大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 191

『法華玄義』現代語訳 191

 

第二項 本門の歴別

本門の用の段階を分別するにあたって、十の項目を立てる。もし文の便宜を助けるならば、まさに開近顕遠と言うべきである。もし意義の便宜を取るならば、まさに本迹と言うべきである。迹を近とし、本を遠とするのみである。名称は異なっていても、意義は同じである。

十種の一つめは、a.破迹顕本、二つめは、b.廃迹顕本、三つめは、c.開迹顕本、四つめは、d.会迹顕本、五つめは、e.住本顕本、六つめは、f.住迹顕本、七つめは、g.住非迹非本顕本、八つめは、h.覆迹顕本、九つめは、i.住迹用本、十は、j.住本用迹である。

この意義は本門に共通している。それぞれの妙の一つ一つの中に、みなこの十種の意義を備える。

ここで、個別に(注:共通しているが、あえてそれぞれ分けて述べるならば、という意味)この十種について述べる。

a.破迹顕本

また執着する情を破ることによる。「序品」「方便品」「見宝塔品」の三品に、すでに聴衆が執着を生じ、疑いを起こしている文がある。文殊菩薩弥勒菩薩の質問に答えている通りである。昔の八王子は、妙光菩薩に師事した。妙光菩薩は先に一生補処の位にいて、八王子は成仏し、八番目の王子は然灯仏となった。そして然灯仏の弟子が成仏して釈迦仏となった。妙光菩薩は翻って弟子となって、文殊菩薩となった。こうして迹の執着が動揺させられ、疑いが生じた。この疑いはどのように解決するだろうか。

これは、文殊菩薩が一生補処の位に留まっていることではなく、また弟子の釈迦が超越するのでもない。実に釈迦がはるか昔に成仏しているために、昔は弟子となって、今は師となっていることを示しているのみである。この迹の疑いを払って、本の智慧を顕わすために、破迹顕本というのである。「方便品」に「私は久遠劫の昔より、涅槃の道を褒め示して生死の苦を長く尽くさせている。私は常にこのように説く」とある。まさに知るべきである。生死は久遠の昔からすでに長く尽きているので、中間に初めて涅槃に入るのではない。宝塔が涌き現われ、多宝仏が滅度を示しても滅していない。迹をそのままにして、しかも常であることを証する。釈迦の分身仏はみな集まり、すべての方角で数えることができない。分身仏はすでに多いので、これによって釈迦が仏になってから途方もない時が流れていることを知るべきである。蓮華の実が最初は一つ池に落ちても、やがて池が蓮華で満ちるようになることに喩えられる。

この三品の文を考察すると、すでにこれは迹を破る次第である。したがって、地涌の菩薩は、釈迦が悟りを開いた寂滅道場で教化を受けたのではなく、また他方の分身仏のところで教化を受けたのではない。この寂滅道場と他方の分身仏のことについては、弥勒菩薩もすべて知っている。しかし、ここでは弥勒菩薩は知らない。そのために驚き疑いを起こした。この迹に執着する情を破り、本の長遠の事実を顕わす。このために文に「すべての世間の人々はみな『私たちの釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出て、伽耶城から去って、間もなく最高の悟りを得た』と言う。しかし、私は実に成仏してから今まで、無量百千万億那由他劫の時が流れている」とある。そしてただちに五百千万億那由他阿僧祇の数の世界を挙げて、弥勒菩薩に質問したが、弥勒菩薩はその数を知ることはできなかった。ましてやその世界の中の塵の数はどうして数えることができるだろうか。これは近執の常識を破り、その遠智を生じさせるのである。

b.廃迹顕本

これもまた説法に関することである。昔、五濁(ごじょく・劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁)の障りが重いために、深遠な本地を説くことができず、ただ迹の中の浅い真理を示すのみだった。しかし『法華経』はこの障りを除き、衆生を深い真理に向かって導くことができるため、釈迦が菩提樹の下で悟ったという迹の中の説法は、みなこれは方便であると廃すべきである。浅い真理に執着する心を断じれば、迹に封じ込める教えもまた止む。経文に「昔から今まで、私は常にこの娑婆世界にあって説法して教化してきた」とある。また「他の百千万億那由他阿僧祇の国において、衆生を導き利益を与えた」とある。これは、娑婆世界の一期の迹の教えを廃して、久遠の本の教えを顕わすのである。

c.開迹顕本

これもまた法についてのことであり、また理法についてのことである。文殊菩薩が説いた然灯仏、および久遠より今まで、涅槃の道を褒め示し、および釈迦の分身の諸仏など、これらは迹の説であるが、この本を顕わす意義をもって見れば、迷う者はまだ玄妙な旨を悟らないということがわかる。ここで本を顕わせば、またあらためて他のものによらず、かえってこの浅い迹を開いて、その本の要旨を示せばよいのである。理法についてのこととは、ただ深く方便の迹を観じれば、本の理法はすなわち現われる。文に「私は実に成仏してから今まで、久遠であることはこのようなものである」とある。また「ただ方便をもって、衆生を教化して、仏道に入らせるのみである」とある。もし仏道に入れば、迹はそのままで本を得る。

d.会迹顕本

これは行についてのことである。迹の中のあらゆる行を見れば、あるいはこの仏に従って行を修行して悟りを得、あるいはかの仏に従って行を修行して悟りを得、あるいは仏はこの身、他の身を示し、相手の能力に従って、長短大小を応じて現わす。あらゆる迹はすべて本から下るのである。もし古今を結び合わせれば、かえって迹を結んで本を顕わすのみである。本と迹は異なっているといっても、不思議な次元で一つである。文に「あらゆる良き男子よ。この中間において、私は然灯仏などとなって説き、また涅槃に入るという。このようなことはみな方便をもって分別したことである」とある。これがすなわち会迹顕本の意義である。

e.住本顕本

これは仏の本の意義によることである。すなわち下方の菩薩は空中において住み、法身仏は、法身の菩薩のために教えを説き、法身は道を修して、もっぱら一乗を説くようなものである。文に「人々は、焼け尽きたと見ても、私の浄土は壊れない。このように深く観じることを深い信解の相という」とある。常にこの本に住み、常に本を顕わす。文に「私は成仏してから今まで、はなはだ大いなる久遠である。寿命は無量阿僧祇劫であり、常住して滅びることはない」とある。これこそ、どうして住本顕本でないことがあろうか。

f.住迹顕本

これは迹の意義についてのことである。すなわち釈迦は生身に住んで一を顕わす。一を顕わすために、古仏である多宝如来の塔が涌き出た。塔が涌き出たために、釈迦の分身仏を召請する。分身仏が集まるために、経典を広めることを願って、下方より菩薩が出現する。経典を広めることを願うために、下方より出現すれば、弥勒菩薩は質問する。質問するために、仏の寿命が長遠であることを説き、執着を動揺させ疑いを捨てさせる。これを住迹顕本という。文に「私は仏の眼をもってこの信心などのあらゆる根を観じ、そして種々の方便をもって微妙の法を説き、よく衆生歓喜の心を起こさせる」とある。

g.住非迹非本顕本

これは言葉を絶して深い真理に会うことである。すなわちこれは本ではなく、迹ではなく、しかも本と迹である。昔は迹でなく、しかも迹を下し、今は本ではなく、しかも本を顕わす。文に「実ではなく、虚ではなく、如ではなく、如と異なったものではなく、このようなことを如来は明らかに見る」とある。

h.覆迹顕本

また衆生に応じることが多岐にわたることについてである。もし迹に執着すれば、本の障りとなる。このために覆って執着しないようにする。さらに後の衆生に対して、かえって必ず迹を用いる。このために獅子奮迅の力がある。文に「多くの言辞、因縁、譬喩をもって、さまざまに説法する。行なうところの仏の行為は、未だに少しも廃されていない」とある。

i.住迹用本

法華経』以前においては、迹に立脚して本を顕わすとは、ただ迹の中に衆生の能力に応じる方便をもって、本地の理法を表わすことである。しかし『法華経』において住迹用本ということは、中間から菩提樹の下で悟りを開く時に至るまで、何度も仏は生滅する。他の身、他の事とは、みな本時の実因実果であり、あらゆる本法を用いて、あらゆる衆生のために仏の行為がある。このために住迹用本という。これは師の立場における解釈である。

もし弟子の立場において見れば、すなわち本時の妙応の眷属である。権である迹に立脚して、形を九法界に下し、しかも本法を用いて衆生を利益する。文に「しかし私は今、実に滅度するのではないが、まさに滅度するという。如来はこの方便をもって、衆生を教化する」とある。これは、迹に立脚して本時の滅度を用いて、滅度を示すのである。

j.住本用迹

すなわち本地は動かないが、迹は法界に遍満している。生じるのではないが生じ、滅度するのではないが滅度する。つねにこの迹を用いて、衆生に利益をもって潤す。この意義は師の立場による。もし弟子の立場によれば、すなわち法身の菩薩が、不住の法をもって本地に住む。策のない権、迹の用は尽きることがない。文に「また良き男子よ。諸仏如来の法はみなこのようである。衆生を悟りに導くためである。みな実であり虚ではない」とある。

仏は分散して衆生の能力に応じので、文は多くなく順番通りになっていない。ここで分を引用して意義を証するならば、「如来寿量品」の文を引けば尽きる。

破迹顕本と会迹顕本は、個別に述べれば本因妙を用い、開迹顕本は、個別に述べれば本果妙を用い、住本顕本は、個別に述べれば本国土妙を用い、廃迹顕本は、個別に述べれば本説法妙を用い、住非迹非本顕本は、個別に述べれば本感応妙を用い、覆迹顕本は、個別に述べれば本神通妙を用い、住迹用本は個別に述べれば本寿命妙を用い、また本眷属妙を用い、住本用迹は個別に述べれば本涅槃妙を用い、また本利益妙を用いる。(注:「住迹顕本」が抜けているが、一応、「本門の十妙」はすべて挙げられている)。