大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 196

『法華玄義』現代語訳 196

 

第三目 褒貶抑揚教の批判

第三に、褒貶抑揚教は「第三時」であると主張する人々は、次のように言っている。仏の寿命は七百阿僧祇(ななひゃくあそうぎ・『首楞厳三昧経』に釈迦の寿命がこのように記されている。阿僧祇も数えきれないほどの長い時間を指す)といっても、なおこれは無常であって、常住を明らかにしていない。このように、第三時の教えは、ただ小乗を責めたり大乗を褒めたりするだけの教えであると主張している。しかしこれは受け入れられない。

そうならば、今、問う。第三時だとする『般若経』を説く時、あらゆる大弟子(注:=小乗の人)は、みな自らもその教えを説法するではないか。願ってそれを受け取ったということではないが、すべて詳しく菩薩の法門を知っている。どうして、小乗であることを叱られ、茫然として、何の言葉だかわからない、というようなことがあろうか。したがって、次のことを知るべきである。褒めたり責めたりすることは、『般若経』の後にはあり得ないのである。したがって、第三時ではない。また、第三時だとする『維摩経』では、大乗の弥勒菩薩などもまた論破されている。どうして小乗の声聞だけであろうか。

もし、仏の寿命が七百阿僧祇と説かれているということを論拠とするならば、これも誤りである。『維摩経』に、「仏身は無為であって、数で表現できない。金剛の身体は、なぜ病み、なぜ悩むだろうか。衆生を悟りに導くために、そのことを表わすのみである」とあり、経文に仏の寿命を金剛に喩えている。しかし三時教を主張する人は、仏の寿命は七百阿僧祇と説かれているという。さらに『涅槃経』においても、金剛は説かれているのである。それでは、常住とはいったい何であるのか。

また「身を観じれば実相である。仏を観じてもまた同じである」とある。また「不思議解脱に三種ある。真性、実慧、方便である」とある。すなわちこれは三因仏性の意義である。またかつ「煩悩の種類は如来の種である」とある。これはどうして正因仏性でないことがあろうか。「痴愛を断じないままで、あらゆる智慧と解脱を生じる」とある。智慧は了因仏性である。解脱は縁因仏性である。この三つの意義は明らかである。これを無常と判断すれば、『涅槃経』の三因仏性は、どうして常住であると言えようか。

 

第四目 同帰教の批判

第四に、同帰教を主張する人々は、次のように言っている。同帰教は、まさしくすべての善(注:修行のこと)を収束して一乗に入れるが、まだ仏性を明らかにしていない。さらに、神通力をもって仏の寿命を延ばし、大河の砂の数を過ぎ、その数の倍とするが、まだ常住を明らかにしないという。しかしこれは誤りである。

法華経』に、一つの「相」と「性」は、一つのところから生じることを明らかにしている。「その説くところの法は、みなすべて一切智地に至る」とある。「方便品」に「仏の知見に開示悟入する」とある。『華厳経』に、仏の智慧を明らかにしても、なお菩薩の智慧を帯びている。菩薩の智慧は爪の上の土のようであり、如来智慧はあらゆる方角の国の土のようである。『法華経』にはもっぱら仏の智慧を説くのみである。それはあらゆる方角の国の土のようである。それが常住でなければ、『華厳経』の爪の上の土は、どうして常住を明らかにするのであろうか。

また『華厳経』には、初めて道場に座り、初めて悟りを成就する。成仏した時点はとても近い。『法華経』は、仏は久遠の昔に悟りを開いたことを明らかにしている。中間、そして現在は、すべてみな迹である。しかも迹の中に常住を説く。それならば、本地の教えはどうして常住を明らかにしないであろうか。また『無量義経』に「華厳経では、長く多くの修行を説くが、まだこのような非常に深い無量義経は説いたことがない」とある。「非常に深い無量義経」と、自ら非常に深いことを明らかにしている。とても深い経典が、『法華経』の前に説かれた方便であるので、『法華経』で常住を明らかにしなことがあろうか。もし常住の言葉が『法華経』に少ないというならば、天子の一言は、勅命ではないのであろうか。

法華経』に「世間の相は常住である」とある。また「無量阿僧祇劫の寿命は無量であり、常住にして滅びることはない」とある。迦耶城の寿命および、釈迦が過去世に何度も示現したということは、応仏の寿命を表わす。「阿僧祇の寿命は無量である」とは、報仏の寿命である。「常住にして滅びることはない」とは、法身仏の寿命である。これで三身仏は明らかであり、常住の意義は十分である。

『法華論』に「三種の菩提を示し現わす。一つは応化仏の菩提である。まさに見ることができる所に従って、そのために姿を示し現わす。釈迦は宮を出て、伽耶城(がやじょう)からそれほど遠く離れていない場所にある道場に座って最高の悟りを得たということが、これである。二つは報仏の菩提である。十地の位を満たし、常住の涅槃を得ることをいう。経文に、『私が成仏してから今まで、無量無辺百千万億那由他劫である』とある。三つは法身仏の菩提である。如来蔵、性浄涅槃、常に清浄不変であることをいう。経文に『如来は真実に三界の相を知見する。三界の人が三界を見るようではない』とある。衆生界はそのまま涅槃界であることをいう。衆生界を離れないまま、それは如来蔵である」とある。

また「私はあえてあなたたちを軽蔑しない。あなたたちはまさにみな仏となるからである」とある。すなわちこれは正因仏性である。また「衆生に仏の知見を開かせるためである」とある。すなわちこれは了因仏性である。また「仏の種は縁より起こる」とある。すなわちこれは縁因仏性である。

『法華論』にまた三種の「仏性」を明らかにしている。『法華論』に「ただ仏如来のみ、大菩提を証する」とある。究竟してすべての智慧を満たすために、「大」という。「私はあえてあなたたちを軽蔑しない。あなたたちはまさにみな仏となるからである」ということは、あらゆる衆生に仏性があることを示している。経論に明らかな典拠がある。どうして『法華経』に仏性がないというのだろうか。

また『涅槃経』に「この経が世に出ることは、その果実のようである。衆生に利益を与えるところが多い。すべての人々を安楽にし、よく衆生如来の本性を見せる。法華経の中の八千人の声聞は、仏になる授記を得て、大いなる果実を成就した。秋に収穫して冬に蔵に収め、それ以上することがなくなったようなものである」とある。もし八千人の声聞が『法華経』の中において仏性を見ることがなければ、『涅槃経』にこのように記されるわけがない。明らかな経文の証明がある。なぜこれ以上煩わしく誤った解釈に執着することがあろうか。

また『涅槃経』の「二十五巻」に、「究竟畢竟とは、すべての衆生が得る一乗のことである。一乗とは仏性と名付ける。この意義のために私はすべての衆生に仏性があると説く」とある。すべての衆生にみな一乗があるために、『法華経』は一乗の経典である。『涅槃経』と深く一致する。

『涅槃経』はなお三乗の悟りを帯びている。しかし『法華経』は純一無雑である。『涅槃経』はさらに迹を起こしていない。『法華経』は本を表わす意義が明らかである。

仏はあらゆるところで「生」を説き、あらゆるところで「滅」を現わす。未来も常住であり、三世に利益を与える。衆生は仏の身が焼かれることを見ても、仏の国は壊れない。どうしてわざわざ神通力をもって寿命を延ばし、最後は滅び尽きることがあろうか。このようにして神通力をもって寿命を延ばす意義を破る。