大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その9

開目抄 下

文永九年(1272)二月

五十一歳

(これよりは、『開目抄』の下となる)

 

また、今より諸大菩薩も梵天帝釈天・日月天・四天王なども、教主釈尊の御弟子となるのである。したがって、「見宝塔品」には、これらの大菩薩を仏は自らの弟子たちとしたために、「諸の大衆に告ぐ。私の滅度の後に、誰がよくこの経を護持し読誦するだろうか。今仏前において自ら誓いの言葉を説け」と宣言して語られたのである。また諸の大菩薩に対しては、「たとえば、大風が小樹の枝を吹くようだ」とあり、吉祥草が大風になびき、川の水が大海へ流れ込むように、仏に従って来たのであるが、霊鷲山での『法華経』の説法は、まだ日浅く夢のようであり、現実のものと思えなかったところに、迹門の証のために現われた宝塔の上に、さらに本門を説き起こす宝塔あって、十方の諸仏も集まり来て、みな私の分身だと語られ、その宝塔は虚空にあって、釈迦と多宝仏は座を並べ、それはまるで、太陽と月が、青天に並んで出ているようであった。人天の大衆は星のように集まっており、分身の諸仏は大地の上、宝樹の下の師子の床におられた。

華厳経』の蓮華蔵世界においては、十方の報仏、各々国々にいるのみであり、その仏国土の仏が、この娑婆世界に来て釈迦の分身だなどと名乗ることはない。それぞれの仏国土の仏は、他の仏国土に行くこともない。ただ、法慧菩薩などの大菩薩のみが互いにその法会に来たのである。『大日経』・『金剛頂経』などの八葉の九尊・三十七尊などは、大日如来の化身と見ることができるが、その化身は、三身円満の古仏ではない。『大品般若経』の千仏、『阿弥陀経』の六方の諸仏も、法会に来た仏ではない。『大集経』の来集の仏もまた、釈迦の分身ではない。『金光明経』の四方の四仏は化身仏である。総合的に見るならば、一切経の中に、各修各行の三身円満の諸仏を集めて、釈迦の分身だと説かれているものはない。『法華経』の「見宝塔品」における分身仏が集まった、ということは、「如来寿量品」が説かれるための序の意味がある。

悟りを開いてから四十年余りの釈尊は、一劫・十劫などの昔からの諸仏を集めて、自らの分身と説かれた。これはさすがに平等意趣(注:人々にわかりやすい見地に立って説くこと)にも似ず、非常に聴衆を驚かすことであった。この世で初めて悟りを開いた仏ならば、今まで教化した者たちが、十方の世界に充満するわけがなく、分身仏の徳を表わしても意味がない。天台大師は、「分身仏はすでに非常に多い。これによって、釈迦は仏となってから非常に長い歳月が経過していることが示されている」と述べて、大会衆の驚く心を記している。その上に地涌千界の大菩薩たちが大地より現われた。釈尊の第一の御弟子である普賢菩薩文殊菩薩たちにも似ておらず、『華厳経』・「方等経」・『般若経』そして、『法華経』の「見宝塔品」に記されているところの集まって来た大菩薩や、『大日経』などの金剛薩埵の十六の大菩薩たちも、この菩薩に対してみれば、猿の群れの中に帝釈天が来たようなものであり、山奥に住む人に公卿が交わっているようなものである。この世で釈迦の後を継ぐという弥勒菩薩ですら、なお困惑した。ましてや、それ以下の者たちはなおさらである。

この千世界の大菩薩の中に、四人の大聖がおられる。上行・無辺行・浄行・安立行である。この四人は、この『法華経』が説かれている虚空会と霊鷲山の諸大菩薩たちの眼も心も及ばない。『華厳経』の四菩薩、『大日経』の四菩薩、『金剛頂経』の十六大菩薩なども、この菩薩に対しては眼の悪い者が太陽を見るようであり、漁師が皇帝に向かうようである。太公などの中国の四聖人が一般大衆の中にいるようであり、商山の四皓(注:乱世を避けて、商山に隠遁した四人の賢者)が恵帝(注:前漢の第二代皇帝)に仕えるようなものである。巍々堂々として尊高である。釈迦仏・多宝仏・十方の分身を除いては、一切衆生の善知識として寄り頼むべきである。

弥勒菩薩は、心に次のように思った。私は仏の太子の時より三十歳の成道の時から、今の霊鷲山まで四十二年間、この世界の菩薩・十方世界より集まり来た諸大菩薩までみな知っている。また、十方の浄土・穢土にも、ある時は使いとして、ある時は遊戯して、その国々の大菩薩を見聞してきた。しかし、この大菩薩の御師はどのような仏であろうか。この釈迦仏・多宝仏・十方の分身の仏陀には、似ても似つかない仏であろう。雨が激しいことを見て竜が大きいことを知り、花が大きいことを見て池が深いことを知る。これらの大菩薩が来た国はどのような名であろうか。どのような仏から、どのような大いなる教えを習修されたのであろうか。このように思った弥勒菩薩は、あまりの不審さに声も出せないくらいだったが、仏の神通力によってであろうか、弥勒菩薩は、「この無量千万億の大衆の諸菩薩は、今まで見たことのない方々です。この諸の大威徳の精進の菩薩衆は、誰が教えを説き教化して成就させたのでしょうか。誰に従って初めて発心し、どのような仏法を褒め称えているのでしょうか。世尊よ。私は今まで、このようなことを見たことがありません。願はくは、その国土の名号を説き聞かせてください。私は常に諸国に遊戯していますが、このようなことは見たことがありません。私はこの中の一人も知りません。突然、地より現われ出ました。願はくはその因縁を説いてください」と言った。天台大師は、「釈迦が悟りを開いた道場から、この『法華経』の座に至るまで、十方の菩薩たちが仏のところに絶えず集まって来ていた。その数は数えきれないといっても、弥勒菩薩はその智力をもってすべて見て、すべて知っていた。しかし、この大菩薩の中においては、一人を知らなかった。しかし、弥勒菩薩自身は、十方に遊戯して諸仏に会って、その国の大衆にも快く知られている、というのである」と言っている。また、妙楽大師は、「智人はこれから起こることを知り、蛇は蛇のことを知る」と言っている。この文の解釈は明らかである。つまり、最初の成道より今まで、この国土ばかりではなく、十方の国土でも、これらの菩薩を見たこともなく聞いたことがないと言うことである。

仏は、この疑問に次のように答えられた。「阿逸多(あいった・弥勒菩薩の別名)よ。あなたたちが昔よりまだ見たことのない者たちは、私がこの娑婆世界において、阿耨多羅三藐三菩提を得た後に、この諸菩薩を教化し示し導き、その心を調伏して、道意を発こさせたのだ」。また、「私は伽耶城の菩提樹の下において、坐って最正覚を成就することができ、無上の法輪を転じ、そしてこの者たちを教化して、初めて道心を発こさせたのだ。今はこの者たちはみな不退の位にある。このように、私は久遠の昔から、これらの者を教化したのだ」と語られた。

この答えに対して、弥勒菩薩などの大菩薩は、大いに疑いを持った。『華厳経』の時は、法慧菩薩などの無量の大菩薩が集まった。その時、この人々はどのような方々かと思えば、仏は、私の善知識だと語られたので、そのようなこともあるのか、と納得した。その後、大宝坊(注・『大集経』が説かれた場所)や、白鷺池(注:『大品般若経』が説かれた場所)などに集まった大菩薩も同様であった。しかし、この大菩薩は、彼らには似ても似つかない姿である。これはきっと過去世における釈尊御師匠などではないか、と思っているところに、「私が初めて道心を発こさせた」と、未熟な段階の者たちを教化して弟子としたとおっしゃるので、これは大いなる疑問である。日本の聖徳太子は人王第三十二代用明天皇の御子なり。御年六歳の時、百済・高麗・唐土より老人たちが渡って来たところ、その六歳の太子が、彼らは私の弟子だとおっしゃり、その老人たちもまた合掌して私の師だと言ったというが、不思議なことである。外典には、ある者が道を歩いていたが、道の横に三十歳ばかりの者が、八十歳ばかりの老人を捕まえて打っていた。どうしたのだと問えば、この老人は私の子だと言った、という話があるが、これにも似ている。

このため、弥勒菩薩たちは疑って言った。「世尊よ。如来は太子であられた時、釈氏の宮を出て伽耶城の近くの道場に坐って阿耨多羅三藐三菩提を成就されました。その時から四十年余りが過ぎました。世尊よ。どうしてこのような短い期間において、このような大いなる仏事をなさいましたか」。一切の菩薩も、最初の『華厳経』の時から四十年余り、衆生を代表して、さまざまな疑いを起こして、それを解決することによって、一切衆生の疑いを晴らしてきたが、その中でも、この疑いこそ第一の疑いであった。『無量義経』の大荘厳などの八万の菩薩たちが、それまでの四十年余りの教えが、段階的に悟りに向かって行くものであったのが、この時の教えが、すぐさま最高の悟りを得られるという教えになったことに対して抱いた疑問さえ超越するものである。また、『観無量寿経』には次のようにある。韋提希夫人の子の阿闍世王が、提婆達多に騙されて、父の王を幽閉して殺し、さらに母を殺そうとしたが、耆婆と月光という大臣に止められて、母を解放した。夫人は釈迦に会って、第一に、「私は過去世にどのような罪があって、あのような悪い息子を産んだのでしょうか。世尊よ。またどのような因縁があって、提婆達多は仏の親族なのでしょうか」と言った。この疑いの中に、「世尊よ。またどのような因縁が」と疑ったことは一大事である。転輪聖王は敵と共に生まれない。帝釈天は鬼と共にはいない。仏は無量劫の慈悲者である。どうして、大怨敵と共にいらっしゃるのだろうか。それでは、かえって仏ではないのだろうか、と疑いが生じる。しかし、仏は答えられなかった。それでは、この『観無量寿経』を読誦する人は、『法華経』の「提婆達多品」を読まない限り、その疑いは無駄になってしまうだろう。『大涅槃経』の迦葉菩薩の三十六の質問もこれには及ばない。そうであるならば、仏はこの疑いを晴らさなければ、一代の聖教は泡となってしまうようなものである。一切衆生は疑いの網にかかってしまうのである。

ここに、「如来寿量品」が大切である意味がある。その後、仏は「如来寿量品」において次のように語られた。「一切世間の天人および阿修羅はみな、今の釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出て伽耶城の近くの道場に坐って、阿耨多羅三藐三菩提を得たと思っている」。この経文は、最初の寂滅道場より、終わりは『法華経』の「安楽行品」に至るまでのことについて、一切の大菩薩たちが知っていることがあげられているのである。続いて、「しかし善き男子たちよ。私は実に成仏してから今まで、無量無辺百千万億那由他劫が経過しているのである」と語られた。この文は、『華厳経』の三処の「始成正覚」、『阿含経』にある「初成」、『浄名経』の「始坐仏樹」、『大集経』にいう「始十六年」、『大日経』の「我昔坐道場」、『仁王経』の「二十九年」、『無量義経』の「我先道場」、『法華経』の「方便品」にいう「我始坐道場」などの言葉を、この一言ですべて大虚妄だと破る文である。

(つづく)