大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 150

『法華玄義』現代語訳 150

 

c.流通の利益について明らかにする

功徳利益妙について述べるにあたっての三つめは、「流通(るつう・教えが広められること)の利益について明らかにする」である。ここにおいて三つの項目を立てる。一つめは、師を出す、二つめは、法を出す、三つめは、利益を出す。

◎師を出す

経典を広める人は、凡人と聖人に通じていなければならない。法身の菩薩は、四弘誓願をもってその身を荘厳としている。この国土や他の国土、下の国土や上の国土に対して、権と実の七益・九益・十益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その法身を助けて、悟りの道を進ませる。

生身の菩薩も、この国土や他の国土に経典を広め、他の者たちに権と実の七益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、その法身を助けて、生死の苦を減らし、しかし、それより上の国土に利益を与えることはできない。

凡夫の師は、またよくこの国土に経典を広め、他の者たちに権と実の七益を得させる。教化の功徳は自分に還って来て、五品弟子位を進ませる。このために『無量義経』に「病の導師がいる。こちら側の岸にいて、船を作って人をあちら側の岸に渡す」とある。これはこの意味である。

問う:凡夫はただ凡夫のために境を広め、凡夫に対して利益を得させるのだろうか。また聖人にも利益を得させるのだろうか。

答える:聖人に二種ある。一つめは小乗の聖人であり、二つめは大乗の聖人である。『法華経』に「もし真実に阿羅漢の位(=小乗)を得て、さらに滅度(めつど・完全な涅槃)を得たいと思って、余仏(よぶつ・説明は後に述べられる)に会えば、そこでそれを究めることができる」とある。南岳慧思は「初依(しょえ・最初の拠りどころとなる師)を余仏と名付ける。無明がまだ破られていないことを余として、よく如来の秘密の蔵を知り、深く円満な理法を悟っていることを仏と名付ける。仏の滅度の後に、真実に阿羅漢の位を得る者は、権と実に対して理解していない。もし初依に会えば、よく悟りを究めて相似即の利益を成就し、さらに進んで分真即の利益に入る」と言っている。この文は、凡夫の師が小乗の聖人のために経典を広めて利益を得させることを証明するのである。『法華経』に「六根清浄の人が教えを説くと、あらゆる方角の諸仏がみなこれを見ることを願い、説法がされている場所に集まって来る。すべての天龍は、この説法を聞いて、みな大いに歓喜する」とある。これもまた、凡夫の師が、偉大なる聖人のために説法することを証明している。

◎法を出す

経典を広めることは、明らかに聖人の言葉による。『法華経』には「もし衆生が信じ受け入れれば、まさに余の深い教えの中において教示し利益を与え喜ばせるべきである」とある。余とは方便を帯びている。「深い」とは中道を明らかにする。方便を帯びて中道を明らかにする教えは別教である。もしただ方便だけで中道を明らかにしなければ、通教と蔵教などである。『法華経』の文では、別教を用いて円教を助けることを認めている。しかし推測すると、またまさに通教を用いて円教を助けるべきである。また『法華経』に「さらに異なった方便をもって、第一義を助け顕わす」とある。どうして蔵教と通教を排除できようか。

ただ菩薩はすでに真実の智慧を得て、また権の意義を得ている。真実の智慧をもって権と混同せず、権は真実だとは言わない。ただ真実だけを広めても、衆生は信じないので、すべて真実のために権を施し、浅い意義をもって深い意義を助けるので、虚妄とはならない。これは権と実を並べて用いて経典を広めることである。『法華経』の「安楽行品」に「もし難問があれば、小乗の教えをもって答えず。ただ大乗をもって解説して、一切種智を得させるのである」とある。これはすなわちただ真実を用いて経典を広めることである。また「適宜に従って教えを説く」とある。これもまた権を排除しないことである。

今の時代の人は、教えを広める際に、あるいは大乗だけを用い、あるいは小乗だけを用いて、みな仏の真実の意義を得ていない。よく経典を広める者は、適宜に教えを与える。口では権を説くとしても、内心は真実の教えから外れていない。ただ衆生に対して権と実の七益を得させればよいのであるから、経典を広めるにあたってこだわりがない。

◎利益を出す

しかし、流通の利益は、『法華経』を序と正宗と流通の三段に分けた中の流通の段落を待たずに、まさにその利益が明らかにされている。正説の文の中で、すでに未来に経典が広められることにおける利益が示されている。『法華経』の「譬喩品」の後半や、「授記品」の末尾や、「法師品」の中に、みな『法華経』を広める功徳利益を明らかにしている。よく如来の滅度の後に、たった一句の偈でさえ聞く者に対して、最高の悟りを得る約束を与えている。ましてや経典を広める人はなおさらである。密かにたった一人に経典を説く者の功徳は多い。ましてや大衆に広く説く者はなおさらである。

法華経』の一句にでも随喜し、それを人に説き、またそれを聞いた人が人に伝えて、それが五十人めに至った随喜の功徳は、なお二乗の境界ではない。ましてや、最初に聞いて随喜する者の功徳はいかばかりであろうか。常不軽菩薩は『法華経』の一句を広めたために、六根清浄を得た。ましてや、経典のすべてを広める者はなおさらである。

五品弟子位の最初の「随喜品」の功徳は、無量億劫に五波羅蜜を行じた功徳を喩えとすることさえできないほど大きい。ましてや、五品すべてはいかばかりであろうか。あらゆる方角の空間に際限がないとしても、五品弟子位の人が経典を広めた功徳はそれよりも際限がない。『法華経』に「如来の室に入り、如来の衣を着て、如来の座に坐る」とある。如来の教えはみな数えることは不可能である。ましてや、八万人の菩薩や千世界の微塵の数ほどの菩薩であっても、説くことは不可能である。しかも知ることも不可能である。ただ如来を除いて、すべて知る者はいない。

凡夫の師が経典を広めることは、凡夫に七益を与える。『法華経』に「この今日は閻浮提の人の病の良薬である。もしこの経典を聞けば、不老不死の者となる」とある。それは、老死の中において、老死の実相を知ることである。老死は果報の法則である。実相を知ることは、清涼(しょうりょう・この世の状況に影響されない理法的な次元を表わす言葉)の理性の妙の利益を得ることである。また果報の利益である。この『法華経』を保つために、安楽な国土に生まれ、蓮華の中にあって、貪欲に悩まされず、また十種の悩乱から離れることができ、菩薩の道を行じることができる。これをまた名字即の利益と名付ける。また観行即の妙である。また因を修す妙である。陀羅尼(だらに・教えを記憶する力)を得て、よく仮から空に入ることは、下・中・上の薬草の利益である。またこれは小樹の利益である。百千旋陀羅尼(ひゃくせんせんだらに・『法華経』の「普賢菩薩勧発品」で説かれる「三陀羅尼」の第二。教えを百千回説くことのできる力。第三が「法音方便陀羅尼」)」を得るのは、大樹の利益である。法音方便陀羅尼を得るのは、相似即の真実の利益である。もし一瞬でも聞くことができれば、即座に最高の悟りを究めることができる。これが真実の利益である。

また次に、人が水を求めて高原を掘り進めて、まだ乾いた土しか見ないのは、下・中・上の薬草の利益である。湿った泥を見るのは、小樹と大樹の利益である。水を得るのは、最実事の利益である。仏の滅度の後の五百年の間ですらこの利益を得る。ましてや、今の時代に『法華経』を広め、他の者を教化する者に、どうして七益がないことがあろうか。