大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その3

法華経』現代語訳と解説 その3

 

妙法蓮華経方便品第二

 

その時に世尊は、三昧より安らかに立たれ、舎利弗に告げられた。

「諸仏の智慧は非常に深く無量である。その智慧の門は理解しがたく入り難い。すべての声聞や辟支仏が知ることのできないものである。なぜなら、仏はかつて百千万億の無数の諸仏に親しく仕え、諸仏の無量の道法を行じ尽くし、勇猛精進して、その名は普く聞えている。非常に深く未曾有の法を成就して、適宜に説かれるその意趣は理解し難い。

舎利弗よ。私は成仏して以来、種々の因縁、種々の譬喩をもって、広く言葉を持って教えを述べ、無数の方便をもって、衆生を導き、あらゆる執着を離れさせた。なぜなら、如来は方便波羅蜜と知見波羅蜜(注1)とをみなすでに具足しているからである。

舎利弗よ。如来の知見は広大深遠である。無量であり妨げのない能力と、畏れるところなく、禅定と解脱と三昧があって、深く際限のない次元に入り、すべての未曾有の法を成就している。

舎利弗よ。如来はよく種々に分別して巧みに諸法を解き明かし、言辞柔軟にして、人々の心を喜ばす。舎利弗よ。一言でこれを言えば、無量無辺未曾有の法を、仏は悉く成就しているのである。やめよう、舎利弗よ。これ以上説くべきではない。なぜなら、仏の成就しているところは、最も希有であり難解の法である。ただ仏と仏とだけが、よく諸法の実相を究め尽くしているのだ。いわゆる諸法の如是相(にょぜそう)・如是性(にょぜしょう)・如是体(にょぜたい)・如是力(にょぜりき)・如是作(にょぜさ)・如是因(にょぜいん)・如是縁(にょぜえん)・如是果(にょぜか)・如是報(にょぜほう)・如是本末究竟等(にょぜほんまつくきょうとう・注2)である。

その時に世尊は、重ねてこの義を述べようと、偈をもって語られた。

この世における勇者のような仏は無量である 諸天および世の人 すべての衆生たちが 仏についてよく知っている者はいない 仏の畏れるところのない力 解脱とあらゆる三昧 および仏についてのあらゆる真理は 測り知る者はいない 私はかつて無数の仏に従って あらゆる道を具足して行じた 非常に深い微妙の法は 見ることも理解すること難しい 無量億劫において このあらゆる道を行じ終わって 道場において悟りを成就することができ 私はすでにすべてについて見て知っている このような大いなる果報と 種々の本性と姿形の真実を 私と十方の仏は よくこのことを知っている この法は示すことはできない それを表現する言葉も寂滅している 多くの衆生の中で このことを理解できる者は誰もいない 多くの菩薩の中で 信心の力が堅固なる者は除く 諸仏の弟子たちの中で かつて諸仏を供養し すべての煩悩をすでに尽くして この世における転生の最後の身となった人々でさえ その力で理解することはできない 舎利弗のような人々がこの世に満ちて 共にその思いを尽くして考えても 仏の智慧を測ることはできない 舎利弗のような賢者が十方に満ちて さらに他の多く弟子たちが また十方の国に満ちて 思を尽くして共に考えても また知ることはできない この世における転生の最後の身であり 優れた智慧を持つ辟支仏が また十方に満ちて その数が竹林のようであり それら共に一心に 億無量劫において 仏の真実の智慧を思慮しようと願っても その一部でさえ知ることはない 新たに究極的な悟りを求める心を起こした求道者が 無数の仏を供養し あらゆる義の趣くところの理解に達し またよく法を説く者で その数が稲や麻や竹や葦のようであり 十方の国に満ちて 一心に妙なる智慧をもって 大河の砂の数ほど数多くの劫において すべてみな共に思慮しても 仏の智慧を知ることはできない すでに得たところから退くことがなくなった多くの菩薩たちが 大河の砂の数ほど多くいて 一心に共に思い求めたとしても また知ることはできない また舎利弗に告げる 煩悩から離れ不思議であり 非常に深く微妙の法を 今私はすでに具えることができている ただ私だけがこの姿形を知っている 十方の仏もまた同じである 舎利弗よまさに知るべきである 諸仏の言葉には偽りがない 仏の説いた法において まさに大いなる信心の力を生じるべきである 世尊は長く教えを説いた後 必ずまさに真実を説くであろう あらゆる声聞たち および縁覚の教えを求める者たちに告げる 私は苦しみの縛りから脱出させ 涅槃を求め得させるためには 仏の方便の力をもって 三乗の教えを示す これをもって衆生のあらゆる執着から 導いて脱出できるようにしようとするためである

その時、大衆の中にいる、あらゆる声聞、煩悩を尽くした阿羅漢である阿若憍陳如などの千二百人、および声聞、辟支仏の心を起こした僧侶と尼僧と男女の在家信者たちが、次のように思った。「今、世尊はなぜ特に方便を称賛して、『仏が得られた法は非常に深く、理解し難く、言葉にしたものであっても、その意趣は知ることが難しい。すべての声聞や辟支仏の及ぶところではない』とおっしゃるのだろうか。仏は唯一の解脱の義を説かれたので、私たちもまたこの教えを得て涅槃に至ったのだ。しかし、今、仏が語られたことの意味がわからない」。

その時、舎利弗は、僧侶と尼僧と男女の在家信者たちの心の疑いを知り、自らもまた理解できなかったので、仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。何の因縁があって、特に諸仏第一の方便が非常に深く微妙であって、理解することが難しい教えを称賛されるのでしょうか。私は昔より今まで、仏に従っている間、このような御言葉は聞いたことがありません。今、僧侶と尼僧と男女の在家信者たちはみな疑問に思っています。ただ願わくは世尊よ。このことについてお語り下さい。世尊よ。どうして特に非常に深く微妙であり理解し難い教えを称賛されるのでしょうか」。

その時、舎利弗は重ねてこの義を述べようと、偈を説いて次のように語った。智慧が太陽のような大聖である世尊よ 今日になって初めてこの教えを説かれた 問われないままに 畏れのない三昧の力 禅定や解脱などの 不可思議の法を得たと説かれた 道場で得られた法については 誰も問いを発した者はない 仏は私の意趣は測ることが難しいとおっしゃるが そのことについてもまた誰も問う者はいなかった 問う者がいないままにしかも説いて 行じられた道を称賛された 諸仏の得られた智慧は非常に微妙であると説かれた 煩悩を尽くした多くの阿羅漢 および涅槃を求める者 今みな大きな疑問を持った 仏はどうしてこのようなことを語られたのであろうか 縁覚を求める者 僧侶と尼僧 多くの天龍鬼神 および乾闥婆たちは 顔を見合わせてなお疑問を持ち 両足を持つ人間の中で最も尊い仏を仰ぎ見ている このことはどのようなことであろうか 願わくは仏よ解き明かされよ 多くの声聞たちの中において 仏はご自身を第一と説かれた 私は今自らの智慧において 疑惑を起こして終わることはできない 私が得たものは果たして究極的な法なのだろうか ただ修行の道のみ得ただけなのだろうか 仏の口から生まれた子のような者たちが 合掌して仰ぎ見て待っている 願わくは微妙の声をもって 今真実を説かれよ 大河の砂の数ほど多くの天龍神たち 八万人もの大勢の 仏の悟りを求める菩薩たち また万億の国々を越えて来ている転輪聖王たちは 合掌し敬う心をもって 満ち足りた道を聞こうと願っている。

その時、仏は舎利弗に次のように告げられた。

「やめようやめよう。説くべきではない。もしこのことを説けば、すべての世間の諸天および人、みなまさに驚き疑うであろう」。

舎利弗は、重ねて仏に申し上げた。

「世尊よ。ただ願わくは説いてください。ただ願わくは説いてください。なぜならば、この会衆の無数百千万億阿僧祇衆生は、かつて諸仏に仕え、あらゆる能力が勇猛であり優れていて、智慧が明了です。仏が説かれたところを聞けば、すぐによく敬い信じるでしょう」。

その時、舎利弗は重ねてこの義を述べようと、偈をもって申し上げた。

法の王であり無上の世尊よ 思慮されずにただ説かれよ この会衆の無量の人々は よく敬い信じることのできる者たちである。

仏はまた、「やめよう舎利弗よ。もしこのことを説けば、すべての世界の天、人、阿修羅たちは、みなまさに驚き疑うであろう。増上慢の僧侶は、まさに大きな穴に堕ちてしまうようになるだろう」。

その時、世尊は重ねて偈をもって語られた。

やめようやめよう 説くべきではない 私の法は妙であり思うことさえ難しい 多くの増上慢の者は 聞いても決して敬い信じることはないであろう。

その時、舎利弗は重ねて仏に申し上げた。

「世尊よ。ただ願わくは説いてください。ただ願わくは説いてください。今、この会衆の中の私のような百千万億の僧侶たちは、転生する世ごとに、すでに仏に従い教化を受けています。このような人たちは必ずよく敬い信じ、長夜安穏となり、さらに他の者たちに多くの利益(りやく)を与えることになりましょう」。

その時、舎利弗は重ねてこの義を述べようと、偈をもって申し上げた。

両足を持つ人間の中で最も尊い方よ 願わくは第一の法を説かれよ 私は仏の長子である ただ分別して説法を垂れたまえ この会衆の無量の人々は よくその法を敬い信じるであろう 仏はかつてすでにあらゆる世において この人々を教化された みな一心に合掌して 仏の言葉を聴受しようと願っている 私たち千二百人 および他にも仏の悟りを求める者がいる 願わくはこの人々のために ただ分別し説法を垂れたまえ この人々は教えを聞けば 大いなる歓喜を生じさせるであろう。

 

(解説:真理は絶対的な次元のものである。絶対的な次元とは、相対的な人間の言葉や思考などでは、得ることも知ることもできないものである。そのため、ここで釈迦仏は、仏の智慧は説くことができない、と言われるのである。絶対的次元については、絶対的次元においてのみ理解できる、ということで、「ただ仏と仏だけが究め尽くしている」と語られているのである。

表面的に読めば、仏の智慧は非常に深く、よっぽど能力の高い者以外は知ることはできないので、説くのはやめておこう、説いてもわからなければ無駄なことだ、というような感じを受けるかもしれないが、もちろんそのようなことはなく、もともと言葉では表現できないのだから、説くことはできないのである。

では、これ以降の『法華経』においては、それはどのように表現されていくのか、ということになるが、それは、『法華経』の中で展開されていく物語そのものを通して表わされていくのである。したがって、それらを相対的な人間の知恵などで理解しないようにしなければならない。もし常識的な思考で『法華経』を読むならば、まるで戯曲や芝居の台本を読んでいるような感じを受け、結局、内容などないという誤った結論に達してしまう。実際、そのような評価が多く下されている。また、そうでなくても、この絶対的と相対的ということを知らないがために、『法華経』に対して、それほど優れた経典ではない、という、これも誤った評価が多く下されている。

天台大師の『法華玄義』では、この絶対的、相対的という真理を、「絶待妙・相待妙(ぜつだいみょう・そうだいみょう)」という言葉で解き明かしている。そしてそれに伴って、『摩訶止観』では、絶待止観・相待止観という教義が記されている)。

 

〇注1・「方便波羅蜜と知見波羅蜜」 

布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の六波羅蜜に、これらの補助として、方便・力・願・智の四つを加えた十波羅蜜がある。知見波羅蜜は、この智波羅蜜のことと考えられる。

〇注2・十如是という。如是とは「このような」という意味。如是相の相は、外見の姿や形のこと。如是性の性は、本性のこと。如是体の体は、正体ということ。如是力の力は、能動の意味。如是作の作は、材料をもって作ることを意味する。如是因の因は、原因のこと。如是縁の縁は、因が果に向かうための条件のこと。如是果の果は、結果のこと。如是報の報は、果による善悪の報いのこと。如是本末究竟等については、本は十如是の最初の相を指し、末は直前の報を指し、究竟等とは、その相から報までは究極的に等しいということ。