大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 210 (完)

『法華玄義』現代語訳 210

 

また、『涅槃経』に大利益がある。「『法華経』の中の八千人の声聞は、授記を受けることができた。大果実を成就するようなものである」とある。もし『法華経』に授記を得ることをもって、『涅槃経』の利益を証すれば、すなわちこれは理法が同じであり、教えに深浅の違いがないことが明らかである。

また『法華優波提舎(ほっけうばだいしゃ・世親の『法華論』のこと)の中に、『法華経』は理法が円満であり教えが極まって、欠けたところはないと明らかにしている。

龍樹は『大智度論』の中において、『法華経』を讃嘆して、最も非常に深い教えだとして「どうして他の経典は阿難に委ねられ、ただ『法華経』だけが菩薩に委ねられたのであろうか」と言っている。ここで知ることができる。『法華経』は究竟満足であり、疑いを生じることはあり得ない。

またまさに知るべきである。あらゆる大乗経典は、その主旨に異なりがないのである。ただ聞く者の能力に応じて、その異なりを見せる。『華厳経』・『無量義経』・『法華経』などは、みな三昧の別名である。『般若経』は大智慧の別名である。『維摩経』は不思議解脱を説く。これは解脱の別名である。『大般涅槃経』は究竟の滅度の別名である。『文殊師利問経』に「菩提は満足の道である」とある。すべてが仏法である。法に優劣はない。その中において果を明らかにするのは、みな仏果である。因を明らかにするのは、みな菩薩の十地の修行である。理法を明らかにするのは、みな法性である。その理由は、対象となる者たちは、みな菩薩だからである。その主旨が異なるわけがない。なぜ人は強いて優劣をつけるのだろうか。

もしそうならば、誕公(たんこう・この人物については詳しくは不明)が「沙羅双樹の『涅槃経』の前に説かれた『法華経』は、そのすべてが不完全な教えである」と言っていることが、どうして偽りでないことがあろうか。

論蔵として十二部経が説かれているが、ただその中の方広部は菩薩蔵であり、残りの十一部経は声聞蔵である。また仏は声聞と菩薩のために、苦から脱出する道を説く。あらゆる経典を集める者は、菩薩のために説くところをもって菩薩蔵とし、声聞のために説かれるところをもって声聞蔵とする。龍樹は『大智度論』の中において「摩訶迦葉と阿難は香山(耆闍崛山のことと考えられる)にあって、経蔵と律蔵と論蔵の三蔵を編集して声聞蔵とし、文殊菩薩と阿難は大乗経典を集めて菩薩蔵とした」とある。『涅槃経』に「十一部経は二乗の持つところとなり、方等部は菩薩の持つところとなる」とある。このような経論によれば、二種だけである。つまり声聞蔵と菩薩蔵である。

しかし教えとは必ず人に対するものである。人の能力は別々であり、それぞれ二つある。声聞蔵の中に、阿羅漢になることが決定している声聞と、元大乗だったのが声聞になった者がいる。菩薩の中には、頓悟の菩薩もあり、次第に悟りに入る(=漸入)菩薩もいる。

声聞蔵の中の阿羅漢になることが決定している声聞とは、長い間、種類の異なる善根を習い、狭く劣った小乗の心となり、小乗の本性を成就し、一向に小乗を願う。仏はそのために小乗を説く。畢竟して証を得て、大乗に入ることはできない。元大乗だったのが声聞になった者とは、この人はかつて、昔の仏およびあらゆる菩薩の所において、悟りを求める心を起こしたが、ただ転生を繰り返す中で、本心を忘失し、ついに少女の心が生じて、小乗を願うようになった。仏はこのために小乗を説き、最終的には大乗に入らせる。こうして、阿羅漢になることが決定している声聞は、一向に小乗に留まり、元大乗だったのが声聞になった者は、後に大乗に趣く。去る者もいれば留まる者もいるが、小乗を受けることは同じであるために、この二人に対して説くところは、声聞蔵とする。

菩薩蔵の中によく頓悟する者がある。『華厳経』などの経典の対象となる衆生などは、小乗から来たのではない。最初から大乗に入るので、頓と名付ける。漸から入る者は、すなわち元大乗だったのが声聞になった者であり、ようやく大乗に入ったわけである。その大乗の者は小乗から来たわけであるから、漸と名付けるのである。頓と漸の違いがあると言っても、結局、大乗を受けることは同じである。このために、この二人に対して説くところを菩薩蔵とする。

このように、声聞蔵と菩薩蔵は対象者に従い、説く内容に従って根付けられた。声聞蔵の中に菩薩がいて、その菩薩が如来を助けるために声聞となっているといっても、その者が対象となっているのではないので、その菩薩に従って大乗経とするべきではない。菩薩蔵の中にまた声聞の人がいる。しかし正しく声聞を対象とした教えではないので、声聞の教えは説かれない。このために、小乗の法とすべきではない。人について法を定める場合、それぞれ同じではない。これをもって、教えを摂取すれば、概略的に二つあるのみである。

問う:仏は三乗の人のために、三種の教えを説く。どうして蔵を判断するにあたって、二つだけなのか。

答える:仏は三乗を求める人のために、三乗の法を説く。しかし、十二因縁を聞く者は、すなわち声聞である。縁覚は仏のいない時代に出て、ただ神通力を現わすだけであり、黙って教えを説くことはない。このために経典を編集する者は、集めて二蔵とするのである。経典によって教えを判断するので、このように言うのである。

今の四教と達摩欝多羅の二蔵とは、どのように開会して通じることができるのだろうか。達摩欝多羅は自らすべてを摂取して、概略的にただ二種あるのみだという。今、それを開いてこれを分別し、判断して四教とする。声聞蔵は、すなわち三蔵教である。菩薩蔵は、すなわち通教と別教と円教である。声聞が決定されている者のために三蔵教を説き、元大乗だった者のために通教を説き、漸悟の菩薩のために別教を説き、頓悟の菩薩のために円教を説く。ただ名称と数が融合しやすいのみではなく、意義や意味も深い所で融合する。割符を合うように合って、一つであり二つはない。

 

②.すでに述べ終わって、師を推薦し、前を結び後のことを述べる

ただ文は概略的であり、しかも意義は広く、教えは一つであってあらゆることをまとめる。もし隠されたことを述べて顕かにするならば、必ず多くの論議をするべきである。川や沢で漁をする場合、たくさんのわなを結ぶようなものである。どうして漁をする者が、たくさんのわなを好んで仕掛けるだろうか。たくさんの魚を捕るために、やむを得ず多くするだけである。

天台大師は「私は五章をもって概略的に玄義を語ったが、言葉で表現できない妙を語ることができるわけではない。特にこれは、ただ心に抱くところを述べるだけである。常に残念に思うことは、言葉は真意を述べることができないということである。ましてや、また記す場合、記された言葉は真意を尽くすことができるだろうか。とは言え、先に七番共解を学び、次に十妙を通じて学び、次に五重玄義の各段落にある七番共解を研鑽するならば、それによって五重玄義は鎖が複雑に絡み合うようにつながり、刺繍のように途切れることがない。経典から引用して確証し、前後の文が合わさって離れない。ただあらゆる仏の教えを包み、半字と満字を総括するだけではない。また、事象的なことに即して観心を成就し、凡夫の乾いた土地を掘って、聖なる法の水を含んだ泥を見る。円満に通じる道は、ここにおいて開通する。観心の遍く照らすことは、ここにおいて明らかとなる」と言っている。

この『法華玄義』は『法華文句』の前に備えたものであり、今、さらに『法華文句』において、『法華経』の各文を解釈して行く。

 

(ここで『法華玄義』は終わる)