大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 112

『法華玄義』現代語訳 112

 

○問答

問う:無明は仏性・中道を覆う。ただ、「四十二品(十住・十行・十廻向・十地・等覚・妙覚)として断じることでじゅうぶんであるのか。

答える:無明は本来存在するものではないとはいえ、あるものではないながらあるのである。それを断じる階級がないのではない。いったん、わかりやすく分ければ四十二品となる。しかし、その階級の数は無量無辺である。『大智度論』に「無明の数は非常に多い。このために、その度ごとに無明を破る三昧を説くのである」とある。また「どんなものでも、あると認識されてしまうものに対する執着は滅し尽くすのが困難であるため、その度ごとに重ねて般若を説くのである」とある。このあらゆる円教の位は不可思議である。もしあくまでも教えとして求めれば、求める者はやる気を失い、多くの違った解釈や執着を起こして、円融の道に背いてしまう。このような位は、一般常識をもって解釈してはならない。一般常識をもって述べ伝えてはならない。『華厳経』に「あらゆる階位は説くべきではない。ましてや、人に示すべきではない」とある。しばらくことのことは論じないでおくのである。もし大乗の懺悔をもって初めて随喜して円教の信心を起こし、最初の一旋陀羅尼(いっせんだらに・『法華経』の「普賢菩薩勧発品」に説かれる三つの陀羅尼の最初。教えを一回説くことができるほどの記憶力)を得ても、人に向かって説くべきではない。あらゆる解釈があるとしても、解釈すべきではない。ましてや、他のあらゆる位ももちろんである。声聞と縁覚の二乗さえその名称を聞かない。どうして一般人に説くことがあろうか。この言葉に深い意図がある。大いなる師は自ら悟り得た証を説くのである。また、しばらくことのことは論じないでおくのである。声聞は四念処を学び、煗法を発し得たとしても、また外凡に説き尽くすべきではない。たとえさまざまに解釈したとしても、正しく知ることはできない。また、このことは論じないでおくのである。人が座禅すれば、まず覚・観・喜・楽・一心の五支を発しても、それを体験していない人には説くことはできない。たとえ方便を用いて説いても、相手はそれを理解しない。またこのことは論じないでおくのである。車輪づくりの記述は、その息子にも授けることはできない。ましてや、さまざまな深い教えをどうして説くことができようか。末の時代の学者は、多くの経論の煩悩を抑え断じる方便に執着して論争している。水の本性が冷たいということは、飲まずにどうして知られようか。これはすなわち、諸仏が人々に示す不思議の言葉なので、相手の能力にしたがって増減し、位の数も同じではない。あなたはまだ悟ってもいないのに、虚しく言い争いをして何を得ると言うのか。願わくは、この世の衆生が僧侶に帰依して論争をやめ、大海原のように和合することを。

また、四つの項目によって円教の位を解釈する。一つめは、最初を開き最後を合わせ、二つめは、最後を開き最初を合わせ、三つめは、最初と最後を共に開き、四つめは、最初と最後を共に合わせる。

(注:現代語的に表現すれば、今までもそうであったが、「開合」という場合の「開く」は、一つ一つをそのまま当てはめることであり、「合わせる」はすべてを一つにまとめるという意味である。原語の「開・合」は重要な用語となっているので、そのまま用いた)。

『涅槃経』に「三十三天の不死の甘露を将軍や大臣の臣下と共に飲む」とあるのは、あらゆる位を喩えているのである。この「三十三」という数は、十住・十行・十廻向を開いて三十心とし、十地を合わせて一として、等覚を一とする。三十二人の臣下に喩えるのは因位を指し、あとの一人を主(あるじ)として妙覚を喩えるのは果位を指しているのである。主と臣下が同じ甘露を飲めば、因と果と共に常楽を証することになる。もし円教の位をもってこれを解釈しなければ、この文は解釈することができない。以上が、最初を開き最後を合わせ円教の位を解釈することである。(注:「もし円教の位をもってこれを解釈しなければ、この文は解釈することができない」といっても、もともと『涅槃経』のこの文に、このような意味があるわけがない。これも、すべての経典は一人の釈迦の説法であるという前提に基づいているわけである。しかし、このような解釈によって、円教の霊的意味が表現されればそれでいいのであり、この解釈も間違った解釈ではないのである)。十四般若は、三十心を合わせて三般若とし、十地を開いて十般若とし、等覚を開いて一般若としている。この十四はみな因位である。この因位が一切智に入るとは、言うまでもなく果位である。これは、最後を開き最初を合わせ円教の位を解釈することである。四十二字門は、最初の「阿字」から最後の「荼字」までを共に開いて、円教の位を解釈することである。『法華経』の「序品」の「天より四華を注ぐ」ということをもって開・示・悟・入を表わし、「譬喩品」の「子どもたちは四方に遊ぶ」ということは、最初と最後を共に合わせて円教の位を解釈することである。

諸経における開合の違いは、すべて人々を導く四悉檀の方便である。このように、円教の位は明らかなのである。