大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その43

法華経』現代語訳と解説 その43

 

宿王華菩薩よ。この経はすべての衆生を救うのである。この経はすべての衆生を、多くの苦悩から離れさせるのである。この経は大いにすべての衆生を導き、その願を満たすのである。それはまさに、清らかな池が、すべての渇いた者を満たすようであり、寒さを感じる者が、火を得たようであり、裸の者が衣を得たようであり、旅の商人が隊長を得たようであり、子が母を得たようであり、渡ろうとする者が船を得たようであり、病の者が医者を得たようであり、暗闇に燈火を得たようであり、貧しい者が宝を得たようであり、民が王を得たようであり、貿易商が海を得たようであり、灯が闇を除くように、この『法華経』もまたこのようである。衆生のすべての苦しみ、すべての病の痛みを離れさせ、すべての生死の縛りを解くのである。

もしある人がいて、この『法華経』を聞くことができ、自らも書き、人に書かせるとする。その功徳を、仏の智慧をもって測ろうとしても、そのすべてを知ることはできない。もし、この経巻を書いて、華香、瓔珞、焼香、抹香、塗香、飾られた旗や傘、衣服、あらゆる灯火、乳から作った灯火、油の灯火、あらゆる優れた香油の灯火などをもって供養したとするならば、その功徳はまた無量である。

宿王華菩薩よ。もし人がこの「薬王菩薩本事品」を聞いたならば、また無量無辺の功徳を得るであろう。もし女人がいて、この「薬王菩薩本事品」を聞いて受持するならば、その人が死んだ後、再び女人の身を受けることはないであろう。

そして、もしこの女人が、この「薬王菩薩本事品」章を最後の五十年に聞いて(注1)、説くところに従って修行するならば、その命終わって、安楽世界の阿弥陀仏(注2)の、大いなる菩薩たちがいるところに行き、蓮華の中の宝座の上に生まれるであろう。

また貪欲などには悩まされない。また怒りや愚癡に悩まされない。また慢心、嫉妬、あらゆる汚れに悩まされない。そして菩薩の神通力を得るであろう。この神通力を得て、眼は清らかとなり、その眼をもって、七百万二千億那由他の大河の砂の数の諸仏如来を見るであろう。そして、その時に諸仏は、共に褒めて次のように語られるであろう。

『良いことだ、良いことだ。良い男子よ。よく釈迦牟尼仏の教えの中において、この経を受持し、読誦し、思惟し、他人のために説いた。得るところの福徳は無量無辺である。火も焼くことができず、水も流すことができない。その功徳は、千の仏たちが共に説き続けたとしても尽きることがないであろう。

あなたはよく多くの魔賊や生死の軍隊を破り、その他の多くの怨敵をすべて滅ぼした。良き男子よ。百千の諸仏は神通力をもって、共にあなたを守護するであろう。すべての世の天や人の中において、あなたのような者はない。ただ如来を除いて、その他の多くの声聞、辟支仏、さらに菩薩の智慧や禅定も、あなたと等しい者はないであろう』。

宿王華菩薩よ。この菩薩である人は、このような功徳や智慧の力を成就した。もし人がいて、この「薬王菩薩本事品」を聞いて、喜んで『すばらしい』と賞賛するとしたら、その人は現世において、口の中より常に青蓮華(しょうれんげ)の香を出し、身の毛孔の中より、午頭栴檀(ごずせんだん・午頭とはインドの山脈の名であり、特に優れた香木である栴檀の産地とされていた)の香を出すであろう。得るところの功徳は以上説いた通りである。

このために宿王華菩薩よ。この「薬王菩薩本事品」をもってあなたに委ねる。最後の時であり最後の機会である最後の五十年の中(注3)で、この地に広く述べ伝えて、決して悪い菩薩の魔、魔民、諸天、龍や夜叉や鳩槃荼(くはんだ・夜叉と同様、鬼神の一種)たちに攻撃の機会を与えないようにせよ。

宿王華菩薩よ。あなたはまさに神通力をもって、この経を守護すべきである。なぜならば、この経はすなわち、この地の人の病の良薬であるからである。もし病人がいたとして、この経を聞くならば、病はすなわち消滅して不老不死となるであろう。

宿王華菩薩よ。あなたがもしこの経を受持する者を見るならば、まさに青蓮華と抹香を盛り満たし、その上に供養して注ぐべきである。注ぎ終わって、次のように思うべきである。

『この人は遠からず必ずまさに、草を取って道場に座り、多くの魔軍を破るであろう。教えの螺(ほらがい)を吹き、大いなる教えの鼓を打って、すべての衆生を、その老病死の海から救い出すであろう』。

このために、仏の道を求める者は、この経典を受け保つ人を見るならば、まさにこのような尊敬の心を起こすべきである」。

仏がこの「薬王菩薩本事品」を説きたもう時、八万四千の菩薩たちは、解一切衆生語言陀羅尼を得た。

多宝如来は宝塔の中において、宿王華菩薩を褒めて次のように語られた。

「良いことだ。良いことだ。宿王華菩薩よ。あなたは思いも及ばない功徳を成就して、よく釈迦牟尼仏にこのことを問い、無量の衆生に悟りへの糧を与えた(注4)」。

 

注1・「最後の五十年に聞いて」 この箇所の漢訳は、「若如来滅後。後五百歳中」である。しかし、この箇所のサンスクリット原文からの直訳は、「ある女性がこの章を最後の五十年に聴いて」となっている。ではなぜ、漢文ではこのようになっているのか、つまり鳩摩羅什はなぜ、この箇所をこのような漢文に翻訳したのであろうか。

それを考えるにあたって、まず「最後の五十年」とはどういう意味であろうか。それは明らかに、ここではこの女人の一生の期間を表わしているのである。昔は、人の一生の期間は、五十年ほどであると認識されていたことは、多くの人々が知っている通りである。さらに、この箇所では、直前の女人の話において、その女人は「再び女の身を受けることはないであろう」とある。このサンスクリット原文の言い回しは、「この世が女性としての最後の生涯となるであろう」となっている。まさに、この文は明らかに一生の期間を表現しているのである。つまり「最後の五十年の間」という言葉も、同じように、この女人における、女性としての最後の一生の期間と解釈すれば、この連続する文においてぴったり一致するのである。

そして、この「如来滅後。後五百歳中」という表現は、この「薬王菩薩本事品」の最後の部分にもう一度記されており、また、『法華経』の最後の「普賢菩薩勧発品」にも記されている。このことについては、またその箇所の解説で述べることにする。ここではあくまでも、鳩摩羅什が、この女人の一生の意味である「最後の五十年」ということを理解できず、他の『法華経』にある記述と同じ意味と理解して、このように訳したことを指摘するにとどめる。

注2・もうひとつこの箇所で注目される箇所は、阿弥陀仏の話が記されているという点である。一般的に、『法華経』の信仰と阿弥陀仏の信仰は対立するという観念がある。つまり、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」とは対立すると考えられているようだが、実際は、『法華経』の中に阿弥陀仏の信仰が登場しているのである。同じ『法華経』の「化城喩品」で、大通智勝如来の十六王子の話があり、そこでも、王子たちの中で釈迦如来阿弥陀如来は兄弟ということになっていた。このようなことは、ほとんど知られていないのではないだろうか。あるいは、積極的には広められてこなかったとしか言いようがない。

また、「南無妙法蓮華経」と「南無阿弥陀仏」とは対立すると考えられる理由は、日蓮上人が、法然上人の『選択本願念仏集』を批判したことに由来するが、日蓮上人は、阿弥陀仏の信仰を頭から否定しているわけではなく、あくまでも法然上人の、阿弥陀仏の信心以外はすべて捨てる、という姿勢を批判しているのである。

注3・「最後の時であり最後の機会である最後の五十年の中」 ここでは、宿王華菩薩に委ねられた言葉として、この『法華経』をこの地に広く述べ伝えるべき期間を表している。

まずここでも、この箇所の本当の意味を見ていくことにする。この箇所のサンスクリット原本の直訳では、その少し前から見ると、「したがって、宿王華菩薩よ。この薬王菩薩本事品が最後の時であり最後の機会である最後の五十年の経過している間に、この娑婆世界に行なわれて消滅しないように、(中略)私はそれをあなたに委ねよう」となっている。この原本の「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」は、先の女人の生涯のことと同じく、この宿王華菩薩の生涯を表わしていると解釈すれば、すべて意味が通じる。つまり、宿王華菩薩は、もう二度と、この娑婆世界には生まれて来ないのである。したがって、宿王華菩薩にとっては、現在の娑婆世界にいる期間が、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」と表現されるのである。言い換えれば、仏が宿王華菩薩に「薬王菩薩本事品」を委ねるということは、彼がこの娑婆世界にいる最後の機会の五十年間、この娑婆世界にそれが行なわれて消滅しないことが期待されているということなのである。このように解釈すれば、「最後の時であり最後の機会である最後の五十年」という一見不思議な言葉も、その意味がよくわかる。

しかし、先にも述べたように、このようなことを読み取ることができなかった鳩摩羅什は、先の女人の箇所と同様に、この個所も、「最後の・・最後の」と連続することを誤解して、「我滅度後。後五百歳中」と訳してしまった。このように訳すべき個所は、実は、最後の章である「普賢菩薩勧発品」にある。このことについては、その箇所を注釈するところで述べる。

注4・この「薬王菩薩本事品」の最初の注に書いたように、前章である「嘱累品」の最後の盛り上がりに水を差すかのように、宿王華菩薩は薬王菩薩のことについて質問をした。しかし、この最後の多宝如来の言葉は、絶妙なホローを与えていることになる。つまり結局、この菩薩の質問によって、一度は、釈迦如来から本土に帰るように促された多宝如来はじめ多くの諸仏も、また娑婆世界の『法華経』の法座に引き留められ、釈迦如来もこれに続く各章を説かれるようになった、ということなのである。それならば、確かに宿王華菩薩は、思いも及ばない大きな功徳を成就したことになる。もちろん、最初からこのような記述があったわけではなく、『法華経』の編纂に当たって、辻褄を合わせるために記されたものと考えることが自然である。

『法華経』現代語訳と解説 その42

法華経』現代語訳と解説 その42

 

妙法蓮華経 薬王菩薩本事品 第二十三

 

その時に、宿王華(しゅくおうけ)菩薩は、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。薬王(やくおう)菩薩は、娑婆世界においてどのようなわざを行なうのでしょうか。世尊よ。この薬王菩薩は、百千万億那由他難行苦行をしています。良き方である世尊よ。願わくは説いてください。多くの天竜八部衆、また他の国土より来た菩薩、および声聞たちはそれを聞いてみな喜ぶでしょう」(注1)。

その時に仏は、宿王華菩薩に次のように語られた。

「無量の大河の砂の数ほどの年数が過ぎた遠い過去に、仏がいた。その名を、日月浄明徳(にちがつじょうみょうとく)如来といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達し、世間を理解し、無上のお方であり、人を良く導き、天と人との師であり、仏であり、世尊である。その仏に八十億の大いなる菩薩たちと、大河の砂を七十二倍した数の大いなる声聞たちがいた。その仏の寿命は四万二千劫、菩薩の寿命もまた同じであった。

その国には、女人、地獄、餓鬼、畜生、阿修羅等、およびあらゆる災難などはなかった。地は手のひらのように平らであり、瑠璃でできていた。宝樹は厳かに壮大であり、宝の網はその上を覆い、宝の華の幕が垂れ、宝の瓶、香炉などが国の境を囲っていた。一つの樹に七宝によってできた台があった。その樹の高さも非常に高かった。その多くの宝の樹には、菩薩や声聞がいて、その下に座っていた。多くの宝の台の上に、それぞれ百億の諸天がいて、天の伎楽を演奏し、仏を讃嘆する歌をもって供養していた。

その時、その仏は一切衆生憙見(いっさいしゅじょうきけん)菩薩、および多くの菩薩たちや多くの声聞たちのために、『法華経』を説かれた。

この一切衆生憙見菩薩は自ら願って苦行を修し、日月浄明徳仏の教えに従って精進して、一心に仏を求め続けて万二千歳が満ちたところで、現一切色身三昧(げんいっさいしきしんざんまい・注2)を得た。この三昧を得て、大いに喜んで、次のように思った。

『私が現一切色身三昧を得ることができたのは、法華経を聞いたからである。私は今、まさに日月浄明徳仏および法華経を供養しよう』。

こうして即時にこの三昧に入って、虚空の中において、天の華や栴檀を降らせ、それらを虚空の中に満たして雲のようにして下し、この大陸の果てにある栴檀の香を降らせた。これらの価値は、この娑婆世界そのものに匹敵する。このようにして仏を供養した。

この供養をなし終わって、三昧より立って次のように思った。

『私は神通力をもって仏を供養したが、自分の身体をもって供養することには及ばない』。こうして即座に、多くの香である栴檀・薫陸(くんろく)・兜楼婆(とろば)・畢力迦(ひつりきか)・沈水(じんすい)・膠香(きょうこう・注3)を飲み、また瞻蔔(せんぼく・注4)などの多くの華の香りの油を飲み続けて、千二百年が満ちた時、さらに香油を身体に塗り、日月浄明徳仏の前において、天の宝の衣をもって自ら身体にまとい、多くの香油を注ぎ、神通力によって自らの身体を燃やした。その光明は広く大河の砂を八十億倍したほどの数の世界を照らした。

その中の諸仏は、同時にこれを褒めて、次のように言った。

『良いことだ、良いことだ。良き男子よ。これこそ真の精進である。これこそ真の教えのゆえに如来を供養することだ。もし華や香、瓔珞、焼香、抹香、塗香、天の布、旗や傘、およびこの大陸の果てにある栴檀の香などの諸物をもって供養するとしても、これには及ばない。たとい国や城や妻子を捨てることも、またこれには及ばない。良き男子よ。これこそ第一の施しである。多くの施しの中で、最も尊く最上である。教えのゆえに、多くの如来を供養したからである』

このように語って、諸仏はそれぞれ沈黙した。

その身体の火は、千二百年燃え続け、その後、その身体は燃え尽きた。

一切衆生憙見菩薩は、このような教えに対する供養を行ない、命が終わった後は、また日月浄明徳仏の国の中に生まれて、その世では、浄徳王という者の家において、結跏趺坐(けっかふざ)して忽然と姿を現わし、その王である父親に向かって、偈の形をもって次のように語った。

『大王に申し上げます 私はかの場所において 即時に一切現諸身三昧を得て 大いに精進して その時の肉体を捨てたのです 』。

この偈を説き終わり、父に次のように語った。

『日月浄明徳仏は、今もこの世におられます。私は先の世でこの仏を供養し、すべての衆生の言葉を理解する陀羅尼を得(注5)、また、この法華経の八百千万億那由他の甄迦羅(けんがら)・頻婆羅(びんばら)・阿閦婆(あしゅくば・注6)などの偈を聞きました。大王よ。私は今、まさにこの仏を供養するために行きます』。

このように語り終わって、即座に七宝の台に座り、非常に高く虚空に昇って、仏の場所に到着し、頭面に仏の足をつけて礼拝し、十の指の爪を合わせて、偈の形をもって次のように仏を賛美した。

『その御顔は妙にして清らかで その光明はあらゆる方角を照らされます 私はかつて供養し また今お会いするために戻って来たのです 』。

その時に一切衆生憙見菩薩は、この偈を説き終わって、仏に次のように申し上げた。

『世尊よ。世尊はなおこの世にいらっしゃったのですね』。

その時に日月浄明徳仏は、一切衆生憙見菩薩に次のように語られた。

『良き男子よ。私は涅槃の時が近づき、滅度してすべてが尽きる時となった。その床を用意してほしい。私は今夜、まさに涅槃に入るであろう』。

また、一切衆生憙見菩薩に次のように告げられた。

『良き男子よ。私は仏の教えをあなたに委ねる。および多くの大弟子である菩薩たち、ならびに阿耨多羅三藐三菩提の教え、また七宝でできたすべての世界、あらゆる宝の樹、宝の台、および給侍する諸天を、すべてあなたに与える。私が滅度した後に残った舎利もまた、あなたに委ねる。まさにこの舎利があらゆるところで供養され、千の塔が建てられるようにせよ』。

このように日月浄明徳仏は一切衆生憙見菩薩に告げ終わって、夜半に涅槃に入られた。

その時、一切衆生憙見菩薩は、仏の滅度を見て嘆き悲しみ、仏を恋慕して、この大陸の果てにある栴檀の香木をもって薪とし、仏の身を焼いて供養した。その火が消えてから舎利を収集し、八万四千の宝瓶を作って、八万四千の塔を建てた。その塔はどの世界よりも高く、厳かに飾られ、多くの旗や幕が垂れ、多くの宝の鈴がかけられた。

その時、一切衆生憙見菩薩は次のように思った。

『私はこのように供養したけれども、これではまだ心が満たされない。私は今さらに舎利を供養しよう』。

そして、多くの菩薩、大弟子、および天、龍、夜叉などのすべての大衆に次のように語った。

『あなたがたはまさに私と心を一つにしてほしい。私は今、日月浄明徳仏の舎利を供養する』。

このように語ってから、八万四千の塔の前において、あらゆる福徳に満ちた荘厳なる肘(ひじ・注7)を七万二千年間燃やし続け、舎利を供養した。

それによって、無数の声聞を求める人々のうち、数えることができないほどの多くの人々が、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こし、みな、現一切色身三昧に入ることができた。

その時に多くの菩薩、天、人、阿修羅などの天的存在たちは、この菩薩の肘が焼けてなくなっているのを見て、とても悲しみ嘆いて、次のように言った。

『この一切衆生憙見菩薩は、私たちの師であり、私たちを教化された方である。しかし今、肘が焼けて不自由な身体になってしまった』。

その時に一切衆生憙見菩薩は、大衆の中において、次のように誓った。

『私は両方の肘を捨てても、必ず仏の金色の身を得るであろう。もしこの言葉が真実であり偽りでなければ、その証拠として、私の両方の肘は以前のように元通りになるであろう』。

この誓い終えたとき、両方の肘は自然に元通りになった。この菩薩の福徳と智慧が豊かであるためである。その時に、すべての世界は六通りに震動し、天より宝の華が降り、天や人は未曾有だと驚いた」。

仏はなおも続けて、宿王華菩薩に次のように語られた。

「あなたはどう思うか。一切衆生憙見菩薩は、誰でもない、今の薬王菩薩なのである。このように数えることもできないほど、その身を捨てて布施したのである。

宿王華菩薩よ。もし阿耨多羅三藐三菩提を求めようという心を起こす者は、手の指や足の指を燃やして仏塔に供養せよ。それは、国や城、妻子、およびすべての世界の山林、川や池、あらゆる珍宝をもって供養する者に勝るのである(注8)。

もしある人が、七宝をもってすべての世界を満たし、仏および大いなる菩薩、辟支仏、阿羅漢に供養したとする。その人が得るところの功徳も、たとえそれが最も大きな功徳の場合でも、この『法華経』の一句あるいは四句の偈を受持する功徳には、比べようもないほど小さい。

宿王華菩薩よ。たとえばすべての川の流れ、江河の水と比べても、海の水が比べようもないほど第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。多くの如来が説いた経典の中において、最も深大である。また、この世界にあるすべての山の中で、須弥山が第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。諸経の中において、最も高いのである。またあらゆる星の中で、月が最も第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。千万憶の諸経の教え中において、最も明るいのである。また、太陽があらゆる闇を除くように、この『法華経』もまたこれと同じである。すべての不善の闇を破るのである。また、あらゆる王の中で、転輪聖王が最も第一であるように、この『法華経』もまたこれと同じである。多くの経の中において、最も尊いのである。また、帝釈天が三十三天の中で王であるように、この経もまたこれと同じである。多くの経の中の王である。また、大梵天王が、すべての衆生の父であるように、この経もまたこれと同じである。すべての聖なる者、賢い者、学ぶべきことがある者、もはや学ぶべきことがない者、および菩薩の心を起こす者たちの父である。また、すべての凡夫の中で、須陀洹(しゅだおん)・斯陀含(しだごん)・阿那含(あなごん)・阿羅漢(あらかん)・辟支仏(びゃくしぶつ・注9)が第一であるように、この経もまたこれと同じである。すべての如来の所説、または菩薩の所説、または声聞の所説、あらゆる経の教えの中で、最も第一である。この経典を受持する者も、またこのようである。すべての衆生の中で第一である。すべての声聞、辟支仏の中で、菩薩が第一であるように、この経もまた同じである。すべての経の教えの中で、最も第一である。仏があらゆる教えの王であるように、この経もまた同じである。あらゆる経の中の王である。

 

注1・今回から、第二十三章にあたる「薬王菩薩本事品(やくおうぼさつほんじほん)」である。「本事」とは「過去の話」という意味であり、遠い過去から前世に至るまでのことを指す。

ところで、直前の「嘱累品」は、『法華経』を委ねられた人々が大いに喜び、その中で釈迦如来が他国から来た諸仏に、本土に帰るよう促す場面で終わっている。まさに『法華経』が、クライマックスの盛り上がりの中で終わると思いきや、いきなり、「薬王菩薩について教えてください」と仏に質問する宿王華菩薩は、よほど空気の読めない人、ということになってしまう。ここまで『法華経』を読んでくると、誰もがこの章の冒頭で、そのような違和感を持つのではないだろうか。

法華経』は、この経典を創作したグループが、自分たちが確信する霊的真理に基づいて文を作り、また他のグループの文であっても、一致していると思われる経典を集めたりなどして編集し、出来上がっていった経典である。決して、実在した歴史的釈迦が一気に説いた経典ではない。したがって、必ずしも各章が順序よく成り立っているわけではない。したがって、このように連続して読むにあたっては、少々無理があると思われる節々も生じるわけである。

注2・「現一切色身三昧」 あらゆる衆生の姿を、自由に表すことができる三昧であると考えられる。

注3・「薫陸」は南インドで取れる香、「兜楼婆」は香り高い草、「畢力迦」は熱帯に育つ香木、「沈水」は沈香が取れる熱帯産の香木、「膠香」はウルシ科の木から取れるもので薬として用いられる。

注4・「瞻蔔」 クチナシのこと。

注5・「すべての衆生の言葉を理解する陀羅尼を得」 現一切色身三昧の言葉の面を強調した表現と思われる。

注6・「甄迦羅」は十六桁、「頻婆羅」は十八桁、「阿閦婆」は二十桁を表わす数名。

注7・「肘」 ひじと読むが、この場合は腕のこと。

注8・自分の手の指や足の指を燃やして供養するということは、もちろんこの世の話ではない。『法華経』は、この娑婆世界を含めたあらゆる仏国土の次元の話が語られているため、すべてをこの娑婆世界でのことと理解することは誤りである。また、最後の箇所に、たとい仏に対して大いなる供養をしたとしても、この『法華経』の一句でも受持する功徳は、それに比べ物にならないほど大きい、と繰り返し述べられているところから、その功徳を、菩薩が自分の身を燃やす供養に匹敵するほどであると暗に示していると考えられる。

注9・「須陀洹」・「斯陀含」・「阿那含」・「阿羅漢」の四つは、声聞の四果であり、「辟支仏」は縁覚のことであるため、つまり二乗を表わしている。

守護国家論 現代語訳 10

守護国家論 現代語訳 10

 

第五章

 

全体を七門に分けた第五として、正しい教えに導く善知識の人、ならびに真実の教えにはめぐり会うことは難しいことを述べるならば、これに三節ある。

一節は、人身は受け難く仏法は会い難いことを明らかにし、二節は、受け難い人身を受け、会い難い仏法に会うといっても、悪知識に会うために三悪道に堕ちることを明らかにし、三節は、正しく末代の凡夫のための善知識について明らかにする。

 

第五章 第一節

 

人身は受け難く、仏法は会い難いことを明らかにすれば、『涅槃経』第三十三巻には、「その時、世尊は地の少土を取ってこれを爪の上に置き、摩訶迦葉に告げて言われた。この土と十方世界の地の土と、どちらが多いか。迦葉菩薩は仏に申し上げた。世尊よ、爪の上の土は十方にある土とは比べものになりません。善き男子よ。人が人身を捨てた後に再び人身を得、または三悪の身を捨てた後に人身を受け、さらに、あらゆる身体の器官を完全に備えて、仏法が説かれる国に生じ、正しい信心を具足してよく道を修習し、道を修習した後によく正しい道を修し、正しい道を修した後によく解脱を得、解脱を得た後によく涅槃に入るとするならば、それはまさに爪の上の土のようである。人身を捨てた後に三悪の身を得、三悪の身を捨てた後に三悪の身を得、あらゆる身体の器官が備わっておらず、仏法から遠い地に生じ、邪悪顛倒の教えを信じて邪道を修習し、解脱常楽の涅槃を得ることができないということは、十方世界の地の土のようである」とある。

この文は、多く法門を集めて一つとしている。人身を捨てて再び人身を受けるということは、爪の上の土のようであり、人身を捨てて三悪道に堕ちることは、十方の土のようである。三悪の身を捨てて人身を受けることは、爪の上の土のようであり、三悪の身を捨てて再び三悪の身を得ることは、十方の土のようである。人身を受けることは十方の土のようであり、人身を受けてあらゆる身体の器官が完全であることは、爪の上の土のようである。人身を受けてあらゆる身体の器官が完全であっても、仏法から遠い地に生じることは十方の土のようであり、仏法が説かれる国に生じることは、爪上の土のようでる。仏法が説かれる国に生じることは十方の土のようであり、そこで仏法に会うことは爪の上の土のようである。

また、「一闡提とならず、善根を断じることはなく、この涅槃経典を信じることは爪の上の土のようであり、(中略)一闡提となり、あらゆる善根を断じ、この経典を信じないことは、十方世界の地の土のようである」とある。この文の通りならば、法華・涅槃を信ぜず、一闡提となることは十方の土のようであり、法華・涅槃を信じることは爪の上の土のようである。

この経文を見れば、いよいよ感涙が押さへ難い。今、日本国の諸人を見聞すれば、そのほとんどが権教を行じている。たとい身口には実教を行じるといっても、その心にはまた権教がある。このために、天台大師は『摩訶止観』第五巻に、「その癡鈍な者は毒気が深く入って本心を失い、そのために、すでに信じていないのでそれが手に入らず、(中略)大罪を集めた人である。(中略)たとい世を厭う者も、下劣の教えを学び、枝葉末端にまとわりつき、犬がなすべきことを侮り、猿を敬って帝釈天とし、瓦礫を拝んで明珠とするようなものである。この闇の中にいる人がどうして道を論じることができようか」とある。

源空法然ならびにその教えを受けた者たちは、深く三毒の酒に酔って、大通智勝如来の結縁の本心を失っている。『法華経』・『涅槃経』に対して不信の思いを起こし、一闡提となり、『観無量寿経』などの下劣の教えに依って、方便称名などの瓦礫を学び、犬や猿のような法然房を敬って、智慧第一の帝釈天と思い、『法華経』・『涅槃経』の如意宝珠を捨てて、如来の聖教を狭めていることは、権実二教について知らないためである。

このために、『止観輔行伝弘決』第一巻には、「この円頓を聞いて尊重しない者は、まさに近代の大乗を習う者の雑乱によるためである」とある。大乗において、権実二教を知らないことを雑乱というのである。したがって、末代において『法華経』を信ずる者は爪の上の土のようであり、『法華経』を信ぜず、権教に堕落する者は十方の微塵のようである。このために、妙楽大師は嘆いて、「像法の末期は、情が薄く信心が少なく、円頓の教法が蔵に溢れ、箱に満ちていても、少しも思惟することをしない。これは目がふさがっていることによる。無駄に生まれ、無駄に死ぬ。誠に痛ましいばかりである」と述べている。この解釈は、偏に妙楽大師が菩薩の化身であるために、遠く日本国の今の時代を鑑みて記し置く所の未来記である。

問う:法然上人の門弟の内にも、一切経蔵を安置し『法華経』を行じる者はいる。どうして、すべての人を謗法の者と言うのか。

答える:一切経を開き見て『法華経』を読むのは、『法華経』が難行道である理由をあげ、『選択本願念仏集』の悪義を助けるためである。経論を開くことによって、ますます謗法を増すことは、たとえば善星比丘が十二部経を、提婆達多が六万蔵を受持読誦したことのようである。自らを智者と称することは、自身を重んじ悪法を助けるためである。

 

第五章 第二節

 

受け難い人身を受け、会い難い仏法に会うといっても、悪知識に会うために三悪道に堕ちることを明らかにする。『仏蔵経』には、「大荘厳仏の滅後に五比丘がいた。一人は正道を知って数億の人を悟りに導き、他の四人は邪見を持った。この四人は命が終って後、阿鼻地獄に堕ちた。そこで仰向けになったり、うつ伏せになったり、左向きに寝たり、右向きに寝たりしてそれぞれ九百万億年間苦しんだ。(中略)この人に親近した在家出家の者たち、ならびにあらゆる檀越たち、およそ六百四万億人がいた。この人たちは、この四師と共に生じ共に死に、大地獄にあって多くの焼かれたり煮られたりの苦を受けた。非常に多くの劫数が尽きれば、この四悪人および六百四万億の人は、この阿鼻地獄より他方の大地獄の中に転生した」。また、『涅槃経』第三十三巻には、「その時に城中に一人のジャイナ教徒がいた。名を苦得という。(中略)善星比丘は苦得に質問した。彼は答えて、私は食吐鬼(じきとき)の身を得た。善星よ明らかに聞け。(中略)その時に善星はすぐに私の所に戻って、世尊よ。ジャイナ教徒の苦得は、命終えた後に三十三天に生じるでしょうと言った。(中略)その時に如来はすぐに摩訶迦葉と共に善星の所に行った。善星比丘は遥かに私が来るのを見ると、見終わってすぐに悪しき邪心を生じさせた。悪心のために、生身のまま阿鼻地獄に堕ちた」とある。

善星比丘は仏が菩薩だった時の子である。仏に従って出家して十二部経を受け、欲界の煩悩を破って四禅定の位を得た。ところが、悪知識である苦得外道に会って、仏法の正義を信じなくなったために、出家の受戒・十二部経の功徳を失い、生身のまま阿鼻地獄に堕ちた。苦岸などの四比丘に親近した六百四万億の人は、四師と共に十方の大阿鼻地獄を経ることとなった。今の世の道俗は、『選択本願念仏集』を尊ぶために、源空法然の影像を拝して一切経を難行の邪義として読む。たとえば、ジャイナ教の教祖である尼乾(にけん・尼乾陀若提子の略。マハーヴィーラ)が教化した弟子が、尼乾の遺骨を拝して三悪道に堕ちたようなものである。願はくは今の世の道俗たちが、『選択本願念仏集』の邪正を判断した後に、供養恭敬をするように。そうでなければ、必ず後悔するであろう。

このために、『涅槃経』には、「大いなる菩薩は悪象などに対して心に怖畏しないようにせよ。しかし悪知識に対しては怖畏の心を生ぜよ。なぜであろうか。この悪象などはただ身体を傷つけるだけであり、心を破ることはできない。しかし、悪知識はこの二つ共に破るためである。また、この悪象などはただ一人の身体を傷つけるだけであるが、悪知識は無量の善身と無量の善心を破る。また、この悪象などはただ不浄の臭い身体を破壊するだけだが、悪知識は浄身および浄心を破る。また、この悪象などは肉身を破るだけだが、悪知識は法身を破る。また、悪象のために殺されても三趣に至ることはないが、悪友のために殺されては必ず三悪に至る。また、この悪象などはただ身体の怨となるだけだが、悪知識は善法の怨となる。このために、菩薩は常にまさにあらゆる悪知識を遠離すべきである」とある。

請い願はくは、今の世の道俗は、たといこの書を邪義だと思ったとしても、それはしばらく置いておき、『十住毘婆沙論』を開き、その難行の内に『法華経』が入っているか入っていないかを調べ、『選択本願念仏集』の「準之思之」の四字を検討した後に是非を論じるようにせよ。誤って悪知識を信じ、邪法を習い、この生を空しくすることのないようにせよ。

 

第五章 第三節

 

正しく末代の凡夫のための善知識について明らかにする。

問う:善財童子は五十余の知識に会った。その中に普賢・文殊・観音・弥勒があった。常啼・班足・妙荘厳・阿闍世たちは、曇無竭・普明・耆婆・二子と夫人に会って生死を離れた。彼らはみな大聖である。仏が世を去って後、このような師を得ることは難しいとしなければならない。仏の滅度の後においても、竜樹・天親もまたすでに去った。南岳大師・天台大師にも会うことはない。ではどうして生死を離れることができるだろうか。

答える:末代にも真実の善知識はいる。それは『法華経』・『涅槃経』である。

問う:人を善知識とするのが常の習いである。法をもって知識とする証文はあるのか。

答える:確かに、人をもって知識とすることが常の習いである。しかし、末代においては、真の知識がいないので、法をもって知識とし、その多くの証文もある。『摩訶止観』には、「あるいは知識に従い、あるいは経巻に従って、上に説く所の一実の菩提を聞く」とある。この文の意趣は、経巻をもって善知識とするのである。また『法華経』には、「もし『法華経』を閻浮提に行じ受持する者は、まさにこの念を生じさせるべきである。みなこれは、普賢威神の力である」とある。この文の意趣は、末代の凡夫が『法華経』を信ずることは、普賢の善知識の力であるというのである。また、「もしこの『法華経』を受持し読誦し正しく憶念し修習し書写する者は、まさに知るべきである。この人は釈迦牟尼仏を見るのである。仏の口よりこの経典を聞くようなものである。まさに知るべきである。この人は釈迦牟尼仏を供養するのである」とある。この文を見れば、『法華経』は釈迦牟尼仏である。『法華経』を信じない人の前では、釈迦牟尼仏は入滅を取り、この経典を信ずる者の前では、滅後だといっても、仏の在世なのである。また、「もし私が成仏して滅度した後、十方の国土において『法華経』を説く所があれば、私の塔廟はこの経を聴くために、その前に涌現して証明しよう」とある。この文の意趣は、私たちが『法華経』の名号を唱えれば、多宝如来はその本願のために、必ず来られるということである。また、「十方世界にあって法を説く諸仏をすべて一処に集めたもう」とある。

釈迦・多宝・十方の諸仏・普賢菩薩は、私たちの善知識である。もしこの教義に依れば、私たちもまた宿善・善財・常啼・班足たちよりも勝れている。彼らは権経の知識に会い、私たちは実経の知識に会っているからである。彼らは権経の菩薩に会い、私たちは実経の仏菩薩に会い奉っているからである。

『涅槃経』には、「法に依って人に依るべからず、智慧に依って知識に依るべからず」とある。法に依るの法とは、『法華経』・『涅槃経』の常住の法を指す。人に依らずの人とは、『法華経』・『涅槃経』に依らない人である。たとい仏菩薩であったとしても、『法華経』・『涅槃経』に依らない仏菩薩は善知識ではない。ましてや、『法華経』・『涅槃経』に依らない論師・訳者・人師はなおさらである。智慧に依るとは仏に依ることである。知識に依らずとは、等覚(注1)以下を指す。今の世間の道俗たちは、源空法然の謗法の誤りを隠すために、その徳を天下に広めて権化だと言っている。用いてはならない。外道は五神通力を得て山を傾け海を干上がらせるとしても、神通力のない『阿含経』の凡夫にも及ばない。阿羅漢を得て六神通力を表わす二乗は、『華厳経』・「方等経」・『般若経』の凡夫に及ばない。『華厳経』・「方等経」・『般若経』の等覚の菩薩も、『法華経』の名字即・観行即(注2)の凡夫に及ばない。たとい神通力や智慧があるといっても、権教の善知識を用いるべきではない。

私たちのような常に迷いに沈む一闡提の凡夫が、『法華経』を信じようとすることは、仏性を顕すための前兆である。このために妙楽大師は、「内側からの真如の働きかけがなければ、どうして悟りを得ることができようか。このために知ることができる。悟りを生ずる力は真如にあり、したがって、内側からの真如の働きかけを外護とするのである」と述べている。

法華経』より前の四十余年の諸経には、十界互具(じっかいごぐ・注3)はない。十界互具を説かなければ、内心の仏界を知ることはできない。内心の仏界を知らなければ、外の諸仏も現われることはない。このために、四十余年の権行の者は仏を見ない。たとい仏を見るとしても、他仏を見るのである。声聞と縁覚の二乗は、自らの内の仏を見ないために成仏はない。『法華経』以前の菩薩もまた、自身の十界互具を見ないので、二乗の成仏を見ない。したがって、衆生無辺誓願度(注4)の願も満足しない。このために、菩薩であっても仏を見ず、凡夫もまた十界互具を知らないために、自身の内の仏界が現われない。したがって、阿弥陀如来の来迎もなく、諸仏如来の加護もない。たとえば、盲人が自分の姿を見ることがないようなものである。今、『法華経』に至って九界の仏界を開くために、四十余年の菩薩・二乗・六道の凡夫は、初めて自身の内の仏界を見る。この時この人の前に初めて仏・菩薩・二乗が立てられる。この時に二乗・菩薩は初めて成仏し、凡夫は初めて往生する。このために、在世と滅後の一切衆生の真実の善知識は『法華経』であることが明らかである。

天台宗の学者は、『法華経』以前の諸経において、それぞれの悟りを得ることはあるが、天台教学の教義においては、真実の悟りを得ることにはならない。しかし、この書においては、そのすべてを記すことは不可能である。概略的に記したまでである。後にまた記すことにする。

 

注1・「等覚」 等覚は、仏の妙覚のひとつ手前の位であり、菩薩の位である。

注2・天台教学では、六即の位を立てる。すなわち、①理即(りそく)は、誰であっても真理の表われであるが、それを知らず、迷いの中にいる人々のこと。②名字即(みょうじそく)は、仏法を学び始めて、知識的に真理について知っているという状態。③観行即(かんぎょうそく)は、心を観察する修行である観行を実践している状態。④相似即(そうじそく)は、修行の結果、究極的な悟りではないが、ある程度の悟りを得た状態。⑤分真即(ぶんしんそく)は、究極的な悟りの一部を得ている状態。⑥究竟即(くきょうそく)は、究極的な悟りに達した状態。このように、即とは、真理の次元ではみな同じであるという、「相即(そうそく)」の思想を表わし、何よりも、修行者を励まし、また高慢にならないようにする目的がある。これが天台教学の大きな特徴のひとつである。

注3・「十界互具」 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩・仏という、衆生が転生する可能性のある十の世界の一つ一つに、他の一つ一つの世界が互いに具わっているという思想。これも天台教学の中心の一つである。

注4・「衆生無辺誓願度」 四弘誓願(しぐせいがん)の中のひとつ。①衆生無辺誓願度は、すべての衆生を悟りに導くという誓願。②煩悩無量誓願断は、煩悩は無量であってもすべて断つという誓願。③法門無尽誓願学は、法門は無尽であっても、すべて学びつくすという誓願。④仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう) - 仏の道は無上であっても成就するという誓願

『法華経』現代語訳と解説 その41

法華経』現代語訳と解説 その41

 

妙法蓮華経 嘱累品 第二十二

 

その時に釈迦牟尼仏は、法座より立って、大いなる神通力を現わされた。右の手をもって無量の大いなる菩薩たちの頭の上をなでて、次のように語られた(注1)。

「私は測ることもできないほどの無量の歳月において、この得難い阿耨多羅三藐三菩提への教えを修習した。今、これをあなたがたに委ねる。あなたがたはまさに、一心にこの教えを広め、多くの人々を導くべきである」。

このように三度、多くの大いなる菩薩たちの頭の上をなでて、次のように語られた。

「私は測ることもできないほどの無量の歳月において、この得難い阿耨多羅三藐三菩提への教えを修習した。今、これをあなたがたに委ねる。あなたがたはまさに、この経を受持し読誦し、広くこの教えを述べ伝えて、すべての衆生が聞いて知るようにすべきである。それはなぜであろうか。如来には大いなる慈悲があり、滞ることなく、また恐れることなく、衆生に仏の智慧如来智慧、自然(じねん)の智慧を与える。如来はすべての衆生にとって大いなる施主である。あなたがたはまさに、従って如来の教えを学ぶべきである。怠けることがないようにせよ。未来世において、もし良き男子や良き女子がいて、如来智慧を信じようとする者には、まさにこの『法華経』を演説して、聞いて知るようにすべきである。その人に仏の智慧を得させるためである。

もし衆生の中に信受することをしないない者があれば、まさに如来の他の深い教えによって、示し教え導き喜ばすべきである。あなたがたはもしこのようにするならば、すでに諸仏の恩に報いていることになる(注3)」。

この時に多くの大いなる菩薩たちは、仏がこのように語られたことを聞き終わって、みな大いに喜びにあふれ、大きな尊敬の念を抱き、身体を曲げて頭を垂れ、合掌して仏に向かって共に次のように申し上げた。

「世尊の命じられた通り、まさに謹んで行ないます。ただ願わくは、世尊におかれましては、心配なさることなどありませんように」。

多くの大いなる菩薩たちは、このように三度、共に声を発して次のように申し上げた。

「世尊の命じられた通り、まさに謹んで行ないます。ただ願わくは、世尊におかれましては、心配なさることなどありませんように」。

その時に釈迦牟尼仏は、あらゆる方角から集まった多くの分身の仏に対して、それぞれ本土に帰らせようとして、次のように語られた。

「諸仏それぞれに安楽があるように。多宝仏の塔、帰って昔のようになさるように」。

この言葉を語られた時、あらゆる方角から集まった無量の分身の諸仏、そして宝樹の下の獅子座の上に座っていた者、および多宝仏、ならびに上行菩薩などの数えきれないほどの菩薩たち、舎利弗などの声聞や僧侶や尼僧や男女の在家信者たち、およびすべての世界の天、人、阿修羅などは、仏の説かれる言葉を聞いてみな大いに喜んだ。

 

注1・「嘱累(ぞくるい)」という言葉は、適切な現代語は見当たらないが、この『法華経』では、「この経を広めるために委ねる」という意味であり、この直前の『如来神力品』の中にも二度出てきている言葉である。このように、『如来神力品』とこの『嘱累品』は内容が共通している。

またこの『嘱累品』は、『法華経』の中で最も短い章であり、内容的には、この章でこの経典が終わっても何ら不自然ではない。すなわち『法華経』を、この経典を広めることに使命を持つ者たちに委ねる、という内容であり、さらに最後の箇所では、釈迦如来が、多宝仏をはじめ、他の世界から来た諸仏に対して、本国に帰るように勧めている。しかしもちろん、『法華経』はこの後も続く。『法華経』の成立史から見れば、いったん『法華経』はこの章で終わっており、後に、これ以降の章が加えられたと考えられる。これ以降の章は、『法華経』の真理をもってわざを行なう菩薩たちを中心として展開していくのである。

注2・「自然の智慧」 人の計らいを超えている智慧という意味。

注3・「もし衆生の中に信受することをしないない者があれば、他の教えを示しなさい」ということは、まさにこの『法華経』の前半で述べられていた方便である。最終的には、すべての者をこの『法華経』に導くべきなのであるが、まだその準備ができていない者には、他の教えから始まって、順々にこの『法華経』に導けばよい、ということである。天台大師の『法華玄義』も、まさにこのような思想によって、すべての仏法を総括して述べられている。

『法華経』現代語訳と解説 その40

法華経』現代語訳と解説 その40

 

妙法蓮華経 如来神力品 第二十一

 

その時に、千の世界を微塵にしたほどの数の大いなる菩薩たち、および地より涌き出た菩薩たちは、みな仏の前において一心に合掌し、その尊い御顔を仰ぎ見て、仏に次のように申しあげた。

「世尊よ。私たちは世尊とその分身の諸仏の国土において、その仏の滅度の後、まさに広くこの経を説くべきと存じます。なぜならば、私たちもまた自ら、この真理であり清らかな大いなる教えを得て、受持し読誦し解説し書写して、これを供養しようと願うからです」。

その時に世尊は、文殊菩薩はじめ無量百千万億の娑婆世界の大いなる菩薩たち、および多くの僧侶や尼僧や男女の在家信者、天龍八部衆などのすべての衆生の前において、大いなる神通力を現わされた。

すなわち、広長舌(こうちょうぜつ・注1)を出して、上は梵天に至り、またすべての体毛の穴より、無量無数の色の光を放って、広く遍くあらゆる方角の世界を照らされた。

また、多くの宝樹の下の獅子座におられる諸仏も、同じように広長舌を出し無量の光を放たれた。このように、釈迦牟尼仏および宝樹の下におられる諸仏は、百千年間、この神通力を現わし続けられた。

その後、釈迦牟尼仏および諸仏は、広長舌を収められ、同時に咳払いをされ、また共に指を弾かれた。この咳払いの声と指を弾いた音は、釈迦牟尼仏および諸仏の光に照らされた、あらゆる方角の世界に遍く広がり、その地はみな六通りに震動した。

そして、そのあらゆる方角の世界の中にいる衆生天龍八部衆たちは、この仏の神通力によって、この娑婆世界の中の、無量無辺百千万億の多くの宝樹の下にある獅子座におられる諸仏を見、および釈迦牟尼仏多宝如来が共に宝塔の中にあって、その獅子座に座られている様子を見、また、無量無辺百千万億の大いなる菩薩、および多くの僧侶や尼僧や男女の在家信者が、釈迦牟尼仏を拝み敬い、その周りを囲っている様子を見た。

このように見た彼らは、未曾有であると大いに喜んだ。

その時、虚空の中から大きな天の声が響き渡り、次のように言った。

「ここから無量無辺百千万億の世界を過ぎたところに国がある。その国の名は娑婆という。その中に仏がおられる。その仏の名は釈迦牟尼という。今、多くの大いなる菩薩のために、大乗経典である『妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念』(みょうほうれんげ・きょうぼさっぽう・ぶっしょごねん)と名づけられる経典を説かれている。あなたがたはまさに、心深くこのことを喜ぶべきである。またまさに、その釈迦牟尼仏を礼拝し供養すべきである」。

その多くの衆生は、このような虚空の中の声を聞き終わって、合掌して娑婆世界に向かって、次のように言った。

「南無釈迦牟尼仏、南無釈迦牟尼仏」。

そしてさまざまな華や香、瓔珞、旗や立派な傘、およびさまざまな身を飾る装飾品、珍宝、妙なる品物をもって、みな共に遥か遠くにある娑婆世界に向かってそれらを注いだ。その注がれた諸物は、あらゆる方角から雲のように集まって来て、さらにそれが変化して宝の傘となり、この娑婆世界の諸仏の上を覆った。その時、あらゆる方角の世界は、各々の区別がなくなり、みなひとつの仏の国土のようになった。

その時に仏は、上行菩薩などの多くの菩薩たちに次のように語られた。

「諸仏の神通力は、このように無量無辺であり、人の計り知れるものではない。しかし、私がこの神通力をもって、無量無辺百千万億阿僧祇劫の間、この経典を伝える功徳を説き続けたとしても、語り尽くせるものではない。要約すれば、この経典の中には、如来の持つすべての教え、如来の持つすべての自在の神通力、如来の持つすべての秘密の重要な蔵、如来の持つすべての非常に深い事柄が、みな述べられ、表わされている。

このために、あなたがたは如来の滅度の後において、まさに一心に受持し、読誦し解説し書写し、説くところに従って修行すべきである。

ある国土に、この『法華経』を受持し、読誦し解説し書写し、説くところに従って修行する者がいたとする。それが、経典が安置されているところであっても、園の中であっても、林の中であっても、樹木の下であっても、僧坊であっても、在家の人の家であっても、立派な殿堂であっても、山谷の広野であっても、みなその場所に塔を建てて供養すべきである。それはなぜであろうか。まさに知るべきである。その場所は、すなわち道場なのである。諸仏がその場所において阿耨多羅三藐三菩提を得て、諸仏がその場所において教えを説き、諸仏がその場所において死んで完全な悟りの境地に入られたからである」。

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「救世者である諸仏は 大いなる神通力をもって 衆生を喜ばすために 無量の神通力を現わされた 広長舌を出されて梵天に至り 身より無数の光を放って 仏道を求める者のために この尊い姿を現わされた 諸仏の咳払いの声と および指を弾く音 遍くあらゆる方角の国に響き渡り その地は六通りに震動した 仏の滅度の後に 人々にこの経を保たせるために 諸仏はみな喜んで 無量の神通力を現わされた この経を伝えるために 経を保つ者を讃美するならば 無量劫の中においても なお讃美し尽くすことはできない この人の功徳は 無辺にして限りあることはない あらゆる方角の虚空には その果てがないことと同じである 

この経を保つ者は すなわちすでに私を見ているのであり また多宝仏および多くの仏の分身を見ているのであり また私が今 教化している多くの菩薩を見ているのである この経を保つ者は 私および分身の仏 さらにすでに滅度している多宝仏を喜ばせる そしてこの者は あらゆる方角の仏 ならびに過去の仏や未来の仏を見て 供養し喜ばせることができるのである 諸仏が道場に座って得たところの 秘められた重要な教えを この経を保つ者は 間もなくそれを得るであろう 

この経を保つ者は あらゆる教えの意味 その文字や言葉において 自由に説いて極まりないであろう それは風が空中において 全く妨げがないようなものである 如来の滅度の後に 仏が説いた経典の その因縁および順序を知って 正しい意味に従って説くであろう それは太陽や月の光が 多くの暗闇を除くように その人はこの世にあって 衆生の闇を滅ぼし 無量の真理を求める者を導き ついには一仏乗の教えに入らせるであろう 

このために智慧のある者は この功徳を聞いて 私の滅度の後において この経を受持すべきである この人は仏の道において 決して疑いを持つことはないであろう 」。

 

注1・「広長舌」 仏の舌は広く長いという意味であるが、それは、仏の教えが広く全世界に及ぶということを表わしている。

『法華経』現代語訳と解説 その39

法華経』現代語訳と解説 その39

 

妙法蓮華経 常不軽菩薩品 第二十

 

その時に仏は、大いなる得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)に次のように語られた。

「あなたはまさに知るべきである。もし、『法華経』を保つ僧侶や尼僧や男女の在家信者に対して、悪口を言い、罵ったり誹謗したりするならば、大きな罪の報いを受けることは、すでに述べたとおりである。また、『法華経』を保つ者は、その功徳によって、先に説いた通り、その者の眼、耳、鼻、舌、身体、心の働きはみな清らかとなる。

得大勢菩薩よ。数えることも測ることもできないほど遠い昔に、仏がおられた。その仏の名は、威音王(いおんのう)如来といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達し、世間を理解し、無上のお方であり、人を良く導き、天と人との師であり、仏であり、世尊である。その仏の時代の名は離衰(りすい)といい、その仏の国の名は大成(だいじょう)という。

その威音王仏は、その世の中において、天や人や阿修羅のために教えを説かれた。また、声聞を求める者には、それにふさわしい四諦の教えを説いて、生老病死の苦しみを解決させ、悟りを成就させ、辟支仏を求める者には、それにふさわしい十二因縁の教えを説き、多くの菩薩のためには、阿耨多羅三藐三菩提に導くために、それにふさわしい六波羅蜜の教えを説いて、仏の智恵を成就させた。

得大勢菩薩よ。この威音王仏の寿命は、四十万億那由他の数多くの大河にある砂の数の劫数である。その正法の劫数は、この世をすりつぶして微塵にした数であり、像法の劫数は、四つの大陸をすりつぶして微塵にした数である。その仏は、衆生を教え終わって、その後に滅度された(注1)。

正法が終わり、そして像法が終わった後、その国土にまた仏が出られた。その仏の名も威音王如来であり、そのように続いて、二万億の仏が同じように出られた。みな名も同じであった。

最初の威音王如来が滅度され、それに続く正法が終わり、その後の像法の時代において、思い上がって高慢になった多くの僧侶たちがいた。

その時にひとりの菩薩である僧侶(注2)がいた。名を常不軽(じょうふきょう)という。

得大勢菩薩よ。なぜこの菩薩を常不軽と名づけるのだろうか。この僧侶は、僧侶や尼僧や男女の在家信者などに出会うことがあるならば、みな彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。

『私は深くあなたを敬います。決して軽んじたりしません。あなたがたは、みな菩薩の道を行ない、必ず仏となるでしょう』。

しかもこの僧侶は、経典を読誦せずに、ただこのような礼拝を行なうばかりであった。たとえ遠くであっても、僧侶や尼僧や男女の在家信者たちを見ては、同じように彼らのところに行き、彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。

『私は決して軽んじたりしません。あなたがたは、必ず仏となるからです』。

その僧侶や尼僧や男女の在家信者たちの中で、心が汚れている者は怒って、悪口を言い、罵倒して次のように言った。

『この無智の僧侶は、どこから来て、自分勝手に、あなたがたを軽んじない、などと言って、私たちが仏になるなどという授記をするのだろうか。私たちはそんな虚妄の授記などは必要ない』。

このように、長い年月を経て、常に罵倒されても、怒りの念さえ起こさず、いつも『あなたがたは仏となるでしょう』と言い続けた。

このように言われた人々が、棒や木や瓦や石をもって、この僧侶を打とうとすれば、彼はそれを避けて走り去り、遠く離れてなお大声で『私はあなたがたを軽んじません。あなたがたは仏となるでしょう』と言った。

このように、この僧侶は常にこの言葉を発していたので、思い上がった高慢な僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、彼を『常不軽』と名づけたのであった。

この僧侶の命が終わろうとした時、虚空の中において、威音王仏が昔説かれた『法華経』の二十千万億の偈をつぶさに聞き、それをすべて受持し、そして先に述べた清らかな眼、耳、鼻、舌、身、心の働きを得た。

この六根清浄を得た後、この僧侶はさらに二百万億那由他の年齢を延ばし、広く人々のためにこの『法華経』を説いた。

その時に、この僧侶を軽蔑し、不軽という名前をつけた高慢の僧侶、尼僧、男女の在家信者たちは、この僧侶が大いなる神通力を得、巧みに教えを説く力を得、大いなる悟りの力を得たことを見、その教えを聞いて、みなひれ伏して信じた。

この僧侶であり菩薩である人は、さらに千万億の人々を教化して、阿耨多羅三藐三菩提を得させた。その命が終わった後は、二千億の仏に会ったが、その仏はみな日月燈明(にちがつとうみょう)という名であった。この人は、その仏の世界において、この『法華経』を説いた。その因縁によって、またさらに二千億の仏に会ったが、その仏はみな雲自在燈王(うんじざいとうおう)いう名であった。

このように、諸仏の世界の中において、『法華経』を受持し読誦して、多くの僧侶、尼僧、男女の在家信者のためにこの経典を説いたために、常に清らかな眼、耳、鼻、舌、身、心の働きを得て教えを説き続け、その心には恐れがなかった。

得大勢菩薩よ。この大いなる常不軽菩薩は、このように多くの諸仏を供養し、敬い、拝み、褒めたたえて、多くの善根を植え、後にまた千万億の仏に会い、またその諸仏の世界の中において、この経典を説いて功徳を成就し、ついに仏となることができた。

得大勢菩薩よ。あなたはどう思うか。その時の常不軽菩薩は誰でもない、この私なのだ。

もし私が過去に経てきた世において、この経を受持し読誦し、他の人のために説かなかったならば、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることはできなかった。私が過去の仏のもとで、この経を受持し読誦し、人のために説いたために、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができたのだ。

得大勢菩薩よ。あの時、私を怒りの心をもって軽蔑した僧侶、尼僧、男女の在家信者は、そのために二百億劫もの長い間、仏に会うことがなく、教えを聞くことがなく、僧侶に会うことがなかった。千劫もの間は地獄の底において、大きな苦悩を受けた。その罪を終えて、また常不軽菩薩が阿耨多羅三藐三菩提のために教化しているところに会ったのだ。

得大勢菩薩よ。あなたはどう思うか。その時この菩薩を軽蔑した人たちは、誰でもない、今この会衆の中にいる、跋陀婆羅(ばっだばら)などの五百人の菩薩たち、師子月(ししがつ)などの五百人の僧侶たち、尼思仏(にしぶつ)などの五百人の在家信者たちであり、彼らはすでに、阿耨多羅三藐三菩提を求める心においては退くことがなくなっている。

得大勢菩薩よ。まさに知るべきである。この『法華経』は、多くの大いなる菩薩たちを導き、阿耨多羅三藐三菩提を得させるのである。このために、多くの大いなる菩薩たちは、如来の滅度の後において、常にまさにこの経を受持し読誦し解説し書写すべきなのである。」

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「過去に仏がいた その名を威音王といった その智恵は優れて無量であり すべての衆生を導かれた 天と人と龍と天的存在たちすべてが 共に供養する仏であった その仏の滅度の後 教えが尽きようとしていた時 一人の菩薩がいた 常不軽といった 僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは 彼を非難した 常不軽菩薩は彼らのところに行き 『私はあなたがたを軽蔑しません あなた方は仏の道を行じて まさにみな仏となるでしょう』と言った 人々はこれを聞き 軽蔑して罵ったが 常不軽菩薩はこれを忍耐して受けた 常不軽菩薩は 前世からの因縁が清められ その命が終わる時に臨んで この経を聞くことを得て 六根清浄となった その神通力によって寿命を増し また人々のために 広くこの経を説いた 彼を罵った人々は みなこの菩薩の教化によって 仏の道に入ることができた 常不軽菩薩はその命が終わり 無数の仏に会った その仏の世界でも この経を説いたために 無量の福を得 次第に功徳を積み重ねて 仏の道を成就した その常不軽菩薩は すなわち私である その時に常不軽菩薩から『あなたがたは仏となるでしょう』という言葉を聞いて 彼を罵った僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは その因縁をもって 後に無数の仏に会い 今この会衆の中において 菩薩や五百人の衆生 および僧侶や尼僧や男女の在家信者たちとなって 私の前で教えを聞いているのである 私は前世において この多くの人々に勧めて この経の第一の教えを聞かせ 真理を開き示して教え 悟りに入らせ 次の世も次の世も この経典を受持させた この『法華経』は 数えることのできないほどの 何億万劫の時を経て ようやく聞くことができる経典であり 数えることのできないほどの 何億万劫の時を経て ようやく諸仏世尊が この経典を説かれるのである そのために仏の道を歩む者は 仏の滅度の後において この経を聞いて疑いを起こすことがあってはならない まさに一心に広くこの経を説くべきである そうするならば 次の世も次の世も 仏に会うことができ 速やかに仏の道を成就するであろう 」。

 

注1・仏の滅度、つまり仏が死んで姿がなくなった後、その仏の教えが正しく伝えられ、悟りが得られる時代を正法といい、その正法が終わって、教えは伝わるが、悟りが開けなくなる時代を像法という。そしてその後に、教えも正しく伝わらず、悟りも開けない末法の時代が来る。この文の流れでは、仏の滅度のことが正法と像法の記述の後に来ているので、像法の後に仏の滅度が来るように読めてしまうが、そうではない。

注2・この『常不軽菩薩品』の主人公であるこの菩薩は、漢訳経典では「菩薩比丘(ぼさつびく)」と表現されている。「菩薩」は大乗仏教の人々であり、「比丘」とは僧侶の意味である。菩薩と僧侶は、決してイコールではない。大乗仏教は、僧侶ではない一般信徒が中心の、仏教改革運動の中から生まれた新しい仏教の流れだとされるが、その大乗仏教の運動に共感して、伝統的な仏教教団の僧侶たちも多く大乗仏教の教団に入って来るようになったと考えられている。この「菩薩比丘」という名称も、そのような僧侶たちを指していると考えられる。そのためここでは、「菩薩である僧侶」と訳した。

ところで、地蔵菩薩の像や絵を見ても、見た目がいかにも僧侶である。地蔵菩薩も、この「菩薩比丘」の典型ではないであろうか。つまり、この常不軽菩薩に対しても、地蔵菩薩の姿をイメージすればよいのではないだろうか。

『法華経』現代語訳と解説 その38

法華経』現代語訳と解説 その38

 

また次に常精進菩薩よ。もし良き男子や良き女子が、この経を受持し、読誦し、解説し、書写するならば、千二百の舌の功徳を得るであろう。

好ましい味、好ましくない味、おいしい味、まずい味、および多くの渋い味、苦い味など、この舌の器官においては、すべて良い味と変わり、天の甘露のようになり、好ましくないものなどないであろう。

もしその舌の器官を用いて、大衆の中において演説するならば、深く妙なる声を出して、よく人の心に入り、聞く者たちは喜びに満たされるであろう。また多くの天子、天女、帝釈天梵天などの天的存在は、その深く妙なる声をもって演説される内容を聞いて、みな集まって来て聞くであろう。および多くの天竜八部衆やその女までもが、教えを聞くためにみな集まって来て、説法者を敬い供養するであろう。および僧侶や尼僧や男女の在家信者、国王、王子、群臣、従者、小転輪聖王、大転輪聖王転輪聖王の家臣や子供たち、その内外の従者たちは、各々の宮殿に乗ったまま、共に来て教えを聞くであろう。その『法華経』を説く者は菩薩であって、よく説法するために、婆羅門、居士(こじ・注1)、国内の人民たちは、力の限り従って供養するであろう。

また多くの声聞、辟支仏、菩薩、諸仏たちは、常にこの者を見ることを願うであろう。諸仏たちは、この人のいる方角に向かって教えを説くであろう。このように、説法者はすべてよくあらゆる仏の教えを受持し、深く妙なる教えの声を出すであろう」。

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「この人の舌の器官は清く 最後まで悪い味を味わわないであろう その食べる物の味はみな甘露となるであろう また深く清らかな妙なる声をもって 大衆に教えを説くであろう あらゆる因縁や比喩をもって 衆生の心を導くであろう 聞く者はみな喜び 多くの上等の供養を設けるであろう 多くの天や龍や夜叉 および阿修羅など みな敬う心をもって 共に来て教えを聞くであろう この説法する者は 自らの妙なる声を すべての世界に充満させようと願うならば その通りになるであろう 大小の転輪聖王 およびその子供たちや従者など 合掌し敬う心をもって 常に来て教えを聞くであろう 多くの天や龍や夜叉 暴虐な鬼や人を食う鬼までもが 喜びの心をもって 常に来て願って供養するであろう 梵天王や魔王 自在天や大自在天のような天的存在も 常にその場所に来るであろう 諸仏および弟子 その説法の声を聞いて 常に念じて守護し ある時は身を現わすであろう 。

また次に常精進菩薩よ、もし良き男子や良き女子が、この経を受持し、読誦し、解説し、書写したとする。その者たちは八百の身体の功徳を得て、浄瑠璃(じょうるり・注2)のような清らかな身体となり、人々が見たいと願うほどであろう。その身体は清らかなため、すべての世界の人々が生まれる時のこと、死ぬ時のこと、優れていること、劣っていること、見栄えが良いこと、見栄えが悪いこと、よい場所に生まれること、悪い場所に生まれることなど、すべてその身に現わすことができるであろう。および、あらゆる山の王とその衆生のことも、その身に現わすことができるであろう。地獄の底から天の最も高いところにいる衆生のことを、すべて現わすことができるであろう。声聞、辟支仏、菩薩、諸仏が説法する姿を、自分の身体として現わすことができるであろう」。

その時に世尊は、再びこの内容を述べようとして、偈の形をもって次のように語られた。

「もし『法華経』を保つならば その身体は浄瑠璃のように非常に清らかとなり 衆生が見たいと願うほどであろう また清らかな鏡がすべての物の像を映し出すように 菩薩の清らかな身体となって この世にあるすべてのものを現わすことができるであろう それはその者だけが明らかに現わせるものであって 他の人々は知らないものである すべての世界のあらゆる生き物 天や人や阿修羅 地獄や餓鬼や畜生 これらの姿をその身に現わすことができるであろう 多くの天の最も高いところに至るまでの宮殿 およびあらゆる山や大海の水など みなその身に現わすことができるであろう 諸仏および声聞や仏の弟子や菩薩などが ひとりで説法する姿や多くの人々の前で説法する姿を すべて現わすことができるであろう まだ完全な悟りに至っておらず 真理のままの身体を得ていないといえども 常に清らかな身体をもって すべてのことを現わすことができるであろう 。

また次に常精進菩薩よ。もし良き男子や良き女子が、如来の滅度の後に、この経を受持し、読誦し解説し書写するならば、千二百の心の働きの功徳を得るであろう。この清らかな心の働きをもって、この経の一偈でも一句でも聞くならば、無量無辺の正しい意味を明らかにするであろう。この正しい意味を理解し終わって、一句一偈についてであっても、それを演説するならば、一か月、四か月、そして一年続くであろう。

その多くの説かれた教えは、意味的にも内容的にも、真理と異なることはないであろう。もし俗世間の書籍、世の政治の法律、経済のしくみなどについて説いても、事実の通りであろう。

また、すべての世界の六道の衆生の心の動きや、心の変化、心の思いや考えなど、みなすべて知るであろう。まだ最高の智恵を得ていないといえども、その者の心の働きが清らかであることは、以上の通りであろう。

この人が思惟し、推論し、言説するならば、それらはそのまま仏の教えであって、真実でないものはなく、またそれらは、過去の仏の経典に説かれているものと同じであろう」。

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「この人は心の働きが清らかであり 明哲であり濁りがなく この妙なる心の働きをもって 上中下の教えを知り たとえ一偈を聞いたとしても 無量の正しい意味に通じるであろう その教えを説き始めたなら 一か月から四か月さらに一年続くであろう 

この世界の内外のすべての衆生 または天や龍および人 夜叉や鬼神など その六道の衆生の中にある 思いのわずかな種でさえ 『法華経』を保つ者は すぐにそのすべて知ることができる 

あらゆる方角の無数の仏 多くの祝福に飾られた権威の姿で 衆生のために説法するが この者はそのすべてを聞いて受持するであろう 

無量の正しい意味を思惟し 説法することもまた無量であり 終始忘れたり間違えたりすることはない 『法華経』を保っているために すべての存在の姿を知り 正しい意義によってその成り立ちを分析し 言葉や言語を巧みに駆使し 自らの表現をもって演説するであろう 

この人が説くならば みなすべて過去の仏の教えであり この教えを語るために 人々の前にあっても 怖れることはないであろう。

法華経』を保つ者は このように心の働きが清らかである まだ阿耨多羅三藐三菩提を得ていないといえども その心の働きは悟りに先行する この人はこの経を保ち 良い地に安住して すべての衆生に喜ばれ愛され尊敬されるであろう 千万種類の巧みな言語をもって わかりやすく演説するであろう それは『法華経』を保っているためである 」。

 

注1・「居士」 大商人の信者のこと。

注2・「浄瑠璃」 美しい青色の石。