大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その33

法華経』現代語訳と解説 その33

 

たとえば、智慧が豊かで、薬の知識が豊富で、よく多くの病を治す良医がいたとする。その人の子供たちは多く、十、二十、あるいは百人以上だったとする。ある時、用事があって遠い国に出かけた。その間に子供たちは毒薬を飲んでしまい、苦しんで地に転げまわった。そして父が家に帰ったが、子供たちの中には、毒を飲んで本心を失ってしまった者もあり、あるいは失っていない者もいた。遠くに父の姿を見て、みな大いに喜んで挨拶し、次のように言った。『よくご無事で帰られました。私たちは愚かにも、毒薬を飲んでしまいました。願わくは治療してくださり、命を長らえさせてください』。父は、子供たちが苦しんでいるのを見て、多くの医学書に基づいて、色も香りも味も良い薬草を求めて調合し、子供たちに与えた。そして次のように言った。『この大いなる良薬は、色も香りも味も良く、効能がある。あなたたちは飲みなさい。速やかに苦しみが消え、他の患いもなくなるであろう』。その子供たちの中で、本心を失わない者は、その良薬の色も香りも味も良いことを見て、すぐにこれを飲み、病はすべて癒された。他の本心を失ってしまった者たちは、その父が帰って来たことを見て喜び、病を治してほしいと求めはしたものの、その薬が与えられても、あえて飲もうとはしなかった。なぜなら、毒気が深く入ってしまい、本心を失っていたために、色も香りも味も良い薬にもかかわらず、良い薬とは思わなかったのである。

これを見た父は、次のように思った。『この子たちは憐れむべき者たちだ。毒によって心が混乱してしまっている。私を見て、喜んで治療されることを求めても、この良い薬を飲もうとはしない。私は今、方便を用いて、この薬を飲ませるべきである』。そして次のように言った。『あなたたちはまさに知るべきである。私は今老衰によって死の時が近づいている。この良い薬をここに置いておく。あなたたちは取って飲みなさい。治らないと心配することはない』。

このように教えて、他の国に行き、そこから使いを送って、『あなたたちの父は死んだ』と伝えさせた。この時、子供たちは父が亡くなったということを聞いて大いに憂い、次のように思った。『父がいる時は、私たちを慈しみ、よく救い守ってくださった。今、私たちから離れて、遠くの国で亡くなった。私たちは孤独になり、頼る者もいなくなってしまった』。このような悲しみを常に抱いているうちに、心はついに覚醒した。すなわち、この薬が色も香りも味も良いことを知って、ただちに取って飲み、毒の病がみな癒された。その父は、子供たちがみなすでに癒されたことを聞いてすぐに帰り、子供たちの前に姿を現わした。多くの良き男子たちよ。あなたたちはどう思うか。この良医は、嘘偽りを語った罪があるだろうか」。

「いいえ。世尊よ」。

仏は次のように語られた。

「私もまたこれと同じなのだ。仏となってから今まで、無量無辺百千万億那由他阿僧祇劫の長い時が経っている。しかし衆生のために方便の力をもって、まさに滅度するであろうと言うのだ。このように、私が偽りを説いたと言う者はないのだ」。

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた(注1)。

「私は仏になって今まで その経て来た劫の数は 無量百千万億載阿僧祇である その間常に教えを説いて 無数億の衆生を教化して 仏の道に入らせた それから今まで無量劫である 衆生を悟りに導こうとするために 方便して涅槃を現わす しかも実は滅度していない 常にここにあって教えを説く 私は常にここにいるが さまざまの神通力をもって 迷いの衆生には 近くにいても見えないようにしている 衆生は私の滅度を見て 広く舎利を供養し みな慕う心を抱いて 渇仰の心を起こす 衆生が信じる心を持ち 素直で心が柔らかに 一心に仏を見ようと願って 自らの身命までも惜しまないようになった時 私は多くの僧侶たちと共に 霊鷲山(りょうじゅせん)に出現する そして私は次のように語る 『私は常にここにあって滅びることはない 方便の力をもって滅不滅の姿を現わす 他の国の衆生で 敬い信じ願う者があるならば 私はまたその中において 無上の教えを説く』 あなたたちはこのことを聞くことがなかったので 私がただ滅度したのだと思ったのだ 

私は衆生を見るに 苦しみの海に沈んでいる そのため私の姿を現わさず それによって私を渇仰する心を生じさせるのだ その慕う心に応じて 私は世に出現して教えを説く 私の神通力はこのようなものだ 阿僧祇劫という非常に長い間 私は常に霊鷲山および他の場所に居続けている 世の中が大火で焼かれていると人々が見る時も 私の国土(注2)は安穏であり 天人たちが常に充満している 園や林にある多くの堂閣は あらゆる宝をもって荘厳に飾られ 宝樹の花や果実は多く 衆生が遊び楽しむ所である 諸天は天の鼓を打って 常に多くの伎楽を演奏し 天の花を降らせて 仏と大衆に注いでいる 私の浄土は滅びることがないにもかかわらず 多くの人々は この世は焼け尽きて 憂いや怖れの苦悩が充満していると見る この多くの罪の衆生は 悪業の因縁をもって 千億劫を過ぎたとしても 仏と教えと僧侶の三つ宝の名を聞かない 多くのあらゆる功徳を修し 柔和で素直な心を持つ者は すなわちみな私がここにあって教えを説く姿を見ることができる ある時はこの人々のために 仏の寿命は無量であると説く しかし長い間仏を見ずに ようやく仏を見た者には 仏に会うことは難しいと説く 私の智慧の力はこのようなものだ 智慧の光は無量の世界を照らし 寿命は無数劫である これは久しく業を修して得るところである あなたたちの中で智慧のある者は このことにおいて疑いを生じさせてはならない まさにそのような疑いは永遠に断じ尽くさねばならない 仏の言葉は真実にして偽りではない 

医者が良い方便をもって 本心を失った子を癒すために 実際は死んでいないにもかかわらず死んだと伝えたように 偽りをもってではなく 私もこの父のように 多くの苦しみや患いを救う者なのである 迷いの衆生は本心を失っているために 実際は存在しているにもかかわらず 私は滅度する もし常に私を見るならば 自己満足の心を起こし 放逸になって肉の欲に執着し 悪しき道の中に落ちるであろう 

私は常に衆生の 仏の道を行じているかいないかを知って まさに導くところに応じて あらゆる教えを説くのだ どのようにしたら人々をこの上ない仏の道に入らせ 速やかに仏となるように導くことができるか 私は常に考えているのだ」

 

注1・「如来寿量品」の散文の部分に続く偈の部分は、『法華経』の中心の中心と言われる箇所であり、まさに訳者鳩摩羅什の名文によって、多くの人々に親しまれて来た。この偈の部分の冒頭は、「自我得佛来」であり、書き下すと「我佛を得て自(よ)り来(このかた)」となる。そして、この冒頭の言葉により、この偈全体の通称として「自我偈(じがげ)」と呼ばれる)。

注2・「私の国土」 この久遠実成の釈迦如来がおられる国土とは、どこにあるのだろうか。この言葉に続く内容を見ると、この娑婆世界がそのまま、「私の浄土」であることがわかる。しかし、人々は迷っているために、この国土を穢土と見るのだ、ということである。

日蓮上人は、『守護国家論』の中で次のように述べている。「本地において久遠の昔に成仏している円教の仏は、この世界におられる。この土を捨てて、どの国土を願うべきであろうか。このために、『法華経』を修行する者がいる場所を浄土と思うべきである。どうして煩わしく他の国土を求めることがあろうか」(この訳者の翻訳)。

『法華玄義』には、「絶待妙・相待妙」の教義がある。絶待妙とは、絶対的次元の絶対的真理のことであり、相待妙とは、相対的次元は、この絶対的真理の表われであり、相対的次元がそのまま絶対的次元である、という教えである。この教義から見れば、この娑婆世界もそのまま絶対的世界であり、『法華経』に記されているように、人々は迷いのために、この国土を穢土と見ているのであり、日蓮上人が言うように、この娑婆世界を離れて別のところに浄土を求める必要はない、ということになる。