大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 09

守護国家論 現代語訳 09

 

第四章

 

全体を七門に分けた第四として、謗法の者を対治すべきである証拠の文を出すならば、これを二節に分ける。一節は、仏法は国王大臣ならびに僧侶や尼僧や男女の在家信者に委ねるべきことを明らかにし、二節は、まさしく謗法の人が王の治める国にいるならば、必ず対治すべきである証拠の文を明らかにする。

 

第四章 第一節

 

仏法は、国王大臣ならびに僧侶や尼僧や男女の在家信者に委ねるべきことを明らかにする。

『仁王経』には、「仏は波斯匿王(はしのくおう・歴史的釈迦の在世に、中インドを支配していたコーサラ国の王。息子の祇陀太子(ぎだたいし)は、祇園精舎のために土地を寄進し、娘の勝鬘夫人(しょうまんぶにん)は『勝鬘経』の主人公とされた)に次のように語られた。『(仏法は)あらゆる国王に委ね、僧侶や尼僧や男女の在家信者には委ねない。なぜなら、彼らは王のような威力はないからである。(中略)この経の三宝をあらゆる国王と僧侶や尼僧や男女の在家信者に委ねる』」とある。『大集経』第二十八巻には、「ある国王がいて、私の法が滅びようとしているのを見て、それを見捨てて擁護しなければ、無量の三世において布施・持戒智慧を修しても、それらはすべてみな滅び失せ、その国に三種の不祥事が起るであろう。そして命終われば大地獄に生じるであろう」とある。

『仁王経』の文によれば、仏法をまず国王に委ね、次に僧侶や尼僧や男女の在家信者に及ぼすべきである。王位にある君主、国を治める家臣は、何よりも仏法によって国を治めるべきである。『大集経』の文によれば、王や家臣たちが、たとい仏道のために無量劫の間、頭や目などを施すまでに布施を行ない、八万の戒律を守り修行をし、無量の仏法を学んだとしても、国に広まる誤った教えを改めなければ、国中に大風・旱魃・大雨の三大災害が起こり、万民は逃亡せざるを得なくなり、王や家臣は必ず三悪道に堕ちることになる。また、釈迦の入滅の場所である沙羅双樹の最後の説法である『涅槃経』第三巻には、「今、正法をもって諸王・大臣・宰相・比丘・比丘尼・男女の在家信者に委ねる。(中略)法を守護しない者は、禿居士と呼ぶ」とある。また、「善き男子が正法を護持しようとする場合、五戒を受けず、修行をしなくても、まさに刀剣や弓や槍を持つべきである」とある。また、「五戒を受けなくても、正法を護ることを大乗という。正法を護る者はまさに刀剣や棒を持つべきである」とある。

法華経』以前の四十余年の内に説かれた『梵網経』などにある戒律によれば、国王・大臣・民たちは、すべて刀杖・弓・矛・斧などの戦いのための武器を用意することはできない。もしこれを用意する者は、必ず今生のこの世においては、国王の位、比丘比丘尼の位を失い、後生においては、三悪道の中に堕ちると定めている。しかし今の世は、道俗を選ばず、弓・刀・棒を持っている。『梵網経』の文の通りならば、必ず三悪道に堕ちることは疑いない者である。したがって、『涅槃経』の文がなかったならば、彼らはどのように救われるのであろうか。また、先に引用した『涅槃経』の前後の文には、弓・刀・棒を用いて悪法の比丘を改めさせ、正法の比丘を守護する者は、過去世の四重・五逆の罪を滅ぼして、必ず無上道を証するであろうと定めている。

また、『金光明最勝王経』第六巻には、「ある王がいて、その王の国土にこの経典があるとしても、未だかつて広めることをせず、煩悩を捨離する心を生じるために教えを聞くことを願わず、また供養し尊重し讃歎せず、僧侶や尼僧や男女の在家信者も、経典を持つ人を見てもまた、尊重し供養することをせず、ついには、私たち(注:四天王のこと)や無量の眷属の諸天から、その非常に深い妙法を聞くことをせず、仏法の甘露の味に背き、正法の流れを失い、仏の威光および勢力がなくなるようにし、悪趣を増長させ、人天を減らし、生死の川に堕ちて涅槃の路に背くとしましょう。世尊よ。私たち四天王ならびに多くの眷属および薬叉たちは、このようなことを見て、その国土を捨てて、これ以上守護する心を失うでしょう。ただ私たちがこの王を捨て去るだけではありません。また、無量の国土を守護する諸天善神がいたとしても、すべて捨て去るでしょう。このように捨て去ってしまえば、その国はまさに、あらゆる災害が起こって、国の位を喪失するでしょう。すべて人々には善い心もないでしょう。ただ、捕縛したり殺害したり争ったりすることのみあって、互いに讒言し合って、法を曲げて無実の人に罪をきせるでしょう。そして、疫病が流行して、彗星が数多く出て、太陽が二つ並んで現われ、日食や月食が起こり暗闇となり、黒白の二つの虹が出て不祥の相を表わし、星が流れて地震があり、井戸の中から音が発生し、季節に関係なく暴雨悪風が起こり、常に飢饉にあい、苗も実も成長せず、多く他方の怨賊が起こって国内を侵略し、人民はあらゆる苦悩を受け、安らぎのある場所などなくなるでしょう」とある。

この経文を見ると、世間の安穏を祈っても、国に三つの災害が起こるならば、悪法が流布しているためである。そして今の世でも、国土の安穏が多く祈られているといっても、去る正嘉元年には大地震があり、同二年に大暴風雨によって苗や実が失われた。これは必ず国を滅ぼす悪法がこの国にあるためと考えられるのである。

選択本願念仏集』のある段で、「第一に読誦雑行とは、上の『観無量寿経』などの往生浄土の経を除いた他の経、大小顕密の諸経において受持読誦することをすべて読誦雑行という」と記した後、「次にこの二つの行の得失を判断すれば、法華・真言などの雑行は失であり、浄土の三部経は得である」と記している。次に、善導和尚の『往生礼讃』の十即十生・百即百生・千中無一の文を引用して記し、「私的に解釈すれば、この文を見ると、いよいよ雑行を捨てて、もっぱら正行を修すべきことがわかる。どうして、百即百生の専修正行を捨てて、千中無一の雑修雑行に固執することがあろうか。行者はよくこのことを考えよ」とある。これらの文を見れば、世間の道俗は、どうして諸経を信じることができるだろうか。

次にまた、『法華経』などの雑行と、念仏の正行との勝劣難易を定めて、「一には勝劣の義、二には難易の義である。初めに勝劣の義とは、念仏は勝れており、他の行は劣っている。次に難易の義とは、念仏は修し易く、諸行は修し難い」と記している。また次に、法華・真言などの失を定めて、「このために次のことを知ることができる。諸行は人の能力に合わず時を失う。念仏往生のみ、人の能力に合っており時を得る」と述べている。

次にまた、法華・真言などの雑行の門を閉じて、「随他(ずいた・随他意のこと。導くべき人に合わせて教えを説くこと)においては、しばらく定心(じょうしん・精神統一がなされている心の状態)を勧め、散心(さんじん・心が散乱している状態)を退ける教えの門を開くといっても、随自(ずいじ・随自意のこと。求められるわけではなく、仏自らの悟りの表現として語る教えのこと)においては、かえって定心と散心の門を閉じる。一度開いて、その後、永遠に閉じることがないのは、ただ念仏の一門である」とある(注:つまり念仏は、定心も散心も関係なく修すことができるという意味)。

そして、最後の結論として、「速やかに生死を離れようと願うならば、二種の優れた教えのうち、聖道門は置いて浄土門を選び、浄土門に入ろうとするならば、正行と雑行の二行のうち、諸の雑行を捨ててまさに正行を選んで帰依すべきである」とある。

門弟たちは、この書を日本六十余州に広く伝え、その門人たちは世間の無智の者に、「上人は智慧第一の身であり、この書を著わして真実の義を定め、法華・真言の門には、閉じて後に開くという文はなく、捨てて後にかえって取るという文はない」と語っているために、世間の道俗は一同に頭を垂れて信じ、その義を詳しく知ろうとする者には、仮字をもって『選択本願念仏集』の内容を述べ、あるいは、法然上人の物語を記し、法華・真言を非難し、去年の暦のようだとか、祖父の履物のようだと言い、あるいは『法華経』を読むことは、管楽器より劣っていると言っている。

このような悪書が国中に充満するために、国に法華・真言があるといっても、人々はこれを聴聞しようとは願わず、たまたま行じる人があっても、その人を尊重しようとする気持ちを生ぜず、一向念仏者は、法華などと結縁すれば往生の障りとなると言って、それらを捨離しようとする心を生じさせている。したがって、諸天も妙法を聞くことができず、仏法の教えを受けることができなければ、その天の威光勢力はなくなるのみであり、四天王ならびに眷属たちはこの国を捨て、日本国守護の善神も捨離してしまった。このために、正嘉元年に大地震があり、同二年に春の大雨によって苗が失われ、夏の大旱魃によって草木が枯れ、秋の大風によって果実が失われ、飢渇がたちまち起こって万民が逃亡することは、『金光明最勝王経』の文の通りである。これがどうして、『選択本願念仏集』のせいでないことがあろうか。この仏の言葉が正しいために、悪法の流布によってすでに国に三つの災いが起こったのである。しかし、この悪しき教義を対治しなければ、仏の所説の三悪を逃れることができるだろうか。

このようなことで、私は近年より「我不愛身命但惜無上道」の文によって、教えのために命を捨てた雪山童子や、迷える衆生のために常に嘆いていた常啼菩薩の心を起こし、命を大乗の流布に投げ打って、強い言葉で、『選択本願念仏集』を信じて後世を願う人は無間地獄に堕ちるであろうと言ったのである。

その時、法然上人の門弟たちは、上に記した『選択本願念仏集』の悪義を隠し、あるいは、あらゆる行による往生の教えを立て、あるいは、『選択本願念仏集』では、法華・真言を非難してはいないと言い、あるいは、在家信者たちに、『選択本願念仏集』の邪義を知られないように妄語を語って、日蓮は念仏を称える人は三悪道に堕ちると言っていると言う。

問う:法然上人の門弟たちが、あらゆる行による往生の教えを立てることは、誤りなのか。

答える:法然上人の門弟と称して、あらゆる行による往生の教えを立てる者は、逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ・極端な禁欲や唯心論を説いた外道)の者である。今の世でも、あらゆる行による往生の教えを立てている。しかし、内心は一向に念仏往生の教義を持ち、外には他の行も非難はしていないと主張している。この教義を立てる者は、『選択本願念仏集』の中で法華・真言を非難し、捨閉閣抛・群賊・邪見・悪見・邪雑人・千中無一などと述べている言葉を見ていないのだろうか。

 

第四章 第二節

 

まさしく謗法の人が王の治める国にいるならば、必ず対治すべきである証拠の文を明らかにする。

『涅槃経』第三巻には、「怠慢であり、戒律を破り、正法を侮る者に対しては、国王・大臣・僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、まさに厳しく対処しなければならない。善き男子よ。このように行なう国王および僧侶や尼僧や男女の在家信者たちに罪があるだろうか。いいえ、ありません、世尊よ。善き男子よ。この国王および僧侶や尼僧や男女の在家信者たちに罪はないのだ」とある。また第十二巻には、「私の過去世を思い出すと次の通りである。この地で仙予という大国の王となった。大乗経典を愛し念じ尊重し、その心は純善であり麁粗悪・嫉妬・物惜しみなどはなかった。(中略)善き男子よ。私はその時、大乗を重んじていた。婆羅門が大乗を誹謗するのを聞き、すぐに彼らの命を断った。善き男子よ。しかしそのような因縁があったにもかかわらず、地獄には堕ちなかったのである」

問う:『梵網経』の文を見ると、僧侶や尼僧や男女の在家信者を誹謗することは、波羅夷罪(はらいざい・教団追放となる最も重い罪)である。したがって、法然源空が謗法を犯していると明らかにすることは、どうして阿鼻地獄に堕ちる業でないことがあろうか。

答える:『涅槃経』には、「迦葉菩薩が世尊に申し上げた。如来よ、どうして善星比丘は阿鼻地獄に堕ちるだろうと予言されたのでしょうか。善き男子よ。善星比丘には多くの眷属がいた。みな善星比丘は阿羅漢であり、悟りを得たと思っていた。しかし、私は彼が悪しき邪心があることを明らかにするために、善星比丘は放逸の罪のために地獄に堕ちると予言したのだ」とある。

この文の「放逸」とは謗法のことである。源空法然もまた、その善星比丘のように、謗法の罪によって無間地獄に堕ちるであろう。その教化された者たちは、その邪義を知らないために、源空法然を一切智の人と称し、あるいは、勢至菩薩または善導の化身だと言っている。私はその悪しき邪心を明らかにするために、謗法の根源を表わしているのである。『梵網経』の説は、謗法の者以外の僧侶や尼僧や男女の在家信者に対するものである。仏は訓戒して、「謗法の人を見てその過失を明らかにしなければ仏弟子ではない」と語られた。このために、『涅槃経』には、「私は涅槃の後、その方面に、教えに従って戒律を守る僧がいて、威儀を具足して正法を護持しているならば、法を破る者を見るならば、すぐに追放し、呵責し、懲らしめて改めさせよ。まさに知るべきである。この人は測り知れないほどの無量の福を得るのである」とある。また、「もし善い僧侶がいて、法を破る者を見ても、呵責も追放も罪を挙げることもしなければ、まさに知るべきである。その人は仏法の中の怨敵である。もしよく追放し呵責し罪を挙げるならば、それは私の弟子であって真実の声聞である」とある。

私は、仏の弟子の一分に入ろうとするために、この書を著わして謗法の罪を明らかにし、世間に流布させるのである。願はくは十方の仏陀がこの書に力をそえられ、大悪法の流布を止め、一切衆生を謗法から救われることを。