大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その4

法華経』現代語訳と解説 その4

 

その時、世尊は舎利弗に次のように語られた。

「あなたはすでに、三度も熱心に懇願した。どうして説かないことができようか。あなたは今、明らかに聞き、よくこれを思念せよ。私はまさにあなたのために、分別し解き明かそう」。

その言葉を説かれた時、会衆の中の僧侶と尼僧と男女の在家信者たちの五千人は、すぐに座より立って、仏に礼をして退出した。なぜであろうか。この者たちは、罪の根が深く重く、さらに増上慢であって、まだ得ていないものを得たと思い、まだ証(あかし)されていないものを証されたと思っているためである。このような誤りがあるために、この場にいることができなかった。世尊は黙って、彼らを制止されなかった。

その時、仏は舎利弗に次のように語られた。

「今、この会衆の中には枝葉はなく、純粋に真実のみがある。舎利弗よ。このような増上慢の人は、退くもまたよいことだ。あなたは今よく聞くがよい。まさにあなたのために説こう」。

舎利弗は、「世尊よ。ただ聞くことを願います」と申し上げた。

仏は舎利弗に次のように語られた。

「このような妙法は、諸仏如来が説くべき時に説くのである。優曇鉢華(うどんぱつげ)が、定まった時に一度だけ開花するようなものである。舎利弗よ。あなたはまさに信じるべきである。仏の説くところは、その言葉に虚妄はない。舎利弗よ。諸仏が適宜に語る説法は、その意趣は理解し難い。なぜであろうか。私は無数の方便、あらゆる因縁、譬喩、言葉をもって諸法について説くからである。この法は、思量分別のよく理解するところではない。ただ諸仏のみ、これを知っている。なぜであろうか。諸仏世尊は、ただ一大事因縁のために、この世に出現するのである。舎利弗よ。どのようなことを、諸仏世尊はただ一大事因縁のために世に出現するというのであろうか。諸仏世尊は、衆生に対して仏知見を開き、清浄を得させよう願うために、世に出現するのである。衆生に仏知見を示そうと願うために、世に出現するのである。衆生に仏知見を理解させようと願うために、世に出現するのである。衆生に仏知見を求める道に入らせようと願うために、世に出現するのである(注1)。舎利弗よ。これが、諸仏はただ一大事因縁のために世に出現するということである」。

仏は舎利弗に次のように語られた。

「諸仏如来はただ菩薩を教化される。あらゆる仏の所作は、常に一事のためである。ただ仏の知見を衆生に示し、知らせようとするのである。舎利弗よ。如来はただ一仏乗(注2)のために、衆生に教えを説かれるのである。一仏乗以外の二も三もない。舎利弗よ。十方すべての諸仏の法も、また同様である。舎利弗よ。過去の諸仏も、無量無数の方便、種々の因縁、譬喩、言辞をもって、衆生のために諸法について教えを述べられた。その教えもみな一仏乗のためである。このように、諸仏に従い教えを聞いた人々も、やがて究極的な悟りを開き、一切種智を得た。

舎利弗よ。未来の諸仏がやがて世に出ることも、また無量無数の方便、種々の因縁、譬喩、言辞をもって、衆生のために諸法について教えを述べるであろう。その教えもみな一仏乗のためである。このように、諸仏に従い教えを聞く人々も、やがて究極的な悟りを開き、一切種智を得るであろう。

舎利弗よ。現在の十方無量百千万億の仏国土の中にある諸仏世尊が、衆生に多くの利益を与え、安楽にさせる諸仏も、また無量無数の方便、種々の因縁、譬喩、言辞をもって、衆生のために諸法について教えを述べる。その教えもみな一仏乗のためである。このように、諸仏に従い教えを聞く人々も、やがて究極的な悟りを開き、一切種智を得るであろう。

舎利弗よ。この諸仏はただ菩薩を教化される。それは、仏知見を衆生に示そうとするために、仏知見を衆生に理解させようとするために、衆生に仏知見を求める道に入らせようと願うためである。

舎利弗よ。私もまた同様である。多くの衆生に、あらゆる欲や深い心の奥底に執着があることを知って、その本性に従って、種々の因縁、譬喩、言辞、方便の力をもって教えを説く。舎利弗よ。これはみな一仏乗の一切種智を得させようとするためである。舎利弗よ。十方世界の中には二乗はない。ましてや三乗があるだろうか。舎利弗よ。諸仏は五濁(ごじょく)の悪世に出られる。いわゆる劫濁(こうじょく)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、見濁(けんじょく)、命濁(みょうじょく・注3)である。まさにこのようである、舎利弗よ。劫の濁乱の時は、衆生の垢は重く、貪欲であり妬みが激しく、あらゆる不善根を行なうために、諸仏は方便の力をもって、一仏乗を分別して三乗として説かれるのである。舎利弗よ。もし私の弟子であって、自ら阿羅漢や辟支仏だと言う者で、諸仏如来がただ菩薩を教化されるということを聞かず知らないならば、その者は本当の仏弟子ではない。また本当の阿羅漢ではなく、本当の辟支仏ではない。また舎利弗よ。この多くの僧侶や尼僧たちが、自らすでに阿羅漢の悟りを得た、もう今生限りで転生しない最後身(さいごしん)だ、究竟の涅槃だと言って、さらなる阿耨多羅三藐三菩提を求めることを志さないならば、まさに知るべきである、この者はみな増上慢の人である。なぜであろうか。もし修行者が実に阿羅漢の悟りを得ており、それでもこの法を信じないと言えば、そのようなことはあり得ないからである。仏が滅度した後、目の前に仏がいない時は除く。仏が滅度した後に、この『法華経』のような経典を受持し読誦し、その義を理解する者は、非常に得難いからである。もし実際に仏に会えば、その教えにおいて、すぐに確かに理解することができるのである。舎利弗よ。あなたはまさに一心に信じ理解し、仏の言葉を受持すべきである。諸仏如来の言葉に虚妄はない。また他の乗あることなく、ただ一仏乗だけがあるのである。

 

(解説:「修行者が実に阿羅漢の悟りを得ており、それでもこの法を信じないと言えば、そのようなことはあり得ない」とはどのような意味であろうか。つまり、阿羅漢でも、辟支仏でも、もちろん菩薩でも、真実に阿耨多羅三藐三菩提を求める心があるならば、阿羅漢で留まることはなく、さらにその先の仏の悟りまで進むはずである。それが一仏乗である。もちろん、それが成就するのは、今生ではなく、気の遠くなるほどの未来世のことであるが、それでもそこに向かって進んで行くことに大きな意義がある。

また、仏は菩薩を教化するという意味もこれである。その阿耨多羅三藐三菩提を求める過程が、菩薩行(ぼさつぎょう)そのものだからである。したがって、一度阿羅漢の位を得た者は、菩薩ではないので、仏からの教化を受けることができない、ということはない。

言い換えれば、大乗仏教の教えは、仏になることに中心が置かれているのではなく、その過程である菩薩行が重要なのである。菩薩行ならば、今生でじゅうぶん行じることができるのである)。

 

〇注1・「開示悟入」 この箇所は、開示悟入という言葉で教理化されている。そして一般的には、この開示悟入の意味としては、仏は仏知見を衆生に開かせ、示し、悟らせ、入らせると解釈されているが、それは誤りである。なぜなら、ここまでの箇所で、仏知見は仏以外には理解できないものだと、繰り返し述べられてきているからである。衆生は、仏知見を開くこともできず、ましてや悟ることなどできるはずがない。

では、この箇所の本当の意味は何であろうか。上に訳として記してはいるが、重ねて詳しく述べれば次のようになる。まず、仏が『法華経』に記されている事柄を通して、仏知見を公開するのである。つまり衆生に見せ、聞かせるのである。これが「開」と「示」である。開くことは示すことであるから、「開」と「示」は別々のことではない。

次に、「悟」であるが、これは理解すると訳すべきである。なるほど、これが仏知見か、と理解するのである。それはもちろん、仏知見の中身を理解することではなく、衆生が仏知見を見極め、認識する、ということである。もちろん、これがなければ、開示された意味がない。

そして「入」であるが、これは、仏が仏知見を得るようになった過程つまり道に、衆生も同じく入らせる、ということであり、これが最も重要なことである。つまり、いつかは、それこそ、無量百千万億劫の未来世において、その道に入った者は、仏知見を成就して、仏になるわけである。その事実が、この後の『法華経』の箇所で、「授記」ということで繰り返し述べられることになる。

仏知見は、衆生には理解することはできないが、この気の遠くなるような過程を経るならば、誰でも仏知見を成就することができるのである。

そして、上にも述べたように、この道を歩み続ける、ということが重要なのであり、仏知見を成就することが重要なのではないのである。なぜなら、仏知見を成就して仏となるならば、やがてその者は滅度しなければならない。つまり存在そのものも、絶対的次元に入って、消滅しなければならないのである。

本当は、仏になった途端に絶対的次元に入って、消滅しなければならないのであるが、そうなってしまったら、仏の教えも消えてなくなってしまうので、そこは仏の神通力ということで、滅度までの間に有余を生じさせ、教えを説くということなのである。したがって、仏、如来は、蓮台の上に載って教えを説くだけで、あちらこちらと歩き回らない。いや、歩き回れないのである。実質的には、姿形は絶対的次元に入って存在しないのである。

それでは、困る。教えだけ語られても、実際に御手を差し伸べてもらわねば、心細いではないか、ということで、仏になるまでにはなってはいても、仏の一歩手前で留まり、人々の所に実際に行って、導きの御手を差し伸べる「実質的な仏」が菩薩なのである。

〇注2・「一仏乗」 三乗が声聞、縁覚、菩薩の三種の人々の教えを指すことは前にも述べた。その声聞、縁覚、菩薩の先にある次元は、仏であるので、一仏乗とは、仏の教えとなる。一仏乗を略して一乗ともいう。したがって、一乗は絶対的次元の教えであるので、この世あるいは未来世であっても、あくまでも相対的次元においては、この一乗を成就することはできない。ただ、一仏乗という次元があるのだ、ということを知るだけで十分である。そして、いずれ、気の遠くなるほどの未来において、この一乗を成就して仏となるという信心を起こすことができれば、それが相対的な世において最終の到達点となる。これを発菩提心(ほつぼだいしん)という。そしてましてや、仏から、未来世に仏となることができる、という「記」を授かれば(=授記)、それ以上のものはないことになる。

〇注3・「五濁」 劫濁は、天災等の天変地異が起こること。煩悩濁は、衆生の煩悩が盛んになること。衆生濁は、衆生の果報が衰えること。見濁は、衆生の見解が悪くなること。命濁は、衆生の寿命が短くなること。