大乗経典と論書の現代語訳と解説

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『法華経』現代語訳と解説 その39

法華経』現代語訳と解説 その39

 

妙法蓮華経 常不軽菩薩品 第二十

 

その時に仏は、大いなる得大勢菩薩(とくだいせいぼさつ)に次のように語られた。

「あなたはまさに知るべきである。もし、『法華経』を保つ僧侶や尼僧や男女の在家信者に対して、悪口を言い、罵ったり誹謗したりするならば、大きな罪の報いを受けることは、すでに述べたとおりである。また、『法華経』を保つ者は、その功徳によって、先に説いた通り、その者の眼、耳、鼻、舌、身体、心の働きはみな清らかとなる。

得大勢菩薩よ。数えることも測ることもできないほど遠い昔に、仏がおられた。その仏の名は、威音王(いおんのう)如来といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達し、世間を理解し、無上のお方であり、人を良く導き、天と人との師であり、仏であり、世尊である。その仏の時代の名は離衰(りすい)といい、その仏の国の名は大成(だいじょう)という。

その威音王仏は、その世の中において、天や人や阿修羅のために教えを説かれた。また、声聞を求める者には、それにふさわしい四諦の教えを説いて、生老病死の苦しみを解決させ、悟りを成就させ、辟支仏を求める者には、それにふさわしい十二因縁の教えを説き、多くの菩薩のためには、阿耨多羅三藐三菩提に導くために、それにふさわしい六波羅蜜の教えを説いて、仏の智恵を成就させた。

得大勢菩薩よ。この威音王仏の寿命は、四十万億那由他の数多くの大河にある砂の数の劫数である。その正法の劫数は、この世をすりつぶして微塵にした数であり、像法の劫数は、四つの大陸をすりつぶして微塵にした数である。その仏は、衆生を教え終わって、その後に滅度された(注1)。

正法が終わり、そして像法が終わった後、その国土にまた仏が出られた。その仏の名も威音王如来であり、そのように続いて、二万億の仏が同じように出られた。みな名も同じであった。

最初の威音王如来が滅度され、それに続く正法が終わり、その後の像法の時代において、思い上がって高慢になった多くの僧侶たちがいた。

その時にひとりの菩薩である僧侶(注2)がいた。名を常不軽(じょうふきょう)という。

得大勢菩薩よ。なぜこの菩薩を常不軽と名づけるのだろうか。この僧侶は、僧侶や尼僧や男女の在家信者などに出会うことがあるならば、みな彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。

『私は深くあなたを敬います。決して軽んじたりしません。あなたがたは、みな菩薩の道を行ない、必ず仏となるでしょう』。

しかもこの僧侶は、経典を読誦せずに、ただこのような礼拝を行なうばかりであった。たとえ遠くであっても、僧侶や尼僧や男女の在家信者たちを見ては、同じように彼らのところに行き、彼らを礼拝し褒め讃えて、次のように言った。

『私は決して軽んじたりしません。あなたがたは、必ず仏となるからです』。

その僧侶や尼僧や男女の在家信者たちの中で、心が汚れている者は怒って、悪口を言い、罵倒して次のように言った。

『この無智の僧侶は、どこから来て、自分勝手に、あなたがたを軽んじない、などと言って、私たちが仏になるなどという授記をするのだろうか。私たちはそんな虚妄の授記などは必要ない』。

このように、長い年月を経て、常に罵倒されても、怒りの念さえ起こさず、いつも『あなたがたは仏となるでしょう』と言い続けた。

このように言われた人々が、棒や木や瓦や石をもって、この僧侶を打とうとすれば、彼はそれを避けて走り去り、遠く離れてなお大声で『私はあなたがたを軽んじません。あなたがたは仏となるでしょう』と言った。

このように、この僧侶は常にこの言葉を発していたので、思い上がった高慢な僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは、彼を『常不軽』と名づけたのであった。

この僧侶の命が終わろうとした時、虚空の中において、威音王仏が昔説かれた『法華経』の二十千万億の偈をつぶさに聞き、それをすべて受持し、そして先に述べた清らかな眼、耳、鼻、舌、身、心の働きを得た。

この六根清浄を得た後、この僧侶はさらに二百万億那由他の年齢を延ばし、広く人々のためにこの『法華経』を説いた。

その時に、この僧侶を軽蔑し、不軽という名前をつけた高慢の僧侶、尼僧、男女の在家信者たちは、この僧侶が大いなる神通力を得、巧みに教えを説く力を得、大いなる悟りの力を得たことを見、その教えを聞いて、みなひれ伏して信じた。

この僧侶であり菩薩である人は、さらに千万億の人々を教化して、阿耨多羅三藐三菩提を得させた。その命が終わった後は、二千億の仏に会ったが、その仏はみな日月燈明(にちがつとうみょう)という名であった。この人は、その仏の世界において、この『法華経』を説いた。その因縁によって、またさらに二千億の仏に会ったが、その仏はみな雲自在燈王(うんじざいとうおう)いう名であった。

このように、諸仏の世界の中において、『法華経』を受持し読誦して、多くの僧侶、尼僧、男女の在家信者のためにこの経典を説いたために、常に清らかな眼、耳、鼻、舌、身、心の働きを得て教えを説き続け、その心には恐れがなかった。

得大勢菩薩よ。この大いなる常不軽菩薩は、このように多くの諸仏を供養し、敬い、拝み、褒めたたえて、多くの善根を植え、後にまた千万億の仏に会い、またその諸仏の世界の中において、この経典を説いて功徳を成就し、ついに仏となることができた。

得大勢菩薩よ。あなたはどう思うか。その時の常不軽菩薩は誰でもない、この私なのだ。

もし私が過去に経てきた世において、この経を受持し読誦し、他の人のために説かなかったならば、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることはできなかった。私が過去の仏のもとで、この経を受持し読誦し、人のために説いたために、速やかに阿耨多羅三藐三菩提を得ることができたのだ。

得大勢菩薩よ。あの時、私を怒りの心をもって軽蔑した僧侶、尼僧、男女の在家信者は、そのために二百億劫もの長い間、仏に会うことがなく、教えを聞くことがなく、僧侶に会うことがなかった。千劫もの間は地獄の底において、大きな苦悩を受けた。その罪を終えて、また常不軽菩薩が阿耨多羅三藐三菩提のために教化しているところに会ったのだ。

得大勢菩薩よ。あなたはどう思うか。その時この菩薩を軽蔑した人たちは、誰でもない、今この会衆の中にいる、跋陀婆羅(ばっだばら)などの五百人の菩薩たち、師子月(ししがつ)などの五百人の僧侶たち、尼思仏(にしぶつ)などの五百人の在家信者たちであり、彼らはすでに、阿耨多羅三藐三菩提を求める心においては退くことがなくなっている。

得大勢菩薩よ。まさに知るべきである。この『法華経』は、多くの大いなる菩薩たちを導き、阿耨多羅三藐三菩提を得させるのである。このために、多くの大いなる菩薩たちは、如来の滅度の後において、常にまさにこの経を受持し読誦し解説し書写すべきなのである。」

その時に世尊は、再びこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「過去に仏がいた その名を威音王といった その智恵は優れて無量であり すべての衆生を導かれた 天と人と龍と天的存在たちすべてが 共に供養する仏であった その仏の滅度の後 教えが尽きようとしていた時 一人の菩薩がいた 常不軽といった 僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは 彼を非難した 常不軽菩薩は彼らのところに行き 『私はあなたがたを軽蔑しません あなた方は仏の道を行じて まさにみな仏となるでしょう』と言った 人々はこれを聞き 軽蔑して罵ったが 常不軽菩薩はこれを忍耐して受けた 常不軽菩薩は 前世からの因縁が清められ その命が終わる時に臨んで この経を聞くことを得て 六根清浄となった その神通力によって寿命を増し また人々のために 広くこの経を説いた 彼を罵った人々は みなこの菩薩の教化によって 仏の道に入ることができた 常不軽菩薩はその命が終わり 無数の仏に会った その仏の世界でも この経を説いたために 無量の福を得 次第に功徳を積み重ねて 仏の道を成就した その常不軽菩薩は すなわち私である その時に常不軽菩薩から『あなたがたは仏となるでしょう』という言葉を聞いて 彼を罵った僧侶や尼僧や男女の在家信者たちは その因縁をもって 後に無数の仏に会い 今この会衆の中において 菩薩や五百人の衆生 および僧侶や尼僧や男女の在家信者たちとなって 私の前で教えを聞いているのである 私は前世において この多くの人々に勧めて この経の第一の教えを聞かせ 真理を開き示して教え 悟りに入らせ 次の世も次の世も この経典を受持させた この『法華経』は 数えることのできないほどの 何億万劫の時を経て ようやく聞くことができる経典であり 数えることのできないほどの 何億万劫の時を経て ようやく諸仏世尊が この経典を説かれるのである そのために仏の道を歩む者は 仏の滅度の後において この経を聞いて疑いを起こすことがあってはならない まさに一心に広くこの経を説くべきである そうするならば 次の世も次の世も 仏に会うことができ 速やかに仏の道を成就するであろう 」。

 

注1・仏の滅度、つまり仏が死んで姿がなくなった後、その仏の教えが正しく伝えられ、悟りが得られる時代を正法といい、その正法が終わって、教えは伝わるが、悟りが開けなくなる時代を像法という。そしてその後に、教えも正しく伝わらず、悟りも開けない末法の時代が来る。この文の流れでは、仏の滅度のことが正法と像法の記述の後に来ているので、像法の後に仏の滅度が来るように読めてしまうが、そうではない。

注2・この『常不軽菩薩品』の主人公であるこの菩薩は、漢訳経典では「菩薩比丘(ぼさつびく)」と表現されている。「菩薩」は大乗仏教の人々であり、「比丘」とは僧侶の意味である。菩薩と僧侶は、決してイコールではない。大乗仏教は、僧侶ではない一般信徒が中心の、仏教改革運動の中から生まれた新しい仏教の流れだとされるが、その大乗仏教の運動に共感して、伝統的な仏教教団の僧侶たちも多く大乗仏教の教団に入って来るようになったと考えられている。この「菩薩比丘」という名称も、そのような僧侶たちを指していると考えられる。そのためここでは、「菩薩である僧侶」と訳した。

ところで、地蔵菩薩の像や絵を見ても、見た目がいかにも僧侶である。地蔵菩薩も、この「菩薩比丘」の典型ではないであろうか。つまり、この常不軽菩薩に対しても、地蔵菩薩の姿をイメージすればよいのではないだろうか。