大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

天台四教儀 現代語訳  20(完)

『天台四教儀』現代語訳  20(完)

 

第二節「十乗観法」

 

次に正式な修行における十乗観法(じゅうじょうかんぽう・観心において常に認識すべき十種の事柄)について述べる。これについては、四教でそれぞれ十種の名称は同じだが、その内容は異なる。今ここでは、円教について述べることにして、他の教えについては、この記述を通して知るべきである(注:四教それぞれで、観心の対象となる境も、観心の主体となる智も異なる)。

 

一つめは、観不思議境(かんふしぎきょう)である。一念の心を観じる時、すべての世界における性・相などの十如是、つまりと百界千如は、すべて備わっていて欠けるところはない、ということである。すなわち、この不思議な観心の対象となる境は、即空・即仮・即中であり、さらに前後なく広大円満橫縦自在なのである。このことを『法華経』では喩えて、「この車は高く広い」とある。これは、能力の高い人の観心における境である。

二つめは、真正発菩提心(しんしょうほつぼだいしん・真実で正しい悟りを求める心を発すること)である。上に述べた不思議である妙境によって無作(むさ・主体も客体もなく、すべてが真理のまま動かされるという意味)の四弘誓願を発し、自分を哀れみ、人を哀れみ、より高い悟りを求め、より低い衆生を教化することを求める。このことを『法華経』では喩えて、「車の上にきらびやかな傘を設置する」とある。

三つめは、善巧安心止観(ぜんぎょうあんじんしかん・巧みな禅定により心は常に平安であること)である。前に述べた妙理を体得し、常に心が静かに安定していることを禅定と名付け、静かなままに常に境を照らすことを智慧と名付ける。このことを『法華経』では喩えて、「車の中に立派な枕を置く」とある。

四つめは、破法徧(はほうへん・すべてに渡って執着を破ること)である。空・仮・中の三観をもって見思惑・塵沙惑・無明惑の三惑を破る。一心三観によって破られない惑はない。このことを『法華経』では喩えて、「この車は風のように早い」とある。

五つめは、識通塞(しきつうそく・真理に通じるものと塞ぐものを認識すること)である。いわゆる苦諦・集諦・十二因緣・六蔽(ろくへい・貪欲、破戒、瞋恚、懈怠、散乱、愚痴)・塵沙惑・無明惑を塞とし、道滅・滅因緣智・六度・一心三観を通とする。通は必ず守るべきである。塞があるならば必ず破るべきである。通は本来破る主体であるが、通において塞が起これば、その通は破られるべき対象となる。そのように、何が通で何が塞なのか、よく認識すべきである。そのために、識通塞と名付ける。このことを『法華経』では喩えて、「この車の外に赤い枕を置く」とある。

六つめは、道品調適(どうほんじょうじゃく・三十七道品を具足し悟りに向かうこと)である。いわゆる無作(むさ・作意なしに行なわれるという意味)の修行項目をそれぞれ適宜に調え、その行に入るのである。このことを『法華経』では喩えて、「大きな白い牛の車がある」とある。以上の五つは中間の能力のある人が行なう。

七つめは、対治助開(たいじじょかい・中心となる教えと補助的な教えを理解すること)である。いわゆる正式な修行を行なっても、妨げが多く円教の理法が開かなければ、必ず補助的な行を修すべきである。これは、五停心および六波羅蜜である。このことを『法華経』では喩えて、「多くの従者がいる」とある。これ以降の観法を、劣った能力の人のためとする。

八つめは、識次位(しきじい・自らどの行位にいるか認識すること)である。いわゆる修行をする人が増上慢心にならないためである。

九つめは、能安忍(のうあんにん・心を安んじて動ぜず、堕せず、退くこともなく、散ることもないこと)である。いわゆる困難を観じる時でも心を安んじて動くことなく、円教の五品弟子位の行を修して六根清浄位に入るのである。

十は無法愛(むほうあい・真理を知っても、それに執着を生じないこと)である。いわゆる相似位の十信の位に執着することなく、必ずその上の初住の真実の理法に入るべきである。このことを『法華経』では喩えて、「この宝の車に乗ってあらゆる方角に遊び(これは四十の位に遊ぶという意味である)、真っすぐに道場(妙覚位のことである)に入る」とある。

 

「結語」

謹んで天台教学の書物を広く読み、五時八教を中心に記して概略的に説明したことは以上の通りである。もし詳しく知ろうと思う者は、『法華玄義』十卷を読むことを願う。そこには、過去現在未来のあらゆる方角の諸仏が説く教えの形式と内容が、まるで清らかな鏡が対象を映し出すように、詳しく分析し述べられている。および『浄名玄義』の中の四卷(注:これを『大本四教義』と名付けることもある)には、もっぱら教えの形式(=教相)が判別されている。これよりは、天台以外の諸家の教えの形式の判別について述べたいところであるが、それは省略する。