大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華取要抄 その3

法華取要抄 その3

 

問う:『法華経』は誰のために説かれたものなのか。

答える:「方便品第二」より「授学無学人記品第九」に至るまでの八品に、二つの意義がある。上より下に向けて、次第通りにこれを読めば、第一は菩薩のため、第二には二乗のため、第三は凡夫のためである(注:この箇所では、将来に仏になる者たちへの約束(記)を中心として説かれているからである)。また、「安楽行品第十四」より「勧持品第十三」、「提婆達多品第十二」、「見宝塔品第十一」、「法師品第十」と逆にこれを読めば、仏の滅後の衆生を中心として説かれたものである(注:特に逆に読む必要もないが、これらが、仏の滅度の後の人々に対する勧めという意味で、ひとまとまりである、という意味である)。仏の在世の衆生は傍である。滅後をもって論じれば、正法一千年像法一千年は傍であり、末法衆生を中心として説かれたものである。その末法の中では、日蓮の説くところが正統である。

問う:その証拠は何か。

答える:いわゆる「仏の滅度の後に」とある文のすべてである。

疑って言う:その中で、日蓮を正統とする文はどれか。

答える:「多くの無智の人がいて、悪口罵詈などをし、さらに刀杖を加うる者がいる」などの文である。

問う:自讃はいかがかであろうか。

答える:喜びが身に余るがゆえに、それが抑え難く自讃するのである。

問う:『法華経』の本門の重要な思想は何か。

答える:本門において、二つの重要な思想がある。一つは、「従地涌出品」の略開近顕遠(りゃくかいごんけんおん・この世に現われた釈迦仏を通して、その本来の永遠なる仏が明らかにされることを開近顕遠というが、それが概略的に述べられている箇所ということ)は、前の四味(しみ・『涅槃経』に、すべての経典を乳製品の発酵過程に喩えて、五味(ごみ)とすることが記されている。すなわち、乳味(にゅうみ)、酪味(らくみ)、生蘇味(しょうそみ)、熟蘇味(じゅくそみ)、醍醐味(だいごみ)である。前の四味とは、醍醐味以外の教えを指す。つまり究極的な教え以外の教えを指す)、ならびに迹門のあらゆる聴衆を、その教えからさらに進ませるためである(注:前にも述べたが、天台大師の『法華玄義』には、迹門がまだ真実が明らかにされておらず、本門が究極であるという思想はない。これは日蓮上人独自の思想である)。

二つは、「従地涌出品第十五」の「爾時弥勒菩薩。及八千恒河沙諸菩薩衆。皆作是念。我等従昔已来。不見不聞如是大菩薩摩訶薩衆。従地涌出住世尊前(その時に弥勒菩薩、および大河の砂の数を八千倍したほど多くの菩薩たちは、みな次のように思った。「私たちは昔より今まで、このような大いなる菩薩たちが、地より涌き出して、世尊の前にあって合掌し供養して、如来に挨拶をするようなことは、見たことも聞いたこともない」)という文以下の半品、ならびに続く「如来寿量品第十六」と「分別功徳品第十七」の「又復如来滅後若聞是経。而不毀呰起随喜心。当知已為深信解相。(また如来の滅度の後に、もしこの経を聞いて、非難せず、喜びの心を起こす者があるとすれば、まさに知るべきである、これも深く信じ理解した姿である)」の文より前の半品の、合わせて一品二半を「広開近顕遠(こうかいごんけんおん・詳しく開近顕遠について明らかにされている箇所ということ)」と名付ける。これは完全に仏の滅後の人々のためである。

問う:略開近顕遠の思想は何か。

答える:文殊菩薩弥勒菩薩などの諸大菩薩、梵天帝釈天や日天や月天や衆星や竜王などが、最初に悟りを開いた時から『般若経』に至るまでは、一人も釈尊の弟子ではなかった。これらの菩薩や天人が最初に悟りを開いた時は、仏がまだ説法する以前であり、不思議解脱(ふしぎげだつ・『華厳経』に説かれている思想。釈迦の説法を聞く前に悟りを得ていたという、声聞や縁覚には理解できない悟りのこと)にあって、自ら別教と円教の二教(注:天台教学では、すべての教えを、蔵教(小乗の教え)、通教(小乗と大乗に共通する教え)、別教(大乗の教え)、円教(『法華経』に明かされた究極的な教え。その補助としての『涅槃経』も含める)の四教に分ける)を説いていた。釈尊はその後に、『阿含経』、「方等教(ほうとうきょう・大乗経典のすべての教えを指す)」『般若経』を説かれた。しかしそうとはいえ、これらの教えは、全くこれらの菩薩や天人の得るべきものではなかった。なぜなら、すでに別教と円教の二教を知っていたので、蔵教と通教も知っていたからである。優れた教えは、劣った教えを兼ねるということである。詳しくこのことについて述べれば、釈尊の師匠である善知識とはこれらの方々である。釈尊に従ったのではない。しかし、この『法華経』の迹門の八品に来至して、菩薩や天人の方々は、初めて今まで聞いたことのない教えを聞くことになり、釈尊の弟子となったのである。

一方、舎利弗や目連などは、蔵教が説かれた鹿野苑(ろくやおん・歴史的釈迦が初めて教えを説いた場所)以来、そこで初めて発心した弟子である。そうは言っても、仮の教えだけを知ることが許されていたのである。この『法華経』の場に来て真実の教えを授与され、『法華経』の本門の略開近顕遠に至って、『華厳経』からの大菩薩と大梵天王、帝釈天、日天、月天、四天王、竜王、そして声聞と縁覚の二乗たちは、妙覚の位の手前(注:究極的な妙覚位に入ってしまうと、迷う人々と同じ場所にあって救済の働きができないので、意識的にその手前で留まる、という意味)、あるいは妙覚の位に入ったのである。したがって、今、私たちは天に向って目を上げれば、生身の妙覚の仏は、本来いるべき位にあって、衆生を利益(りやく)するのである。

(注:大乗経典は、釈迦の言葉ではなく、紀元前後に興った大乗仏教の各グループが創作したものである。したがって、それらを一人の釈迦仏が説いたものとすれば、当然、さまざまな矛盾が生じる。それらの矛盾をできる限り解決しながら、教えを構築するということは、非常な智慧が必要であり、その最も優れた教えを説いた祖師が、天台大師である。天台智者大師と言われるゆえんである。そして、日蓮上人は、その天台大師に習って教えを説いているが、『法華経』の本門を中心とするという日蓮上人独自の教えを展開するにあたって、天台大師が説いてない教えを説くに至った。このような、歴史的に見れば誤った前提に立っている思想ではあるが、しかし霊的に見れば、非常に優れた教えであり、そこに誤りは見いだせない。そもそも霊的次元とは、正しく表現されるならば、どのような教えにもなるのである。これは、正しい宗教や宗派が数多く存在する理由でもある。これは不思議なことであり、背後に、絶対的な永遠の存在がいて、すべてを導き、祖師たちを通して教えを表わしているとしか言いようがない)。

問う:誰のために、広開近顕遠の「如来寿量品」は説かれたのか。

答える:「如来寿量品」とその前後の一品二半は、最初から最後に至るまで、まさに仏の滅後の衆生のためである。仏の滅後では、末法の今の時の日蓮などのためである。

疑って言う:このような教えは前代未聞である。どの経文に記されているのか。

答える:私の智慧は、前にいた賢人たちを超えたものではない。しかし、たとい経文を引用したとしても、誰が信じるだろうか。中国の楚の卞和(べんか・宝石を見つけて王に献上したが、ただの石と判定されて足を切られた)が泣き悲しみ、呉の伍子胥(ごししょ・自分が推挙して仕えた王に最後は拒否され、自害させられた)が心を痛めたようなものである。

そうは言っても、略開近顕遠の中で、弥勒菩薩たちが疑っている箇所の文に、「悟りを求める心を起こしたばかりの菩薩たちは、仏の滅度の後において、もしこの言葉を聞けば、あるいは信じ受けることをせず、教えを否定するという罪業の因縁を起こしてしまうかも知れません」とあり、この経文の意味は、「如来寿量品」を説かなければ、末代の凡夫はみな悪道に堕ちてしまうということである。そして「如来寿量品」には、「この良い薬をここに置いておく」とある。この経文の意味は次の通りである。「如来寿量品」のこの文の前の箇所は、単に仏の滅度の前の事を説いているようだが(注:「如来寿量品」の、医者である父親が薬を子供に飲ませた、という喩えにおいては、あくまでも父親は本当には死んではいないので、このように表現されていると思われる)、この文について考えると、仏の滅後をもって本意としており、まずその例として、滅度の前の事を用いて述べているのである。「分別功徳品」には、「悪世末法の時」とあり、「如来神力品」には、「仏の滅度の後によくこの経を保つことをもって、諸仏は歓喜して無量の神力を現わされる」とある。また、「薬王菩薩本事品」には、「私の滅度の後後の五百歳の中に、この経を広く流布させて、南閻浮提(なんえんぶだい・この世界のこと)において断絶させることはないようにする」とある。また、「この経はすなわち、すなわち南閻浮提の人の病の良薬である」とある。さらに『涅槃経』には、「たとえば、子が七人いて、父母はすべての子に対して平等に接してはいても、特に病気の子に対しては、手厚く見る」とある。この七人の子の中の第一子と第二子は、一闡提と謗法の衆生である。あらゆる病気の中では、『法華経』を謗ることが、第一の重病である。そしてあらゆる薬の中では、「南無妙法蓮華経」が第一の良薬である。この南閻浮提は、縦の広さは七千由善那(ゆぜんな・由旬ともいう。長さの単位)であり、八万の国がある。正法と像法の二千年の間には、広く流布しなかった『法華経』は、今の世において流布させなければ、釈尊は大妄語の仏となり、多宝仏の証明は泡と帰すのであり、十方分身の仏の助言も芭蕉の葉のように、すぐに破れてしまうのである。