大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その37

法華経』現代語訳と解説 その37

 

妙法蓮華経 法師功徳品 第十九

 

その時に仏は、大いなる常精進菩薩に次のように語られた。

「もし良き男子や良き女子がいて、この『法華経』を受持し、あるいは読誦し、あるいは解説し、あるいは書写したとする。その人は、まさに現世から未来世において(注1)、八百の眼の功徳、千二百の耳の功徳、八百の鼻の功徳、千二百の舌の功徳、八百の身の功徳、千二百の心の功徳を得るであろう。この功徳をもって、あらゆる器官を優れたものとし、清らかにするであろう。

この良き男子や良き女子は、生まれながらの清らかな肉眼をもって、あらゆる世界の内外にある山林や川や海を見ることができ、下は地獄の底から、上は天の最も高い世界に至る、すべての世界のすべての衆生を見、そのすべての業の因縁、そしてその果報の有様を見て、ことごとく知ることができるであろう」。

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「もし大衆の中において 恐れることなく この『法華経』を説くことについての功徳を あなたたちは聞くがよい この人は八百の 功徳ある優れた眼を得るであろう この功徳がその目に満ち溢れるために その目は非常に清らかであろう 生まれたままの眼をもって すべての世界の山々や山林 そして大海や江河の水を見ることができ その範囲は地獄の底から天上界の最も高いところに至る さらにその中にいるすべての衆生を見る まだ天の眼を得てはいないといえども その肉の眼の能力はこのようになる 。

また次に常精進菩薩よ。もし良き男子や良き女子が、この経を受持し、読誦し、解説し、書写したとすれば、彼らは千二百の耳の功徳を得るであろう。この清らかな耳をもって、すべての世界において、下は地獄の底から上は天の最も高いところの、内外のあらゆる言語、音声、象の声、馬の声、牛の声、車の音、泣き叫ぶ声、悲しみ嘆く声、螺(ほらがい)の音、鼓(つづみ)の音、鐘の音、鈴の音、笑う声、語る声、男の声、女の声、童子の声、童女の声、教えの声、教えではない声、苦しみの声、楽しみの声、凡夫の声、聖人の声、喜ぶ声、喜んではいない声、天の声、龍の声、夜叉(やしゃ)の声、乾闥婆(けんだつば)の声、阿修羅(あしゅら)の声、迦楼羅(かるら)の声、緊那羅(きんなら)の声、摩睺羅迦(まごらか)の声、火の音、水の音、風の音、地獄の声、畜生の声、餓鬼の声、僧侶の声、尼僧の声、声聞の声、辟支仏の声、菩薩の声、仏の声を聞くであろう。

つまり、すべての世界の中の内外のあらゆる声を、まだ天の耳を得ていないといっても、生まれつきの清らかな耳をもって、みなことごとく聞いて知ることができるであろう。このようなあらゆる音声を聞き分けたとしても、耳そのものは損なわれることはない」。

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「生まれつきの耳が 汚れのない清らかなものとなり この耳をもって すべての世界の音を聞くことができるであろう 象や馬や車や牛の声 鐘や鈴や螺(ほらがい)や鼓(つづみ)の音 琴や琵琶の音 簫(しょう)や笛の音 清らかな歌の声 これらを聞いても執着は起こさないであろう 無数のあらゆる人の声 聞いてすべて理解するであろう またあらゆる天の声 妙なる歌の声を聞き および男女の声 童子童女の声を聞くであろう 山や川や険しい谷の中の 迦陵頻伽(かりょうびんが)の声 命命(みょうみょう)などのあらゆる鳥の音声を聞くであろう 地獄のあらゆる苦痛 さまざまな痛み苦しみの声 餓鬼が飢渇に苦しめられ 飲食を求める声 あらゆる阿修羅などが 大海のほとりに住んで 互いに話をする時 大きな声を出すことすらも聞くであろう このように『法華経』を説く者は この世にあって 遠くあらゆる世界の衆生の声を聞いても 耳を損なうことはないであろう あらゆる世界の中の 鳥や獣が互いに呼び合う声を 『法華経』を説く者は この世にあってすべてこれを聞くであろう あらゆる梵天のさらに上の天 および天の最も高いところの声も 『法華経』を説く者は すべてこれを聞くであろう すべての僧侶たち およびあらゆる尼僧が この世にあって(注2)経典を読誦し また他の人のために説くその声も 『法華経』を説く者は すべて聞くであろう また多くの菩薩たちが 経典の教えを読誦し また他の人のために説き 人々を集めてその意味を解き明かすそのすべての声を聞くであろう また大いなる聖なる世尊が衆生を教化され あらゆる会衆の中において 妙なる教えを説くその声を この『法華経』を保つ者は そのすべてを聞くであろう すべての世界の内外のあらゆる音声 下は地獄の底から 上は天の最も高いところに至るまで みなその音声を聞いて その耳を損ねることはないであろう その耳の能力が優れているために すべて正しく聞き分けて知ることができるであろう この『法華経』を保つ者は まだ天の耳を得ていないといえども 生まれつきの耳を用いて その功徳はこのようになるであろう 。

また次に常精進菩薩よ。もし良き男子や良き女子が、この経を受持し、読誦し、解説し、書写するとするならば、八百の鼻の功徳を成就するであろう。この清浄の鼻の器官をもって、あらゆるすべての世界の、上下、内外のさまざまな香を嗅ぐことができるであろう。

須曼那華香(しゅまんなけこう)、闍提華香(しゃだいけこう)、末利華香(まつりけこう)、瞻蔔華香(せんぼつけこう)、波羅羅華香(はららけこう)、赤蓮華香(しゃくれんげこう)、青蓮華香(しょうれんげこう)、白蓮華香(びゃくれんげこう)、華樹香(けじゅこう)、果樹香(かじゅこう)、栴檀香(せんだんこう)、沈水香(ぢんすいこう)、多摩羅跋香(たまらばつこう)、多伽羅香(たからこう)、および千万種の和香(わこう)、あるいは粉にしたもの、あるいは丸めたもの、あるいは塗香(ずこう)など、この経を保つ者は、その一箇所に至るまで(注3)よく嗅ぎ分けることができるであろう。

また、衆生の香、象の香、馬の香、牛羊などの香、男の香、女の香、童子の香、童女の香、および草木や林の香を嗅ぎ分けられるであろう。それが近くても遠くても、あらゆる香をすべて嗅ぎ分けることができ、誤ることはないであろう。

この経を保つ者は、そこに座ったままで(注4)、天上のあらゆる天の香を嗅ぐであろう。波利質多羅(はりしったら)、拘鞞陀羅樹香(くびだらじゅこう)、曼陀羅華香(まんだらけこう)、摩訶曼陀羅華香(まかまんだらけこう)、曼殊沙華香(まんじゅしゃげこう)、摩訶曼殊沙華香(まかまんじゅしゃげこう)、栴檀(せんだん)、沈水(ちんすい)、さまざまな抹香、雑華香など、このような天の香やそれらが混ざり合って放つ香など、嗅ぎ分けられないものなどないであろう。また、あらゆる天の体の香を嗅ぐであろう。釈提桓因(しゃくだいかんにん)が、立派な御殿の上で、五欲を楽しみ遊戯をしている時の香、あるいは妙法堂(みょうほうどう・注5)の上で、忉利天(とうりてん)のあらゆる天的存在のために説法をする時の香、あるいは、あらゆる園において遊戯する時の香、および他の天の男女の体の香など、みなすべて遠くにあって嗅ぐであろう。

このように順次昇って行き、梵天に至り、天の最も上にいるあらゆる天的存在の体の香や、それらが焚く香も嗅ぐことができるであろう。

および声聞の香、辟支仏の香、菩薩の香、諸仏の体の香なども、みな遠くにあって嗅ぐことができ、その所在も知るであろう。これらの香を嗅いでも、鼻の器官は損なわれることはない。もし他の人々にこのことを説いたとしても、正しく記憶しているため、誤ることはないであろう」。

その時に世尊は、再びこの内容を語ろうと、偈の形をもって次のように語られた。

「この人は鼻が清らかであり この世にどのような匂いがあろうとも(注6) 香ばしい香りや臭い臭いなどを すべて嗅ぎ分けることができるであろう 須曼那闍提(しゅまんなしゃだい) 多摩羅栴檀(たまらせんだい) 沈水(ちんすい)および桂(かつら)の香 あらゆる花や果実の香 および衆生の香 男子や女子の香を知るであろう 

説法者は遠くにあっても 香によってその所在を知るであろう 力ある転輪聖王や小転輪およびその子 群臣や多くの宮人たちの香によってその所在を知るであろう 彼らの身に着けている珍宝 および地中にある宝蔵 転輪聖王の宝女などの香によってその所在を知るであろう 多くの者の身の装飾品や衣服および瓔珞や あらゆる塗られた香など 嗅いでその者が誰であるかを知るであろう 多くの天的存在が 進んだり座ったり または遊戯または神変する様子を この『法華経』を保つ者は その香を嗅いですべて正しく知るであろう 

多くの花や果実 および蘇油(そゆ・注7)の香気などを この経を保つ者は あらゆる土地の匂いを嗅いで(注8) すべてその所在を知るであろう 多くの山の深く険しい場所にある 栴檀樹(せんだんじゅ)の花が開くあり様を 衆生の中にありながら その香を嗅いで正しく知るであろう 

鉄囲山(てっちせん)や大海や地中の多くの衆生も この経典を保つ者はその香を嗅いで すべて正しくその所在を知るであろう 

阿修羅の男女 およびその多くの従者たちが 闘争し遊戯する時の香を嗅いで すべて正しく知るであろう 荒野の険しい場所で 師子や象や虎や狼 野牛や水牛などの香を嗅いで所在を知るであろう 

もし懐妊した者がいたとして その子が男であるか女であるか または生きているが死んでいるかなども その香を嗅いで正しく知るであろう その香を嗅ぐ力をもって 初めて懐妊して 無事生まれるか生まれないか 楽に産めるかどうかも知るであろう 香を嗅ぐ力をもって 男女の所念 欲望や怒りの心を知り また善を行なう者を知るであろう 

地中に埋められた宝 金銀などの珍宝 銅器などがある所 その香を嗅いで正しく知るであろう あらゆる瓔珞の価値がわからない状態であっても その香を嗅いで その価値があるかないか どこで作られたのか およびその所在を知るであろう 

天上の多くの花である曼陀曼殊沙(まんだまんじゅしゃ)や 波利質多樹(はりしったじゅ)の香を嗅いですべて正しく知るであろう 天上の多くの宮殿の 上中下の違いや 多くの宝の花が厳かに飾られている香を嗅いで すべて正しく知るであろう 天の園林や優れた宮殿 多くの高殿や妙法堂 またその中にあって娯楽する その香を嗅いですべて正しく知るであろう 多くの天的存在たちが 教えを聞いたり 五欲を受けたりする時 または行住坐臥する時の香を嗅いで すべて正しく知るであろう 天女が着ている衣が 良い花の香をもって厳かに飾られ 飛び回って遊戯する時の香を嗅いで すべて正しく知るであろう

このように順次昇って 梵天に至るまでの禅定に入った者出た者の香を嗅いで すべて正しく知るであろう 光や音が遍く清らかな天から 天の最も高い天に至るまでの 初めて天に生まれた者や 再び人間界に落ちてしまう者などの香を嗅いで すべて正しく知るであろう

多くの僧侶たちが 教えにおいて常に精進し 立ったり歩いたり および経典の教えを読誦し あるいは林樹の下にあって 座禅に専念したりする香を 『法華経』を保つ者は嗅いで すべてその所在を知るであろう 

菩薩の志が堅固であり 坐禅したり経典を読んだり あるいは人に説法する香を嗅いで すべて正しく知るであろう 

あらゆる方角の世尊が すべての人々に敬われ 人々を憐れんで説法する香を嗅いで すべて正しく知るであろう 衆生が仏の前にあって 経典を聞いてみな喜び 教えの通りに修行する香を嗅いで すべて正しく知るであろう 

この『法華経』を保つ者は 菩薩の煩悩を断ち切った鼻を得ていなくても まずその鼻の形を得るであろう 。

 

注1・「現世から未来世において」 この語は訳者の追加である。この「法師功徳品」には、もちろん他の箇所でもそうであったが、測り知れないほどの功徳を得る、ということが記されているが、とてもこのようなことは、ただ現世で受けることは不可能である。しかし、これも測り知れないほどの長さである多くの未来世においては、じゅうぶん受けることは可能である。

注2・漢訳では、経典を読誦し、解説する声を、この世にあってすべて聞く、となっているが、サンスクリットからの直訳によると、この世にあって経典を読誦し、解説する声をすべて聞くとなっており、この後者の解釈によって訳した。

注3・「その一箇所に至るまで」 漢訳では、この箇所は「この世にあって」となっているが、これもサンスクリットからの直訳によると、「その一箇所に至るまで」となっており、この後者の解釈によって訳した。

注4・「そこに座ったままで」 漢訳では、この箇所は「この世にあって」となっているが、これもサンスクリットからの直訳によると、「そこに座ったままで」となっている。すなわち、天に昇らなくても、天上のあらゆる天の香を嗅ぐということであり、この後者の解釈によって訳した。

注5・「妙法堂」 天にあって天的存在たちが集まって論議する場所。

注6・「この世にどのような匂いがあろうとも」 漢訳では、この箇所は「この世にあって」となっているが、これもサンスクリットからの直訳によると、「この世にどのような匂いがあろうとも」となっており、この後者の解釈によって訳した。

注7・「蘇油」 宗教的儀式に使用する油。

注8・「あらゆる土地の匂いを嗅いで」 漢訳では、この箇所は「この世にあって」となっているが、これもサンスクリットからの直訳によると、「あらゆる土地の匂いを嗅いで」となっており、この後者の解釈によって訳した。

『法華経』現代語訳と解説 その36

法華経』現代語訳と解説 その36

 

妙法蓮華経 随喜功徳品 第十八

 

その時に大いなる弥勒菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。もし良き男子や良き女子がいて、この『法華経』を聞いて随喜するならば、どのような福を受けるのでしょうか」。

さらに偈の形をもって次のように申し上げた。

「世尊よ 仏の滅度の後に この経を聞いて随喜する者は どのような福を受けるのでしょうか」

その時に仏は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「阿逸多よ。如来の滅度の後に、もし僧侶や尼僧や男女の在家信者、および他の智者であっても年配者であっても若者であっても、この経を聞いて、喜んで教えの場から出て、それぞれの場所に行ったとする。そして、僧坊あるいは寂しい場所、もしくは城壁の中の町、港、集落、農村などで、聞いた通りに父・母・親族・善友・指導者のために、その者の能力に従って説いたとする。この聞いた人たちが、やはり喜んで、同じように他のところで教えたとする。さらに、また聞いた人たちが喜んで、同じように他のところで教えたとする。このように、教えが伝えられて、そのようなことが五十回繰り返されたとしよう。

阿逸多よ。この五十回目の良き男子や良き女子が喜んだ時の功徳を、今、私は説こう。あなたはまさに知るべきである。もし数えきれないほどの世界のすべての衆生は、卵から生まれたり、母胎から生まれたり、湿ったところからわき出たり、突然と生まれたり、もしくは、形があり、形がなく、想念が盛んであったり、想念がなかったり、想念が静かだったり、想念のあるなしを超越していたり、足がなかったり、二足だったり四足だったり多足だったり、このようなすべての衆生に対して、ある人が福を求めて、それぞれの願うところに従って、楽しむことのできるあらゆる物を与えたとする。その各々の衆生に対して、地上に満ちる金、銀、瑠璃や珊瑚や琥珀、真珠などの妙なる珍宝、および象馬、車、七宝によって作られた宮殿や楼閣などを与えたとする。この大いなる施しをする人は、このように布施を続けて八十年を経て、次のように思った。「私はすでに、あらゆる衆生に、その願いに応じた楽しむ物を施して来た。しかし、彼らはすでに八十年が過ぎて年老い、髪白く顔にしわを刻んで、まさに死ぬ時までは長くない。私はまさに仏の教えをもって、彼らを導こう」。すなわち、このすべての衆生を集めて教えを述べ伝え、教えを示して導き、一度にさまざまな悟りの境地を得させ、あらゆる煩悩を消し、深い禅定において自由な境地を得させ、あらゆる解脱を身に着けさせたとしよう。

そこであなたはどのように思うか。この大いなる施しをする者が得る功徳は多いだろうか、少ないであろうか。」

弥勒菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この人の功徳は非常に多く、無量無辺です。この施しをする者が、ただ単にすべての楽しむべき物を施しただけでも、その功徳は無量です。ましてや、悟りの境地を得させるのですから、なおさらです。」

仏は、弥勒菩薩に次のように語られた。

「私は今、あなたに明らかに語る。この人は、すべての楽しむべき物をもって、数えきれないほどの世界のあらゆる衆生に施しをして、さらに悟りの境地を得させた。その得るところの功徳は、この五十回目の人が、『法華経』の一偈を聞いて随喜する功徳には届かないのだ。その百分の一、千分の一、百千万億分の一にも及ばないのだ。さらにどのような算術をしても、知ることはできないのだ。

阿逸多よ。このように五十回目の人が『法華経』を聞いて随喜する功徳は、とても測り知れないのだ。ましてや、『法華経』が最初に説かれる会衆の中において、それを聞いて随喜する者はなおさらである。その福はこれに増して、とても比べることなどできないのだ。

また阿逸多よ。もしある人が、この経を聞くために僧坊に行き、座ったり、立ったりして、少しでも聞いたとする。この功徳によって、この人が生まれ変わったならば、最上の妙なる象馬、車、珍宝の輿(こし)を得て、天宮に上るであろう。もしまたある人が、『法華経』が説かれる場所に座っていたとする。さらに後から人が来て、その人に勧めて座らせて聞かせたり、あるいは自分の座を分けて座らせたりしたとする。この人はその功徳によって、生まれ変わったならば、帝釈天の座る場所、もしくは梵天王の座る場所、もしくは転輪聖王の座る場所を得るであろう。

阿逸多よ。もしまたある人がいて、他の人に「『法華経』という経典がある。行って共に聞こう。少しでも、その教えを聞こうではないか」と言ったとする。この人はその功徳によって、生まれ変わったならば、陀羅尼菩薩(だらにぼさつ)と同じところに生まれるであろう。能力はすぐれ、智慧を得るであろう。百千万回生まれ変わっても、耳が聞こえないことや言葉を話せないことにならない。口の息は臭くなく、舌は常に病気がなく、口にもまた病気はないであろう。歯は黒くなく、黄色くなく、疎けることはなく、欠け落ちることなく、かみ合わせが悪くなく、曲ることはなく、唇は垂れ下がらず、またすぼまることなく、ざらつかず、できものがなく、欠けることなく、曲がることなく、厚くなく、大きくなく、また黒くなく、見た目の悪いところもないであろう。鼻は偏平でなく、また曲がることなく、顔は黒くなく、細長くなく、曲がっていることなく、すべて願わしくないところはないであろう。唇も舌も犬歯や歯も、みな厳かに美しいであろう。鼻は長く高くまっすぐであり、顔つきは円満であり、眉は高く長く、額は広く平たく、良い人相がそなわっているであろう。生まれ変わる世ごとに、仏に出会い、教えを聞いて、教えを信じ保つであろう。

阿逸多よ。あなたはこのことを心に刻むがよい。一人に勧めて、教えを聞かせる功徳はこのようなものである。ましてや、一心に聞いて説いて読誦し、さらに大衆に向かって、人のためにわかりやすく解説して、自らも教えによって修行する者はなおさらである」。

その時に世尊は、再びこのことを述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「もし人が法会において この経典を聞く機会を得て たとえ一偈においても 喜び 他の人にも説いたとする そしてこのようなことが五十回続いたとする その五十回目の人がどのような福を得るか 今ここに述べよう 

大いに布施する人がいて 数えきれないほどの衆生に施しをして 思いのままに行ない八十歳になった 彼は髪の毛も白くなり 顔には皺が寄り 歯が抜けて体も痩せてきたのを見て 『死はさほど遠くはないであろう 私は今まさに教えを説き 仏の道に導こう』と思い 方便を用いて涅槃についての真実の教を説いた 『この世はみな水に浮く泡や炎のように 常に定かではない あなたたちはまさに この世を嫌って離れる心を起こすべきである』 多くの人はこの教えを聞いて みな煩悩を離れた阿羅漢の位を得 あらゆる神通力とさまざまな 解脱を身につけた 

しかし『法華経』の一偈でも聞いて喜んだ その五十番目の人の福は 実はこの大いなる布施をした人の福より 比喩や言葉にできないほど優れているのだ ましてや法会において 最初に『法華経』を聞いて喜んだ人の福は言うまでもない 

もしある人が他の人に 『この経は深く妙なる教えである 千万劫においても聞くことはまれだ』と言い、言われた人が行って『法華経』を一瞬でも聞いたとする その勧めた人の果報の福を 今まさに説こう

その人は何度生まれ変わっても 口の病気はなく 歯は黒くなく黄色くなく 唇は垂れ下がらず欠けることなく 悪しき形もないであろう 舌は適度に乾き 黒かったり短かったりしない 鼻は高くまっすぐであろう 額は広く平らであり 顔立ちは端麗であり 人が見たいと願うほどであろう 口の息も臭くなく 天の花の香りが 常にその口からただようであろう 

もしある人が僧坊に行き 『法華経』を聞こうと願い 一瞬でも聞いて喜んだとする 今まさにこの福を説こう その人は後に天人の中に生れて 妙なる象や馬や車 珍宝の輿(こし)を得 さらに天の宮殿に上るであろう

もしこの経典の講義の場所において 人に勧めて座らせて聞かせたとするならば この福の因縁をもって 帝釈天梵天転輪聖王の座に着くであろう 

ましてや一心に聞き その深い教えを解説し 教えの通りに行なう者はなおさらであり その福は無限である」

守護国家論 現代語訳 09

守護国家論 現代語訳 09

 

第四章

 

全体を七門に分けた第四として、謗法の者を対治すべきである証拠の文を出すならば、これを二節に分ける。一節は、仏法は国王大臣ならびに僧侶や尼僧や男女の在家信者に委ねるべきことを明らかにし、二節は、まさしく謗法の人が王の治める国にいるならば、必ず対治すべきである証拠の文を明らかにする。

 

第四章 第一節

 

仏法は、国王大臣ならびに僧侶や尼僧や男女の在家信者に委ねるべきことを明らかにする。

『仁王経』には、「仏は波斯匿王(はしのくおう・歴史的釈迦の在世に、中インドを支配していたコーサラ国の王。息子の祇陀太子(ぎだたいし)は、祇園精舎のために土地を寄進し、娘の勝鬘夫人(しょうまんぶにん)は『勝鬘経』の主人公とされた)に次のように語られた。『(仏法は)あらゆる国王に委ね、僧侶や尼僧や男女の在家信者には委ねない。なぜなら、彼らは王のような威力はないからである。(中略)この経の三宝をあらゆる国王と僧侶や尼僧や男女の在家信者に委ねる』」とある。『大集経』第二十八巻には、「ある国王がいて、私の法が滅びようとしているのを見て、それを見捨てて擁護しなければ、無量の三世において布施・持戒智慧を修しても、それらはすべてみな滅び失せ、その国に三種の不祥事が起るであろう。そして命終われば大地獄に生じるであろう」とある。

『仁王経』の文によれば、仏法をまず国王に委ね、次に僧侶や尼僧や男女の在家信者に及ぼすべきである。王位にある君主、国を治める家臣は、何よりも仏法によって国を治めるべきである。『大集経』の文によれば、王や家臣たちが、たとい仏道のために無量劫の間、頭や目などを施すまでに布施を行ない、八万の戒律を守り修行をし、無量の仏法を学んだとしても、国に広まる誤った教えを改めなければ、国中に大風・旱魃・大雨の三大災害が起こり、万民は逃亡せざるを得なくなり、王や家臣は必ず三悪道に堕ちることになる。また、釈迦の入滅の場所である沙羅双樹の最後の説法である『涅槃経』第三巻には、「今、正法をもって諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・男女の在家信者に委ねる。(中略)法を守護しない者は、禿居士と呼ぶ」とある。また、「善き男子が正法を護持しようとする場合、五戒を受けず、修行をしなくても、まさに刀剣や弓や槍を持つべきである」とある。また、「五戒を受けなくても、正法を護ることを大乗という。正法を護る者はまさに刀剣や棒を持つべきである」とある。

法華経』以前の四十余年の内に説かれた『梵網経』などにある戒律によれば、国王・大臣・民たちは、すべて刀杖・弓・矛・斧などの戦いのための武器を用意することはできない。もしこれを用意する者は、必ず今生のこの世においては、国王の位、比丘比丘尼の位を失い、後生においては、三悪道の中に堕ちると定めている。しかし今の世は、道俗を選ばず、弓・刀・棒を持っている。『梵網経』の文の通りならば、必ず三悪道に堕ちることは疑いない者である。したがって、『涅槃経』の文がなかったならば、彼らはどのように救われるのであろうか。また、先に引用した『涅槃経』の前後の文には、弓・刀・棒を用いて悪法の比丘を改めさせ、正法の比丘を守護する者は、過去世の四重・五逆の罪を滅ぼして、必ず無上道を証するであろうと定めている。

また、『金光明最勝王経』第六巻には、「ある王がいて、その王の国土にこの経典があるとしても、未だかつて広めることをせず、煩悩を捨離する心を生じるために教えを聞くことを願わず、また供養し尊重し讃歎せず、僧侶や尼僧や男女の在家信者も、経典を持つ人を見てもまた、尊重し供養することをせず、ついには、私たち(注:四天王のこと)や無量の眷属の諸天から、その非常に深い妙法を聞くことをせず、仏法の甘露の味に背き、正法の流れを失い、仏の威光および勢力がなくなるようにし、悪趣を増長させ、人天を減らし、生死の川に堕ちて涅槃の路に背くとしましょう。世尊よ。私たち四天王ならびに多くの眷属および薬叉たちは、このようなことを見て、その国土を捨てて、これ以上守護する心を失うでしょう。ただ私たちがこの王を捨て去るだけではありません。また、無量の国土を守護する諸天善神がいたとしても、すべて捨て去るでしょう。このように捨て去ってしまえば、その国はまさに、あらゆる災害が起こって、国の位を喪失するでしょう。すべて人々には善い心もないでしょう。ただ、捕縛したり殺害したり争ったりすることのみあって、互いに讒言し合って、法を曲げて無実の人に罪をきせるでしょう。そして、疫病が流行して、彗星が数多く出て、太陽が二つ並んで現われ、日食や月食が起こり暗闇となり、黒白の二つの虹が出て不祥の相を表わし、星が流れて地震があり、井戸の中から音が発生し、季節に関係なく暴雨悪風が起こり、常に飢饉にあい、苗も実も成長せず、多く他方の怨賊が起こって国内を侵略し、人民はあらゆる苦悩を受け、安らぎのある場所などなくなるでしょう」とある。

この経文を見ると、世間の安穏を祈っても、国に三つの災害が起こるならば、悪法が流布しているためである。そして今の世でも、国土の安穏が多く祈られているといっても、去る正嘉元年には大地震があり、同二年に大暴風雨によって苗や実が失われた。これは必ず国を滅ぼす悪法がこの国にあるためと考えられるのである。

選択本願念仏集』のある段で、「第一に読誦雑行とは、上の『観無量寿経』などの往生浄土の経を除いた他の経、大小顕密の諸経において受持読誦することをすべて読誦雑行という」と記した後、「次にこの二つの行の得失を判断すれば、法華・真言などの雑行は失であり、浄土の三部経は得である」と記している。次に、善導和尚の『往生礼讃』の十即十生・百即百生・千中無一の文を引用して記し、「私的に解釈すれば、この文を見ると、いよいよ雑行を捨てて、もっぱら正行を修すべきことがわかる。どうして、百即百生の専修正行を捨てて、千中無一の雑修雑行に固執することがあろうか。行者はよくこのことを考えよ」とある。これらの文を見れば、世間の道俗は、どうして諸経を信じることができるだろうか。

次にまた、『法華経』などの雑行と、念仏の正行との勝劣難易を定めて、「一には勝劣の義、二には難易の義である。初めに勝劣の義とは、念仏は勝れており、他の行は劣っている。次に難易の義とは、念仏は修し易く、諸行は修し難い」と記している。また次に、法華・真言などの失を定めて、「このために次のことを知ることができる。諸行は人の能力に合わず時を失う。念仏往生のみ、人の能力に合っており時を得る」と述べている。

次にまた、法華・真言などの雑行の門を閉じて、「随他(ずいた・随他意のこと。導くべき人に合わせて教えを説くこと)においては、しばらく定心(じょうしん・精神統一がなされている心の状態)を勧め、散心(さんじん・心が散乱している状態)を退ける教えの門を開くといっても、随自(ずいじ・随自意のこと。求められるわけではなく、仏自らの悟りの表現として語る教えのこと)においては、かえって定心と散心の門を閉じる。一度開いて、その後、永遠に閉じることがないのは、ただ念仏の一門である」とある(注:つまり念仏は、定心も散心も関係なく修すことができるという意味)。

そして、最後の結論として、「速やかに生死を離れようと願うならば、二種の優れた教えのうち、聖道門は置いて浄土門を選び、浄土門に入ろうとするならば、正行と雑行の二行のうち、諸の雑行を捨ててまさに正行を選んで帰依すべきである」とある。

門弟たちは、この書を日本六十余州に広く伝え、その門人たちは世間の無智の者に、「上人は智慧第一の身であり、この書を著わして真実の義を定め、法華・真言の門には、閉じて後に開くという文はなく、捨てて後にかえって取るという文はない」と語っているために、世間の道俗は一同に頭を垂れて信じ、その義を詳しく知ろうとする者には、仮字をもって『選択本願念仏集』の内容を述べ、あるいは、法然上人の物語を記し、法華・真言を非難し、去年の暦のようだとか、祖父の履物のようだと言い、あるいは『法華経』を読むことは、管楽器より劣っていると言っている。

このような悪書が国中に充満するために、国に法華・真言があるといっても、人々はこれを聴聞しようとは願わず、たまたま行じる人があっても、その人を尊重しようとする気持ちを生ぜず、一向念仏者は、法華などと結縁すれば往生の障りとなると言って、それらを捨離しようとする心を生じさせている。したがって、諸天も妙法を聞くことができず、仏法の教えを受けることができなければ、その天の威光勢力はなくなるのみであり、四天王ならびに眷属たちはこの国を捨て、日本国守護の善神も捨離してしまった。このために、正嘉元年に大地震があり、同二年に春の大雨によって苗が失われ、夏の大旱魃によって草木が枯れ、秋の大風によって果実が失われ、飢渇がたちまち起こって万民が逃亡することは、『金光明最勝王経』の文の通りである。これがどうして、『選択本願念仏集』のせいでないことがあろうか。この仏の言葉が正しいために、悪法の流布によってすでに国に三つの災いが起こったのである。しかし、この悪しき教義を対治しなければ、仏の所説の三悪を逃れることができるだろうか。

このようなことで、私は近年より「我不愛身命但惜無上道」の文によって、教えのために命を捨てた雪山童子や、迷える衆生のために常に嘆いていた常啼菩薩の心を起こし、命を大乗の流布に投げ打って、強い言葉で、『選択本願念仏集』を信じて後世を願う人は無間地獄に堕ちるであろうと言ったのである。

その時、法然上人の門弟たちは、上に記した『選択本願念仏集』の悪義を隠し、あるいは、あらゆる行による往生の教えを立て、あるいは、『選択本願念仏集』では、法華・真言を非難してはいないと言い、あるいは、在家信者たちに、『選択本願念仏集』の邪義を知られないように妄語を語って、日蓮は念仏を称える人は三悪道に堕ちると言っていると言う。

問う:法然上人の門弟たちが、あらゆる行による往生の教えを立てることは、誤りなのか。

答える:法然上人の門弟と称して、あらゆる行による往生の教えを立てる者は、逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ・極端な禁欲や唯心論を説いた外道)の者である。今の世でも、あらゆる行による往生の教えを立てている。しかし、内心は一向に念仏往生の教義を持ち、外には他の行も非難はしていないと主張している。この教義を立てる者は、『選択本願念仏集』の中で法華・真言を非難し、捨閉閣抛・群賊・邪見・悪見・邪雑人・千中無一などと述べている言葉を見ていないのだろうか。

 

第四章 第二節

 

まさしく謗法の人が王の治める国にいるならば、必ず対治すべきである証拠の文を明らかにする。

『涅槃経』第三巻には、「怠慢であり、戒律を破り、正法を侮る者に対しては、国王・大臣・僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、まさに厳しく対処しなければならない。善き男子よ。このように行なう国王および僧侶や尼僧や男女の在家信者たちに罪があるだろうか。いいえ、ありません、世尊よ。善き男子よ。この国王および僧侶や尼僧や男女の在家信者たちに罪はないのだ」とある。また第十二巻には、「私の過去世を思い出すと次の通りである。この地で仙予という大国の王となった。大乗経典を愛し念じ尊重し、その心は純善であり麁粗悪・嫉妬・物惜しみなどはなかった。(中略)善き男子よ。私はその時、大乗を重んじていた。婆羅門が大乗を誹謗するのを聞き、すぐに彼らの命を断った。善き男子よ。しかしそのような因縁があったにもかかわらず、地獄には堕ちなかったのである」

問う:『梵網経』の文を見ると、僧侶や尼僧や男女の在家信者を誹謗することは、波羅夷罪(はらいざい・教団追放となる最も重い罪)である。したがって、法然源空が謗法を犯していると明らかにすることは、どうして阿鼻地獄に堕ちる業でないことがあろうか。

答える:『涅槃経』には、「迦葉菩薩が世尊に申し上げた。如来よ、どうして善星比丘は阿鼻地獄に堕ちるだろうと予言されたのでしょうか。善き男子よ。善星比丘には多くの眷属がいた。みな善星比丘は阿羅漢であり、悟りを得たと思っていた。しかし、私は彼が悪しき邪心があることを明らかにするために、善星比丘は放逸の罪のために地獄に堕ちると予言したのだ」とある。

この文の「放逸」とは謗法のことである。源空法然もまた、その善星比丘のように、謗法の罪によって無間地獄に堕ちるであろう。その教化された者たちは、その邪義を知らないために、源空法然を一切智の人と称し、あるいは、勢至菩薩または善導の化身だと言っている。私はその悪しき邪心を明らかにするために、謗法の根源を表わしているのである。『梵網経』の説は、謗法の者以外の僧侶や尼僧や男女の在家信者に対するものである。仏は訓戒して、「謗法の人を見てその過失を明らかにしなければ仏弟子ではない」と語られた。このために、『涅槃経』には、「私は涅槃の後、その方面に、教えに従って戒律を守る僧がいて、威儀を具足して正法を護持しているならば、法を破る者を見るならば、すぐに追放し、呵責し、懲らしめて改めさせよ。まさに知るべきである。この人は測り知れないほどの無量の福を得るのである」とある。また、「もし善い僧侶がいて、法を破る者を見ても、呵責も追放も罪を挙げることもしなければ、まさに知るべきである。その人は仏法の中の怨敵である。もしよく追放し呵責し罪を挙げるならば、それは私の弟子であって真実の声聞である」とある。

私は、仏の弟子の一分に入ろうとするために、この書を著わして謗法の罪を明らかにし、世間に流布させるのである。願はくは十方の仏陀がこの書に力をそえられ、大悪法の流布を止め、一切衆生を謗法から救われることを。

守護国家論 現代語訳 08

守護国家論 現代語訳 08

 

ただし『往生要集』は、序文を見る時は法華・真言を顕密の内に入れて、ほとんど末代の人々に相応しくないと記されているようだが、本文に入って委細に一部三巻の全体を見れば、第十の問答料簡の中で、まさしくあらゆる修行の勝劣を定める時、『観仏三昧経』・『般舟三昧経』・『十住毘婆沙論』・『宝積経』・『大集経』などの『法華経』以前の経論を引いて、すべての行に対して念仏三昧をもって王三昧(おうざんまい・最高の瞑想という意味)と定めている。そして最後に一つの問答があり、そこでは、『法華経』以前の禅定念仏三昧は、『法華経』の一念信解に百千万億倍劣ると定めている。また問いを通じて、念仏三昧がすべての行に勝るというのは、『法華経』以前の範囲のことであるとする。

これによって知るべきである。慧心僧都の意趣は、『往生要集』を著わすことによって、末代の能力の劣った人々を調えて『法華経』に導くためである。たとえば、仏が四十余年の間に説いた経典をもって、仮の教えにふさわしい人々を調えて、真実の教えである『法華経』に導かれたようなものである。そのために、最後に『一乗要決』を著わしているのである。その序に、「諸乗の権実については、昔からの論争の焦点となっている。共に経論によって互いに是非を主張している。私は、寛弘丙午の年の冬十月に、病の中で嘆いて言った。仏法に会うといっても、仏の意趣を理解していない。もし最後まで手を空しくしてしまえば、後悔しても及ばないことである。ここに経論の文義、賢哲の章疏、あるいは人に尋ね、あるいは自ら思惟選択して、完全に自宗・他宗の偏りを捨てて、もっぱら権智・実智の深奥を探れば、ついに一乗は真実の理法であり、五乗(ごじょう・人乗、天乗、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗のこと。乗とは、その教えや修行を指す)は方便の説であることを理解したのである。すでに今生の迷いを開くことができた。どうして人生の夕べの死に恨みを残すだろうか」とある。この序の意趣は偏に慧心僧都の本意を表わしている。自宗・他宗の偏りを捨てる時、浄土の法門を捨てたのではないか。一乗は真実の理法であることを理解する時、もっぱら『法華経』によるのではないか。

源信僧都は、永観二年甲申の冬十一月に『往生要集』を著わして、寛弘丙午の冬十月に、『一乗要決』を著わしている。その間は二十余年である。つまり、権を先にして実を後にしたのである。それは仏と同じであり、また竜樹・天親・天台大師と同じである。法然源空の弟子たちは、『往生要集』を頼りとして、師の謗法の誤りを救おうとするが、そもそも教義が同じなのではない。教義が同じであるために、一つに集めたというならば、どのような教義が同じなのか。『華厳経』は、二乗界を分けるために、十界互具(じっかいごぐ・衆生が転生するすべての世界は、互いに具え合っているという教義)は説かない。「方等経」・『般若経』の諸経もまた、十界互具を説いていない。『観無量寿経』などの極楽往生を説く経典もまた、方便の往生である。成仏・往生共に、『法華経』のような往生ではない。みな長い時を経た後に成仏するための仏縁を結ぶ往生・成仏である。その上、慧心僧都源信の意趣は、普段の生活の行住坐臥において行じやすいために念仏を易行といい、普段の生活の行住坐臥においては行じ難いために『法華経』を難行とするところにある、とするならば、それは天台大師・妙楽大師の解釈を破る人ということになってしまう。なぜなら妙楽大師は、末代の能力の劣った者・無智の者たちでも『法華経』を行じるならば、普賢菩薩ならびに多宝仏・十方の諸仏を見ることができるので、『法華経』は易行であると定めて、「禅定や三昧に入らなくても、散心のままで法華を読誦し、座ったり立ったり歩いたりしながらでも、一心に法華の文字を念ぜよ」と述べている。

この解釈の意趣は、末代の能力の劣った者を助けるためである。「散心」とは定心に対する語である。「法華を読誦し」とは、『法華経』の八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目・一心一念随喜の者、そして五十展転などである。「座ったり立ったり歩いたり」とは、行住坐臥を否定しない。「一心」とは禅定の一心でもなく、理法の一心でもなく、散心の中の一心である。「法華を念じる」とは、この経は諸経の文字とは同じではなく、一字を読誦しても八万宝蔵の文字を含み、そこに一切諸仏の功徳が納まっているのである。天台大師は、『法華玄義』第八巻に、「手に経巻を取らなくても、常にこの経を読み、口に言葉の音声がなくても、遍く多くの経典を読誦したことになり、仏が説法していなくても、常に勝れた音声を聞き、心に思惟しなくても、普く法界を照らす」とある。この文の意味は、手に『法華経』一部八巻を取らなくても、この経を信ずる人は、昼夜十二時間の持経者である。口に読経の声がなくても、『法華経』を信ずる者は日々時々念々に一切経を読む者である。仏の入滅後、すでに二千余年が経過していても、『法華経』を信ずる者のもとには仏の声が留まっていて、時々刻々念々に、仏の寿命が久遠であることを聞かせるのである。心に一念三千を観じなくても、遍く十方法界を照らす者である。これらの徳は偏に『法華経』を行じる者に備わっているのである。このために、『法華経』を信ずる者は、たとい臨終の時、心に仏を念じることがなく、口に経を読誦せず、道場に入らずとも、観心することなく法界を照らし、読誦の声なくても一切経を読誦し、経巻を取らなくても『法華経』八巻を取る徳があるのである。

これこそ、権教の念仏者が臨終の時の正念のために、十念の念仏を唱えることを願うことに、百千万倍勝る易行でなくて何であろうか。このために、天台大師は『法華文句』第十巻に、「すべての諸経に勝るために、『随喜功徳品』という」と述べている。妙楽大師は、『法華経』は他の諸経よりも能力の浅い者を優先させる、ということを他の師は知らないために、『法華経』が対象とする者は能力の高い者だとされていることを批判して、「恐らくは人は誤って理解しているのである。初心の功徳が大きいことを読み取らず、能力の高い者への功徳だと思って初心を蔑んでいる。このために、『法華経』の行は浅くても功徳は深いことを示して、この経典の力を表わしている」と述べている。「この経典の力を表わす」という解釈の意趣は、『法華経』は『観無量寿経』などの権経より勝れているために、行は浅くても功徳は深いということである。能力の浅い人を受け入れているためである。もし慧心僧都源信のような先徳が、『法華経』を念仏より難行だと定め、愚者・頑迷な者を受け入れないと言っているとするならば、恐らくは逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ・路伽耶陀は、この世の常識に従った快楽や唯物論を説く外道であり、その逆であるので、極端な禁欲や唯心論を説いた外道)の罪を招くであろう。また「恐らくは人は誤って理解している」と言われる中に入るであろう。

総合的に論じるならば、天台大師・妙楽大師の三大部とその注釈を貫く意趣は、『法華経』は、諸経典によって導かれることのない愚者・悪人・女人・仏となれない一闡提たちを受け入れるということである。他の師は、この仏の意趣を悟らないために、『法華経』は諸経典と同じ、あるいは十地や十住の位の人々のためであると理解し、またあるいは、凡夫においては、遠い未来の成仏の縁となる教義だと理解している。これらの邪義を破り、人天・四悪趣が『法華経』が対象とする人々だと定めているのである。このように、能力の違いとそれに相応する道をもって、過去の善悪を受け入れるのである。人天に生ずる人は、当然、過去世において、五戒や十善などを行じたことが明らかなようなものである。もし慧心僧都がこの教義に背いているならば、どうして天台宗を知る人と言えるのだろうか。しかし法然源空は、深くこの教義に迷っているために、『往生要集』に対して偏見を起こし、自らも誤り、他をも誤りに陥らせる者である。過去世に善行があり、それにふさわしい真実の教えにあいながらも、すべての衆生を教化して権教に戻らせ、さらに真実の教えを破っている。これがどうして悪師でないことがあろうか。久遠の昔に大通智勝如来と『法華経』の縁を結んでおきながら、釈迦如来が成仏して以来の五百億塵点劫、大通智勝如来が滅度してからの三千塵点劫を経て、『法華経』の大いなる教えを捨てて『法華経』以前の権経や小乗に戻るならば、さらに後にはその権経をも捨てて、六道に輪廻するのである。常不軽菩薩を軽蔑して罵った者たちは、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちた。権経の師を信じて、実経を広める者を誹謗したためである。しかし法然源空は、自分がただ実経を捨てて権経に入るのみならず、人に勧めて実教を捨てさせ、権経に入れ、また権経の人を実経に入らせないようにしている。その上、実経の行者を罵るならば、その罪からは永劫にも立ち返ることは難しいであろう。

問う:『十住毘婆沙論』は、釈迦一代の経典についての通論である。ならば、難行道・易行道の二道の内に、どうして法華・真言・涅槃を入れないことがあろうか。

答える:釈迦一代の諸大乗経典において、『華厳経』などは、悟りを開いて最初に説いた教えと、後に説いた教えが共に記されている。最初に説いた教えの『華厳経』は、声聞・縁覚の二乗の成仏・不成仏については論じていない。「方等部」の諸経典においては、もっぱら二乗と無仏性の一闡提の成仏を退けている。「般若部」の諸経典も同様である。総合的に見て、『法華経』以前の四十余年の諸大乗経典の意趣は、『法華経』・『涅槃経』・『大日経』などのように、二乗と無仏性の成仏を認めていない。これらによって考えれば、『法華経』以前の経典と『法華経』の相違は、水と火のようなものである。仏の滅後の論師である竜樹・天親もまた共に千部の経典の論師である。その著わされた論書に通別の二論がある。通論においてもまた二種類がある。『法華経』以前の四十余年の経典についての通論と、釈迦一代五十年の経典についての通論である。その二つの通論を分けるものは、決定性の二乗・無仏性の一闡提の成不成をもって、権実の論を定めているのである。そして、『大智度論』は竜樹菩薩の著作であり、鳩摩羅什三蔵の訳である。『般若経』に依る時は二乗作仏を認めないが、『法華経』に依れば二乗作仏を認める。『十住毘婆沙論』もまた、竜樹菩薩の著作であり、鳩摩羅什三蔵の訳である。この論もまた二乗作仏を認めない。これをもって知るのである。この『十住毘婆沙論』は、『法華経』以前の諸大乗経典の意趣を述べた論なのである。

問う:『十住毘婆沙論』のどこに、二乗作仏を認めない文があるのか。

答える:竜樹菩薩著・鳩摩羅什訳『十住毘婆沙論』第五巻に、「声聞地および辟支仏地に堕ちることを、菩薩の死という。すなわちすべての利益を失うのである。たとい地獄に堕ちたとしても、このような畏れは生じない。二乗地に堕ちることに対して、大いに畏れを抱くべきである。地獄の中に堕ちたとしても、究極的には仏に至ることも可能である。しかし、二乗地に堕ちれば、永遠に仏になる道が閉ざされる」とある。この文は、二乗作仏を認めていない。しかも、『維摩経』の「於仏法中以如敗種」の文のようである。

問う:『大智度論』は『般若経』に依って二乗作仏を認めていないが、『法華経』に依って二乗作仏を認めているという文はどうであるか。

答える:竜樹菩薩著・鳩摩羅什三蔵訳『大智度論』一百巻に、「問う。『般若経』により勝れた甚深の教えであるために、『般若経』は阿難に委ね、他の経典は菩薩に委ねたという勝れた教えとは何か。答える。般若波羅蜜は秘密の教えではない。しかし、『法華経』などの諸経典は、阿羅漢の授記や仏になることを説く。したがって、大いなる菩薩はこの教えをよく受持し用いるのである。たとえば、大いなる薬師が、よく毒をもって薬とするようなものである」とある。また、九十三巻に、「阿羅漢の成仏は論義者の知るところではない。ただ仏だけがよく知り尽くすのである」とある。これらの文をもって考えれば、論師の権実は、あたかも仏の権実のように見えるものである。しかし、権経に依る人師がみだりに『法華経』をもって、『観無量寿経』などの権説と同等としてしまい、『法華経』・『涅槃経』の教義を借りて「浄土三部経」の徳とし、決定性の二乗・無仏性の一闡提・常没など往生を認めている。これは、権実を混同している過失を免れない。たとえば、外典儒者が、仏教の内典を盗んで外典を飾るようなものである。これは謗法の過失を免れないであろう。

仏自らが権実を分けられている。その要旨を探れば、決定性の二乗・無性有情の成不成である。しかし、この教義を知らない経典翻訳家が、『法華経』以前の諸経典を翻訳する時、二乗の作仏・無性の成仏を認めてしまっている。この教義を知る翻訳家は、『法華経』以前の経典を翻訳する時、二乗の作仏・無性の成仏を認めないのである。これによって、仏の意趣を悟らない人師もまた、『法華経』以前の経典において、決定性・無性の成仏が述べられていると見て、『法華経』も、それ以前の経典も同じだと思い、あるいは『法華経』以前の経典において、決定無性を退けている文を見て、この教義をもって了義経とし、『法華経』・『涅槃経』をもって不了義経としている。共に仏の意趣を悟らず、権実二教に迷っているのである。これらの誤りを出せば、ただ法然源空一人に限らず、インドの論師ならびに経典翻訳家より中国の人師に至るまで、その事実が見られる。いわゆる地論師・摂論師が、釈迦一代の経典の即時成仏の教えを、遠い未来世の成仏の縁であるとすることや、善導・懐感が、『法華経』の南無仏と一言称えることを、遠い未来世の成仏の縁であるとすることなど、これらは、みな権実を知らないために出て来る誤りである。論書を著わした菩薩、経典を翻訳する経典翻訳家、三昧発得の人師もこのようであれば、ましてや末代の凡師はなおさらである。

問う:あなたは末学の身でありながら、なぜ論師ならびに経典翻訳家や人師を批判するのか。

答える:好んでこのような批判をしているわけではない。摂論師ならびに善導などの解釈は、権実二経を知らずに、みだりに『法華経』をもって、遠い未来の成仏の縁だとしている。このために、天台大師・妙楽大師の解釈とは、水と火の違いを生じているのである。しかし、しばらくこのような人師の相違は置き、経論においてこの是非を検討すれば、権実の二教は仏の教えより出ていることが明らかである。天親・竜樹は重ねてこれを定めている。この教義に従っている人師を仰ぎ、この教義に従わない人師は用いないのである。あえて自分勝手な教義を立てて、是非を定めているのではない。ただその相違を指摘しているだけである。

『法華経』現代語訳と解説 その35

法華経』現代語訳と解説 その35

 

また如来の滅度の後に、もしこの『法華経』を聞いて、非難せず、喜びの心を起こす者があるとすれば、まさに知るべきである、これも深く信じ理解した姿である(注1)。

ましてや、読誦し受持する者はなおさらである。この人は、如来を背負っているようなものである。阿逸多よ。この良き男子や良き女子は、私のために塔や寺を建て、僧坊を作り、多くの僧のすべての生活を支えて供養する必要はない。それはなぜであろうか。この経典を受持し、読誦するこの良き男子や良き女子は、すでに塔を起て、僧坊を造立し、多くの僧を供養していることになるのだ。すなわち、仏の舎利(しゃり)をもって梵天に届くほどの高く広い七宝の塔を起て、それを多くの旗や傘、および多くの宝の鈴を掛け、花や香、瓔珞、抹香、塗香、焼香、多くの鼓、伎楽、あらゆる笛などの楽器や、あらゆる舞踊、妙なる音や声をもって、歌って讃嘆することになるのだ。さらにこの供養は、すでに無量千万億劫続いていることになるのだ。

阿逸多よ。もし私の滅度の後に、この経典を聞いてよく受持し、また自らも書き、人に書かせる人がいるならば、それは僧坊や堂閣を建てることになるのだ。それらは、三十二の貴重な香木によって作られており、高さは八多羅樹(たらじゅ・注2)であり、広大であり、厳かに飾られ、その中には百千の僧侶たちがおり、園林、浴池、経行、禅窟、衣服、飲食、床、湯薬などのすべての願わしい道具が満ちている。このような僧坊や堂閣の数は百干万億であり、これをもって私と僧侶に供養しているのだ。

したがって、如来の滅度の後に、この経を受持し、読誦し、他人のために説き、自らも書き、また人に書かせ、経巻を供養する者は、塔寺を建て、および僧坊を作り、多くの僧侶を供養する必要がないのだ。ましてや、この経を保ちつつ、さらに布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧六波羅蜜を行じる者はなおさらのことである。その徳は最も優れており、無量無辺である。たとえば、虚空に、東西南北や上下などの方角に際限がないように、この人の功徳も、またこのようなもので、無量無辺であって、すぐに一切種智を得るであろう。

もしこの経典を読誦し、受持し、他の人にも説き、また自らも書き、人に書かせる人がいるならば、その人は、塔を建て、および僧坊を作り、声聞の僧たちを供養し讃歎し、また百千万億の讃歎の教えをもって、菩薩の功徳を讃歎し、また他人のために、あらゆる因縁をもって、正しくこの『法華経』を解説し、また、清らかな戒を持ち、柔和の者と共に行動し、辱めを忍び、怒ることなく、志堅固にして、常に坐禅を尊び、多くの深い禅定を得、精進勇猛にして、あらゆる良き教えを受け、能力が優れて智慧があり、よく難問に答えることができるであろう。

阿逸多よ。もし私の滅度の後に、多くの良き男子や良き女子がいて、この経典を受持し読誦するならば、また良き多くの功徳があるであろう。まさに知るべきである。この人は、すでに道場において、阿耨多羅三藐三菩提に近づき、悟りを開くべく樹の下に座っているのだ。

阿逸多よ。この良き男子や良き女子が座るところ、立つところ、歩むところ、そのようなところには塔を建てるべきである。すべての天人たちはその塔を、仏の塔のように供養すべきなのである」。

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「もし私の滅度の後に この経を尊び仕えるならば この人の福無量なること すでに述べた通りである これすなわち私に対して あらゆる供養をしていることになるのだ 舎利をもって塔を建て その塔を七宝によって荘厳し それは非常に高く梵天に至り 宝の鈴が千万億あり 風が吹くたびに妙なる音を出し また無量劫にわたり この塔に花や香やあらゆる瓔珞 そして天の衣を着た者たちの伎楽を供養し 香油で灯火をともし 常に周りを照らすのだ 

末法の悪しき世において この経を保つ者は すなわちすでに述べたような 多くの供養をしたことになるのだ この経を保つ者は すなわち仏を目の前にして 優れた香木を使って僧坊を建て供養し その堂は三十二あって 非常に高く 上等な妙なる衣服 家具寝具などすべてあって 百千人が住み 園林などの沐浴の池 歩く場所と座禅をする洞窟など すべてが荘厳に備えるようなものである 

もし信じ理解する心ある者が 受持し読誦し書き あるいは人に書かせ および経巻を供養し 花や香や抹香を散じ すぐれて高価な油をもって 常にこの経を照らすとするならば このように供養する者は 無量の功徳を得るであろう 虚空が無辺であるように この福もまた同じである ましてやまたこの経を保って さらに布施し持戒し 辱めを忍んで禅定を願い 怒ることなく悪口を言わないならばなおさらである 塔廟を敬って尊び 多くの僧侶たちに仕え 高慢の心を捨て去り 常に智慧をもって考え 難問を振りかざす者に対して怒らず 従順に解説をするならば そのような行為をする者は その功徳は測り知れない もしこの法師が このような徳を成就していることを見るならば まさに天の華をもって散じ 天の衣をその身に覆い 足に頭をつけて礼拝し 仏のように思うべきである 

またまさに次のように思うべきである この人は間もなく道場に赴いて 煩悩のない境地を得て 広く多くの天人を導くであろうと その者が歩き座り またこの経の一偈であっても説くところには まさに塔を建てて 荘厳に飾り あらゆる供養をすべきである 仏の子がこの境地にあれば すなわち仏は受け入れられる 常に仏はそこ中に住まわれ 共に歩き共に座るであろう」

 

注1・これ以降は、「分別功徳品」の後半となる。以前も述べたが、『法華経』は、伝統的な解釈においては、前半の迹門と後半の本門の二つに分けられる。そして、迹門も本門もさらに、序分と正宗分(しょうしゅうぶん)と流通分(るつうぶん)の三つに分けられる。序分は序章であり、正宗分とは本論のようなもので、流通分とは、この経典が広められるために説かれた内容である。

この本門は、「従地涌出品」から始まるというのが伝統的な解釈である。そして本門の正宗分は、仏の寿命は永遠である、ということが述べられている箇所であり、流通分は、『法華経』を受持し広める者の功徳や、この経典に基づいて活躍している菩薩たちについて述べられている箇所となる。

そして実は、この「分別功徳品」は、本門の正宗分と流通分とにまたがった章なのである。「分別功徳品」の前半では、仏の寿命が永遠であるということを信受した者の功徳について述べられているので、正宗分に属するとされ、後半は、『法華経』そのものを受持する者の功徳が述べられているので、流通分に属するとされる。

注2・「多羅樹」 もともと背の高い樹木のことであるが、それが尺度の単位として用いられる。一多羅樹は約十五メートル。

『法華経』現代語訳と解説 その34

法華経』現代語訳と解説 その34

 

妙法蓮華経 分別功徳品 第十七

 

その時に、仏の寿命の劫数がこのように長遠であることを聞いて、無量無辺阿僧祇衆生は、大いに仏からの利益を得た(注1)。

そして世尊は、大いなる弥勒菩薩に次のように語られた。

「阿逸多よ。私が如来の寿命が長遠であることを説いた時、六百八十万億那由他恒河沙衆生は、無生法忍(むしょうほうにん・注2)を得た。また、その千倍の大いなる菩薩は、聞持陀羅尼門(もんじだらにもん・注3)を得た。また、一つの世界を微塵に砕いた塵の数ほどの大いなる菩薩は、楽説無碍弁才(ぎょうせつむげべんざい・注4)を得た。また、一つの世界を微塵に砕いた塵の数ほどの大いなる菩薩は、百千万億無量の旋陀羅尼(せんだらに・注5)を得た。また、三千大千世界を微塵に砕いた塵の数ほどの大いなる菩薩は、退くことのない教えを説いた。また、二千中千世界の国土を微塵に砕いた塵の数ほどの大いなる菩薩は、よく清浄の教えを説いた。また小千世界の国土を微塵に砕いた塵の数ほどの大いなる菩薩は、八回転生した後に阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。また、四つの大陸を含むこの世を微塵に砕いた塵を四倍したほどの数の大いなる菩薩は、四回転生した後に阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。また、四つの大陸を含むこの世を微塵に砕いた塵を三倍したほどの数の大いなる菩薩は、三回転生した後に阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。また、四つの大陸を含むこの世を微塵に砕いた塵を二倍したほどの数の大いなる菩薩は、二回転生した後に阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。また、四つの大陸を含むこの世を微塵に砕いた塵ほどの数の大いなる菩薩は、一回転生した後に阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。また、八つの世界を微塵に砕いた塵の数ほどの衆生は、みな阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こした」。

仏が、この多くの大いなる菩薩たちが、偉大な法の利益を得ることを説かれた時、虚空の中より、曼陀羅華、摩訶曼陀羅華が降り、無量百千万億の宝樹の下にある獅子座に座っている諸仏に注ぎ、また七宝塔の中の獅子座の釈迦牟尼仏、および遠い過去に滅度した多宝如来に注ぎ、またすべての大いなる菩薩と、さらにすべての人々に注いだ。そして、香の粉が降り、虚空の中で、天の鼓が自ら鳴って、深遠で妙なる音が響いた。また、千もの天衣が降り、あらゆる種類の首飾りがあらゆる方角にかかった。また、あらゆる宝の香炉に、値がつけられないほどの高価な香が焚かれ、自然にまわりに広がって、すべての聴衆を供養した。一人一人の仏の上に、多くの菩薩があって、宝の傘を持っており、それが連なって梵天のいる天にまで届いた。この多くの菩薩たちは、妙なる声をもって、無量の詩を歌って、諸仏を讃歎した。

その時に弥勒菩薩は、座より立って、右の肩を出して合掌し、仏に向って次のような偈を説いた。

「仏は昔より聞いたことのない 希有の教えを説かれた 尊は大いに力があり 寿命は測ることができない 無数の仏の子は 世尊が分別して 法の利益を得た者たちについて説かれたことを聞き その身が歓喜に満たされた ある者は退くことのない境地に至り ある者は陀羅尼を得 ある者は相手の求めに応じて巧みに教えを説く力を得 万億の煩悩と仏の智慧を分ける力を得 また三千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 決して退くことのない教えを説く力を得 二千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 清らかな教えを説く力を得た また千の世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 八回生まれ変わった後に まさに最高の仏の悟りを得るであろう また四つ三つ二つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは その世界の数の回数生まれ変わった後に まさに最高の仏の悟りを得るであろう また一つの世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる菩薩たちは 一回生まれ変わった後に まさに最高の仏の悟りを得るであろう このような衆生は 仏の寿命がとてつもなく長いことを聞いて 煩悩のない清らかな果報を得 また三千を八倍した世界を微塵にしたその微塵の数の大いなる衆生は みな最高の仏の悟りを求める心を起こした 世尊が無量不可思議の教えを説かれた時 多くの者に注がれた法の利益は 虚空が無辺のように測ることができない 天の曼陀羅 摩訶曼陀羅は降って 帝釈天梵天は大河の砂の数ほど多くの仏国土より来た 高価な香の粉は 飛んだ鳥が空から降りて来るように降って諸仏に注ぎ供養し 天の鼓は虚空の中に 自然と妙なる音を出し 千万億の天衣は下り あらゆる宝の香炉に高価な香が焚かれて 自然にまわりに広がって 多くの世尊を供養した 多くの大いなる菩薩たちは 妙なる高い七宝の傘を持ち 連なって梵天まで届いた 一人一人の諸仏の前に 宝の旗が掛けられた また千万の偈をもって 多くの如来を讃嘆した 

このようなあらゆる出来事は 昔より今までなかったことである 仏の寿命が無量であることを聞いて みな歓喜した 仏の名はあらゆる方角に聞えて 広く衆生を悟りに導く 一切の善根を備えさせ 無上の心を導く」

その時に仏は、弥勒菩薩摩訶薩に次のように語られた。

「阿逸多よ。仏の寿命がこのように、とてつもなくの長いことを聞いて、一念でも信じ理解するならば、その人が得るところの功徳は測り知れない。もし良き男子や良き女子がいて、阿耨多羅三藐三菩提のために、八十万億那由他劫において、六波羅蜜における智慧以外の布施、持戒、忍辱、精進、禅定の五つを行なったとする(注6)。その功徳と、一念でも仏の寿命が永遠であることを信じ理解する功徳を比較すると、前者は後者の百分、千分、百千万億分の一にもおよばない。さらに、あらゆる計算や比喩をもっても知ることができないのだ。もし良き男子が、このような功徳を得るならば、阿耨多羅三藐三菩提を求める道において、退くことは決してない」。

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「もし人が仏の智慧を求めて 八十万億那由他劫の間中 菩薩の五つの修行を行なったとする この多くの劫の中において 仏および縁覚の弟子 ならびに多くの菩薩たちに布施し供養したとする 珍しいあらゆる飲食物 上等の服と家具と 香木をもって修行道場を建て 園林をもって厳かに飾るなどの布施を あらゆる方法によって行ない この多くの劫数を尽くして 仏の道に回向したとする(注7) 

またもし戒律を保ち 清らかにして煩悩なく 仏が讃嘆する無上道を求めたとする(注8) 

またもし忍辱を行じて よく調えられた柔和な心を持ち たとえ人々から悪を行なわれたとしても その心は微動だにしなかったとする 仏の教えを受けていながら 思い上がった心を持つ者たちに悩まされたとしても そのようなこともよく忍んだとする(注9) 

またもし精進し 志は常に堅固であり 無量億劫において 怠ける心を一度も起こしたことがなかったとする(注10) 

また無数劫において 何もなく静かな場所に住んで 座ったり歩き回ったり 眠っている以外は常に心を統一したとする この方法でよく多くの禅定を成就し 八十億万劫にわたって 安住して心乱れず このような心の統一をもって 無上道を願い求め 一切智を得ようと あらゆる禅定を行ない尽したとする(注11) 

このような人が 百千万億の劫数において この多くの功徳を上記のように行なったとする しかし一方 良き男女がいて 私の寿命について聞いて 一念においてでさえ信じるならば この福は前者以上なのである 

もし全く疑うことなく 心深く一瞬でも信じるならば その人の福はこのようになるのだ 無量劫において道を行ずる菩薩たちが 私の寿命について聞いて よく信じ受け入れるならば そのような人たちは この経典を敬って受け 私は未来世において長く生き続け 人々を悟りに導こうと 今日の世尊が シャーキャ族の王として世に出て 道場において師子吼(ししく)し 教えを説くにあたって恐れるところがないように 私たちも未来世に すべての人に尊敬せられ道場に座る時 このように寿命について説こうと願うのだ 深い心ある者は 清らかにして素直に 多くの教えを聞いてよく記憶し 正しい教えにしたがって仏の言葉を理解するであろう このような人々は このことについて疑いはないのだと 

また阿逸多よ。もし仏の寿命がとてつもなく長いということを聞いて、その言葉の意味を理解する者がいたとする。この人が得る功徳は限りなく、如来のこの上ない智慧を生じることであろう。ましてや、この経をよく聞き、さらに人に聞かせ、また自らも保ち、また人に保たせ、また自らも書き、また人に書かせ、また花や香、瓔珞(ようらく)、飾られた旗、飾られた傘、香油、燈明をもって、経巻に供養する人はなおさらのことである。この人の功徳は無量無辺であって、一切種智(いっさいしゅち・注12)を生じることであろう。

阿逸多よ。もし良き男子や良き女子が、私の寿命のとてつもなく長いということが説かれるのを聞いて、深く心に信じ理解するならば、仏が常に耆闍崛山にあって、大いなる菩薩や多くの声聞たちが囲む中、教えを説いている姿を見、また、この娑婆世界の地が宝石となり、平らであり、非常に高価な金によってそれぞれの道が区切られ、宝樹が並び植えられ、宝によって作られたあらゆる楼閣があり、菩薩たちがその中にいるのを見るであろう。もしこのように見ることができる者があるならば、まさに知るべきである、これこそ深く信じ理解した姿である。

 

注1・今回から、十七章にあたる「分別功徳品(ふんべつくどくほん)」である。「分別」とは、ここまで多く見られた言葉であるが、この言葉には「わきまえる」という意味がある。仏の本当の寿命は永遠なのだ、ということを信じ受け入れた者の功徳は、どれほど大きいものなのか、よくわきまえる、という意味である。

注2・「無生法忍」 すべての存在は不生不滅であることを悟ること。

注3・「聞持陀羅尼門」 耳に聞いたことすべてを忘れない能力。

注4・「楽説無碍弁才」 自在に法を説く能力。

注5・「旋陀羅尼」 教えを説き続ける能力。

注6・智慧は具体的に行なうべき項目とは言えないので除外されている。

注7・以上が布施波羅蜜

注8・以上が持戒波羅蜜

注9・以上が忍辱波羅蜜

注10・以上が精進波羅蜜

注11・以上が禅定波羅蜜

注12・「一切種智」 声聞 と縁覚の悟りの智慧を一切智といい、菩薩の衆生の状態までもよく知る智慧を道種智といい、一切のものについて、個々の具体的、特殊的な姿を知る最高の完全無欠な智慧を一切種智という。そして、この三つを三智という。

『法華経』現代語訳と解説 その33

法華経』現代語訳と解説 その33

 

たとえば、智慧が豊かで、薬の知識が豊富で、よく多くの病を治す良医がいたとする。その人の子供たちは多く、十、二十、あるいは百人以上だったとする。ある時、用事があって遠い国に出かけた。その間に子供たちは毒薬を飲んでしまい、苦しんで地に転げまわった。そして父が家に帰ったが、子供たちの中には、毒を飲んで本心を失ってしまった者もあり、あるいは失っていない者もいた。遠くに父の姿を見て、みな大いに喜んで挨拶し、次のように言った。『よくご無事で帰られました。私たちは愚かにも、毒薬を飲んでしまいました。願わくは治療してくださり、命を長らえさせてください』。父は、子供たちが苦しんでいるのを見て、多くの医学書に基づいて、色も香りも味も良い薬草を求めて調合し、子供たちに与えた。そして次のように言った。『この大いなる良薬は、色も香りも味も良く、効能がある。あなたたちは飲みなさい。速やかに苦しみが消え、他の患いもなくなるであろう』。その子供たちの中で、本心を失わない者は、その良薬の色も香りも味も良いことを見て、すぐにこれを飲み、病はすべて癒された。他の本心を失ってしまった者たちは、その父が帰って来たことを見て喜び、病を治してほしいと求めはしたものの、その薬が与えられても、あえて飲もうとはしなかった。なぜなら、毒気が深く入ってしまい、本心を失っていたために、色も香りも味も良い薬にもかかわらず、良い薬とは思わなかったのである。

これを見た父は、次のように思った。『この子たちは憐れむべき者たちだ。毒によって心が混乱してしまっている。私を見て、喜んで治療されることを求めても、この良い薬を飲もうとはしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませるべきである』。そして次のように言った。『あなたたちはまさに知るべきである。私は今老衰によって死の時が近づいている。この良い薬をここに置いておく。あなたたちは取って飲みなさい。治らないと心配することはない』。

このように教えて、他の国に行き、そこから使いを送って、『あなたたちの父は死んだ』と伝えさせた。この時、子供たちは父が亡くなったということを聞いて大いに憂い、次のように思った。『父がいる時は、私たちを慈しみ、よく救い守ってくださった。今、私たちから離れて、遠くの国で亡くなった。私たちは孤独になり、頼る者もいなくなってしまった』。このような悲しみを常に抱いているうちに、心はついに覚醒した。すなわち、この薬が色も香りも味も良いことを知って、ただちに取って飲み、毒の病がみな癒された。その父は、子供たちがみなすでに癒されたことを聞いてすぐに帰り、子供たちの前に姿を現わした。多くの良き男子たちよ。あなたたちはどう思うか。この良医は、嘘偽りを語った罪があるだろうか」。

「いいえ。世尊よ」。

仏は次のように語られた。

「私もまたこれと同じなのだ。仏となってから今まで、無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫の長い時が経っている。しかし衆生のために方便の力をもって、まさに滅度するであろうと言うのだ。このように、私が偽りを説いたと言う者はないのだ」。

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた(注1)。

「私は仏になって今まで その経て来た劫の数は 無量百千万億載阿僧祇である その間常に教えを説いて 無数億の衆生を教化して 仏の道に入らせた それから今まで無量劫である 衆生を悟りに導こうとするために 方便して涅槃を現わす しかも実は滅度していない 常にここにあって教えを説く 私は常にここにいるが さまざまの神通力をもって 迷いの衆生には 近くにいても見えないようにしている 衆生は私の滅度を見て 広く舎利を供養し みな慕う心を抱いて 渇仰の心を起こす 衆生が信じる心を持ち 素直で心が柔らかに 一心に仏を見ようと願って 自らの身命までも惜しまないようになった時 私は多くの僧侶たちと共に 霊鷲山(りょうじゅせん)に出現する そして私は次のように語る 『私は常にここにあって滅びることはない 方便の力をもって滅不滅の姿を現わす 他の国の衆生で 敬い信じ願う者があるならば 私はまたその中において 無上の教えを説く』 あなたたちはこのことを聞くことがなかったので 私がただ滅度したのだと思ったのだ 

私は衆生を見るに 苦しみの海に沈んでいる そのため私の姿を現わさず それによって私を渇仰する心を生じさせるのだ その慕う心に応じて 私は世に出現して教えを説く 私の神通力はこのようなものだ 阿僧祇劫という非常に長い間 私は常に霊鷲山および他の場所に居続けている 世の中が大火で焼かれていると人々が見る時も 私の国土(注2)は安穏であり 天人たちが常に充満している 園や林にある多くの堂閣は あらゆる宝をもって荘厳に飾られ 宝樹の花や果実は多く 衆生が遊び楽しむ所である 諸天は天の鼓を打って 常に多くの伎楽を演奏し 天の花を降らせて 仏と大衆に注いでいる 私の浄土は滅びることがないにもかかわらず 多くの人々は この世は焼け尽きて 憂いや怖れの苦悩が充満していると見る この多くの罪の衆生は 悪業の因縁をもって 千億劫を過ぎたとしても 仏と教えと僧侶の三つ宝の名を聞かない 多くのあらゆる功徳を修し 柔和で素直な心を持つ者は すなわちみな私がここにあって教えを説く姿を見ることができる ある時はこの人々のために 仏の寿命は無量であると説く しかし長い間仏を見ずに ようやく仏を見た者には 仏に会うことは難しいと説く 私の智慧の力はこのようなものだ 智慧の光は無量の世界を照らし 寿命は無数劫である これは久しく業を修して得るところである あなたたちの中で智慧のある者は このことにおいて疑いを生じさせてはならない まさにそのような疑いは永遠に断じ尽くさねばならない 仏の言葉は真実にして偽りではない 

医者が良い方便をもって 本心を失った子を癒すために 実際は死んでいないにもかかわらず死んだと伝えたように 偽りをもってではなく 私もこの父のように 多くの苦しみや患いを救う者なのである 迷いの衆生は本心を失っているために 実際は存在しているにもかかわらず 私は滅度する もし常に私を見るならば 自己満足の心を起こし 放逸になって肉の欲に執着し 悪しき道の中に落ちるであろう 

私は常に衆生の 仏の道を行じているかいないかを知って まさに導くところに応じて あらゆる教えを説くのだ どのようにしたら人々をこの上ない仏の道に入らせ 速やかに仏となるように導くことができるか 私は常に考えているのだ」

 

注1・「如来寿量品」の散文の部分に続く偈の部分は、『法華経』の中心の中心と言われる箇所であり、まさに訳者鳩摩羅什の名文によって、多くの人々に親しまれて来た。この偈の部分の冒頭は、「自我得佛来」であり、書き下すと「我佛を得て自(よ)り来(このかた)」となる。そして、この冒頭の言葉により、この偈全体の通称として「自我偈(じがげ)」と呼ばれる)。

注2・「私の国土」 この久遠実成の釈迦如来がおられる国土とは、どこにあるのだろうか。この言葉に続く内容を見ると、この娑婆世界がそのまま、「私の浄土」であることがわかる。しかし、人々は迷っているために、この国土を穢土と見るのだ、ということである。

日蓮上人は、『守護国家論』の中で次のように述べている。「本地において久遠の昔に成仏している円教の仏は、この世界におられる。この土を捨てて、どの国土を願うべきであろうか。このために、『法華経』を修行する者がいる場所を浄土と思うべきである。どうして煩わしく他の国土を求めることがあろうか」(この訳者の翻訳)。

『法華玄義』には、「絶待妙・相待妙」の教義がある。絶待妙とは、絶対的次元の絶対的真理のことであり、相待妙とは、相対的次元は、この絶対的真理の表われであり、相対的次元がそのまま絶対的次元である、という教えである。この教義から見れば、この娑婆世界もそのまま絶対的世界であり、『法華経』に記されているように、人々は迷いのために、この国土を穢土と見ているのであり、日蓮上人が言うように、この娑婆世界を離れて別のところに浄土を求める必要はない、ということになる。