大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華取要抄 その4 (完)

法華取要抄 その4

 

疑って言う:多宝仏の証明や十方諸仏の助言、地涌の菩薩の涌出などは、誰のためか。

答える:世間の人々は、『法華経』が説かれたその世のためだと言うだろう。しかし、日蓮は次のように言う。舎利弗や目連などは、この現世においては智慧第一、神通第一の大聖である。また、過去世においては、金竜陀仏や青竜陀仏である。そして未来世においては、舎利弗は華光如来であり、『法華経』の説かれた霊鷲山の会衆においては、三惑をすみやかに断じ尽くした大菩薩であり、本地については、内に菩薩を秘め、外には声聞と現われた古菩薩である。文殊弥勒などの大菩薩は、過去の古仏であり現在では、人々を導くために大菩薩として現われたのである。さらに、梵天帝釈天、日天、月天、四天王などは、釈迦が悟りを開く前からの大聖である。その上、前四味四教(解説前述)において、その教えの一言で悟ったのである。このように、仏の在世においては、一人も無智の者はいない。誰の疑いを晴らそうとして、多宝仏の証明を借り、諸仏が舌を出し、地涌の菩薩が召されたのであろうか。誠に理由が見出せない。経文に従えば、「ましてや仏の滅度の後」、「法が久しく存在するように」などとある。これらの経文をもって考えれば、ひとえに、私たちのためである。したがって、天台大師は今の世を指して、「遠く、後の五百年までも妙道に潤される」と述べ、伝教大師は今の世について、「正法と像法の時代はすでに過ぎ去ろうとしており、末法は大変近くに迫っている(末法太有近)」と述べている。「末法太有近」の五文字は、伝教大師のおられた世は、まだ『法華経』が流布する世ではないという解釈である。

問う:如来が滅度して二千年余り後、竜樹や天親や天台大師や伝教大師の残した秘法とは何か。

答える:本門の本尊と戒壇と題目の五字である。

問う:それらがなぜ、正法と像法の時代に広まらなかったのか。

答える:正法と像法にもしこれが広まれば、小乗や権大乗や『法華経』お迹門の教えは、一度に滅び尽くされてしまうからである。

問う:仏法を滅び尽くす教えならば、なぜそれを広めているのか。

答える:末法においては、大乗や小乗や権実の教えや顕教密教などは、共に教えだけが残っていて、それによって悟りを得る者はない。この世はすべて、教えを謗る者たちばかりになっている。教えに逆らう者たちのためには、ただ「妙法蓮華経」の五字に限るのである。たとえば、「常不軽菩薩品」に記されている通りである。私の門弟は教えに従う者たちであるが、日本国は教えに逆らっているのである。

疑って言う:なぜ教えを詳しく説いたり、概略的に説いたりしないで、その要点となることだけを取るのか。

答える:玄奘三蔵は概略的に説くことを捨てて、詳しく説くことを好み、四十巻の『大品般若経』を六百巻とした。鳩摩羅什三蔵は、詳しく説くことを捨てて、概略的に説くことを好み、千巻の『大智度論』を百巻とした。日蓮はその二つも捨てて、肝要を好むのである。いわゆる上行菩薩が伝えたところの、「妙法蓮華経」の五字である。九包淵(くほういん・中国の昔の馬の鑑定家)が馬を見分ける方法は、黒とか黄とかの色を見ないで、早く走るかどうかを見分けた。支道林(しどうりん・中国の昔の説法家)が経典を講義する時には、細かな目次を捨てて、大まかな意味を取った。仏はすでに宝塔の中に入って、釈迦仏と多宝仏の二仏が座を並べ、分身仏が来集し、地涌の菩薩たちを召し出して、肝要を取って末代のために五字を授与したことについて、今の世においては異義があるはずがない。

疑って言う:今の世にこの法を広めることにおいて、何か前兆があるか。

答える:『法華経』に、「このような相、そして最初の相と最後の相は等しい(如是相乃至本末究竟等)」とある。天台大師は、「蜘蛛が巣を掛ければ喜ばしいことが来る。カササギが鳴けば客人が来る。小さなことにおいてでさえ、このようである。ましてや、偉大なことにおいてはどうであろうか」。

問う:もしそうであるならば、その前兆はあったのか。

答える:去る正嘉年中の大地震、また文永の大彗星から始まって、それ以後、今に至るまで、さまざまの大きい天変地異などがあった。これこそ前兆である。『仁王経』の七難二十九難の無量の難、『金光明経』、『大集経』、『守護経』、『薬師経』などの諸経にあげられるところのさまざまな難は、みなすでにあった。ただし、なかったところは、太陽が二つ三つ四つ五つも出る、という大きな難である。しかし今年、佐渡の国の土民は口々に、今年正月二十三日の申の時に、西の方に二の太陽が出現した、あるいは三つの太陽が出現したと言っていた。また、二月五日には東方に明星が二つ並んで出た。その間は三寸ばかりであった、などと言っていた。この大きな難は、日本国には先代にもまだなかったものか。『最勝王経』の「王法正論品」には、「見たこともない流星が落ち、二つの太陽が同時に出て、外国の怨賊が来て国じゅうの人が混乱する」とある。『首楞厳経』には、「あるいは二つの太陽を見て、あるいは二つの月を見る」とある。『薬師経』には、「太陽と月が欠けたり薄くなったりする難」とある。『金光明経』には、「彗星が数多く出て、二つの太陽が並んで現われ、光が薄くなったり欠けたりする」とある。『大集経』には、「仏法が実になくなってしまい、そして、太陽や月も光を放たない」とあり、『仁王経』には、「太陽や月は常軌を逸し、時節が反転し、あるいは赤い太陽が出て、黒い太陽が出て、二つ三つ四つ五つの太陽が出て、あるいは、日食が起こり光がなくなり、あるいは太陽の周りに輪が一重、あるいは二、三、四、五重の輪が現われる」とある。このような太陽や月の難は、七難二十九難や無量のあらゆる難の中で、第一の大悪難である。

問う:これらの大中小の諸難は、何によって起きるのか。

答える:『最勝王経』には、「非法を行なう者を見て、まさに愛敬する思いを生じ、善法を行なう人に対しては苦しみを与えて罰する」とある。『法華経』や『涅槃経』や『金光明経』には、「悪人を愛敬して善人を罰するために、星の運行、および風雨がみな時に適って行なわれなくなる」とある。『大集経』には、「仏法が実に衰退して、さらにこのような不善業の悪王や悪比丘が私の正法を破壊する」とあり、『仁王経』には、「聖人が去る時には七難必ず起こる」とあり、また「法によらず、戒律によらずに、獄囚の法に従って比丘を捕縛すれば、間もなく仏法は滅んでしまう」とあり、また「あらゆる悪比丘が多く、名誉を求め、国王や太子や王子の前において、自ら仏法を破る因縁や国を滅ぼす因縁を説くであろう。その王は分別がなくて、その言葉を信じて聞くであろう」とある。これらの明らかな鏡のような文をもって、この現在の日本国を引き合わせるならば、天地すべて、まるで割符を合わせたかのようである。眼がある私の門弟はこれを見よ。まさに知るべきである、この国に悪比丘などがいて、天子、王子、将軍などに向って訴えを起こし、聖人を失う世ではないか。

問う:弗舎密多羅王(ほっしゃみったらおう・インドで仏教を破壊した王)や、会昌天子(かいしょうてんじ・中国の会昌の法難を起こした武帝)や物部守屋たちは、インド、中国、日本の仏法を滅ぼし失わせ、提婆菩薩や師子尊者などを殺害した。その時はなぜ、この大難が起きなかったのか。

答える:災難は人に従って大小があるのである。正法と像法の二千年の間は、悪王悪比丘たちは、外道を用い、あるいは道士に語らせ、あるいは邪神を信じていた。仏法を滅ぼし失わせることが大きかったように見えるが、その咎はまだ浅いようである。しかし、現在の世の悪王悪比丘が仏法を滅ぼし失わせることは、小乗をもって大乗を打ち、権教をもって実教を失しなわせている。人の心を削って身を失わず、寺塔を焼き尽すことなく自然にこれを失わせる。その咎は前代を超過するのである。

私の門弟はこれを見て、『法華経』を信じ用いよ。目をこらして鏡に向かえ。天が憤るのは、人間に誤りがあるからである。二つの太陽が並んで出るのは、一国に二人の国王が並んで存在することを表わしている。王と王との闘争である。星が太陽や月を犯すのは、家臣が王を犯すことを表わしている。太陽と太陽が争うように出るのは、この世の国々が戦う前兆を表わしている。明星が並んで出るのは、太子と太子が戦う前兆である。このように国土が乱れた後に、上行菩薩たちの聖人が出現して、本門の三つの法門を建立し、全世界のすべてに、『妙法蓮華経』が広く述べ伝えられ、流布することは疑いないのである。

 

文永十一年五月

 

在御判