大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 203

『法華玄義』現代語訳 203

 

第二目 無量義経からの引証

経文に「私は仏の眼をもってすべての法を観じれば、説くべきではないと思った。それはなぜか。あらゆる衆生の能力や願いは同じではない。能力や願いが同じでないならば、さまざまに教えを説いても、文は同じで一つであっても、意義は別となり異なる。意義が異なるために、衆生の理解も異なる。理解が異なるために、得る法も、得る果も、得る道もまた異なる。最初に四諦を説き、声聞を求める人のために教えた。そして八億の諸天が降りて来て教えを聞き、悟りを求める心を起こした。中ごろには、あらゆる場所において、非常に深い十二因縁を説き、縁覚を求める人のために教えた。次に方等十二部経、摩訶般若、華厳海空を説き、菩薩が劫を経て修行することについて述べた。そして百千の比丘と無量の衆生は、悟りを求める心を起こし、ある者は声聞に住んだ。万億の人天は、須陀洹を得て、阿羅漢に至り、縁覚に住んだ」とある。

「仏の眼をもってすべての法を観じる」とは、すなわち頓教の経典である『華厳経』が前にあることである。四諦・十二因縁は、次の漸教の三蔵教のことである。もしこの経文によるならば、三蔵教を説き終わって、次に方等教の十二部経を説く。

小乗の次に大乗を説く理由は、仏はもともと大乗を授けようとしているのだが、衆生はそれに耐えられないので、大乗を隠して小乗を出し、煩悩を断じ聖者となるようにさせる。この利益があるといっても、それは仏の本懐ではない。

次に方等教の『維摩経』・『思益経』・『殃掘摩羅経』を説いて、小乗の果を保っている縁覚を非難して、三蔵教の断じ滅する誤りを指摘する。このために舎利弗須菩提は、教えにおいては小乗をもっぱらとする。最初、大乗の威徳を聞いていないので、維摩詰の言葉によって茫然として鉢を置いて去ろうとしたり、あるいは体についてしまった華を取り除こうとしたりする。これは維摩詰の言葉の意味がわからず、どうやって答えていいかわからないのである。しかし、方等教における小乗への非難は、教え自体は三蔵教の後にあるが、非難された時は、三蔵教が説かれた前の十二年にあるべきである。なぜそれを知ることができるのだろうか。みな過去のことを語っているので、前のことであることを確認できる。なぜなら、前にすでに教えを受けて道を得て、無学を証したからである。仏の恩の深さに心の底で信じ、また怒ることはしない。

昔から今に至るまで、『殃掘摩羅経』のそしりをそのままにし、維摩詰の排斥に任せることは、小乗を恥じ、大乗を慕うという利益を与える。たとえば、酪を煮て生蘇を作るようなものである。すなわちこの意義である。『無量義経』を調べれば、方等教は三蔵教の後であり、第三時の教えとすることがわかる。

無量義経』に「次に摩訶般若、華厳海空を説き、菩薩が劫を経て修行することについて述べた」とあることを見れば、これは方等教の後に、『大品般若経』を説いたことである。『大品般若経』に、無常・無我を説き、あるいは空を説き、あるいは不生不滅を説く。みな認識対象や心を経て、一切種智に至る。言葉を駆使して修行の法を明らかにする。すなわちこれが、菩薩が劫を経て修行することである。また「百千の比丘、万億の人天は、須陀洹を得て、阿羅漢に至り、縁覚に住んだ」とあるのは、共般若であることを証明するのである。

そして、「華厳海空」というのは、もし寂滅道場の『華厳経』とするならば、これでは次第が成り立たない。今、『法性論』のいうところに依る。「能力の劣った菩薩は、三つの場所において法界に入る。最初は『般若経』であり、次はすなわち『華厳経』、後はすなわち『涅槃経』である」とある。『般若経』によって法界に入るのは、すなわちこれが「華厳海空」である。また『華厳経』が説かれた期間は長い。昔、小乗の者たちは入ることができなかった。耳が聞こえず言葉が話せない人のようであった。今、『般若経』を聞いて、すなわち入ることができた。この意義である。

大品般若経』は、三乗の人に共通すれば、四果の位があるべきである。『華厳経』は小乗を隔てるので、この意義はない。このために方等教の後に、次に『般若経』を説くことを第四時の教えとするのである。また熟蘇味の教えと言うのは、声聞に命じて、声聞から菩薩に転換させて、多くの者を知らせて、心を次第に安定させる。自ら、蛍の光が日光に及ばないことを知れば、敬伏の情はますます熟す。生蘇から転換して熟蘇となるようなものである。

また解釈する。『般若経』の後に華厳海空を明らかにすることは、円頓の『法華経』の教えである。なぜならば、初めて悟りを開く時、もっぱら円頓を説くのである。理解できない者の大乗の能力がまだ細やかではないので、三蔵教・方等教・『般若経』をもって淘汰し成熟させる。能力が高まり、妨げがなくなり、円頓を聞くに堪えるようになれば、すなわち『法華経』を説いて、仏の知見を開き、法界に入ることができるようになる。『華厳経』と等しい。『法性論』にある中ごろに入る者というのは、これである。

このために、経文に「初めて私の身を見て、如来智慧に入り、今、この経を聞いて、仏の智慧に入る」とある。最初と後の仏の智慧と円頓の意義は同じである。このために『般若経』の後に続いて、華厳海空を説くことは、『法華経』に等しいのである。またこれは第五時の教えである。

また醍醐というのは、これはあらゆる味の最後である。『涅槃経』には醍醐として、『法華経』では「大王の膳」とある。このために知る。『涅槃経』と『法華経』は共に醍醐である。

また、灯明仏は『法華経』を説き終わって、中夜において涅槃に入ると述べた。その仏の一代の教化は、最初に『華厳経』を説き、後に『法華経』を説いた。迦葉仏の時もまた同じである。すべてにおいて『涅槃経』を明らかにしていない。みな『法華経』をもって、最後の教え、後の味とする。今の仏は、前の教えの人々を成熟させる場合、『法華経』をもって醍醐とする。さらに後の教えの人々を成熟させる場合、重ねて『般若経』をもって淘汰し、『涅槃経』に入る。また『涅槃経』をもって、最後の教え、後の味とする。たとえば、農夫が先に種を蒔いたものは先に熟して先に収め、晩に蒔いたものは後に熟して後に収めるようなものである。

法華経』の八千人の声聞と、生まれ変わりを減らした無量の菩薩は、前に果実を熟し、『法華経』の中において収めて、もうそれ以上することはない。五千人は去ってしまい、人天も移さなかった、ということは、みなこれは後に熟し、『涅槃経』の中で収める。この意義のために、「摩訶般若より大涅槃を出す」というのである。すなわち後の次第である。『無量義経』に「摩訶般若の次に華厳海空」とあることを見れば、すなわち前の『法華経』の中の次第であることがわかる。

問う:なぜ能力の劣った者は、『法華経』において入らず、さらに『般若経』をもって淘汰するということがわかるのか。

答える:『大智度論』に「須菩提は、どうしてさらに、菩薩は成仏が決定しているのかしていないのかを問うのか。それに答えるに、須菩提法華経の中において、あらゆる菩薩に対して授記が与えられたことを聞いた。今、般若経の中において、さらに成仏の決定について質問したのである」とある。まさに知るべきである。『法華経』の後に、さらに『般若経』を明らかにしたのである。