大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その20

法華経』現代語訳と解説 その20

 

多くの僧侶たちよ。私はこのように沙弥であった時、無量百千万億の大河にある砂の数ほどの多くの衆生を教化した。私に従って教えを聞いた衆生は、阿耨多羅三藐三菩提を得るように導かれたのである。この多くの衆生は、今も声聞である者もいるが、私は常に阿耨多羅三藐三菩提を得るように教え導いている。この者たちも、この教えによって、やがて仏の道に入るであろう。なぜならば、如来智慧は信じがたく理解しがたいからだ。

その時に私が教化した無量の大河の砂の数ほど多くの衆生は、今のあなたたちであり、さらに、私が滅度した後の未来世の声聞の弟子たちなのである。私が滅度した後は、弟子であっても、この経を聞くことはなく、菩薩の行なうべきところを知らず悟らず、自ら得た功徳において滅度に到達したと思うであろう。そのような人たちのために私は、また他の仏国土において別の名を持つ仏となり、滅度に到達して涅槃に入ったと思っているその人たちも、またその国土において仏の智慧を求めて、この経を聞くことになるであろう。このように、ただ一仏乗によって滅度に至るのであり、他の教えはないのである。それ以外の教えと見えるものは、如来の方便による説法なのである。

多くの僧侶たちよ。如来が自ら涅槃の時が来たと知り、衆生も清く信仰と理解が堅固であり、空の教えをよく理解し、深く禅定に入ることができることを知るならば、多くの菩薩たちや声聞たちを集めて、彼らのためにこの経を説くのである。この世に、他の二乗によって滅度に至ることはないのである。ただ一仏乗をもって滅度を得るのである(注1)。

僧侶たちよ。まさに知るべきである。如来の方便は深く、衆生の本性に至るのである。深く肉体的欲望に執着する者たちが、劣った教えを喜ぶならば、仏は、その劣った教えによって得たものを涅槃だと説くのであり、そうするならば、その者たちは信じ受け入れるのである。

たとえば、非常に長く険しく危険な道で、さらに人家もなくなった恐ろしい所があったとする。そこを、珍しい宝を求めて、多くの人々が通過しようしていたとする。そこに、一人の導師がいた。聡明であり、この道についてもよく知っていた。彼が人々を導き、この難所を過ぎようとしていたのである。しかし、人々は気力を失って、導師に次のように言った。

『私たちは疲れてしまい、また恐れています。もう進むことはできません。これから先も長いですから、この辺で引き返したいです』。

導師は方便の智慧も豊かであり、次のように思った。

『彼らはかわいそうだ。ここまで来て、大いなる珍宝をあきらめて、帰ろうとしている』。

このように思って、方便の力をもって、険しい道のはるか先に、一つの町(注2)を神通力によって現わし、人々に次のように言った。

『あなたたちは恐れる必要はない。引き返すようなことはするな。あそこに、大きな城壁に囲まれた町があるではないか。中に入って自由にするがよい。もしあの町に入るなら、快く休むことができるだろう。そしてさらに進んで宝のある所に行って来ようではないか』。

この時、疲労の極みであった人々も、この思いがけないことに、大いに喜んで次のように言った。

『もうすぐで私たちは、この危険な道を通過して、安心できる場所に行くことができる』。

人々は、進んで行って町に入り、助かったと思い、平安な心に満たされた。その時に導師は、人々が十分休み、また疲労も回復したことを知って、この町を消して、人々に次のように語った。

『さあ、宝の場所はもうすぐだ。この大きな町は私が神通力で現わしたものである。ただ、あなたたちを休ませるためのものだ』。

多くの僧侶たちよ。如来もまたこのようなものである。今、あなたたちのための大いなる導師であって、険しく長い生死や煩悩の悪しき道を、どのように進み、乗り越えるか、よく知っているのだ。もし衆生が、いきなり一仏乗を聞けば、仏を見たいともせず、親しく近づきたいともせず、次のように思うだろう。

『仏の道は、長く遠い。非常に長い間、苦しい修行をして、やっと成就するものだ』。

仏は、このような心が弱く劣っていることを知って、方便の力をもって、途中で休むために、二乗の涅槃を説いたのだ。もし衆生が、声聞乗や縁覚乗に到達すれば、如来はその時、次のように言うのだ。

『あなたたちは、まだ目標を成就してはいない。あなたたちは、仏の智慧の近くまで来た。よく考えてみよ。得たところの涅槃は、真実ではない。これは如来が、方便の力をもって、一仏乗のところを、分けて声聞乗と縁覚乗と菩薩乗の三つとして説いたのだ。これは、導師が、休ませるために大きな町を作り、すでにじゅうぶん休んだと知れば、宝は近くにある。この町は真実ではない。私が仮に現わしたものなのだ』

と言うようなものである。」

その時、世尊は重ねてこの内容を述べようと、偈をもって次のように語られた。

「大通智勝仏は 十劫の間道場に座しておられたが 阿耨多羅三藐三菩提を得ることはできず 仏の道を成就することはなかった 多くの天や龍王 阿修羅たちは 常に天の華を降らして その仏を供養した 諸天は天の鼓を打ち また多くの伎楽を演奏した 香風は萎んだ華を吹き飛ばし さらに新しい華を降らせた このように十小劫が過ぎ 仏は仏の道を成就した 諸天および世の人々は みな躍り上がるほど喜んだ 

その仏の十六人の子は みなその千万憶の従者と共に 仏のところに行き 頭に仏の足をつけて礼拝し 教えを説くことを願って次のように言った 聖なる獅子である仏よ 教えの雨によって 私とすべての人々を満たしたまえ 世尊に会うことは非常に困難である 非常に長い歳月の間 一度だけ出現され 群衆を悟りに導くために すべてを揺り動かされる 

東方五百万億の梵天の宮殿は 今までなかったほどに光輝いた 多くの梵天はこの様子を見て 仏のところに来て 華を注いで供養し そして宮殿をささげ 仏に教えを説くよう願って 偈をもって褒めたたえた しかし仏は未だ時が至っていないと知られ そのまま黙って座っておられた あらゆる方角また上下の世界の梵天もまた同じように 華を注いで宮殿をささげ 仏に教えを説くよう願って次のように言った 世尊に会うことは大変難しいことである 願わくは大いなる慈悲をもって 広く甘露の門を開き 無上の教えを説きたまえ 

智慧が無量の世尊は それらの願いを受けて あらゆる教え 四諦十二因縁を説かれた 無明から老死に至るまで みな縁によって生じる このような多くの苦しみや悩みを あなたたちは知るべきであると このような教えを語られた時 六百万億那由他の人々は あらゆる苦しみを滅ぼすことができ みな阿羅漢となった 第二の説法の時も 数えきれないほどの人々が あらゆる執着を断ち切り また阿羅漢となった これ以降に煩悩を断ち切った人々は たとえ一万憶劫の時間をかけて数えても 数えきれないほどであった 

この時に十六王子は 出家して沙弥となり みな共に仏に 大乗の教を説くことを願って 次のように言った 私たちと他の従う者たちは みな仏の道を成就するであろう 願わくは世尊のごとく 最も清らな智慧の眼を得ることを 

仏は子供たちの心が 前世からの因縁によることを知られ 無量の因縁 あらゆる比喩をもって 大乗の菩薩が行なうべき六波羅蜜 および多くの神通力のことを説かれ 真実の教えであり 菩薩の行なうべき道の教えであるこの法華経の 大河の砂の数ほどの偈を説かれた 

仏は経を説き終り 静かな部屋において禅定に入られ 一心にひとつのところに 八万四千劫の間座り続けた 多くの沙弥たちは 仏が禅定より出られないのを知り 無量億の衆生のために 仏の無上の智慧を説いた それぞれの教えの座に上り この大乗経を説き さらに仏の滅度の後において 教えを説いて その仏の教化を助けた それぞれの沙弥たちの 導いたところの衆生の数は 六百万億の大河の砂の数ほどであった 仏の滅度の後 この教えを聞いた者たちは 生まれ変わっても その仏国土に 常にその師と共に生じるのである 

この十六の沙弥は 仏の道を行じて 今現に十方にあって悟りを成就した その時に教えを聞いた者たちは それぞれの諸仏のところにあって声聞となり 次第に仏の道を教えられている 

この私も 十六の沙弥の中にあって かつてあなたたちのために教えを説いた そのために方便の力をもって あなたたちを導いて仏の智慧に入らせるのである このような因縁をもって 今法華経を説いて あなたたちを仏の道に入らせるのである 謹んで恐れ驚くことがないようにせよ 

たとえば 険しく悪しき道が延々と続き 毒を持つ獣も多く また水も草もなく 人々が恐れる場所があったとする 無数千万の人々が この険しい道を過ぎようとしていた その道は非常に長く遠く 距離が測ることさえできないほどだった その時に一人の導師がいた 知識が豊富で智慧が明瞭であり 心が落ち着いていた 危険なところにあっても 人々を導き救うことができた しかし人々は疲労困憊して 導師に次のように言った 私たちは疲れきった ここから引き返したいと思う 導師は次のように思った この人々は憐れむべき者たちだ なぜここで引き返して 大いなる珍宝を失おうとしているのだ そして方便によって神通力を用いるべきだと考え 大きな城壁に囲まれた町を現わして 多くの建物を厳かに飾った 周りには園や林があり 川が流れ沐浴する池もあり 幾重にも階が重ねられた高い楼閣もあり そこには男女の人々が満ちていた このように仮の町を現わし終わって 人々を慰めて次のように言った 恐れることはない あなたたちがこの町に入るならば 思う存分楽しむがよい 多くの人々は この町に入って 大いに喜び みな心安らかに 命が助かったと思った 導師は人々がじゅうぶん休んだと知って 人々を集めて次のように言った あなたたちは前に進むべきである これは仮に現わされた町である あなたたちが疲労困憊して 途中で引き返そうとしているのを見て 方便の力をもって 仮にこの町を現わしたのだ あなたたちは今 勤めて精進して まさに宝のある所に行くべきである 

私もまたこのようである 私はすべての導師である この道を求める者たちが 途中で弱り果て 生死の煩悩の険しい道を乗り越えることができないのを見た このために方便の力をもって 休めるために涅槃を説いて あなたたちは苦しみを滅ぼし 到達すべきところに至ったと言ったのだ そしてすでに涅槃に至り みな阿羅漢となったことを知って 大衆を集めて 真実の教えを説いた 諸仏は方便の力をもって 三乗を説いたのだ ただ一仏乗のみあるのであり 休ませるために二乗を説くのだ 

今あなたたちに真実を説く あなたたちが得たと思っているものは 真実の悟りではない 仏の一切智のために まさに大いに精進する心を持つべきである あなたたちが一切智と 仏の十種類の力などによって 仏の教えを証し 仏のみが持つとされる三十二の姿を身につけるならば すなわちこれが真実の滅度である 諸仏の導師は 休めるために涅槃を説くのだ すでに休み終えたと知れば 仏の智慧に導き入れるのだ」(注3)

 

注1・この個所では、阿耨多羅三藐三菩提と一仏乗と滅度と涅槃という重要な言葉が繰り返されているので、あらためてこれらの言葉の意味を確認しておきたい。

阿耨多羅三藐三菩提とは、絶対的次元の究極的な悟りという意味であり、そこに至る道が一仏乗なのである。しかし、一仏乗とは、前にも書いたように、相対的な思考では知ることのできない絶対的な道であるので、この世においては方便として表わされる。したがって、阿耨多羅三藐三菩提と一仏乗には違いはない、と言わなければならない。ただ感覚的に、到達地点とそこに行く道という程度の違いである。

さらに、滅度とは、その阿耨多羅三藐三菩提に入ることである。絶対的次元に入れば、その身体も消えてなくなる。目に見えたり、人間の思考で知ったりすることのできるものは、すべて相対的なものなので、仏であっても如来であっても相対的なものである。したがって、仏が阿耨多羅三藐三菩提に入れば、その姿は消えてなくなる。それが滅度である。そして、その消えてなくなるという状態そのものを指して、涅槃と表現するのである。

歴史的釈迦の教えにおける涅槃は、煩悩が完全に消えた状態という意味であり、滅度とは仏が死ぬことである。そのため、このような大乗仏教における滅度と涅槃と、歴史的釈迦の滅度と涅槃との間に、ニュアンス的な違いは確かにあると言わざるを得ない。

注2・「町」 原本では「城」であるが、中国の城とは、城壁で囲まれた町を指し、ここでは完全に町という意味で使用されている。そのため、最初から町とした。

注3・『法華経』は、すべてではないが、ほとんどの箇所が、先に散文があり、続いてその内容を、偈をもって記すという形である。しかし、『法華経』の成立史からは、偈の部分が先に成立していて、その内容を散文に記して経典を成り立たせていると言われる。確かに今までの箇所は、偈の部分が非常に長くそして詳しく、その前に記されている散文の内容が簡潔である場合が多かった。しかしこの「化城喩品」の最後の偈は、非常に簡潔であり、散文の箇所を見事にまとめている。このことから、この箇所は、散文が先に成立して、その内容をまとめて偈が記されたと考えられる。