大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 128

『法華玄義』現代語訳 128

 

b.相を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての二つめは、相を明らかにすることである。まず、善悪について機の相を明らかにして、次に慈悲について応の相を述べる。

もし善悪をもって機の相を述べるならば、機は善なのか悪なのか、あるいは善と悪が共にあるのか。これについては解釈する者によって違いがある。ある人は「悪を機とする」という。そして『涅槃経』の「私はすべての衆生のでき物や重病を断じるようとする」という文と、また「七人の子がいたとして、その中に病の子に特に心が注がれる。如来もまた同じである。すべての衆生に対して平等ではないということではない。しかし、罪の者に対しては、心が重く偏っている」という文と、さらに「如来は無為(むい・真理に根差すこと)の衆生のために世に住むのではない」という文を引用する。また無記(むき・仏教では「善」と「悪」と善悪どちらでもない「無記」の三つをいうため、ここで無記をあげている)は、結局、無明であるので悪に属する。すなわち悪をもって機とするのである。

あるいは、善をもって機とする。『涅槃経』の「私は衆生を見るに、老少中年、貧富、貴賤を見ない。善心ある者に対して慈しみの念を持つ」という文を引用する。これはすなわち善を機とすることである。

あるいは、「善悪はどちらも単独では機とすることはできない」という。なぜならば、仏となる直前の心の状態は、すなわち仏そのものである。あらゆる善が集まり、この善の状態を超えるものはない。したがって、この状態を機とすることはできないことになる。仏と仏の念は通じるとはいっても、これは当然のことであり、苦を除いたり楽を与えたりすることではない。このため、善を機とすることはできない。また、悪を機とすることはできないということは、一闡提(いっせんだい・成仏する因縁を持たないとされる者)の極悪は、仏を感じることができないようなものである。また『涅槃経』に「ただ一本の髪の毛だけでは、身を持ち上げることはできない」とある。すなわちこれは人の本性にある理法的な善のことである。これは誰でも機として当てはまることであり、これでは結局、感の意義を成立させない。

あるいは、善悪共に帯びていることを機とすれば、一闡提が悔い改める心を起こすことから始まって、上は等覚の位に至るまで、みな善悪を共に帯びることになる。このために機とすることができる。したがって、機の相とは、善悪を共に帯びているということになる。

次に慈悲について応の相を明らかにすると、慈の一つをもって応とすることができる。『涅槃経』には、釈迦を殺すために放たれた象に対して、釈迦は慈善根の力をもって獅子を出し、象は釈迦を礼拝したことが記されている。このことについて広く説くことは、『涅槃経』の通りである。あるいは、悲のひとつをもって応とすることができる。『請観音経』に、観世音菩薩は地獄に赴いて、大いなる悲をもって代わりに苦しみを受けることが記されている。あるいは慈と悲を合わせて応とすることができる。なぜなら、悲の心は智慧に働きかけ、よく他の者の苦を除き、慈の心は禅定に働きかけ、よく他の者に楽を与えるためである。『法華経』に「禅定と智慧の力をもって荘厳し、これをもって衆生を導く」とある。『法界性論』に「水銀は真金と混ざって、あらゆる像に塗ることができる。功徳は法身に和合して、あらゆる所に応じて身を現わす」とある。水銀だけ、あるいは真金だけで、どのように像を塗ることができるだろうか。まさに知るべきである。慈と悲が合わさって応となるのである。

問う:衆生の善悪に、過去現在未来の三世がある。どの世を機とするのか。聖人の法(注:この場合は教えの意味)にもまた三世がある。どの世を応とするのか。過去はすでに去り、現在は留まらず、未来はまだ来ていない。すべて機とすることができない。また応とすることもできない。どうして善悪をもって機と応を論じることができるだろうか。

答える:もし理法を究めて考察すれば、三世はみな不可得である。このために機もなく、また応もない。このために『維摩経』には「菩提に過去現在未来があるというのではない。ただ世俗の文字や数字によって三世があるというのである」とある。四悉檀の力をもって、衆生に合わせて説くのである。

あるいは、過去の善をもって機とすることができる。このために『法華経』に「私たちは過去の福があって、今、世尊に会うことができた」とある。また五方便の位の人のように、過去の世に方便を学んだ人は、真理を発することが容易で、過去に学ばない人はそれが難しい。このために過去の善をもって機とする。あるいは、現在の善をもって機とすることができる。このために『勝鬘経』に「すなわちこの念を生じる時、仏は空中において現われる」とある。あるいは未来の善をもって機とすることができる。まだ生じていない善法を生じさせるためである。また無漏の人が、その習因がないままによく仏を感じるようなものである。このために『大智度論』に「たとえば、蓮華が水の中にあって、生じているもの、今まさに生じようとしているもの、まだ生じていないものが、もし日光を得ることができなければ、必ず枯れてしまうようなものである」とある。衆生の三世の善も、もし仏に会わなければ、悟りを成就するわけがない。

悪もまたこのようである。過去の罪を今すべて懺悔する。現在にあらゆる悪を行なっていても、今また懺悔する。そして未来の罪に対しては、今懺悔することによって、罪を相続する心を断じる。未来の罪をさえぎるために、これを「救い」と名付ける。なぜなら、過去に悪を行なったことは、現在の善を妨げて、善が起こることがないようにさせてしまう。このような過去に行なった悪は人の手にはどうすることもできないので、過去の悪を除くために、仏に求めるのである。また現在にある過去の悪の果である苦報は、衆生を苦しめて救いを求めさせる。また、未来の悪は今、その時に起こらないようにすることができるので、このために過去現在未来の三世の悪を機とするのである。

応もまた同じである。まず過去の慈悲をもって応とする。『法華経』に「私は昔、誓願を立ててこの法を得させようと願った」とある。次に現在の慈悲をもって応とすることは、すべての天と人と阿修羅などがみな、この場所にいるからである。彼らは法を聞こうとしているために、まだ悟りに導かれていない者を導くのである。また未来の慈悲をもって応とすることは、すなわち『法華経』の「如来寿量品」に記されている未来の世の利益(りやく)である。また「安楽行品」に「私は最高の悟りを得る時、人々を引いてその法の中に住むことができるようにさせる」とある通りである。

総合的に結論付けるなら、三世の善悪をすべて機とするのである。特に述べるならば、未来の善悪に対することのみを正しい機とするのである。なぜなら、過去はすでに過ぎ去っており、現在はすでに定まっている。ただ未来の悪を取り除き、未来の善を生じるようにするためのみである。

問う:未来はまだ来ていない。仏はどうしてそれを照らすことができようか。

答える:如来智慧はそれを知る。この世の次元で知ることができるようなものではない。ただ仰いで信じるのみである。どうして分別して知ることができるだろうか。

問う:感とは、衆生の方で自ら感じることができるのか。仏の働きによって感じることができるのだろうか。また如来は自らよく応じるのだろうか。衆生の感によるために応じるのだろうか。

答える:これについては、まさに四つの言葉を用いるべきである。それは、「自」「他」「共(自と他と共にという意味)」「無因(自でもなく他でもないという意味)」である。この四つの本性はすべて存在しないと否定される。この四つの言葉がないために、「無性」である。無性であるために、その表現としては、ただこの世の文字を用いて、四悉檀の中に感応・能(のう・働きかける側という意味)・所(しょ・その働きを受ける側という意味)などを論じるのである。そして、応を働きかけることは仏に属し、応を受ける側は衆生に属する。また感を働きかけることは衆生に属し、感を受ける側は仏に属する。もしさらに重ねていろいろな言葉を述べるならば、世の言葉は乱れて分別が難しくなる。このように文字にするとしても、もともと文字は実在ではないので、文字によるものはないのである。まさに夢のようであり、幻のようである。

問う:すでに善悪共に機とすれば、そもそも善悪のない者はいない。これはみな漏れなく利益(りやく)を受けることができるということであろうか。

答える:この世の病人は医者を呼ぶが、癒される者もいれば癒されない者もいるようなものである。機もまた同じである。機として成熟した者、まだ成熟していない者、利益から遠い者、近い者がいるのである。