大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 129

『法華玄義』現代語訳 129

 

c.同異を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての三つめは、同異を明らかにすることである。ここに三つの項目を立てる。一つめは、四句について不同を論じ、二つめは、三十六句について不同を論じ、三つめは、十法界について不同を論じる。ただし衆生の能力の違いは千差万別であるので、諸仏の巧みな応も無量である。この違いによって、悟りを得ることも同じではない。このために『法華経』に「名称も形もそれぞれ異なっていれば、種類も多い。上中下の根や茎や葉などがある。この種類の本性にしたがって、それぞれ成長するのである」とある。これはすなわち、機と応が不同であることである。

◎四句について不同を論じる

ここで概略的に述べれば、四つの句がある。一つめは「冥機冥応(みょうきみょうおう)」であり、二つめは「冥機顕応(みょうきけんおう)」であり、三つめは「顕機顕応」であり、四つめは「顕機冥応」である。

一つめの冥機冥応とは、もし過去世において、よく身・口・意の三業を修行し、現在の世においては、まだ身と口にはその利益(りやく)が現われておらず、過去世に積んだ徳によっているだけならば、それを冥機と名付ける。現在の世において、霊的な応を見ないといっても、秘密に法身の利益を受けている。見ず聞かずとも、目に見えない霊的次元においては覚知している。これを冥応とする。

二つめに冥機顕応とは、過去世に善を積んで、目に見えない仏への働きかけである冥機はすでに成就している。すなわち仏に会い、教えを聞くことができ、目に見える形で利益を得る。これを顕益(けんやく)という。仏が初めて世に出て、最初に悟りへと導かれる人がいるが、そのような人は、現在の世においてはそれ以前に修行などできるわけがない。諸仏はその過去世の機を照らして、自らそこに行き、その人を悟りに導くのである。すなわちこのような意味である。

三つめに顕機顕応とは、現在の世において身口を精進し怠らず、その結果、よく感と応が起こることである。経典にあるように、須達長者(しゅだつちょうじゃ)が膝を曲げて願い出れば、釈迦はそれに応じて祇園に赴いたように、また月蓋長者(がつがいちょうじゃ)が体を曲げて願い出れば、観世音菩薩と勢至菩薩が門の所に現われたようなものである。すなわち修行者が道場で礼拝して、よく霊的なしるしを感じるようなものである。これが顕機顕応である。

四つめに顕機冥応とは、人の一生において苦しみ勤め、この世における善を濃厚に積んでも、明らかに仏からの応を感じることがなく、目に見えない利益があるようなものである。これは顕機冥応である。

この四つの意義を解釈すれば、『法華経』にあるように、少しでも仏に対して頭を低くすることや手を挙げることでも、その福は空しく捨てられるようなことはない。一日中、感に対する応を感じることがなくても、その一日を悔いる必要はない。もし殺戮を喜ぶ者が長生きして、施しをする人が貧しくなっても、邪見を生じないようにせよ。もしこれを理解しなければ、努力など無駄であったといって、憂い後悔して真理から遠ざかってしまう。『大智度論』に「今の私の病気はすべて過去世によるものだ。今生(こんじょう)に福を修すならば、その報いは必ず未来世にある」とある。正しい念を持ち続け、ひがむことなく、この四つの意義を得るべきである。

◎三十六句について不同を論じる

上に冥と顕の感応について論じるにあたって、概略的に四句を挙げたが、もしさらに加えて論じれば、四つの機をもって根本とする。それは「冥機」「顕機」「亦冥亦顕機」「非冥非顕機」である。冥は過去世であり、顕は現世であり、亦冥亦顕は過去世と現世であり、非冥非顕は未来世である。仏が一闡提のために説法するようなものである。

冥機・顕機・亦冥亦顕機・非冥非顕機の各の中に、またこの冥・顕・亦冥亦顕・非冥非顕の四つの意義がある。冥機から論じれば、冥機冥応・冥機顕応・冥機亦冥亦顕応・冥機非冥非顕応となり、顕機では顕機冥応・顕機顕応・顕機亦冥亦顕応・顕機非冥非顕応となり、亦冥亦顕機では、亦冥亦顕機冥応・亦冥亦顕機顕応・亦冥亦顕機亦冥亦顕応・亦冥亦顕機非冥非顕応となり、非冥非顕機では、非冥非顕機冥応・非冥非顕機顕応・非冥非顕機亦冥亦顕応・非冥非顕機非冥非顕応となり全部で十六句となる。こうして機が応を召すならば、この応にもまた冥応・顕応・亦冥亦顕応・非冥非顕応があり、また四つの機に対応し、応も合計で十六句があることになる。このようにして機と応と合計して三十二句が成就する。さらにこの三十二句に根本の四句である冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応を加えれば、三十六句の機と応となる。

(注:文字の上だけでみれば、「十六句」しかないことになるが、機の側から見た場合と応の側から見た場合との違いで「三十二句」となる。さらに、この「三十二句」は、冥は過去世であり、顕は現世であり、亦冥亦顕は過去世と現世であり、非冥非顕は未来世であるという見方からのものであり、それに対して③で見た「根本の四句」は、単に冥は目に見える形で現わされていない機と応のことであり、顕は目に見える形で現わされた機と応のこととして「四句」が成り立っている。必ずしも、冥は過去世であり、顕は現世であるということではない。したがって、この「三十二句」に「根本の四句」を加えて「三十六句」としているのである。つまり繰り返せば、表面的な文字の上では「十六句」しかない)。

◎十法界について不同を論じる。

以上は、ただ一人の身業の機について三十六句があると述べただけであり、あらためて、身・口・意の三業についていえば、百八の機となる。さらに、過去現在未来の三世についていえば、三百二十四となる。人界の一法界がすでにこのようであれば、十法界では、三千二百四十の機応の不同がある。そして以上は自らの行である自行についてのことであるので、他を教化する化他もまた同じとなる。合計すれば、六千四百八十の機応である。そしてこれは、各法界が完全に別々であるという前提に基づいている。十法界が互いに具足し合っている真理に基づけば、これを九倍増し加える必要があるので、すべてで六万四千八百の機応となる。

(注:以上は、とにかく多くの数字となるのだ、ということを述べているのではなく、機と応に関しては、これほど数えきれないほどのパターンがあることを示し、自分もどのような状態、すなわちどのような機の状態であったとしても、必ず仏からの応があるのであり、また、それを自覚できる、すなわち顕であっても、自覚できない、すなわち冥であっても、そこに応があることには違いがないのだ、ということを、このような表現を通して説いているのである)。