大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  62

『法華玄義』現代語訳  62

 

b.諸境の同異を述べる

次に、ここまで述べて来た諸境の同異を述べる。またその比較において十如是を用いる。なぜなら、『法華経』の「方便品」で十如是を讃えているからである。このように十如是を用いて、すでに述べて来たところの十如是の境・十二因縁の境・四諦の境・二諦の境・三諦の境・一諦の境がどのように同異しているかを述べる。

 

◎十二因縁と十如是

十二因縁と十如是は名称が異なっているが、意義は同じである。十二因縁の最初の無明は十如是の最初の如是性に相当し、行は如是相に相当し、識・名色・六入・触・受は如是体に相当し、愛は如是縁に相当し、取は如是力・如是作に相当し、有は如是因に相当し、生・老死は如是果・如是報に相当する。

(注:以上の十二因縁と十如是の比較は、次のように理解できる。「無明」はすべての根元であり本性であるから「性」である。「行」は「無明」が業という「相」になったものであり、「識」から「受」までは、業によって本質的な「体」が現われたことであり、「愛」はその本質的な「体」が展開する条件である「縁」となり、「取」は「体」が展開していく「力」と働きである「作」であり、「有」はその次に来る「生」「老死」の「因」であり、「生」「老死」は結果である「果」であり報いである「報」である)。

また如是相は、行・有に相当し、如是性は無明・愛・取の三つに相当し、如是体は識・名色・六処・触・受・生・老死の七つに相当する。如是力は無明・愛・取であり、この三つは業を生じさせる力である。如是作は行・有の二つに相当し、苦の業を作り出す。如是因も行・有の二つに相当し、あらゆる苦の因となる。如是縁は無明・愛・取の三つに相当し、苦を生み出す業の条件なる。如是果は行・有の働きの結果である。如是報は業である行・有が名色などの報いを招くものである。

(注:以上の十二因縁と十如是の比較は、次のように理解できる。まずここでは、十二因縁を「行・有」、「無明・愛・取」、「識、名色、六処、触、受、生、老死」の三つのグループに分けていることがわかる。「行」は過去の結果の業であり、「有」は未来への業であるので、業ということにおいてこの二つは同じである。「無明」は過去からの業を作り出すものであり、「愛」と「取」は未来への業を作り出すものであり、その点ではこの三つは同じである。「識、名色、六処、触、受、生、老死」の七つは、すでに正体(如是体)として具体的に現われたものである。そして「無明・愛・取」のグループは、その後の展開の力(如是力)が秘められており(如是性)、また苦を生み出す業の条件(如是縁)である。また、「行・有」のグループは、過去からの、あるいは未来への業という表われ(如是相)であり、業として現世と未来の苦を作り出す働き(如是作)であり、現世と未来の苦の原因(如是因)であり、現世と未来の苦という結果(如是果)であり、「名色」などの報い(如是報)を招くのである)。

以上は、思議の十二因縁を用いて、六道の十如是に当てはめたものである。

次に、不思議の十二因縁を用いて、声聞・縁覚・菩薩・仏の四種の聖人(ししゅのしょうにん・=四聖(ししょう))の十如是に当てはめて述べる。

無明が智慧に照らされるならば明となる。明とは、悟りの智慧である了因仏性(りょういんぶっしょう)であり、聖人においては如是性である。悪の行に智慧が照らされるならば、善行となる。善行は悟りの条件である縁因仏性(えんいんぶっしょう)であり、聖人においては如是相となる。識・名色などの苦道が智慧に照らされるならば、法身となり、聖人においては如是体となる。愛・取に智慧が照らされれば、聖人においては菩提心(ぼだいしん・悟りを求める心)となり、すなわちこれは如是力である。そして菩提心により生じた有にはすでに悟りの果が含まれるので、六波羅蜜(ろくはらみつ・菩薩の六つの修行項目)の修行として表われる。すなわちこれは聖人の如是作である。そして同時に聖人の如是因となる。この有が智慧に照らされることに二種類ある。一つは正しい仏の道となることは如是因であり、その補助的な道となることは如是縁である。老死が智慧に照らされるならば、法性常住(ほっしょうじょうじゅう・霊的真理は常に変わらす存在するということ)となり、聖人の如是果・如是報となる。

またさらに総合的に比較させるならば、如是体・如是力・如是作の三つは、一般的には単なる煩悩・業・苦であるが、聖人においては法身菩提心六波羅蜜となる。この三つを行じるならば、内においては如是性となり、外においては如是相となる。その真理に即した正しい意義は如是体となり、その深い誓願は如是力となり、行を成立させることは如是作となり、悟りに向かうことは如是因となり、それらの条件となることは如是縁であり、悟りを得ることは如是果・如是報となる。もし細かく声聞・縁覚・菩薩・仏の四つの聖人の次元を分けて見るならば、それぞれ当然異なりはある。ここは概略であるので、略して述べるのみである。『法華経』に、声聞や縁覚の二乗も、「最高の悟りを求める願いは失われていなかった」とあるように、この二乗の人々についても菩薩や仏と同じように解釈することができる。