大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  52

『法華玄義』現代語訳  52

 

②思議不生不滅の十二因縁

第二の思議不生不滅の十二因縁は、通教の教えであり、前に説いた蔵教の教えである思議生滅の十二因縁を更新するものである。『中論』に「能力の高い弟子のために十二因縁が不生不滅であることを説く」とある。十二因縁の最初の無明の癡(ち)は虚空のようであり、最後の老死も虚空のようである。無明は幻のようであり、つかみどころのないものであるからである。そして最後の老死も同様に幻であり、つかみどころがない。『金光明最勝王経』に「無明の正体はもともと存在するものではない。妄想が因縁によって合わさってできたものである。真理から離れた思いや心の働きが作り出したものである」とある。魔術師が道端の興行で、あらゆる像や馬、宝石や人物などを作り出すようなものである。それを、真理を知らない愚かな癡は真実だと言い、智慧は真実ではないと言う。無明は六道の姿を幻のように出す。まさに知るべきである。それはもともと存在するものではないのであり、無明が作り出したものである。藤の蔓は蛇ではないと知れば、恐ろしいことはない。もともと生じていないものなのであるから、滅びることもない。これを、思議不生不滅の十二因縁という。

 

③不思議生滅の十二因縁

第三に不思議生滅の十二因縁は、小乗の教えを退け、大乗の教えを説くものである。能力の高い者や低い者共に、この世を超越した法を説くのである。『華厳経』に「心は巧みな画師のようで、さまざまな五陰(=五蘊)を作る。この世の中に、そのように作られていないものはない」とある。「画師」はすなわち無明のことである。「この世の中」とは、十法界の仮に表わされた世界である。

しかし、あらゆる論書においては、心がすべての実在を作り出すことについて、さまざまに説かれていて、同じではない。

たとえば、「阿黎耶(ありや・阿頼耶(あらや)ともいう。いわゆる無意識のさらに根元にある識とされる)は清浄な真識(しんしき)であり、すべてを生み出す」という。あるいは「阿黎耶は断絶することなく続く識であり、善でもなく悪でもない無明であり、すべてを生み出す」という。もしこのように、根本原理的なものがあるとすると、それはすべての始めに存在する冥初(みょうしょ)であり、そこから感覚が生まれ、そこから自我意識が生まれるという誤った考えを生み出す。それでは、この世の正しい因縁を説明することはできず、ましてやこの世を超越した次元の因縁を説明することはできない。煩悩の迷いは、すでに不思議の境ではないので、迷いを前提とした教えでは、不思議の智慧に導くことができるわけがないのである。このような誤りを指摘することは、『摩訶止観』に詳しく記されている。

今、正しい解釈をあげると次の通りである。無明の心は、自ら生じたものでもなく、他によって生じたものでもなく、自と他によって生じたものでもなく、因なく生じたものでもない。このような四句(しく・①Aであり、②Aではなく、③Aであって同時にAではないものでもなく④AであるのでもなくAでないのでもない、というような、古代インドの論理の一つであり、『法華玄義』においてもさまざまな形として説かれる)は不思議である。もし仏が衆生に方便を使って説く必要があって、四悉檀によって説くならば、さまざまに説かれるであろう。しかし、このような四句で無明を理解しようとすることは不可能であるが、無明からこの世とこの世を超越している次元のすべてが生じていることは確かである。無明からこの世(=界内)の十二因縁が生じることについては、前に説いた通りである。無明からこの世を超越した(=界外)十二因縁が生じることについては、『宝性論』に次のように説いている。「悟りを開いたとされる阿羅漢(=声聞)と辟支仏(びゃくしぶつ=縁覚)の空の智慧は、如来の身においては見ないところである。この二乗には、無常、苦などの四つの教えがあるが、如来の真理ありのままの身においては、それもまた迷いである。迷いであるので、無明である。煩悩から離れた次元に存在すると言っても、そこにはなお絶対的真理から離れた四つの妨げがある。それは、縁、相、生、壊である。縁とは、無明が行の縁となることである。相とは因のことであり、無明は行と共に他の原因となることである。生とは、無明は煩悩を離れたという因と共に、阿羅漢と辟支仏と菩薩という三つの身を意図的に生じさせることである。壊とは、この意図的に生じた三つの身が、生じたのであるから意図的に死滅するという不思議変易(ふしぎへんにゃく)の死の縁となるということである」。

これは、この世の十二因縁の無明から老死に至ることとやはり似ている。縁とは、すなわち無明のことである。相とは行のことである。生とは識・名色・六処・触・受の五つである。続く愛・取・有の三つについては、前に述べたことから知るべきである。壊は、生・老死である。この十二因縁は、数としてはこの世の次元のものと同じであるが、意義は大いに異なっている。『宝性論』では、「この意図的に生まれた三つの身(=三種の意生身)は、まだ無明の垢から離れていないので、究極的な悟りの清浄を得ていない。無明から生じる細かい誤った思考や言葉を完全に消滅させていないので、究極的な悟りに立つ自我を得ていない。無明から生じる細かい誤った思考や言葉と、煩悩を断ち切って得たわざをもって意図的に身を生じさせており、それらがまだ滅び尽くされていないので、究極的な悟りの楽を得ていない。煩悩と業と生から完全に離れていないので、究極的な悟りの甘露を体験していない」とある。縁の煩悩の次元によって大いなる清浄は得られず、相の業によって自由自在の我を得られず、生の苦しみによって大いなる楽を得ず、壊の老死によって不思議変易生死(自らの意志で生死を取る聖者以上の存在の生死)の常を得ない。これは不思議生滅の十二因縁によることである。以上が、この世を超越した不思議生滅の十二因縁である。

 

④不思議不生不滅の十二因縁

第四に、不思議不生不滅の十二因縁は、能力の高い者のために、十二因縁の具体的な項目を通して真理を表わすのである。『涅槃経』に「十二因縁は仏性に他ならない」とある通りである。無明・愛・取は煩悩であって、煩悩そのものはすなわち菩提(ぼだい=悟り)である。なぜなら、菩提に達すれば煩悩はない。煩悩がなければ、究極的な清浄である。これは悟りの智慧によって仏性が明らかとなったもので、了因仏性(りょういんぶっしょう)である。行・有は業であるが、解脱そのものである。なぜなら、解脱が成就することは修行によることであり、修行そのものが存在(有)を通した業によることだからである。これを「縁因仏性(えんいんぶっしょう)」という。名色・老死は苦しみであり、苦しみはそのままで真理である仏の姿、すなわち法身である。法身に苦しみなく楽もないことは、大楽(だいらく)と名付けられ、不生不死であり常に存在するものであり、仏性そのものである正因仏性(しょういんぶっしょう)である。したがって、『涅槃経』に「無明と愛との中間は中道である」とある。なぜなら、「無明」は過去、「愛」は現在、どこにあってもすべて仏性であるからである。同時にこれは、無常ではなく常であり、苦ではなく楽であり、無我ではなく真実の我であり、汚れているのではなく清浄である(=「常楽我浄」)。無明は不生であり、また不滅である。これを不思議不生不滅の十二因縁という。