『法華玄義』現代語訳 206
第五項 通別料簡
料簡にあたって、三つの項目を立てる。一つめは、通別についてであり、二つめは、益・不益であり、三つめは、諸教についてである。
第一目 通・別について
五味の教えと半字・満字については、その教えが説かれた次第を個別に論じるならば、それぞれの時に限定される。一方、共通することを論じるならば、最初から最後までに共通する。『華厳経』の頓教と乳味については、個別的にはただ最初ということであり、共通的には最後まで通じる。このため『無量義経』に「次に般若の歴劫修行、華厳海空を説く」とある。『法華経』において仏の智慧に開会して入る。これはすなわち共通的に『法華経』と『般若経』の二経に至ることである。
また『像法決疑経』に次のようにある。「今日、聴衆の無数の人々は、それぞれ見ることは同じではない。あるいは如来が涅槃に入ることも見て、あるいは如来がこの世に一劫、あるいは一劫に足らないほど、あるいは無量劫の間住んでいると見る。あるいは如来の一丈六尺の身体を見て、あるいは小さな身体と見て、あるいは大きな身体と見る。あるいは報身が蓮華蔵世界海において、千百億の釈迦牟尼仏のために、心地の法門を説くことを見る。あるいは法身が虚空に同化して別ではなく、無相無礙であり法界に遍く同じているのを見る。あるいはこの場所は山林土地土砂であるあと見て、あるいは七宝を見て、あるいはこの場所は三世の諸仏の行じる所と見て、あるいはこの場所は不可思議諸仏の境界であり真実の法であると見る」。太陽は最初昇ってまず高山を照らす。その太陽が沈む時にも、また高い峰々に残りの光がある。このために、蓮華蔵海は、通して『涅槃経』の後にまで至る。どうして前の経にも通じないことがあろうか。
修多羅の半字・酪味の教えは、個別的に述べれば、第二時である。共通して述べれば、また後にまで至る。なぜなら、迦留陀夷は『法華経』の中において、仏の面前で授記を得たが、後に町において殺され、それが、戒律が設定される機縁となった。また舎利弗は『法華経』における聞き手である。後に入滅する。均提は三衣を持って来る。仏は質問する。どうして三蔵教が後にまで至らないことがあろうか。『大智度論』に「最初の鹿野苑より涅槃の夜に至るまで、説いたところの戒律と禅定と智慧をまとめて修妬路経(しゅとろきょう)などの蔵とした」とある。まさに知るべきである。三蔵教は通じて後に至る。
方等教の半字と満字が相対する教えは、生蘇味の教えである。個別的に述べれば、第三時であり、共通して述べればまた後にまで至る。なぜなら、『大方等陀羅尼経』に「まず王舎城においてあらゆる声聞に授記を授け、今また舎衛国の祇陀林の中において、また声聞に授記を授ける。昔、鹿野苑において、声聞に授記を授ける」とある。また舎利弗は「世尊には虚偽はなく、語るところは真実である。このためによく第二、第三に私たちに授記を授けられる」とある。このために方等教は『法華経』の後まで至る。
『般若経』は、半字を帯びて満字を論じる。これは熟蘇味の教えである。個別的に述べれば第四時であり、共通して述べればまた最初から最後まで至る。なぜなら、「悟りを得た夜から涅槃の夜に至るまで、常に般若を説く」とある。また『大智度論』に「須菩提は、菩薩の成仏が確定しているか確定していないかを問う」とある。まさに知るべきである。『般若経』もまた後に至る。
『涅槃経』の醍醐味・満字の教えは、個別的に述べれば第五時であり、共通して述べれば、また最初まで至る(注:『涅槃経』は最後に説かれた経典とされるため)。なぜなら、『大智度論』に「最初の発心より、常に涅槃を観じて道を行じる」とある。前のあらゆる教えは、どうして発心の菩薩が涅槃を観じることでないことがあろうか。『涅槃経』に「私は道場の菩提樹の下に坐って、最初悟りを開いた。その時、無量阿僧祇恒沙の世界のあらゆる菩薩もまた私に非常に深い意義を質問した。しかし、その質問するところの語句と意義、功徳もまたみな今のこの時と全く同じであり、異なりはない。このように質問する者は、すなわち無量の衆生に利益を与えるのである」とある。これはすなわち、前に通じる。
もし『法華経』を顕露の立場で述べれば、前にあることはない。秘密の立場で述べれば、その理法に妨げはない。このために舎利弗は「私は昔、仏に従ってこの法を聞き、あらゆる菩薩に授記を授けて仏になることを見た」とある。これがどうして昔に通じる授記を証する文でないことがあろうか。
問う:『涅槃経』には過去にさかのぼって四教を説く。方等教には正しく四教を開いて、別教にもまた生無生・修無量・修無作・証無作の四種がある。これをどのように区別したらよいのか。
答える:『涅槃経』は四教それぞれに共通して仏性に入り、別教は次第に後に仏性を見て、方等教は証を保ち、蔵教と通教は仏性を見ない。
第二目 益・不益について
もし『華厳経』を乳味とし、三蔵教を酪味とすれば、これはすなわち方便の味が濃く、大乗の味は薄い。これを解釈するにあたって、三つある。
第一は、利益があるところを取って述べる。貴重な薬だからといって、必ず病が治るわけではない。一般的な薬でも病に適合する時もあり、貴重な薬でも病に適合しない時もあるため、いたずらに薬を服することも利益がないようなものである。
最初、『華厳経』を説いたが、初心の者に対しては深い利益はなかった。漸教の能力の人に対してもまだ利益はなかった。蔵教と通教の能力の者に対しては乳のようである。漸教の能力の者は、三蔵教を受けて、よく見思惑を断じ、三毒が次第に尽きて、凡夫から聖者となる。それは乳が酪になったようなものである。用いて利益があるからといって、劣ったものを優れていると言い、用いて利益がないからといって、貴重なものを劣っていると言うべきではない。『華厳経』もまた同じである。小乗においては乳のようであり、大乗においては醍醐のようである。これはあくまでも部分的な譬喩であり、全体に及ぶものではない。
第二は、良医に一つの秘方があって、十二の薬(十二部経を喩える)を備えているようなものである。三種(十二部経の最初の三種)は最も貴重であり、よく病の相と性質を見抜き、最初まで病状に背いて誤って処方することはない。仏もまた同じである。円満な方法で絶妙に治療することは、十二部経を備えることである。十二部経の最初の無問自説・方広・授記は、最も深い教えである。菩薩は智慧が優れているので、具足してすべて服する。二乗は病が重いので、他の九部経をもって薬とする。もしこれで効果がなければ、病において利益がない。効果がない場合においては乳とし、効果がある場合においては酪とする。これは説教の順序を取って喩えとしており、五味の教えの濃薄浅深を用いていない。
第三は、修行者の心について述べる。『華厳経』を説く時、凡夫の見思惑はそのままであるので、乳のようだという。三蔵教を説く時、見思惑を断じるために、酪のようだという。方等教に至る時、小乗の思いがくじかれ恥じ入り、真実の極みと言わないために、生蘇のようである。『般若経』に至る時、教えを理解し法を知るので、熟蘇のようである。『法華経』に至る時、無明を破り、仏の知見を開き、授記を受け仏となり、心がすでに清浄となるために、醍醐のようだという。修行者の心が生(なま)ならば、教えもまだ説かれない。修行者の心が熟せば、教えもまた従って熟す。
問う:一人の人が五味の教えを受けるのか、五人が受けるのか。
答える:自ら一人が一つの味の教えを受けることがある。『華厳経』の中の純一の能力の者は、すなわち醍醐味の教えとして受け、五味を経ない。『涅槃経』に「雪山に草がある。牛がもしこれを食べれば醍醐を出す」とある。また、自ら一人が五味を経る場合がある。小乗の能力の者は、頓教においては乳味の教えであり、三蔵教においては酪味の教えであり、最後の醍醐味の教えで究竟する。『涅槃経』に「牛より乳が出て、そして蘇より醍醐が出る」とある。また、自ら能力の高い菩薩、または聖者の位に入っていない声聞がいて、三蔵教の中において仏性を見れば、それは乳味と酪味の二つの味の教えを経ることである。また自ら方等教の中に仏性を見る者がある。これは乳味・酪味・生蘇の三つの味の教えを経ることである。『般若経』の中に仏性を見る者は、乳味・酪味・生蘇・熟蘇の三つの味の教えを経ることである。三百人の比丘のようである。『涅槃経』に「毒を乳の中に入れれば、五味の中に遍く広がり、すべてよく人を殺す」とある。すなわちこの意味である。
第三目 諸教について
『涅槃経』に「凡夫は乳のようであり、声聞は酪のようであり、菩薩は生蘇と熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである」とある。今、この喩えを解釈すれば、総合的には半字・満字・五時の教えを喩えているのである。凡夫は病を治す道はなく、全く乳のように生である。声聞は真理を発するので、通じてみな酪のようである。通教の菩薩および二乗は生蘇のようである。別教は熟蘇のようである。円教は醍醐のようである。
今、各教えにおいて五味の教えを判断する。まず『涅槃経』に「凡夫は乳のようであり、須陀洹は酪のようであり、斯陀含は生蘇のようであり、阿那含は熟蘇のようであり、阿羅漢、縁覚、仏は醍醐のようである」とある。超果があれば、すなわち醍醐を得る。あるいは、各味に順番に入る者がある。以上はすなわち三蔵教の中の頓教・漸教・不定教の三つの意義である。
次に通教の五味を見れば、『涅槃経』の三十二巻に「凡夫の仏性は、血の混じった乳のようである。血とはすなわち無明・行などのすべての煩悩である。乳とはすなわち善の五陰である。このために『あらゆる煩悩および善の五陰に従って悟りを得る』という。衆生の身は、みな精錬された血によって成就することができるようなものである。仏性もまた同じである。須陀洹、斯陀含は少しの煩悩を断じれば、真の乳のようであり、阿那含は酪のようであり、阿羅漢は生蘇のようであり、縁覚から十地の菩薩までは熟蘇のようであり、仏は醍醐のようである」とある。超果・不定教は(以下文はない)。
次に別教に自ら五味を明らかにすれば、『涅槃経』の第九巻に「衆生は、牛が新たに生まれ、血と乳がまだ分かれていないようなものであり、声聞と縁覚は酪のようであり、菩薩の人は生蘇、熟蘇のようであり、諸仏世尊はなお醍醐のようである」とある。具体的には超果・不定教がある。
次に円教は、ただ一つの味の教えだけである。『涅槃経』に「雪山に草がある。忍辱と名付けられる。牛がもしこれを食べれば醍醐を出す」とある。正直純一であるために、五味を論じない。もし無差別の中に差別を設ければ、名字即から究竟即に至るまでの位に当てはめて、五味の生成を述べることができる。仏から十二部経が出る。すなわちこれは乳を出すのである。優れた医者が乳の薬を用いるべき時は用いるようなものである。四善根について、毒の効力が発することに対して五味とすることができる。