大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 193

『法華玄義』現代語訳 193

 

第五章 判教

 

『法華玄義』の大きく分けた章のうちの第五章は、「判教」である(注:教相判釈・教判・判教などはすべて同じ意味であるが、五重玄義の項目の題としては、「教を判ず」という意味で、「判教」と表現される)。

もし他の経典を広めるに際し、その教相を明らかにしなくても、その意義において傷つくことはない。しかしもし『法華経』を広めるに際し、その教えを明らかにしなければ、文義に欠けてしまう。ただその聖なる意義は隠れており、教法はさらに難しい。前代の諸師は、あるいは優れた学者の説を継承し、あるいは思いに秘めた。その意義は非常に多様であり、どれが正しいものかわからない。しかし、意義は並び立つわけがなく、理法は二つあるわけがない。もし深い真理が隠されており、また経として成り立つならば、文字に記されて用いられるはずである。文もなく意義もなければ用いられるはずがない。南嶽大師は、心に証するところがあった。また経論を照らし合わせて、仏の言葉に従った。天台大師はそれを伝えて従い用いた。

概略的に教相を明らかにするにあたって、五つの項目を立てる。一つめは、大意であり、二つめは、異解を出し、三つめは、難を明らかにし、四つめは、研詳去取であり、五つめは、教相を判ずである。

 

第一節 大意

大意とは、仏は名称や形態を超越した真理について、名相を借りて説く。他の経典を説くにあたって、それぞれ衆生の能力に従って利益を取らせる。『華厳経』が、最初に円教と別教の能力の衆生に合わせて説き、太陽が昇って最初に高山を照らすようにし、ただちに次第と不次第の修行、円教の初住より上、別教の初地より上の功徳を明らかにして、如来の頓を説く意義を述べた。

『四阿含経』を説くことについては、『増一阿含経』には人天の因果を明らかにし、『中阿含経』には真寂の深い意義を明らかにし、『雑阿含経』にはあらゆる禅定を明らかにし、『長阿含経』には外道を破る。しかも共通して無常を説き、苦諦を知り、集諦を断じ、滅諦を証し、道諦を修行させるけれども、如来が巧みに小乗を施している意義を明らかにはしていない。

あらゆる方等教については、小乗を退け偏った教えを非難し、大乗を歎じて円教を褒め、慈悲行や誓願があり、事象的および理法的に優れているが、四教が並んでいる意味と、小乗を退け大乗を讃嘆する理由を明らかにしていない。

般若経』については、通教を論じれば三乗の人は同じく入り、別教を論じれば菩薩が一人進む。広く五陰・十二因縁を経て、すべて清く虚空のように融合しているが、また通教と別教と円教の意義を明らかにしていない。

『涅槃経』については、『法華経』の後において、概略的に無常・無我・苦を退け、ほぼ五味の教えを述べるが、また詳しく如来の根源から始まって要点を結ぶことを説かない。

およそこれらの経典は、みな衆生の能力に合わせて与え、人々に利益を得させるものである。仏の真意について語ってはおらず、その意趣はどこに行っているのだろうか。

しかし『法華経』はそうではない。法門の網目を掛けて、大小の観法、十力、四無所畏などあらゆる規定は、みな述べていない。前の経典で述べているからである。

ただ説くところは、如来の教えの根源にあるもの、中間における衆生を観じ利益を与えること、時にかなう漸と頓、一大事因縁、最終的な究竟的教え、説教の枠組み、大いなる方便についてである。

(注:「しかし『法華経』はそうではない」からここまでの原文を記すと、「今経はしからず。この法門の網目をかけて、大小の観法、十力、無畏、種々の規矩は、みな論ぜざるところなり。前の経にすでに説くための故なり。ただ如来の教を布くの元始、中間の取与、漸頓時に適うこと、大事の因縁、究竟の終訖、説教の綱格、大化の筌罤を論ずるのみ」となる。確かに、『法華経』を初めて読む人のほとんどが、この経典の中に理論的な教理らしい教理が記されていないことに違和感を覚える。しかしそのような感想を持ってしまうのはある意味、正しいのである。ここに『法華経』には、「如来の教を布くの元始、中間の取与、漸頓時に適うこと、大事の因縁、究竟の終訖、説教の綱格、大化の筌罤」が記されているとあるが、それらも教えられなければ、ただ『法華経』を読んだだけでは知る由もない。では、その『法華経』より前に説かれた(何度も述べているように、このような解釈は歴史的事実に反するが)経典には、何が記されているのか。それを『法華玄義』では、十巻もの長い紙面を費やして、蔵、通、別、円の四教の分類に基づいて懇切丁寧に記しているのである。そしてそれらをまとめて、つまり絶待妙と相待妙の理論によって開会し、すべての教えが、人々がみな仏になるという「一乗」の教えに至る、と説く経典が『法華経』なのだ、というのである)。

この過去の因縁が濃厚な者は、最初に直ちに頓を与えられ、ただ菩薩の修行の位の功徳が明らかにされるが、言葉は小乗にさえ及ばない(注:言葉によって悟るのではなく、過去の因縁によって悟るためである。ここに、現在に至るまで頓教の代表とも言える禅宗で、『華厳経』が好んで読まれる理由が見出される)。『法華経』の経文に「初めて私の身を見て、私の説くところを聞いて、すぐにみな信じ受けて、如来智慧に入る」とある。しかし、このことに耐えられない者には、無量の神徳を隠して、貧しい者の願うところの法をもって、方便を用いて近づき、語って勤めさせる。また経文に「私がもし仏の教えを讃嘆すれば、衆生は苦しみに沈むであろう」とある。このような人は、まさにこの法をもってしばらく仏の智慧に入るべきである。すでに道を得終われば、適宜に必ず捨てるべきものは捨てるべきである。まさに方等教が、大乗をもって小乗を破るようなものである。また経文に「ねんごろにこれを責め終わって、珠を示す」とある。もし通教を兼ねるのが適宜ならば、半満(円満ではないがある程度真理に合致しているという意味)をもって清める。『大品般若経』に教えの相に執着することを退けて、その根本に導くようなものである。経文に「人々を導き、険しい道を過ぎようとする」とある。

この難を過ぎ終わって、『法華経』の真理を定めるのに、父と子の関係をもって表わし、これを付与するのに家業をもって表わし、これを用いるのに権と迹をもってし、これを顕わすのに真実の本をもってする。まさに知るべきである。この『法華経』は、ただ如来の教えを設けるのに、大綱を論じるのみであり、詳細の網目は詳しくは述べない。たとえば、数字を数える者が、まず数字を計算して出し、大きな数字だけを残して、端数は捨てるようなものである。このために『無量義経』に「無量義とは、一法より生じる」とある。すなわち、一仏乗において、分別して三乗と説く。これはまず数字を出すことに喩えられる。もし無量を収めて一つとし、三乗を合わせて大乗に帰すならば、これは、端数は除いて、ただ大きな数字だけを記すだけということに喩えられる。

このような意義は、みな法身の地にあって、寂静であってしかも常に照らす。初めて菩提樹の下で大乗の機(人の能力)に与えるのであり、小乗の機に与えるのではない。仏の智慧が機を照らすことは、菩提樹の下が初めてではなく、久遠の昔からのことである。経文に「ただ一大事因縁をもって、世に出現したのである」とある。これは久遠の昔から、大乗を照らしていることを表わす。経文に「厳かに方便を称賛する」とある。これは久遠の昔から、小乗を照らすことを表わしている。経文に「諸仏の法は久しくして後、必ずまさに真実を説くであろう」とある。これは久遠の昔から、小乗を開会して大乗に帰することを表わしている。「信解品」に「獅子の床に座り、子を見てすぐに我が子だと知る」とある。この言葉は、久遠の昔から大乗の機を見ることを表わしている。「窓から遠くその子を見る」とあるのは、久遠の昔から小乗の機を見ていることを表わしている。「密かに二人を遣わして、方便をもって近づいて、話しかけて勤めて働かせる」とある。これは久遠の昔から、必ず三乗を開くべきことを計画されていたことを表わしている。「心も体も整って、金銭の出入にも滞りがない」とは、久遠の昔から、適宜に導かれていたことを表わしている。「すべての物を知り尽くしている」ということは、久遠の昔から適宜に動かすことを表わしている。「後に家業を委ねた」とあることは、久遠の昔から教えや修行を適宜に動かしていることを表わしている。

まさに知るべきである。仏の心は深遠であり、弥勒菩薩もそのなされる因縁を知ることができない。ましてや位が低い二乗や凡夫はなおさらである。経文に「ただ私だけがこの相を知る。あらゆる方角の仏も同じである」とある。

また、「昔説き、今説き、これから説くであろう教えの中において、法華経が最も信じがたく理解しがたい」とある。『法華経』以前の経典は昔説かれた教えであり、随他意(ずいたい・相手の能力に合わせて説く教え)である。これは仏の真意について語らないために、信じやすく理解しやすい。『無量義経』は今説いている教えであり、またこれも随他意であるため、まあ信じやすく理解しやすい。『涅槃経』はこれから説く教えであり、すでに聞いている教えなので、また信じやすく理解しやすい。

まさにこの『法華経』を説こうとすれば、疑いから生じる質問が度重なる。具体的には迹門と本門の文にある通りである。質問を受けて説く時、ただこれは教えの意義を説くのである。教えの意義は仏の真意である。仏の真意は仏の智慧である。仏の智慧は非常に深い。このために説く前に、仏は三回拒否し、舎利弗は四回願った。このような困難は、他の経典と比べれば、他の経典はやさしい。釈迦が最初に道場に座って悟りを開いた時、梵天王が教えを説くことを願ったというようなことは、ただ教えを説くことを求めたということのみで、疑いから生じる質問などではない。あらゆる方便を説くことは、経文を見てわかる。『大品般若経』を説く時、なお梵天の求めに報いている。

ただ『華厳経』の中で、金剛蔵菩薩が解脱月菩薩から十地について説くことを求められたことが、このことと似ていると言える。しかし、後の師たちは偏った教えに執着し、『華厳経』は『法華経』に勝っていると言い、小乗の舎利弗が教えを請うことは、菩薩に及ばないなどと言っている。これは一辺を見ているだけである。舎利弗は聴衆の願いを知って、「仏の口から生じる子、合掌して仰ぎ見て待つ。仏を求める多くの菩薩は、約八万人いて、真理が備わった道を聞こうと願った」とある。なぜ小乗の一人のみであろうか。また弥勒菩薩は聴衆を代表して、答えを文殊菩薩に求めた。これが、解脱月菩薩と金剛蔵菩薩とどのように異なっているのか。また本門の中には、菩薩が仏に仏法を説くことを求めている。どうして、菩薩が菩薩に菩薩の法を説くことを求めることに比べるのか。この意義においては、『華厳経』に勝っているのである。

華厳経』の聴衆は、あらゆる方角から雲のように集まっている。それらはみな毘盧遮那仏と過去世で交わりを持った者たちである。『法華経』で雲のように集まり現われた地涌の菩薩は、みな釈迦に従って発心した者たちである。「彼らは私が教化した」とある。これは一見、同じように見えるが、より親密な関係である。

また彼らはあらゆる方角の仏が『華厳経』を説くことを明らかにしている。加持(かじ・華厳経では、仏が教えを説くのではなく、仏から力を受けた菩薩たちが語るので、加持と表現される)を被った菩薩たちを、法慧菩薩、金剛蔵菩薩などと名付け、それらは毘盧遮那仏の分身だとは説かない。『法華経』では、釈迦は宝塔を開くにあたって、三度、娑婆世界を清めて、それぞれ四百万億那由他の国土に満ちる諸仏は、すべて釈迦の分身だと明らかにした。このような意義は、『華厳経』とは異なる。

華厳経』が『法華経』より優れているという師がいるので、一句二句を挙げたが、特に彼らを論破しようというのではない。もしこの優劣を比べれば、恐らくは『法華玄義』の論旨を失ってしまうだろう。ただこの『法華経』のみが、権を開いて本を顕わすのである。迹門と本門には疑う質問や教えを請うことが多い。他の経典には比べものにならない。ただ深く仏の教えをろんじ、妙において聖なる心を説き、近くは円因を会し、遠くは本果を述べるのがその主旨である。このために、疑う質問は止むことがないのである。

もしよく詳しく教相を知るならば、すなわち如来の権・実の二智を知るのである。教えの意義が非常に深いことは、概略的にこのようなことである。