦(けんたい・須陀洹のこと=預流果)の八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする)の煩悩を破る。これは、二十五三昧を共通して加え、見諦の煩悩を断じ、また兼ねて四悪趣の思惑を断じる。このために、「第十六心に修道に入る(「位妙」の「中の薬草」を参照)」とあるのは、この意味である。

(注:修行者の利益とは、修行の結果のことであり、それは位のことに通じる。そのため、ここで再び位妙で述べられたことが繰り返されることは当然である。さらにこれもすでに述べられている二十五有を破る二十五三昧の結果が、利益として表現される内容が続く。『法華玄義』の中には、このような理由で、同じことが繰り返し記されることが多い)。

次に修道に入る。もし超果(ちょうか・向と果を順番に上るのではなく飛び越えて進むこと)の人ならば、同時に十種の三昧の力をこれに加えれば、五下分結(ごげぶんけつ・欲界の煩悩の五つの縛りのこと。有身見結(自分の認識を自我だとする煩悩)、戒禁取結(誤った戒律に対する執着)、疑結、欲貪結、瞋恚結)の思惑を破る。もし能力の劣った人ならば、段階的に「思惑」を断じ、段階的に三昧を用いて、三界の煩悩を断じ尽くして真諦三昧の利益を究める。これは中草の利益である。

これを総合的に述べれば、凡人と聖人の慈善根の力による。個別的に述べれば、本来の慈悲による。初めに十法界の析空観による認識対象を滅ぼす善を感じ、それによって四弘誓願を起こし、王三昧を行じ、衆生を捨てず、中草の利益を得る。『涅槃経』に「二十五三昧をもって二十五有を破る」とあることである。以上、十益の中の第三を概略的に述べれば以上である。

○縁覚の利益

もし人が前世からの因縁が深く良いものであるならば、仏のいない世に生まれても、自ら生死を嫌い、一人で静かな良い環境を好み、深く因縁を感じるようになる。『法華経』に「昔、仏を供養し、優れた教えを求める者には縁覚を説く」とある。この人は大きい福徳があって、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き、対し、応じ、自然の道理を通して、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得て、縁覚の道を悟らせる。これはなお中草の利益に属する。

○蔵教の菩薩の利益

四諦を観じ、六波羅蜜を行じる。もし檀那波羅蜜(=布施波羅蜜)を行じても、人から自分の頭、眼、そして国や妻子を求められた時、心が動揺してしまうようならば、檀那波羅蜜は成就しない。そのようなことは悪であると知って、檀那波羅蜜において善を成就しようとするならば、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働き、三昧の力を受けて、六波羅蜜を妨げるものを除く。これは餓鬼の有を破ることである。妨げがすでに除かれれば、甘露を飲むように喜んで布施をする。そして有為(うい・因縁によって生じている無常な存在)の存在は危うく無常であると知るのである。これは心楽三昧(しんらくざんまい)の目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得ることである。

尸羅波羅蜜(=持戒波羅蜜)が成就すれば、戒律を破る妨げが除かれ、地獄の有を破る。これは無垢三昧の利益である。

忍辱波羅蜜が成就すれば、瞋恚の妨げが除かれ、畜生の有を破る。これは不退三昧の利益である。

禅定波羅蜜が成就すれば、心が乱れる妨げが除かれ、人の有を破る。これは四種(日光、月光、熱炎、如幻)の三昧の利益である。

精進波羅蜜が成就すれば、怠惰の妨げが除かれ、阿修羅の有を破る。これは歓喜三昧の利益である。

般若波羅蜜(=智慧波羅蜜)が成就すれば、愚痴の妨げが除かれ、天の有を破る。これは三界のそれぞれの天に対する十七種類の三昧(注:行妙の二十五三昧の段落参照)の利益である。

六波羅蜜を妨害する六つの妨げは六道の業である。詳しくは『菩薩戒本』に記されている。六道の業を除くために、あらゆる妨げに悩まされることはなく、五神通を得て六道に遊戯(ゆげ)して、六波羅蜜の行を成就する。これは上草の利益である。

共通して述べれば以上の通りである。個別に述べれば、本来の十法界の事象的な善悪を観じて、四弘誓願を起こし、三昧を行じ、衆生を捨てないことである。

○通教の利益

これは三乗の共学の人である。乾慧地・性地・八人地・見地の位においては二十五三昧を用いて利益を得る。薄地から十地に至るまでは、二十一三昧を用いて思惑を破る。また無知を排除する。これは小樹の利益と名付ける。総合的および個別的な慈悲は前に述べたことと同じである。

○別教の利益

これは段階的に修行を進めることにおいて、認識の対象を法界に広げ、法界全体を念じることである。十住に入って真諦三昧の利益を得て、十行・十廻向に入って俗諦三昧の利益を得て、十地に入って中諦三昧の利益を得る。これは大樹の利益である。総合的および個別的な慈悲は前に述べたことと同じである。

○円教の利益

これは三諦が一つであるという真理を修し、認識の対象を法界に広げ、法界全体を念じることである。もし一つ一つの相対的な事象を対象とするならば、足の上げ下げも修行道場でないことはない。この心は一念一念に六波羅蜜と相応する。常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を修し、十境界(「行妙」の「円教の行」の項目を参照)を観じる。前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、瞬時に悟りを開き、あるいは相似即に、あるいは分真即に、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得させる。これは完全に二十五三昧を用いて完全に働かせ、二十五有を破り、自我の本性を明らかにして、究竟実事の利益を得るのである。

○変易生死の利益

これは方便有余土(ほうべんゆよど)の人の利益である。前に第一から第八の利益まで述べた中、四つの場所がある。あるいは九つの場所がある。つまり、声聞、縁覚、通教の菩薩、別教の十住・十行・十廻向の三十心、円教の相似即である(注:四つの場所とは、①蔵教の声聞と縁覚、②通教の声聞と縁覚と菩薩、③別教の十住と十行と十廻向の菩薩、④円教の菩薩であり、九つの場所とは、これらを別々にして、蔵教の①声聞と②縁覚、通教の③声聞と④縁覚と⑤菩薩、別教の⑥十住と⑦十行と⑧十廻向の菩薩、⑨円教の菩薩のことである)。ただ見惑と思惑を破っただけで、まだ無明惑を除いていない。無明は無漏に浸透して、方便の生を受けさせるのである。

このために『法華経』に「私は他の国土において仏となり、さらに異なった名前を持っていた。そしてその国土において仏の智慧を求め、この法華経を聞くことができた」とある。これはすなわち、その国土において一乗に入ったことである。『勝鬘経』に「三人は変易の国土に生まれる。つまり、大いなる力のある阿羅漢、辟支仏、菩薩などである」とある。『楞伽経』に「三種の意生身(いしょうしん・意識的にその生を得た身)」とあるのは、第一に安楽法意生身である。これは、二乗の人が涅槃の安楽に入る意義を表わした言葉である。第二に三昧意生身である。これは、通教の人が衆生を教化するために世俗に出て、神通三昧を行なう意義を表わした言葉である。第三に自性意生身である。これは、別教の人が中道を修す自性の意義を表わした言葉である。すべて意という言葉があるのは、安楽法意生身は空の意義であり、三昧意生身は仮の意義であり、自性意生身は中の意義を表わすのである。別教と円教の相似位は、まだ真理を発していないので、みな意識的に行なわれたものである。このために『大智度論』に「この時、意地を過ぎて、智の業の中に住む」とある。もし真理を発するならば、これは智慧の業である。まだ真理を発していなければ、なお意地である。

ここに生じて、析空観の者は能力の劣った者であり、体空観の者は能力の高い者である。別教の人はすでに仮を習っているので、少し能力が高い。円教の人は、最初から即中であるので、最も能力が高い。すでに能力の高い低いの違いがあるので、そこにおいて修学する場合、段階的に進むことと段階を超越して進むことの二つの利益がある。また、段階的に進むことと段階を超越して進むことのぞれぞれに応が用いられる。この九人は、方便有余土に生じ、それぞれの有の自らの本性を見て、最も真実の利益を得るのである。

もし個別的に言えば、方便有余土は三界の外にあるのである。もし事象的なことにおいて真理を言うならば、必ずしも遠いところにあるのではない。『法華経』に「もし深く心に信じ理解するならば、仏は常に耆闍崛山(ぎしゃくつせん・法華経が説かれたとされる山。霊鷲山(りょうじゅせん)ともいう)にいて、大いなる菩薩、声聞などの僧侶に囲まれて説法しているところを見るのである」とある。すなわちこれは方便有余土のことである。

○実報土の利益

これは実報土の人の利益である。前に第一から第八の利益まで述べた中、別教の十住・十行・十廻向の三十心の人と、円教の相似即の人は、まだ生まれ変わる。この人たちは、方便有余土にもまた生まれる。そしてすべて無明を破り、実相を見る者は、この実報土に生まれることができるのである。

ただ無明惑の数は大変多い。十住・十行・十廻向の三賢と、十地の十聖は、実報土に立脚するが、果報がまだ尽きていないので、なお残りの惑がある。さらに王三昧をもって最後にこれに利益を与え、妙覚位に至って、時間的に究め、空間的に遍くして、不生不滅となる。不生不滅とは、無明惑が永遠に尽き、智慧が完全に満たされることである。このために不生不滅という。また衆生の感が満足され、利益が究竟する。このために不生不滅という。

もし分別して述べれば、実報土は方便の外にある。もし事象的なことにおいて真理を言うならば、必ずしも遠いところにあるのではない。『法華経』に「娑婆世界を観じ見ると、地面が瑠璃であり、ただすべて平らである。あらゆる高い建物や楼台は、あらゆる宝で飾られていて、ただ菩薩たちだけその中にいる」とある。これは実報土のことである。

法華玄義 現代語訳 146

『法華玄義』現代語訳 146

 

○因の利益

因の利益とは、二十五有の修行の利益である。そもそも自分の利益のため、あるいは他人の利益のための因果は、それぞれの意義に従って、両極端をあげて述べれば容易である。しかし、前に述べた果報の利益については、その場所や時節が異なっているので、一人の人物にまとめて利益を語ることは難しい。しかし、修行をする人の利益を明らかにする場合、一人の人を想定して、その一人の人の心に無量のわざが起こるとすれば、その意義は解き明かしやすい。このために、一人の人における場合として、二十五有の修行の因を明らかにする。

二十五有の因の利益とはどのようなものであろうか。二十五有の最初の地獄、餓鬼、畜生、修羅の四つの因は、それが破られれば利益となり、その他の二十一有の因は成就すれば利益となるものである。言い換えれば、二十五有の最初の地獄の因は破られれば利益であり、二十五有の最後の非想非非想処天の因は成就すれば利益であり、その中間の二十三有の因は破られれば利益であるものと、成就すれば利益であるものの二つである。

もし戒律をもって自らを制することなく、その身と口を放縦にして地獄、餓鬼、畜生、修羅の業を作ってしまうならば、地獄の人と名付ける。もし、悪を捨てて戒律を保つならば、天人を見る人と名付ける。最初は戒律を厳しく保っていたとしても、条件が変わって退いてしまうならば、悪業はかえって起こってしまう。あるいは、四つの重い戒律を破り、五つの仏に対する反逆をし、塔寺を焼き滅ぼす。このような心が生じる時、悪が起こり、戒律が消えてしまう。この業が熟すと、必ず悪道に堕ちる。この心を離れて、良き戒律を成就しようとする時、そこに善根が発し、関連付けられ、適宜に働く者となり、聖人は無垢三昧をもってこれに赴き対し応じることを感じる。悪い心は破られ、地獄の因は止んで、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得る。しかし、道場に入って懺悔するとしても、悪い心が破られず、悪業が破られなければ、自分にまとわりついているものは断ち切られず、罪を消滅させることはできない。

もし貪欲であり、人に媚びへつらい、名誉を追い求め、内面に真実の徳がなく、人から称賛されることを願うならば、この悪が起こって戒めが消え、餓鬼の世界に堕ちる。もし懺悔することなく、負債を負っても返さず、敬う心なく、思い上って怒りに満ち、欲深くあるならば、この悪が起こって戒めが消え、畜生の世界に堕ちる。もし人の賢さを妬み、能力を妬み、他人より優れるためという理由のみで福徳の力を修し、蛆虫のような悪しき心をもって相手を引きずり下ろし、他人を驚かせ恐れさせるならば、この悪が起こって戒めが消え、阿修羅の世界に堕ちる。

この三つの悪しき心を離れて良い戒めを成就しようとするならば、善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、良い戒めが完全に備わる。このことを地獄、餓鬼、畜生、修羅の四つの因が壊れ、人天の因が成就し、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得ることと名付ける。これは人の世界での因を修することについて解釈したまでのことである。もし他の世界について述べるならば、地獄を出て畜生の世界に入ろうとし、畜生の世界を出て餓鬼に入ろうとし、餓鬼を出て修羅に入ろうとし(注:餓鬼と畜生の順番が違うが原文のまま訳した)、修羅を出て人の世界に入ろうとするならば、みなそれぞれに因があり、その因が成就して業が転じられる。これは同様に知ることができるであろう。

もし堅く五戒を保ち、同時に仁義を行ない、父母に孝行し従って、信心を持ち、仏を敬い懺悔する心を持つならば、これは人の業となる。人の業に四種ある。上、中、下、下下である。もし果報について述べれば、南閻浮提を下下とする。もし人の世界について述べれば、人の住まいを下下とする。ある時は良心さえなくなり、悪しき念のみが強くなる。善が成就することもあれば、悪が成就することもある。善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、四種の善が成就して、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得させる。

もし十善(不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不貪欲、不瞋恚、不邪見)を修し保ち、自然と絶え間なく善心が成就し熟するならば、これは天の業である。このために「完全に悪しき心で良い念さえ混じることがなければ、悪道の業である。果報の時は苦しみのみである。善と悪が混じり合って起こることは、人の業である。人の中の果報は、苦と楽が混じるためである。十善が自然と成就するのは、天の業である。天の中の果報は、自然と起こるからである」と言われるのである。

もし十善を修し、同時に仏法を守る心を起こすならば、これは四天王の業である。もし十善を修し、同時に慈悲をもって人を教化すれば、三十三天の業である。もし十善を修し、その心の繊細さが自然と成就し、行住坐臥に衆生を悩ますことなく、善が巧みで純粋な状態が継続するならば、これは焔摩天の業である。もし十善を修し、その心の繊細さが自然と成就し、行住坐臥に衆生を悩ますことなく、善が巧みで純粋な状態が継続するならば、これは焔摩天の業である。もし十善を修し、同時に禅定を修して、荒い心や細かい心も共に収めるならば、これは兜率天の業である。欲界定は、化楽天の業である。未到定によって事象的な妨げを破ることは、他化自在天の業である。四禅は色界の業である。慈・悲・喜・捨の四無量心を兼ね、心が動いているままに禅定を得ることは、梵天王の業である。心を滅して無心定を修することは、無想天の業である。

問う:無想天は邪見の天である。どうして聖人の応を引き出す感なのであろうか。

答える:『大集経』に「菩薩は衆生を調伏することにおいて多種である。あるいは邪、あるいは正である。非道を行じて仏道に到達する」とある。あるいは古くから言われることで「聖人は両端の無漏をもって挟んで一つの有漏を練って無漏とする」とある。

ここでは、「九次第定(くしだいじょう・熟練した禅定であり、最初の浅い段階から後の深い段階まで究めることができる)」は有漏に働きかけ無漏とする。これは阿那含天の業である。四空定は無色界の業である。このような二十一有は、自分の世界の苦しみの数々を憂え、そこから出るための修行をしようとするが、求めるものは得られず、捨てようとするものは離れない。その時、善根が発し、関連付けられ、適宜に働くとするのである。二十一有に対する三昧の慈悲の力を感じ、そこから出るための修行をさせ、捨てようとするものを捨てさせ、求めるものを得させる。苦を抜き、楽を与え、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益がある。これは『法華経』に「小さな草、小さな根、小さな茎、小さな枝、小さな葉、これらが成長することができる」とあるようなものである。これがこの利益である。

総合的に述べれば、ただ凡人と聖人の慈悲の善根の力による。個別に述べれば、もともと菩薩が最初から二百五十戒を保ち、根本禅などの禅定を修し、悪を防ぐ善法の中において慈悲を起こし、その慈悲と誓願をもって王三昧に入って衆生を捨てず、関連付けられ、適宜に働き、それに赴き、対し、利益を獲得させることによる。『涅槃経』に「二十五三昧をもって二十五有を破る」とある。

十益の第二の因の利益の意義は概略的には以上である。