大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 192

『法華玄義』現代語訳 192

 

第四節 四悉檀に対する

権実の二智の十用は同じではない。すなわち同じ仏の説法は、衆生の能力に従ってそれぞれ理解される。迹の中の破・廃は、七方便の人々に仏の知見を開かせる。本の中の破廃は、大河の砂の数ほどの菩薩が起こす疑いを断じ、道を進ませる。みなこれは四悉檀の意義をもって、衆生を成熟させる。

ここで、この十用をまとめて四悉檀とする。先に迹門をまとめ、次に本門をまとめる。

迹門をまた二つとする。先に個別に述べ、次に共通してまとめる。

個別に述べるとは、次の通りである。開三顕一・住三用一・会三帰一の三つは、各各為人悉檀に属する。なぜならば、もともと三乗を習い、今、かえって三乗において一乗を修すからである。道を変えたり轍(わだち)を変えたりしない。ただ深くこの三乗を観じれば、一乗の理法は自ら顕われる。三乗の中に一乗があるので、取捨する必要はない。このために開三顕一は各各為人悉檀に属する。住三用一もまた同じである。ただこの三乗について、一乗の道を修すだけである。富楼那はただ声聞に立脚して、自らに利益を与え、またよく同じ清浄の行の者に利益を与える。すなわちこれは三乗の法をそのままで、よく一乗の理解を生じるので、みな各各為人悉檀に属するのである。

破三・廃三・覆三の三つは、対治悉檀に属する。この三乗に封じ込められ、一乗を疑えば、その情を排斥して破る。権教を廃して、密かに権法を覆い、執着の病気の心を除き、一乗の真実の道に入り、真実の智慧に安住させる。

住三顕一・住一用三の二つは、世界悉檀に属する。なぜならば、世界は願い欲することをもって本としているからである。衆生は三乗の道を得ようと欲して、一乗の真実の教化を聞こうと願わない。このために仏は自らは一乗に住んでいるが、衆生に同じて三乗を説く。また三乗の衆生の能力は異なっていることは、世界もそれぞれ隔たっていることと同じである。このために世界悉檀と名付けるのである。住三顕一もまた世界悉檀である。なぜなら、仏は人の法に従って、方便に住み、整え熟させて一乗を顕わす。このために世界悉檀に属するのである。

住一顕一・住非三非一顕一、これは第一義悉檀に属する。

共通して四悉檀を明らかにするならば、ただ三乗を破って一乗を顕わせば、四種の利益がある。なぜならば、君子は自らの誤りを聞くことを願い、つまらない人間は自らの誤りを聞くことを嫌う。誤りを知って必ず改めることを欲することは、すなわち執着を破って病を除くためである。謹んで歓喜することは、世界悉檀である。もし三乗に住むことに執着すれば、道を進めることができない。三乗を破って一乗に従えば、悟りを求める心が生じ、善法が増進する。これを各各為人悉檀と名付ける。三乗に執着することは病であり、一乗を説くことは薬である。これは対治悉檀と名付ける。もし三乗を破ることを聞き、理法を見ることができれば、第一義悉檀と名付ける。

他の九種も同様である。このために知る。仏の良き巧みなわざが衆生の能力の違いに応じて、みな利益を得させることは、四悉檀の力である。

二つめに、本門の十用を結んで四悉檀とすることは、また個別的なことと共通していることがある。住迹顕示・住本用迹は世界悉檀に属する。また随楽欲と名付ける。解釈は前の通りである。

開迹顕本・会迹顕本・住迹用本は各各為人悉檀に属する。道を改めないでさらに修す。かえって本の法について顕本を修す。解釈は前の通りである。

破迹・廃迹・覆迹は対治悉檀に属する。

住本顕本・住非本非迹顕本は第一義悉檀に即する。解釈は前の通りである。

次に、共通して破迹顕本の一つにおいて、四悉檀を結ぶことについても、また前の通りである。他の九種もまた同じである。

 

第五節 四悉檀の同異について

他の経典にまた四悉檀の破三顕一・破迹顕本などが用いられているが、『法華経』とは異なりがある。それについて二つある。一つは迹門の異なりを明らかにし、二つは本門の異なりを明らかにする。

迹門の異なりとは、三蔵教の中に、また四悉檀の破・廃などの意義が用いられている。ただ有余・無余の涅槃とするのみである。『大品般若経』の中の共般若(ぐうはんにゃ・すべての存在は実体を持つという誤った認識を破る三乗に共通する智慧)も、また四悉檀の破・立などの意義が用いられているが、ただ真理を悟るのみであり、円教に入ることができない。方等教の中にまた破三顕一がある。菩薩の人については、一部分同じものがある。二乗の人は、実相に入ることができない。このために釈迦の十大弟子は、『維摩経』で叱責され、八つの邪見に陥り、大乗の仲間に入らない。これは破り排斥する言葉である。不思議な大乗の道を称賛するのである。みな四悉檀の意義を用いるが、二乗は悟らない。

法華経』は四悉檀の意義を用いて、二乗に対しては疑いを断じさせ、執着を取り除き、仏の正しい道に入らせ、授記を授けて将来に仏になることを得させる。このために知ることができる。この経典は四悉檀を用いることが巧みであり妙である。文に「言辞が柔軟であり、人々の心を喜ばせる」とある。舎利弗が理解して「仏はあらゆる縁、譬喩をもって巧みに言葉で説く。その心が安らかであることは海のようだ。私は聞いて、疑いの網が断じられ、真実の智慧の中に安住する」と言っているのはこの意義である。

問う:『法華経』は一乗を顕わすために、かえって昔の教えを破る。もし昔の教えに調熟していなければ、また理解できないであろう。

答える:『法華経』において悟ることは、昔の教えを責めることによるが、ただその功績はこの経に属する。昔の教えを責めることに功績があるのではない。たとえば、百人が共にひとつの賊を囲む時、その囲って攻める力は、実際に人々に頼るわけだが、よく賊を捕える者は手柄を獲得し、それは百人に属するのではない。この経の開権顕実・四悉檀の大いなる用は、最も勇猛とする。

発迹顕本の四悉檀は、さらに他の経典と異なる。なぜならば、迹門の中の力用は、すでに他の様々な教えに出ているが、本門の中の十用は、諸経に一つもない。ましてやどうして十種あるだろうか。迹門の中の四悉檀は、すでに諸経に出ている。しかし本門の四悉檀は諸経にひとつもない。ましてやどうして四つあろうか。意義をもって知るべきである。煩わしく多く記すことはしない。