大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  53

『法華玄義』現代語訳  53

 

◎十二因縁について麁と妙を判別する

因縁の境には麁と妙の区別はない。境に対する教えにおいて、浅深の違いがある。

○四教において

①蔵教

まず、無明から行が生じ、老死まで生じさせるという蔵教の教えについて見る。無明と愛・取から行と有が生じ、行と有から識・名色・六処・触・受と生・老死が生じ、識・名色・六処・触・受と生・老死から無明と愛・取が生じ、互いに因縁となる。つまり、煩悩と業の因縁、業と苦の因縁は、無常であって生滅を繰り返すのである。『中論』には、この教えは能力の劣った者を教える法だと言っている。『涅槃経』には、劣った教えを丁寧に教えるのだ、と言っている。『法華経』では、ただ虚妄を離れることを解脱と説いているのみである。このために、この教えは麁である。

②通教

また通教によれば、無明の正体は自らあるのではなく、妄想の因縁が合わさってあるので、境は幻のようで、智慧もまた得られるものではない。『涅槃経』には、「もし涅槃以外に何かあるとするならば、それは幻であると説く」とある。『中論』には、能力の高い者を教えるとあり、『涅槃経』には、長者が論理学を教えることだといい、『般若経』には真実の巧みな教えだとし、『法華経』では、小さい樹木のようなものだとある。この通教の境はすなわち巧みである。

③別教

無明が縁ならば、縁によって何らかの形が生まれ、形があれば生があり、生は必ず終わりがある。別教の教えは、この縁を滅ぼすので、清浄である。形がなければ、永遠の我が現われる。苦しみの生を消滅させることは永遠の楽である。生がなければ終りもないので常であり、こうして常・楽・我・浄となる。これは、『中論』に「因縁によって生じたものは仮名(けみょう・名前はあっても実体はないという意味)とする」とあることに相当する。『般若経』には、十二因縁はただ菩薩の教えであるというのがこれである。『涅槃経』には、無明を滅ぼせば、究極的な悟りの光を輝かせられるとある。『法華経』には、この教えは大樹のようなもので、ますます成長するとある。この別教の教えは前の通教の教えに比べれば妙であるが、次の円教の教えに比べれば麁である。

④円教

無明による煩悩と業と苦の三つは、そのままで仏の法身(ほっしん)であり、最高の智慧である般若(はんにゃ)であり、悟りである解脱とするならば、これ以上のものはない。『中論』に「因縁によって生じたものは中道(ちゅうどう・空にも仮名にも偏らないという意味)である」ということに相当する。『般若経』には「道場に座る時、十二因縁を観するならば、すべてを知る智慧を得る」とある。『涅槃経』には「無明と愛との中間は中道である(前述)」とある。『法華経』には、「仏になることは、それに相応する教えの縁による。このために一乗(いちじょう・すべての人が仏になるという教え)を説く。これが最も真実である」とある。これがどうして妙でないことがあろうか。前の三つの教えは権の教えであるので麁であり、最後のこの円教の教えは真実であるので妙である。

○五味の教え

この麁と妙ということをもって、五味の教えに当てはめれば次の通りである。乳味の教えは、一つの麁と一つの妙の、合わせて二つの十二因縁を備えている。酪味の教えは一つの麁である。生蘇味の教えは三つの麁と一つの妙である。熟蘇味の教えは二つの麁と一つの妙である。醍醐味の教えである『法華経』はただ一つの妙を説くのみである。以上が、麁の十二因縁に相対させて、妙の十二因縁を明らかにすることである。

 

◎十二因縁について麁を開いて妙を明らかにする

法華経』に、「私の教えは妙であって人間の思慮分別では理解しがたい」とある。蔵教・通教・別教の三つもすべて仏の教えである。ならばどうして思議の麁が、不思議の妙と異なるだろうか。文字を使わないで、解脱を説く方法はない。ただ思議の正体が不思議ということである。たとえば、『法華経』の「長者窮子の喩え」において、長者があらゆる器や食料を持って来て、窮子の姿となっている我が子に与えて、その子のものとするようなものである。もともとの身分において見るならば、この窮子は客として来た他人ではない。したがって、その器などは家に戻って来ることになる。どうしてそれが他の人の物と言えるであろうか。如来は不思議の次元において、方便をもって麁を説く。どうして麁のままで妙と異なることがあろうか。『法華経』に「(この法華経は)声聞の教えを更新する諸経の王である」とある。これは思議の二種の十二因縁をそのまま妙とすることを述べている。また『涅槃経』に「あらゆる声聞の智慧の眼(蔵教)を次の段階に高める」とある。しかし、その高められた智慧の眼(通教)はただ空を見るだけであって、不空を見ないため、さらにその智慧の眼を高めて不空を見せるのである。不空を見ること(別教)は仏性を見ることである。さらに「智慧の眼をもって見るために、まだ真理を明瞭には見ることができない。仏はそのような智慧の眼ではなく、仏の眼(円教)をもって見るために、すべてが明瞭となる」とある。これは、菩薩の智慧の眼である第三の十二因縁(=別教)を更新することである。すなわち、絶待妙を論じるのである。

 

◎十二因縁について観心を述べる

十二因縁を観心するとは、一念の無明は明であると観じることである。『涅槃経』に「無明を照らせば究極的に空である」とある。空の智慧をもって無明を照らせば、無明はそのままで清浄である。たとえば、ある人がここに賊がいると知って警戒すれば、賊は何もできないようなものである。無明に染まらなければ、煩悩もそのまま浄である。煩悩が清浄であるなら、業もないことになる。業がなければ、業に縛られることはない。業に縛られないのであるから、我は自在である。自我が自在であるなら、業に縛られない。どうして名色・触・受などがあるだろうか。受がなければ、苦はなく楽である。すでに苦がなければ、どうしてそれを滅ぼす必要があるだろうか。すなわちこれは常の徳であり、ここに常・楽・我・浄がある。このように、一念の心は十二因縁を備えているので、この十二因縁を観じて、常に常・楽・我・浄の観心をするならば、その心は一念一念に真理の秘密の蔵に住むことになる。常にこの観心をすることを、聖なる母胎に受胎することと名付けられる(=託聖胎)。観心の行が成就すれば、その聖なる母胎の胎児は完成する。もし無明を完全に消滅させれば、それは聖なる母胎から出ることになる。