大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 176

『法華玄義』現代語訳 176

 

第二項 門に入る観法を示す

門に入る観法について述べるにあたって、二つの項目を立てる。まず概略的に門が通じる場所を示し、次に概略的に門に入る観法を示す。

 

第一目 概略的に門が通じる場所を示す

通じるところの教えの門は、四教にそれぞれ四門があって、合計十六あるとしても、通じる対象である理法はただ偏真(偏った真理)と円真(円満な真理)の二つのみである。前の八門はみな偏真に入り、後の八門はみな円真に入る。それはどうしてであろうか。偏真といっても理法は一つであって、その門が八つあるとしなければならないのではないか。三蔵教の四門は、迂回しており曲がりくねっているので、拙度(せつど)とする。通教の四門は、大乗の教えであって、広く真っすぐな巧度(ぎょうど)である。このように、門に拙と巧の異なりがあるので、通じる門を八門としても、真理は二つあるものではないので、門が通じる場所は一つしかない。たとえば、州都の城の四面に門があるようなものである。四面の偏門は三蔵教を喩え、四面の直門は通教を喩える。偏と直は異なっているので、通じる門は八つあっても、主君からの勅使は一つなので、門が通じる場所は二つあるわけではない。

別教の四門は偏真であり、円融していない。円教の四門は円真であり、円融している。偏と円は異なっているので、通じる門を八門として、円真は二つあるものではないので、門が通じる場所は一つしかない。たとえば、皇帝の住む城の四面に門があるようなものである。四面の偏門は別教を喩え、四面の直門は円教を喩える。偏と直は異なっているので、通じる門は八つあっても、皇帝は一人なので、門が通じる場所は一つである。

問う:小乗は一種類の四門であり、大乗はどうして三種類の四門なのか。

答える:小乗は浅く深遠ではないので、一つの生の間だけの煩悩を断じるのである。たとえば、小さな家のようなものである。大乗は深遠なので、通じる対象は長い間のこととなる。たとえば、大きな家には多くの家族や人がいるようなものである。通教・別教・円教の四門も多すぎるということではない。

問う:大乗の門によって、なぜ声聞と縁覚と菩薩が真理を見ることができるのだろうか。

答える:この門は、中心は大乗に通じ、補助的に小乗に通じる。たとえば、王国に通門と別門があるようなものである。別門は朝廷の使節を通し、通門は朝の市場のために通す。庶民が通るからといって、民門とすることはできない。大乗の通門もまた同じである。真っすぐに実相に通じ、補助的に真諦に通じる。このために、三乗の人の灰身滅智は、この門が兼ねる。兼ねて偏真に通じるために、小乗の門とすることはできない。

 

第二目 概略的に門に入る観法を示す

(注:これ以降、蔵教・通教・別教・円教の四教それぞれの観法について述べられる。これは天台教学においても修行項目として重要なことなので、以前に説かれたことを再編成しながら、非常に長い紙面を費やして説かれている。特に蔵教と円教の記述は長い)。

 

Ⅰ.蔵教について

まず三蔵教の有門の観法を明らかにする。この有門の中に、信行と法行が備わっている。信行は教えを聞いて即座に悟れば、この心は能力が高いことになる。真理を得る方法は、人に示すことは困難である。

しばらく法行の観法の門について述べるにあたって、十種の意義(=十乗観法)を立てる。第一に観境、第二に真正発菩提心、第三に善巧安心止観、第四に破法徧、第五に識通塞、第六に道品調適、第七に対治助聞、第八に識次位、第九に能安忍、第十に無法愛である。『阿毘曇論』の中に、この十種について述べられているが、その文はまとまっていない。論師は道を行じることは知っていても、何によって修すべきかを知らない。岐路に迷って、従うところがわからないようなものである。ここで、その意義の要点を取って、最初から最後まで通じて明らかにすれば、有門に入る道の観法を知ることができる。

第一.観境

第一は、観法の対象となる境を明らかにする。すなわちこれは、正因縁である十二因縁に説かれるように、無明の因縁によって、すべての実在が生じることを知ることである。ある教えでは、世間の苦楽の在り方は、ヴィシュヌ神から生じるといい、またある教えでは世性というものから生じ、また微塵より生じるなどというが、これらはすべて邪因縁の生である。もし自然法爾であり、誰かが作ったということでもない、といえば、これは無因縁の生である。無因縁の生は、因を破るだけで果を破ることはできない。邪因縁は、正しい因縁そのものを破る。これらは正因縁の境ではないので観じるべきではない。『阿毘曇論』は極微(ごくみ・存在の最も小さい単位とされるもの)を述べ、『成実論』は極微を破る。これは無因縁と邪因縁が混じり合ったものであり、正因縁の境とは言えない。

なぜならば、極微の有無は、未だに有と無の両極の見解を免れていないので、なお無明の顛倒である。無明の顛倒であるために、すでに集諦であり、集諦であるために、麁や細などの認識の対象を生じる。無明の顛倒はすでに不実であるので、感じるところの苦諦の果報はどうして有や無であると定めることができようか。このために『大智度論』に「認識の対象が麁あるいは細など、すべてこれを観じれば、無常であり無我である。無我であるので主体はない。麁、細、因、縁、苦、集、依、正など、みな無常であり主体はなく、すべて無明の顛倒が作るところである」とある。『阿毘曇論』の教えが詳しく説く通りである。これを正因縁の観じる対象の境を知ると名付ける。外道の邪因縁や無因縁とは同じではないのである。

第二.真正発菩提心

すでに無明の顛倒が流転し、十二因縁における行・識、そして最後の老死までの展開は、松明の火を回す時に見える輪のようなものであることを知る。このような業の結果から脱したいと願い、正しく涅槃を求める。声聞と縁覚の二乗の心を発して、見・愛を出離し、名利を求めず、ただあらゆる有を破り、苦諦・集諦を増長させない。ただ無余涅槃を求めるのみである。その心は清浄であり、雑ではなく誤りもない。この心を真正発菩提心と名付ける。外道や天魔と同じではない。

第三.善巧安心止観

修行者は、すでに有を出ることを誓い求め、戒律によって道を修す。しかし罪の障りは盛んであり、心は安らかではない。道にあってどのように克服すればよいであろうか。このために四念処を修すために、五停心(ごていしん・禅定に入る前の心を落ち着かせる段階の観法。不浄観・慈悲観・数息観・因縁観・念仏観の五つ)を学び、貪欲・瞋恚・散乱心・愚痴・煩悩の五種の障りを破る。五停心の事象に対する観法は、すなわち禅定である。禅定は四念処を生じるので、すなわち智慧である。智慧と禅定が等しく留まるために、安心と名付ける。

また、禅定と智慧とがほどよく整うので、停心と名付ける。禅定と智慧がなく、また禅定だけ、あるいは智慧だけ、または整っていない禅定と智慧では、賢人とは名づけられない。世間の賢人が智と徳を備えている場合、智は成熟していないところがなく、徳は美しい行ないに欠けたところがない。許由(きょゆう)や巣父(そふ)は賢人とすべきである。もし智ばかりが多く徳が少なければ狂人であり、徳が多く智が少なければ痴人である。狂人と痴人は賢人ではない。賢人は賢能によって名付けられ、賢善によって名付けられる。善であるために徳があり、能力があるために智がある。智と徳が備わっているために賢人である。修行者も同じである。四念処の智慧を修し、五停心の禅定を学んで、禅定と智慧が備わるのである。

数息観はどのように禅定と智慧が備わり、あらゆる心の拡散を制御するのであろうか。一から十に至って、息とその数を知り、それらが無常生滅して、念念に留まることはない。また、不浄観を修するなら、まさに深く汚れの悪を厭うべきである。観じる主体と観じる対象は無常生滅して、早々に滅んで虚妄であり、あらゆる衆生をだます。観法を嫌い瞋恚を起こすならば、そのような場合には慈悲観を修すべきである。他の者が楽を得ることを見れば、禅定も楽の相も無常生滅することを知る。因縁観の時は、胎生・卵生・湿生・化生の四生はすべて因縁によって生じた在り方であると観じ、三界もまた因縁によって生じた在り方であると観じる。因縁により生じるものは、すべて無常・無我である。あらゆる障りが起こるならば、まさに念仏観を修すべきことは、また上に説いたことと同じである。

これを五停心を備えて禅定と智慧を修すことと名付ける。禅定があるために狂人ではなく、智慧があるために愚かではない。これによって安心することをあらゆる修行の基礎とする。煗法と頂法を発して、苦・忍の真実の智慧に入り、聖人の前段階を賢人とする。この意義はここにある。外道は乳から酪を得ることを知らないどころか、酢の生成も知らない。ましてや酪や蘇などについてはなおさらである。