大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 147

『法華玄義』現代語訳 147

 

○声聞の利益

声聞の利益とは、もし人が生死にとらわれるならば、死んでさらにこの世に生を受け、さらにまた死んで、それによって精神的に病んで、生まれ変わり死に変わりが際限なく続く。貪欲に覆われ、ヤクが自分の尾を追うように、そこから解き放たれることがない。このために『法華経』に「もし人が苦しみにあい、老病死から離れたいと思うならば、仏はそのために涅槃を説き、あらゆる苦しみを滅ぼし尽くさせる」とある。苦しみから離れたいと決心すれば、出家を求める。そのために、声聞の道を修行するのである。

そして戒律だけを保とうとしても、愛(あい・情緒的な煩悩)や見(けん・知的な煩悩)が、まるで煩悩の大海を渡り切ろうとする者が持つ浮袋を鬼が破るように、その戒律が清らかでなくなる。戒律が清らかでないなら、三昧(さんまい・この場合は禅定を指す)は成就しない。戒律と禅定がなければ、無漏は発しない。このために、一心に戒律と禅定と智慧を修すのである。前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、地獄、餓鬼、畜生、修羅の世界を破る無垢三昧などの四三昧の力が加わり、それらの世界に堕ちないようにさせ、戒律も清浄とさせる。

もし等しく禅定と智慧を修し、智慧に禅定が加われば、智慧は狂うことはない。もし禅定に智慧が加われば、禅定は愚かになることはない。これを賢(けん)と名付ける。賢は聖と隣り合う言葉である。この禅定と智慧を修すならば、頭が燃えていることを救おうとするように一心に精進して、飢え乾いた者が水を求めるように禅定の智慧を願い求めるようになる。しかし、二十一有(注:二十五有から地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣を除いた世界)の有漏の業に乱される。もしあらゆる三昧の力をこれに加えれば、禅定の観心が明確となり、四善根が成就し、煩悩を抑制することが成就する。瞬間的に真実の無漏を発して、須陀洹(しゅだおん・声聞の位の第一)を成就し、二十五有の見諦(けんたい・須陀洹のこと=預流果)の八十八使(はちじゅうはっし・四諦によって断ち切られるべき煩悩を、欲界、色界、無色界の三界すべてで八十八種あるとする)の煩悩を破る。これは、二十五三昧を共通して加え、見諦の煩悩を断じ、また兼ねて四悪趣の思惑を断じる。このために、「第十六心に修道に入る(「位妙」の「中の薬草」を参照)」とあるのは、この意味である。

(注:修行者の利益とは、修行の結果のことであり、それは位のことに通じる。そのため、ここで再び位妙で述べられたことが繰り返されることは当然である。さらにこれもすでに述べられている二十五有を破る二十五三昧の結果が、利益として表現される内容が続く。『法華玄義』の中には、このような理由で、同じことが繰り返し記されることが多い)。

次に修道に入る。もし超果(ちょうか・向と果を順番に上るのではなく飛び越えて進むこと)の人ならば、同時に十種の三昧の力をこれに加えれば、五下分結(ごげぶんけつ・欲界の煩悩の五つの縛りのこと。有身見結(自分の認識を自我だとする煩悩)、戒禁取結(誤った戒律に対する執着)、疑結、欲貪結、瞋恚結)の思惑を破る。もし能力の劣った人ならば、段階的に「思惑」を断じ、段階的に三昧を用いて、三界の煩悩を断じ尽くして真諦三昧の利益を究める。これは中草の利益である。

これを総合的に述べれば、凡人と聖人の慈善根の力による。個別的に述べれば、本来の慈悲による。初めに十法界の析空観による認識対象を滅ぼす善を感じ、それによって四弘誓願を起こし、王三昧を行じ、衆生を捨てず、中草の利益を得る。『涅槃経』に「二十五三昧をもって二十五有を破る」とあることである。以上、十益の中の第三を概略的に述べれば以上である。

○縁覚の利益

もし人が前世からの因縁が深く良いものであるならば、仏のいない世に生まれても、自ら生死を嫌い、一人で静かな良い環境を好み、深く因縁を感じるようになる。『法華経』に「昔、仏を供養し、優れた教えを求める者には縁覚を説く」とある。この人は大きい福徳があって、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き、対し、応じ、自然の道理を通して、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を獲得て、縁覚の道を悟らせる。これはなお中草の利益に属する。

○蔵教の菩薩の利益

四諦を観じ、六波羅蜜を行じる。もし檀那波羅蜜(=布施波羅蜜)を行じても、人から自分の頭、眼、そして国や妻子を求められた時、心が動揺してしまうようならば、檀那波羅蜜は成就しない。そのようなことは悪であると知って、檀那波羅蜜において善を成就しようとするならば、前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働き、三昧の力を受けて、六波羅蜜を妨げるものを除く。これは餓鬼の有を破ることである。妨げがすでに除かれれば、甘露を飲むように喜んで布施をする。そして有為(うい・因縁によって生じている無常な存在)の存在は危うく無常であると知るのである。これは心楽三昧(しんらくざんまい)の目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得ることである。

尸羅波羅蜜(=持戒波羅蜜)が成就すれば、戒律を破る妨げが除かれ、地獄の有を破る。これは無垢三昧の利益である。

忍辱波羅蜜が成就すれば、瞋恚の妨げが除かれ、畜生の有を破る。これは不退三昧の利益である。

禅定波羅蜜が成就すれば、心が乱れる妨げが除かれ、人の有を破る。これは四種(日光、月光、熱炎、如幻)の三昧の利益である。

精進波羅蜜が成就すれば、怠惰の妨げが除かれ、阿修羅の有を破る。これは歓喜三昧の利益である。

般若波羅蜜(=智慧波羅蜜)が成就すれば、愚痴の妨げが除かれ、天の有を破る。これは三界のそれぞれの天に対する十七種類の三昧(注:行妙の二十五三昧の段落参照)の利益である。

六波羅蜜を妨害する六つの妨げは六道の業である。詳しくは『菩薩戒本』に記されている。六道の業を除くために、あらゆる妨げに悩まされることはなく、五神通を得て六道に遊戯(ゆげ)して、六波羅蜜の行を成就する。これは上草の利益である。

共通して述べれば以上の通りである。個別に述べれば、本来の十法界の事象的な善悪を観じて、四弘誓願を起こし、三昧を行じ、衆生を捨てないことである。

○通教の利益

これは三乗の共学の人である。乾慧地・性地・八人地・見地の位においては二十五三昧を用いて利益を得る。薄地から十地に至るまでは、二十一三昧を用いて思惑を破る。また無知を排除する。これは小樹の利益と名付ける。総合的および個別的な慈悲は前に述べたことと同じである。

○別教の利益

これは段階的に修行を進めることにおいて、認識の対象を法界に広げ、法界全体を念じることである。十住に入って真諦三昧の利益を得て、十行・十廻向に入って俗諦三昧の利益を得て、十地に入って中諦三昧の利益を得る。これは大樹の利益である。総合的および個別的な慈悲は前に述べたことと同じである。

○円教の利益

これは三諦が一つであるという真理を修し、認識の対象を法界に広げ、法界全体を念じることである。もし一つ一つの相対的な事象を対象とするならば、足の上げ下げも修行道場でないことはない。この心は一念一念に六波羅蜜と相応する。常行三昧・常坐三昧・半行半坐三昧・非行非坐三昧を修し、十境界(「行妙」の「円教の行」の項目を参照)を観じる。前世からの善根が発し、関連付けられ、適宜に働けば、聖人はそれに赴き対し応じ、瞬時に悟りを開き、あるいは相似即に、あるいは分真即に、目に見える次元や目に見えない次元での両方の利益を得させる。これは完全に二十五三昧を用いて完全に働かせ、二十五有を破り、自我の本性を明らかにして、究竟実事の利益を得るのである。

○変易生死の利益

これは方便有余土(ほうべんゆよど)の人の利益である。前に第一から第八の利益まで述べた中、四つの場所がある。あるいは九つの場所がある。つまり、声聞、縁覚、通教の菩薩、別教の十住・十行・十廻向の三十心、円教の相似即である(注:四つの場所とは、①蔵教の声聞と縁覚、②通教の声聞と縁覚と菩薩、③別教の十住と十行と十廻向の菩薩、④円教の菩薩であり、九つの場所とは、これらを別々にして、蔵教の①声聞と②縁覚、通教の③声聞と④縁覚と⑤菩薩、別教の⑥十住と⑦十行と⑧十廻向の菩薩、⑨円教の菩薩のことである)。ただ見惑と思惑を破っただけで、まだ無明惑を除いていない。無明は無漏に浸透して、方便の生を受けさせるのである。

このために『法華経』に「私は他の国土において仏となり、さらに異なった名前を持っていた。そしてその国土において仏の智慧を求め、この法華経を聞くことができた」とある。これはすなわち、その国土において一乗に入ったことである。『勝鬘経』に「三人は変易の国土に生まれる。つまり、大いなる力のある阿羅漢、辟支仏、菩薩などである」とある。『楞伽経』に「三種の意生身(いしょうしん・意識的にその生を得た身)」とあるのは、第一に安楽法意生身である。これは、二乗の人が涅槃の安楽に入る意義を表わした言葉である。第二に三昧意生身である。これは、通教の人が衆生を教化するために世俗に出て、神通三昧を行なう意義を表わした言葉である。第三に自性意生身である。これは、別教の人が中道を修す自性の意義を表わした言葉である。すべて意という言葉があるのは、安楽法意生身は空の意義であり、三昧意生身は仮の意義であり、自性意生身は中の意義を表わすのである。別教と円教の相似位は、まだ真理を発していないので、みな意識的に行なわれたものである。このために『大智度論』に「この時、意地を過ぎて、智の業の中に住む」とある。もし真理を発するならば、これは智慧の業である。まだ真理を発していなければ、なお意地である。

ここに生じて、析空観の者は能力の劣った者であり、体空観の者は能力の高い者である。別教の人はすでに仮を習っているので、少し能力が高い。円教の人は、最初から即中であるので、最も能力が高い。すでに能力の高い低いの違いがあるので、そこにおいて修学する場合、段階的に進むことと段階を超越して進むことの二つの利益がある。また、段階的に進むことと段階を超越して進むことのぞれぞれに応が用いられる。この九人は、方便有余土に生じ、それぞれの有の自らの本性を見て、最も真実の利益を得るのである。

もし個別的に言えば、方便有余土は三界の外にあるのである。もし事象的なことにおいて真理を言うならば、必ずしも遠いところにあるのではない。『法華経』に「もし深く心に信じ理解するならば、仏は常に耆闍崛山(ぎしゃくつせん・法華経が説かれたとされる山。霊鷲山(りょうじゅせん)ともいう)にいて、大いなる菩薩、声聞などの僧侶に囲まれて説法しているところを見るのである」とある。すなわちこれは方便有余土のことである。

○実報土の利益

これは実報土の人の利益である。前に第一から第八の利益まで述べた中、別教の十住・十行・十廻向の三十心の人と、円教の相似即の人は、まだ生まれ変わる。この人たちは、方便有余土にもまた生まれる。そしてすべて無明を破り、実相を見る者は、この実報土に生まれることができるのである。

ただ無明惑の数は大変多い。十住・十行・十廻向の三賢と、十地の十聖は、実報土に立脚するが、果報がまだ尽きていないので、なお残りの惑がある。さらに王三昧をもって最後にこれに利益を与え、妙覚位に至って、時間的に究め、空間的に遍くして、不生不滅となる。不生不滅とは、無明惑が永遠に尽き、智慧が完全に満たされることである。このために不生不滅という。また衆生の感が満足され、利益が究竟する。このために不生不滅という。

もし分別して述べれば、実報土は方便の外にある。もし事象的なことにおいて真理を言うならば、必ずしも遠いところにあるのではない。『法華経』に「娑婆世界を観じ見ると、地面が瑠璃であり、ただすべて平らである。あらゆる高い建物や楼台は、あらゆる宝で飾られていて、ただ菩薩たちだけその中にいる」とある。これは実報土のことである。