大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 130

『法華玄義』現代語訳 130

 

d.相対を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての四つめは、機と応の相対を明らかにすることである。これについて四つの意義がある。一つめは、この世のあらゆる苦楽と聖人の三昧の慈悲の相対についてであり、二つめは、機と応の相対についてであり、三つめは三十六句の相対についてであり、四つめは、別教と円教の相対についてである。

◎苦と三昧の相対について

あらゆる機は多いが、二十五有(にじゅうごう・衆生が流転する世界を細かく二十五種に分けたもの。詳しくは前述あり)を出ることはない。あらゆる応は多いが、二十五三昧(にじゅうござんまい・二十五有の迷いを破るの三昧。詳しくは前述あり)を出ることはない。地獄の衆生に善悪の機があって、無垢三昧(むくざんまい・地獄の迷いを破る三昧。前述あり)の慈悲の応にあずかる。この悪を述べれば、黒業(=悪業。一般的に業というと悪い意味に解釈されるが、実際の業には善業と悪業がある)の悪、見思惑の悪、塵沙惑の悪、無明惑の悪である。善を述べれば、白業(=善業)の善、即空の善、即仮の善、即中の善である。これを地獄の機という。無垢三昧の慈悲を応とするとは、最初、無垢三昧を修して地獄を観じると、因縁観の慈悲、即空観の慈悲、即仮観の慈悲、即中観の慈悲がある。因縁観を修す時は、悲は地獄の黒業の苦を抜き、慈は白業の楽を与える。即空観を修す時は、悲は地獄の見思惑の苦を抜き、慈は無漏の楽を与える。即仮観を修す時は、悲は地獄の塵沙惑の苦を抜き、慈は道種智の楽を与える。即中観を修す時は、悲は地獄の無明の苦を抜き、慈は法性の楽を与える。以上は地獄に善悪の機があって、無垢三昧の応にあずかることである。苦を抜いて楽を与える相対の意義である(注:以上は地獄を例にあげて、その機に相対する三昧について述べたものである。前に「二十五有」に相対する「二十五三昧」が説かれているので、他の「有」についても同様であるので、記されてはいないのである。そして以下も同様である)。

◎機と応の相対について

地獄界の中の黒業の悪に、微(び・これ以降に記されている機の三義(微・関・宜)と応の三義(赴・対・応)は前にすでに述べられたものである。この機の微には微妙に動くという意味があり、それは仏を求める微妙な動きのことであるという)の意義があり、関(かん・機の善と悪には、聖人の慈悲に関わるという意義があるという)の意義があり、宜(ぎ・機の苦には聖人の慈悲にふさわしいという)の意義がある。この三つの機は、すなわち無垢三昧が修される時の慈悲に関わるのであり、そこに赴(ふ・機の微に対応する応の働き。すなわち微のあるところに赴くという意味)の意義があり、対(たい・機の関に対応する応の働き。聖人の慈悲が機に相対するという意味)の意義があり、応(おう・機の宜に対応する応の働き。すなわち、機にふさわしいように応じるということ)の意義がある。

また、地獄の白業に、また機と応の合わせて六つの義がある。すなわち即空は見思惑、即仮は塵沙惑、即中は無明惑に対応する。地獄の黒業の悪に白業が対応することに、この六つの義の相対があるのである。

◎三十六句の相対について

地獄の黒業と白業に、冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応の四句があって、無垢三昧の慈悲に関わる。この四つの応によって聖人が地獄に赴くと(赴)、見思惑には即空、塵沙惑には即仮(=道種智)、無明惑には即中など、みな相対するが(対)、四つの機に四つの応がふさわしく対応する(応)。また地獄に、この冥と顕の四句による三十六句の機があり、無垢三昧の三十六句の応が対する。

◎別教と円教の相対について

もし地獄に段階的に区別される機があるならば、三昧の応もまた段階がある。もし地獄に普遍的に円満な機があるならば、三昧の応もまた普遍的に円満である。

もし段階的に区別される機が起こるならば、三昧は段階的に応じる。それは、次の通りである。一人の業は去っても、他の人の業は必ずしも去ることはない。地獄、餓鬼、畜生の三悪道の思惑は尽くされても、他の人の思惑は必ずしも去ることはない。地獄の見惑を尽くす道種智が明らかとなっても、他の人の道種智は必ずしも明らかとはならない。地獄の仏性は明瞭となっても、他の人の仏性は必ずしも明瞭とはならない。

もし普遍的に円満な機と応について述べるならば、次の通りである。地獄の自在の業がまだ究竟されなければ、他の人の業もまだ究竟されない。一人の見思惑がまだ尽くされなければ、他の人の見思惑もまだ尽くされない。一人の人の道種智がまだ明らかにされなければ、他の人の道種智も明らかにされない。一人の人の仏性がまだ明瞭にならなければ、他の人の仏性もまだ明瞭にされない。一人の人の仏性が明瞭になれば、他の人の仏性も明瞭となる。同じように、一人の人の業が自在となれば、他の人の業も自在となる。地獄の機と応の相対を分別すれば、上に述べた通りである。地獄以外の二十四有の機と応の相対もまた同様である。

問う:善機に悪応があったり、悪機に善応があったり、段階的な機に普遍的に円満な応があったり、普遍的に円満な機に段階的な応があったりするのだろうか。

答える:仏の自由自在の働きにかなえば、またそれもある。『維摩経』に「ある時は風火を現わして、それによって衆生を照らして無常を知らせる」とある。すなわち悪をもって善に応じるのである。『法華経』の妙荘厳王の物語において、王は最初、邪悪な教えを受け入れていたところ、薬王菩薩と薬上菩薩と光照荘厳相菩薩の三菩薩はそれぞれ妻と二人の子となって王を正しく導いたことが記されている。まさに、善が悪に応じたのである。

普遍的に円満な機に段階的な応がある場合とは、一切智の誓願は、普遍的であり何ら失われることはない。普遍的に円満な機は失われることがない。方便として声聞の教えを教えることは、段階的な応である。

段階的な機に普遍的に円満な応がある場合とは、『法華経』にあるように、最初に三つの車を子供に約束して、火宅から出て来た子供たちにそれぞれ同じ一つの立派な車を与えるようなものである。その教えを理解した告白に「この上ない多くの宝は、求めずに与えられた」とある。これはこの意義である。楽を抜き苦を与えることは、これによって知るべきである。