大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その19

法華経』現代語訳と解説 その19

 

その時、大通智勝如来は、十方の梵天王をはじめ、十六王子の願いを受け、四諦と十二因縁の教えを説いた(注1)。僧侶や婆羅門、あるいは天、魔、梵天および他の世の人が説くことのできない教えである。

四諦は次の通りである。すべては苦しみである、苦しみの原因は執着が集まったものである、執着を滅ぼせば苦しみも滅びる、その苦しみを滅ぼす道に八正道がある。

また、十二因縁(注2)を説かれた。すなわち次の通りである。無明(むみょう)があるから行(ぎょう)が生じ、行があるから識(しき)が生じ、識があるから名色(みょうしき)が生じ、名色があるから六入(ろくにゅう)が生じ、六入があるから触(しょく)が生じ、触があるから受(じゅ)が生じ、受があるから愛(あい)が生じ、愛があるから取(しゅ)が生じ、取があるから有(う)があり、有があるから生(しょう)が生じ、生があるから老死(ろうし)の憂い悲しみの苦惱が生じる。したがって、無明が滅すれば行が滅し、行が滅すれば識が滅し、識が滅すれば名色が滅し、名色が滅すれば六入が滅し、六入が滅すれば触が滅し、触が滅すれば受が滅し、受が滅すれば愛が滅し、愛が滅すれば取が滅し、取が滅すれば有が滅し、有が滅すれば生が滅し、生が滅すれば老死が滅し、憂い悲しみの苦惱が滅する。

仏が、天や人や大衆の中において、この教えを説かれた時、六百万億那由他の人々は、すべてのものへの執着を断ち切ることによる煩悩からの解放を得て、みな深く妙なる禅定やさまざまな神通力を得て、また貪欲から離れるための瞑想を得た。仏の第二、第三、第四の説法の時も、数えることのできないほどの衆生が、執着を断ち切ることによる煩悩からの解放を得た。このように、仏の御声を聞き、声聞となった者たちの数は、無数であった。

その時、十六王子は出家したが、童子であったため、僧侶の前段階である沙弥(しゃみ)となった。みな能力が優れ、智慧も明晰であった。彼らはすでに前世において、百千万憶の諸仏を供養しており、清い行を修習して、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こして、仏に次のように申し上げた。『世尊よ。ここにいる無量千万億の大いなる声聞は、みなすでに修行を成就しています。世尊よ。さらに私たちのために、阿耨多羅三藐三菩提の法を説いてください。私たちはそれを聞いたならば、みな共に修学しましょう。世尊よ。私たちは如来の知見を求めます。私たちの心の深く思うところは、仏ご自身がご存じです』。

その時、彼らと同じ一族である転輪聖王に仕える八万憶の人々は、十六王子が出家するのを見て、同じく出家することを願った。王はそれを許可した。この時、仏は沙弥となった十六王子たちの願いを受けて、二万劫を過ぎた時、すべての大衆の中において、大乗経であり、菩薩に教える法であり、仏が護念する『妙法蓮華経』を説かれた。この経を説き終った時、この十六沙弥は、阿耨多羅三藐三菩提を求めるために、この経のすべてを保ち、暗記し、理解した。このように、十六の菩薩である沙弥はすべて信じ受け入れたが、声聞たちの中にも、信じ理解する者たちがいた。しかし、他の千万憶の衆生はみな、疑惑を生じさせた。

仏は、八千劫の間この経を説き続け、休むことはなかった。そして、この経を説き終って、静かな道場において八万四千劫の間、禅定に入った。この時、十六の菩薩である沙弥は、仏が道場において静かに禅定に入ったことを知り、それぞれ教えの座に上って、また八万四千劫の間、すべての衆生のために『妙法蓮華経』を説いた。一人一人の説法のたびに、六百万億那由他の大河にある砂の数ほどの多くの衆生を悟りに導き、教えを示し、心を励まし、阿耨多羅三藐三菩提を求める気持ちを起こさせた。

大通智勝如来は、八万四千劫を過ぎて、瞑想より立ち上がって、説法の座に上り、平安の中で座って、大衆にあまねく次のように語った。

『この十六の沙弥は大変立派な菩薩たちである。能力に優れ、智慧も明瞭である。すでに前世において、無量百千万憶の諸仏を供養して、諸仏のもとにおいて常に清らかな行を修習し、仏の智慧を受け、衆生に開示して、その中に入らせた。あなたたちはみな、まさに十六沙弥に親しく近づき、彼らを供養すべきである。なぜならば、もし、声聞や辟支仏および多くの菩薩たちが、しっかりとこの十六の菩薩たちが説く経の教えを信じ、受け入れて非難しなければ、そのような人はみな阿耨多羅三藐三菩提の如来智慧を得るであろう』」。

また仏は多くの僧侶たちに次のように語った。

「この十六の菩薩たちは、常に願ってこの『妙法蓮華経』を説く。一人一人の菩薩たちの教化した六百万億那由他の大河にある砂の数ほどの多くの衆生は、今まで生まれ変わりを繰り返す中においても、必ず同じ菩薩と共にいて、従い、教えを聞いて、すべて信じ理解してきたのだ。この因縁をもって、今まで四万憶の諸仏世尊に従って来た。多くの僧侶たちよ。私は今あなたたちに語る。大通智勝如来の弟子である十六の沙弥は、現在はみな、阿耨多羅三藐三菩提を得て、十方の国土において教えを説いているのだ。各々の仏に無量百千万憶の声聞と菩薩たちがいて、従い仕えているのだ。

二人の沙弥は、東方において仏となった。阿閦(あしゅく)といい、歓喜国にいる。もう一人を須弥頂(しゅみちょう)という。東南方には二仏いて、一人を師子音(ししおん)といい、もう一人を師子相(ししそう)という。南方に二仏いて、一人を虚空住(こくうじゅう)といい、もう一人を常滅(じょうめつ)という。西南方に二仏いて、一人を帝相(たいそう)といい、もう一人を梵相(ぼんそう)という。西方に二仏いて、一人を阿弥陀(あみだ)といい、もう一人を度一切世間苦悩(どいっさいせけんくのう)という。西北方に二仏いて、一人を多摩羅跋栴檀香神通(たまらばつせんだんこうじんつう)といい、もう一人を須弥相(しゅみそう)という。北方に二仏いて、一人を雲自在(うんじざい)といい、もう一人を雲自在王(うんじざいおう)という。東北方の仏を壊一切世間怖畏(えいっさいせけんふい)いう。そして、十六番目は私、釈迦牟尼仏である。娑婆国土において阿耨多羅三藐三菩提を得たのだ(注3)。

 

注1・苦諦、集諦、滅諦、道諦の四諦と十二因縁は、歴史的釈迦が説いた教えである。すなわち、ここも歴史的釈迦についての伝承通りに、梵天勧請に続いて教えを説いているということである。

大通智勝如来は、この後の記述で明らかにされるが、今ここで『法華経』を説いている釈迦の過去世における父であり師匠なのである。つまり、釈迦は、父であり師匠である仏が行なったことと同じことを行ない、またこれからも行なうのだ、という前提がここに隠されている。そしてさらにこの後、大通智勝如来は『法華経』を説くことになる。釈迦の師匠である大通智勝如来が『法華経』を説いたならば、同じく、釈迦も『法華経』を説くのだ、ということである。このように、今『法華経』が説かれるということは、はるか昔から定まっていたことである、ということを表わしているのである。

注2・十二因縁は、転生する人間の因縁を、順番に十二通りに分析した教えである。真理から離れた無知である①無明、自分を中心とした意志作用である②行、識別作用である③識、名称と形体を指す④名色、眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官である⑤六入、対象に接触することである⑥触、感受作用である⑦受、対象を求める働きである⑧愛、執着である⑨取、自我の存在である⑩有、さらに生き続けることを指す⑪生、そして老いて死ぬことである⑫老死である。またこれらを、母胎に受胎して出生するまでの胎児の成長過程に当てはめる解釈もある。しかし、それは生理的には辻褄も合うが、深い霊的な教えに発展する余地がないので、合理的な認識によって後に生じた解釈であろう。

注3・十六王子は出家して、ついに仏となり、それぞれの名前が、その仏国土がある方角ごとに記されている。この名前を見て行くと、そのうちの一人が、阿弥陀仏となっており、また一人が、釈迦牟尼仏である。つまり、阿弥陀如来と釈迦如来は兄弟なのである。不思議に、このことを言い広める人はいない。日本の仏教の歴史を見ると、『法華経』と阿弥陀信仰は、天台宗の中では調和して存在している。しかし、鎌倉時代以降、この二つは相容れないものという観念が強まっていった。このように、『法華経』と阿弥陀信仰が相容れないものであるという先入見は、経典に基づいたものではない。