大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 08

守護国家論 現代語訳 08

 

ただし『往生要集』は、序文を見る時は法華・真言を顕密の内に入れて、ほとんど末代の人々に相応しくないと記されているようだが、本文に入って委細に一部三巻の全体を見れば、第十の問答料簡の中で、まさしくあらゆる修行の勝劣を定める時、『観仏三昧経』・『般舟三昧経』・『十住毘婆沙論』・『宝積経』・『大集経』などの『法華経』以前の経論を引いて、すべての行に対して念仏三昧をもって王三昧(おうざんまい・最高の瞑想という意味)と定めている。そして最後に一つの問答があり、そこでは、『法華経』以前の禅定念仏三昧は、『法華経』の一念信解に百千万億倍劣ると定めている。また問いを通じて、念仏三昧がすべての行に勝るというのは、『法華経』以前の範囲のことであるとする。

これによって知るべきである。慧心僧都の意趣は、『往生要集』を著わすことによって、末代の能力の劣った人々を調えて『法華経』に導くためである。たとえば、仏が四十余年の間に説いた経典をもって、仮の教えにふさわしい人々を調えて、真実の教えである『法華経』に導かれたようなものである。そのために、最後に『一乗要決』を著わしているのである。その序に、「諸乗の権実については、昔からの論争の焦点となっている。共に経論によって互いに是非を主張している。私は、寛弘丙午の年の冬十月に、病の中で嘆いて言った。仏法に会うといっても、仏の意趣を理解していない。もし最後まで手を空しくしてしまえば、後悔しても及ばないことである。ここに経論の文義、賢哲の章疏、あるいは人に尋ね、あるいは自ら思惟選択して、完全に自宗・他宗の偏りを捨てて、もっぱら権智・実智の深奥を探れば、ついに一乗は真実の理法であり、五乗(ごじょう・人乗、天乗、声聞乗、縁覚乗、菩薩乗のこと。乗とは、その教えや修行を指す)は方便の説であることを理解したのである。すでに今生の迷いを開くことができた。どうして人生の夕べの死に恨みを残すだろうか」とある。この序の意趣は偏に慧心僧都の本意を表わしている。自宗・他宗の偏りを捨てる時、浄土の法門を捨てたのではないか。一乗は真実の理法であることを理解する時、もっぱら『法華経』によるのではないか。

源信僧都は、永観二年甲申の冬十一月に『往生要集』を著わして、寛弘丙午の冬十月に、『一乗要決』を著わしている。その間は二十余年である。つまり、権を先にして実を後にしたのである。それは仏と同じであり、また竜樹・天親・天台大師と同じである。法然源空の弟子たちは、『往生要集』を頼りとして、師の謗法の誤りを救おうとするが、そもそも教義が同じなのではない。教義が同じであるために、一つに集めたというならば、どのような教義が同じなのか。『華厳経』は、二乗界を分けるために、十界互具(じっかいごぐ・衆生が転生するすべての世界は、互いに具え合っているという教義)は説かない。「方等経」・『般若経』の諸経もまた、十界互具を説いていない。『観無量寿経』などの極楽往生を説く経典もまた、方便の往生である。成仏・往生共に、『法華経』のような往生ではない。みな長い時を経た後に成仏するための仏縁を結ぶ往生・成仏である。その上、慧心僧都源信の意趣は、普段の生活の行住坐臥において行じやすいために念仏を易行といい、普段の生活の行住坐臥においては行じ難いために『法華経』を難行とするところにある、とするならば、それは天台大師・妙楽大師の解釈を破る人ということになってしまう。なぜなら妙楽大師は、末代の能力の劣った者・無智の者たちでも『法華経』を行じるならば、普賢菩薩ならびに多宝仏・十方の諸仏を見ることができるので、『法華経』は易行であると定めて、「禅定や三昧に入らなくても、散心のままで法華を読誦し、座ったり立ったり歩いたりしながらでも、一心に法華の文字を念ぜよ」と述べている。

この解釈の意趣は、末代の能力の劣った者を助けるためである。「散心」とは定心に対する語である。「法華を読誦し」とは、『法華経』の八巻・一巻・一字・一句・一偈・題目・一心一念随喜の者、そして五十展転などである。「座ったり立ったり歩いたり」とは、行住坐臥を否定しない。「一心」とは禅定の一心でもなく、理法の一心でもなく、散心の中の一心である。「法華を念じる」とは、この経は諸経の文字とは同じではなく、一字を読誦しても八万宝蔵の文字を含み、そこに一切諸仏の功徳が納まっているのである。天台大師は、『法華玄義』第八巻に、「手に経巻を取らなくても、常にこの経を読み、口に言葉の音声がなくても、遍く多くの経典を読誦したことになり、仏が説法していなくても、常に勝れた音声を聞き、心に思惟しなくても、普く法界を照らす」とある。この文の意味は、手に『法華経』一部八巻を取らなくても、この経を信ずる人は、昼夜十二時間の持経者である。口に読経の声がなくても、『法華経』を信ずる者は日々時々念々に一切経を読む者である。仏の入滅後、すでに二千余年が経過していても、『法華経』を信ずる者のもとには仏の声が留まっていて、時々刻々念々に、仏の寿命が久遠であることを聞かせるのである。心に一念三千を観じなくても、遍く十方法界を照らす者である。これらの徳は偏に『法華経』を行じる者に備わっているのである。このために、『法華経』を信ずる者は、たとい臨終の時、心に仏を念じることがなく、口に経を読誦せず、道場に入らずとも、観心することなく法界を照らし、読誦の声なくても一切経を読誦し、経巻を取らなくても『法華経』八巻を取る徳があるのである。

これこそ、権教の念仏者が臨終の時の正念のために、十念の念仏を唱えることを願うことに、百千万倍勝る易行でなくて何であろうか。このために、天台大師は『法華文句』第十巻に、「すべての諸経に勝るために、『随喜功徳品』という」と述べている。妙楽大師は、『法華経』は他の諸経よりも能力の浅い者を優先させる、ということを他の師は知らないために、『法華経』が対象とする者は能力の高い者だとされていることを批判して、「恐らくは人は誤って理解しているのである。初心の功徳が大きいことを読み取らず、能力の高い者への功徳だと思って初心を蔑んでいる。このために、『法華経』の行は浅くても功徳は深いことを示して、この経典の力を表わしている」と述べている。「この経典の力を表わす」という解釈の意趣は、『法華経』は『観無量寿経』などの権経より勝れているために、行は浅くても功徳は深いということである。能力の浅い人を受け入れているためである。もし慧心僧都源信のような先徳が、『法華経』を念仏より難行だと定め、愚者・頑迷な者を受け入れないと言っているとするならば、恐らくは逆路伽耶陀(ぎゃくろかやだ・路伽耶陀は、この世の常識に従った快楽や唯物論を説く外道であり、その逆であるので、極端な禁欲や唯心論を説いた外道)の罪を招くであろう。また「恐らくは人は誤って理解している」と言われる中に入るであろう。

総合的に論じるならば、天台大師・妙楽大師の三大部とその注釈を貫く意趣は、『法華経』は、諸経典によって導かれることのない愚者・悪人・女人・仏となれない一闡提たちを受け入れるということである。他の師は、この仏の意趣を悟らないために、『法華経』は諸経典と同じ、あるいは十地や十住の位の人々のためであると理解し、またあるいは、凡夫においては、遠い未来の成仏の縁となる教義だと理解している。これらの邪義を破り、人天・四悪趣が『法華経』が対象とする人々だと定めているのである。このように、能力の違いとそれに相応する道をもって、過去の善悪を受け入れるのである。人天に生ずる人は、当然、過去世において、五戒や十善などを行じたことが明らかなようなものである。もし慧心僧都がこの教義に背いているならば、どうして天台宗を知る人と言えるのだろうか。しかし法然源空は、深くこの教義に迷っているために、『往生要集』に対して偏見を起こし、自らも誤り、他をも誤りに陥らせる者である。過去世に善行があり、それにふさわしい真実の教えにあいながらも、すべての衆生を教化して権教に戻らせ、さらに真実の教えを破っている。これがどうして悪師でないことがあろうか。久遠の昔に大通智勝如来と『法華経』の縁を結んでおきながら、釈迦如来が成仏して以来の五百億塵点劫、大通智勝如来が滅度してからの三千塵点劫を経て、『法華経』の大いなる教えを捨てて『法華経』以前の権経や小乗に戻るならば、さらに後にはその権経をも捨てて、六道に輪廻するのである。常不軽菩薩を軽蔑して罵った者たちは、千劫の間、阿鼻地獄に堕ちた。権経の師を信じて、実経を広める者を誹謗したためである。しかし法然源空は、自分がただ実経を捨てて権経に入るのみならず、人に勧めて実教を捨てさせ、権経に入れ、また権経の人を実経に入らせないようにしている。その上、実経の行者を罵るならば、その罪からは永劫にも立ち返ることは難しいであろう。

問う:『十住毘婆沙論』は、釈迦一代の経典についての通論である。ならば、難行道・易行道の二道の内に、どうして法華・真言・涅槃を入れないことがあろうか。

答える:釈迦一代の諸大乗経典において、『華厳経』などは、悟りを開いて最初に説いた教えと、後に説いた教えが共に記されている。最初に説いた教えの『華厳経』は、声聞・縁覚の二乗の成仏・不成仏については論じていない。「方等部」の諸経典においては、もっぱら二乗と無仏性の一闡提の成仏を退けている。「般若部」の諸経典も同様である。総合的に見て、『法華経』以前の四十余年の諸大乗経典の意趣は、『法華経』・『涅槃経』・『大日経』などのように、二乗と無仏性の成仏を認めていない。これらによって考えれば、『法華経』以前の経典と『法華経』の相違は、水と火のようなものである。仏の滅後の論師である竜樹・天親もまた共に千部の経典の論師である。その著わされた論書に通別の二論がある。通論においてもまた二種類がある。『法華経』以前の四十余年の経典についての通論と、釈迦一代五十年の経典についての通論である。その二つの通論を分けるものは、決定性の二乗・無仏性の一闡提の成不成をもって、権実の論を定めているのである。そして、『大智度論』は竜樹菩薩の著作であり、鳩摩羅什三蔵の訳である。『般若経』に依る時は二乗作仏を認めないが、『法華経』に依れば二乗作仏を認める。『十住毘婆沙論』もまた、竜樹菩薩の著作であり、鳩摩羅什三蔵の訳である。この論もまた二乗作仏を認めない。これをもって知るのである。この『十住毘婆沙論』は、『法華経』以前の諸大乗経典の意趣を述べた論なのである。

問う:『十住毘婆沙論』のどこに、二乗作仏を認めない文があるのか。

答える:竜樹菩薩著・鳩摩羅什訳『十住毘婆沙論』第五巻に、「声聞地および辟支仏地に堕ちることを、菩薩の死という。すなわちすべての利益を失うのである。たとい地獄に堕ちたとしても、このような畏れは生じない。二乗地に堕ちることに対して、大いに畏れを抱くべきである。地獄の中に堕ちたとしても、究極的には仏に至ることも可能である。しかし、二乗地に堕ちれば、永遠に仏になる道が閉ざされる」とある。この文は、二乗作仏を認めていない。しかも、『維摩経』の「於仏法中以如敗種」の文のようである。

問う:『大智度論』は『般若経』に依って二乗作仏を認めていないが、『法華経』に依って二乗作仏を認めているという文はどうであるか。

答える:竜樹菩薩著・鳩摩羅什三蔵訳『大智度論』一百巻に、「問う。『般若経』により勝れた甚深の教えであるために、『般若経』は阿難に委ね、他の経典は菩薩に委ねたという勝れた教えとは何か。答える。般若波羅蜜は秘密の教えではない。しかし、『法華経』などの諸経典は、阿羅漢の授記や仏になることを説く。したがって、大いなる菩薩はこの教えをよく受持し用いるのである。たとえば、大いなる薬師が、よく毒をもって薬とするようなものである」とある。また、九十三巻に、「阿羅漢の成仏は論義者の知るところではない。ただ仏だけがよく知り尽くすのである」とある。これらの文をもって考えれば、論師の権実は、あたかも仏の権実のように見えるものである。しかし、権経に依る人師がみだりに『法華経』をもって、『観無量寿経』などの権説と同等としてしまい、『法華経』・『涅槃経』の教義を借りて「浄土三部経」の徳とし、決定性の二乗・無仏性の一闡提・常没など往生を認めている。これは、権実を混同している過失を免れない。たとえば、外典儒者が、仏教の内典を盗んで外典を飾るようなものである。これは謗法の過失を免れないであろう。

仏自らが権実を分けられている。その要旨を探れば、決定性の二乗・無性有情の成不成である。しかし、この教義を知らない経典翻訳家が、『法華経』以前の諸経典を翻訳する時、二乗の作仏・無性の成仏を認めてしまっている。この教義を知る翻訳家は、『法華経』以前の経典を翻訳する時、二乗の作仏・無性の成仏を認めないのである。これによって、仏の意趣を悟らない人師もまた、『法華経』以前の経典において、決定性・無性の成仏が述べられていると見て、『法華経』も、それ以前の経典も同じだと思い、あるいは『法華経』以前の経典において、決定無性を退けている文を見て、この教義をもって了義経とし、『法華経』・『涅槃経』をもって不了義経としている。共に仏の意趣を悟らず、権実二教に迷っているのである。これらの誤りを出せば、ただ法然源空一人に限らず、インドの論師ならびに経典翻訳家より中国の人師に至るまで、その事実が見られる。いわゆる地論師・摂論師が、釈迦一代の経典の即時成仏の教えを、遠い未来世の成仏の縁であるとすることや、善導・懐感が、『法華経』の南無仏と一言称えることを、遠い未来世の成仏の縁であるとすることなど、これらは、みな権実を知らないために出て来る誤りである。論書を著わした菩薩、経典を翻訳する経典翻訳家、三昧発得の人師もこのようであれば、ましてや末代の凡師はなおさらである。

問う:あなたは末学の身でありながら、なぜ論師ならびに経典翻訳家や人師を批判するのか。

答える:好んでこのような批判をしているわけではない。摂論師ならびに善導などの解釈は、権実二経を知らずに、みだりに『法華経』をもって、遠い未来の成仏の縁だとしている。このために、天台大師・妙楽大師の解釈とは、水と火の違いを生じているのである。しかし、しばらくこのような人師の相違は置き、経論においてこの是非を検討すれば、権実の二教は仏の教えより出ていることが明らかである。天親・竜樹は重ねてこれを定めている。この教義に従っている人師を仰ぎ、この教義に従わない人師は用いないのである。あえて自分勝手な教義を立てて、是非を定めているのではない。ただその相違を指摘しているだけである。