大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  63

『法華玄義』現代語訳  63

 

◎四種の四諦と十如是

四種の四諦と十如是を比較すると、まず生滅の四諦と無生の四諦の苦諦と集諦は、ただ迷いの世界に存在するだけの六道の十如是である。如是相・如是性は苦の根本原因であるから集諦に当たり、如是体は苦の表われであるから苦諦であり、如是作・如是力・如是因・如是縁はまた苦を生み出す働きと因果であるので集諦であり、如是果・如是報はその結果としての苦であるから苦諦に当たる。

生滅の四諦と無生の四諦の道諦と滅諦は、六道の迷いの世界から離れる道に入った声聞と縁覚の二乗の人が行なうところの、蔵教の析空観(しゃっくうがん・目に見える存在を分析して、すべての実在に実体がないとする行)と通教の体空観(たいくうがん・直観的にすべての実在が空であると見る行)」、および通教の菩薩の十如是である。この場合、如是相・如是性は苦の根本原因を取り除くことに当たるので道諦に当たり、如是体は苦が滅ぼされた状態であるから滅諦であり、如是力・如是作・如是因・如是縁は苦を取り除く働きと因果であるので道諦であり、如是果・如是報はその結果として苦が滅ぼされた状態であるから滅諦に当たる。

次に、無量の四諦と無作の四諦の苦諦と集諦は、声聞と縁覚と菩薩と仏の四聖の霊的次元においては、究極的な真理が表現されているという果報の十如是である。集諦は、涅槃がそのままで煩悩となっているということなので如是相・如是性・如是力・如是作・如是因・如是縁である。苦諦は涅槃がそのままで生死となっていることなので如是体・如是果・如是報である。

そして無量の四諦と無作の四諦の道諦と滅諦は、四聖の霊的次元の涅槃の十如是である。道諦は涅槃がそのまま煩悩であることを悟ることなので、如是相・如是性・如是力・如是作・如是因・如是縁であり、またこれは最高の知恵である般若であり解脱である。滅諦は生死がそのままで涅槃となることなので如是体・如是果・如是報であり、またこれは常住の法身(真理そのままが仏の姿となっていること)である。

 

◎四種の四諦と四種の十二因縁

四種の四諦と四種の十二因縁を比較すると、まず生滅の四諦と無生の四諦の苦諦と集諦は、思議生滅の十二因縁と思議不生不滅の十二因縁に当たる。生滅の四諦と無生の四諦の道諦と滅諦は、思議生滅の十二因縁と思議不生不滅の十二因縁の無明が滅び、そのため老死が滅びることである。

無量の四諦と無作の四諦の苦諦と集諦は、不思議生滅の十二因縁と不思議不生不滅十二因縁に当たる。無量の四諦と無作の四諦の道諦と滅諦は、不思議生滅の十二因縁・不思議不生不滅十二因縁の無明が滅び、そのため老死が滅びることである。これは自ら理解できるであろう。

 

◎七種の二諦と十如是

七種の二諦と十如是を比較すると、まず蔵教・通教・別入通教・円入通教の四つの俗諦は、みな六道の十如是である。蔵教・通教の真諦は声聞と縁覚の二乗の十如是である。別教・円入別教の俗諦のうちで、有に執着すれば六道の十如是であり、無に執着すれば二乗の十如是である。円教の俗諦は、地獄から菩薩に至る九法界に通じる。別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の真諦は、みな仏法界の十如是である。

(注:別入通教・円入通教の真諦については、最後に五種まとめて記されているので順番が前後している。続く段落も同様である。なお「〇〇に執着する」という表現は、これ以降も記されるようになるが、「有」「無」「空」「不空」のそれぞれに執着するというパターンである。これは、それぞれの教えを個別そして段階的に理解する別教が陥る可能性を指すのであり、もちろん、円教にはこれはあり得ない)。

 

◎七種の二諦と四種の十二因縁

七種の二諦と四種の十二因縁を比較すると、まず蔵教・通教・別入通教・円入通教の四つの俗諦は、思議生滅の十二因縁と思議不生不滅の十二因縁に当たる。蔵教・通教の真諦は、思議生滅の十二因縁と思議不生不滅の十二因縁の無明が滅せられ、そのため老死までが滅せられることである。別教・円入別教の俗諦のうちで、有に執着すれば思議生滅の十二因縁と思議不生不滅の十二因縁であり、無に執着すれば思議生滅の十二因縁と思議不生不滅の十二因縁の無明が滅せられ、そのため老死までが滅せられることである。円教の俗諦は、四種の十二因縁すべてに通じる。別入通教・円入通教・別教・円入別教・円教の五種の二諦の真諦は、不思議生滅の十二因縁と不思議不生不滅の十二因縁の無明が滅せられ、そのため老死までが滅せられることである。

 

◎七種の二諦と四種の四諦

七種の二諦と四種の四諦を比較すると、まず蔵教の二諦である実有の二諦は、生滅の四諦である。通教の二諦である幻有の二諦は、無生の四諦である。別入通教・円入通教の俗諦は、無生の四諦のうちの苦諦と集諦である。別入通教の真諦は無量の四諦のうちの道諦と滅諦である。円入通教の真諦は、無作の四諦のうちの道諦と滅諦である。別教・円入別教の俗諦は無量の四諦のうちの苦諦と集諦であり、円教の俗諦は無作の四諦の苦諦と集諦である。別教の真諦は無量の四諦の道諦と滅諦であり、円入別教・円教の真諦は、無作の四諦の道諦と滅諦である。

(注:蔵教の二諦が生滅の四諦であり、通教の二諦が無生の四諦であることは、機械的に符合する。別入通教と円入通教の俗諦は、無生の四諦のうちの苦諦と集諦であるということは、あくまでも通教であるために、これも機械的に符合するのである。別入通教の真諦は無量の四諦のうちの道諦と滅諦であるということは、真理の次元においては別教に通じるためである。円入通教の真諦は、無作の四諦のうちの道諦と滅諦であるということも同様に、円教に通じるためである。別教と円入別教の俗諦が無量の苦諦と集諦であることは、あくまでも別教であるから機械的に符合する。円教の二諦が無作の四諦のそれぞれに当てはまることも機械的に符合する)。