大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 119

『法華玄義』現代語訳 119

 

◎妙位の初めと終わりを明らかにする。

第六の位である円教の位について述べるにあたっての十番めの項目は、妙位の初めと終わりを明らかにすることである。真如の教えにおいては、位を順番に進めるということはなく、一地・二地というような位もない。真理の本性は平等であり、常に自ら寂然としている。どうして最初と最後、始めと終わりを分別できるだろうか。真実に平等の大いなる智慧をもって、法界を観じれば、相対的なことはないので、相対的次元を作り出す無明惑を破り、智慧には相対はないということを証できる。この智慧においては、始めがないままそれが始めなので、すなわち最初の「阿」の字となる。終わりがないままそれが終りなので、すなわち最後の「荼」の字となる。中間がないままそれが中間なので、すなわちそれが十信・十住・十行・十廻向の四十心である。このように差別があるようだけれども、差別はない。このために不思議の位と名付けるのである。

法華経』の「方便品」に「声聞と縁覚が竹林の竹の数ほどいても、また、発心した菩薩から位が退かなくなった菩薩に至るまでのすべての菩薩であっても、みな知ることができない。あらゆる菩薩たちの信心の力が堅固な者は別である」とある。ここに「声聞と縁覚も知ることができない」とあるのは、三蔵教と通教の声聞と縁覚の二乗を指すのである。三蔵教の菩薩は、真理を対象とすることにおいては声聞には及ばない。声聞すら知ることができないのなら、この菩薩はどうして知ることができるだろうか。通教の菩薩の真理に入る智慧は、二乗と異なることはない。二乗が知らなければ、その菩薩もまた知ることがない。ここで、二乗が知ることができないということは、蔵教と通教の菩薩も知ることができないのである。「発心した菩薩も知ることはできない」とは、すなわち別教の十信を指す。「位が退かなくなった菩薩も知ることができない」とは、すなわち別教の三十心の位を指す。十住は位が退かず、十行は行が退かず、十廻向は念が退かない。この三つの退くことのない位の者は、みな知ることができない。三蔵教の中の退くことのない位の者は、なお二乗に及ばない。通教の中の退くことのない位の者は、ただ二乗に等しいのみである。二乗は知ることができないのであるから、その位の菩薩をあげる必要もない。ここで、発心した者と退くことのない位の者をあげていることは、すなわち別教の中の人を指しているのである。「信心の力」とは、五品弟子の位を指し、「堅固な者」とは六根清浄(=相似即)の位の者である。このような位は、『法華経』を聞いてすぐに理解する。このために妙とすることができるのは、相似即の位からである。

最初に仏の知見を開き、宝の車に乗って東方に遊ぶことは、分真即の初めである。残りの南方、西方、北方は中間の位である。直ちに悟りの道場に至って、「荼」の字のように、それより先がなくなるようなことは、すなわち最後の位である。このようなあらゆる位は、どのような乗り物に乗って行くのだろうか。この乗り物に三種類ある。それは教と行と証である。『般若経』に、「この乗は三界から出て薩婆若(さつばにゃ・すべてを知り尽す仏の智慧である一切智のこと)の中に至って住む」とあるが、この「住む」ということに二つの意義がある。一つめは証を取るために住む。すなわち通教の意味である。二つめは乗るところが極まっているためにそこに住むということである。すなわち別教円教の意味である。

初心は教の示すところによって、教を信じて行を立て、三界を出ることができる。無明惑はまだ破られていないので、証を取るものはない。このために真理を見ない。ただ教の乗り物に乗って、その示すところに行くのみである。円教の中において、以上のような形を取ることは、五品弟子の位がよく大いなる心を起こして、永遠に三界の苦しみの海から別れることである。教の乗り物に留まっては、証の乗り物にまでは及ばない。相似即の位の智慧をもって、進んであらゆる行を修すことは、すなわち行をもって乗り物とすることである。方便の三界の中から出て、初住の薩婆若の中に至って住む。円教の中において、以上のような形を取ることは、十信つまり六根清浄の位の者である。初住から等覚に向かって道を増し加え生死の苦しみを減らす者は、証をもって乗り物とし、初住から等覚の変易生死(へんいしょうじ・自らの意志で生死を取る聖者以上の存在の生死)の中から出て、妙覚の中に至って、「荼」の字のように、それより先がなくなる。このために「薩婆若の中に至って住む」というのである。円教以前のあらゆる乗は、なおその上に位があるので、住ということはできない。「荼」の文字はこの上ない教えを表わす。このために住というのである。つまり無住の場所に住むのである。すなわち妙の位の終わりである。

また次に、別教の十住に見思惑を破ることは、『法華経』の「化城喩品」の喩えによれば「三百由旬」を行くことである。十行に塵沙惑を破ることは、「四百由旬」とする。十廻向に無明惑を抑えることは、「五百由旬」とする。十地に無明惑を断じることは、完全ではないが部分的な中道を見ることであり、このために宝所とする。

円教の六根清浄の位は、「四百由旬」とする。無明惑を破って初住に入ることは、「五百由旬」とする。二乗の経典を聞き、無明惑を破り、仏知見を開き、授記(じゅき・仏となる約束)を得て仏となることは、すなわちあらゆる麁の位を成就することである。「五百由旬」を過ぎ、初住に入ることは、すなわち妙の位の初めである。証乗を得て東方に遊ぶことである。本門の中に至って、道を増して生死の苦しみを減らし、さらに証乗に乗って、南方に遊ぶようなことは、進んで十行の位に入ることである。西方は進んで十廻向に入り、北方は進んで十地に入ることである。

また『法華経』の「分別功徳品」に「この如来の寿命が非常に長いということを説く時、六百八十万億那由多恒河沙の人は、無生法忍を得た」とある。すなわちこれは十住のことである。さらに「また千倍の菩薩は、聞持陀羅尼(もんじだらに)を得た」とある。すなわちこれは十行である。「また一世界微塵数の菩薩たちがいて、楽説弁才(ぎょうせつべんざい)を得た」とある。すなわちこれは十廻向である。「また一世界微塵数の菩薩たちがいて、旋陀羅尼(せんだらに・教えを一回説くことができるほどの記憶力)を得た」とある。すなわちこれは初地である。「三千大千微塵数の菩薩たちがいて、不退を得た」とある。すなわち二地である。「二千の国土微塵数の菩薩たちがいて、よく清浄の法輪を転じた」とある。すなわち三地である。「小千国土の微塵数の菩薩たちは、八生めにまさに悟りを得るであろう」とある。すなわち四地である。「七生めにまさに悟りを得るだろう」とある。すなわち五地である。「六生めにまさに悟りを得るだろう」とある。すなわち六地である。「五生めにまさに悟りを得るだろう」とある。すなわち七地である。「四生めにまさに悟りを得るだろう」とある。すなわち八地である。「三生めにまさに悟りを得るだろう」とある。すなわち九地である。「二生めにまさに悟りを得るだろう」とある。すなわち十地である。「一回生まれ変わってまさに悟りを得るだろう」とある。すなわち等覚である。この一生を過ぎるということは、まさに「荼」の字を過ぎて文字がないようなものである。すなわちこれは妙覚地であり、妙の位の終わりである。

前に位を連ねる中、このように『法華経』の経文を引用して、それを一段落とするならば、煩わしくないのである。

(注:これで迹門の十妙の第四である位妙を終わる)