大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 205

『法華玄義』現代語訳 205

 

第三項 五味半満相成

もしただ五味の教えだけを論じるだけならば、なお南師の方便を得た説と同じである。もしただ半字満字だけならば、なお北師の実を得た説と同じである。ここで、五味の教えは半満を離れず、半満は五味の教えを離れないと明らかにする。五味の教えに半満があれば、すなわち智慧がある方便の解釈となる。半満に五味の教えがあれば、方便がある智慧の解釈となる。権と実が共に遊戯することは、鳥の二つの翼のようである。また共に遊戯するといっても、収穫と蔵に収めることとがそろう。

華厳経』は、頓教であり満字であり、大乗の家業であり、ただ一実を明らかにするのみであり、方便を用いていない。ただ満字だけであり半字ではない。漸教においては乳を出す。客人のような三蔵教は、ただ方便であるだけであり、半字だけで満字ではない。漸教においては酪を出す。方等教の小乗を非難する教えは、すなわち半字と満字が相対して、満字をもって半字を退ける。漸教においては生蘇を出す。『大品般若経』の教えを理解することは、半字を帯びて満字を論じる。半字はすなわち共通して三乗のために説き、満字はすなわち菩薩だけのために説く。漸教においては熟蘇を出す。『法華経』の財産を委ねる教えは、半字を廃して満字を明らかにする。もし半字の方便をもって、能力の低い者を調熟させることがなければ、すなわちまた満字の仏知見を開くことがない。漸教においては醍醐を出す。

如来が丁寧に方便を称賛することは、半字に満字を成就する功徳があるからである。意義はここにある。四大声聞が理解した告白に、無上の宝聚が求めていないのに自ら得られて、実相の智慧の中に安住できたとあるのは、みな半字と満字が互いに成就するからである。意義はここにある。

 

第四項 合不合を明らかにする

半満五味はすでに共通してあらゆる経典にあるが、その内容は同じではない。そのため、ここでその開合について述べる(注:ここでは開と合を別々の概念として述べられているところがあるので、その場合、開は「開く」とし、合は「統合」と表現する)。

華厳経』は、正しく小乗を隔てて大乗を明らかにする。その最初の部分においてはずっと声聞がいない。後の部分にはいる。また、聴衆の座にいるとはいっても、耳の聞こえず口がきけない人のようであり、教えを聞いているとはいえない。その時は、なおまだ半字はないのである。どうして開合を論じられようか。

次に、三乗を開いて小乗の能力の者を導き、見思惑を断じさせる。すなわち小乗をもって大乗を隔てる。すでに満字はないので、どうして統合すべきところがあろうか。このために『無量義経』に「三乗の三法、声聞の四果、漸教と頓教はそれぞれ別々である」とある。「別々である」とは統合されていないことである。

方等教は、あるものは半字と満字を並べて明らかにし、あるものは満字をもって半字を非難し、半字を受けて満字として聞く。小乗を恥じることを知るといっても、なお大乗に入ることはない。このために「草庵に住む」という。劣った心はなお改めることができないので、半字と満字は統合しない。

般若経』は、満字をもって半字を淘汰し、家業を継がせるようなものである。半字の方便は共通して無生法忍に入り、半字の法門はみな大乗であると明らかにする。これは教えを統合することである。しかし、一回の食事の分でさえ自分のものと思わないという喩えは、その人を統合していないことである。このために半字と満字は開合しない。

もし『法華経』に至るならば、方便として仮に作られた町を、真実ではないという。「あなたたちの修行するところは、菩薩の道である」という。すなわちこれは法を統合することである。「あなたたちは私の子である」という。すなわちこれは人を統合する。人と法と共に開合するのである。

鹿野苑に権の方便を開いてから、あらゆる経典を経て『法華経』に至って、初めて権は実に統合することができるのである。このために『無量義経』に「四十年あまり、まだ真実を顕わさない」とある。もし『法華経』においてまた開合しないならば、『涅槃経』において開合することができる。『法性論』に中と下の二種の能力の者が法界に入ることを明らかにしているのは、すなわち菩薩を統合することである。

もし声聞の統合について述べるならば、二つあり、一つは秘密の統合であり、二つは顕露の統合である。

秘密の統合とは次の通りである。仏は最初、提謂のために五戒の法を説く。その時、すでに密かに無生法忍を悟る者がいる。ましてや修多羅・方等教・『般若経』において、密かに悟らない者がいないことがあろうか。このことについては、詳しく述べない。

次に顕露の統合とは次の通りである。見道以前の位の声聞は、ところどころ統合することができる。たとえば、『般若経』において、三百人の比丘が授記を得るようなものである。もし四果の位の声聞ならば、『法華経』に至って深く信じて統合する。もし統合しなければ、増上慢である。まだ見道の位に入らない五千人の者は、『法華経』の聴衆として選ばれずに立ち去ったが、『涅槃経』の中において、また統合することができる。

総合して、あらゆる教えについて共通して四句を述べれば、『華厳経』と三蔵教は、統合でもなければ統合でないこともない。方等教・『般若経』は、まったく統合しない。『法華経』は、すべて統合する。『涅槃経』は、統合し、また統合しない。なぜなら、『涅槃経』は末代のために、さらにあらゆる権を開いて、後の代の能力の劣った者たちを導く。このためにまた統合しないという。

問う:菩薩が『法華経』によって法界に入ることは、『華厳経』と同じである。しかし、『華厳経』によって一乗に入って、『法華経』と統合することがないのはなぜか。

答える:『華厳経』によって法界に入ることは、すなわち一乗に入ることである。