大乗経典と論書の現代語訳と解説

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『法華経』現代語訳と解説 その21

法華経』現代語訳と解説 その21

 

妙法蓮華経五百弟子受記品第八

 

その時に富楼那弥多羅尼子(ふるなみたらにし・注1)は、仏からこの智慧と方便について詳しく説かれた説法を聞き、さらに、多くの大弟子に、阿耨多羅三藐三菩提を得るという記が授けられたこと、また前世の因縁を聞き、また諸仏が大いなる自在の神通力を持つことを聞き、未曾有のことを得て踊り上がるほど喜び、即座に立って仏の前に進み、仏の足を頭につけて礼拝し、片隅に座って仏の顔を目をそらさずに見上げ、次のように思った。「世尊は不思議な力をお持ちで、その行ないは非常に優れている。世間にいる人々の能力の違いに従って、方便の知見を用いて教えを説かれ、衆生のあらゆる貪りや執着を取り除かれる。私たちは仏の功徳について、言葉をもって表現することができない。ただ仏と世尊のみ、よく私たちの心の深いところの本当の願いをご存じである」。

その時に仏は、多くの僧侶たちに次のように語られた。

「あなたたちは、この富楼那弥多羅尼子を見るか。私は、説法する人の中で、彼が最も優れていると常に賞賛して、また常に彼の多くの功徳を讃嘆している。よく精進して、私の教えを守り述べ伝え、出家者、在家者を問わず、教え導いて共に喜び、仏の正しい教えをよく身につけて解釈し、大いに清らかな行ないをする者たちを導いている。如来以外は、彼ほど優れて教えを説く者はいない。

富楼那は、ただ私の教えを保って、述べ伝えているだけだと、あなたたちは思ってはならない。彼はまた、九十億の諸仏の所においても、仏の正しい教えを保ち、述べ伝え、その説法をする人の中で、やはり最も優れていたのだ。また諸仏が説くところの空の教えを明瞭に理解し、教えを理解してそれを自在に正しく伝える智慧を得て、常に明らかに、そして清らかに教えを説いて疑惑を持つことがなく、菩薩の持つ神通力を得て、その国土での寿命が尽きるまで、常に清らかな行ないを修習した。その仏国土の人々は、みな、彼こそ真実の声聞だと思った。

しかも、富楼那はこの方便をもって、無量百千の衆生を導き、また無量阿僧祇の多くの人々を教化し、阿耨多羅三藐三菩提を得るよう導いた。仏の国土を清めるために、常に仏に従った行ないをもって、衆生を教化した。

多くの僧侶たちよ。富楼那はまた、過去七仏(注2)の説法人の中においても第一であった。今の私のもとにいる説法人の中においても第一である。そして、この劫(注3)の中で来るべき諸仏の説法人の中においても、また第一であり、みな仏の教えを守り、それを助けて述べ伝えるだろう。また未来においても、数えきれないほどの諸仏の教えを守り助け述べ伝え、多くの衆生を教化し導き、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こさせるであろう。仏の国土を清めるために、常に努めて精進し、衆生を教化するであろう。

富楼那は、次第に菩薩の道を修習して、無量阿僧祇劫の後、まさにこの国土において、阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。その名を法明如来(ほうみょうにょらい)といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達しており、世間を理解しており、無上のお方であり、人を良く導く方であり、天と人との師であり、仏であり、世尊である。その仏は大河の砂の数ほどの世界を一つの仏国土とし、その地は七宝でできており、またその地は手のひらのように平らであり、山や丘陵や谷や溝などはない。また七宝でできた建物はその中に満ち、諸天の宮殿は空中にあり、人と天の神々は互いに見ることができる。

あらゆる悪しき道はなく、また女人はなく、すべての衆生は、その前世からの業によって生じた者たちで、婬欲はない。彼らは大いなる神通力を得て、身より光明を発し、飛行も自由自在である。志の念は堅固であり、精進し智慧あって、みな金色であって、三十二種類の優れた形をもって、自ら荘厳な姿としている。その国の衆生は、常に一日に二食であって、ひとつは法喜食(ほうきじき)であり、もうひとつは禅悦食(せんねつじき)である(注4)。

また、無量阿僧祇千万億那由他の多くの菩薩たちがいる。大いなる神通力と何によっても妨げられない智慧を得て、よく衆生を教化する。また声聞たちも、数えることはできないほどである。みな六神通・三明・八解脱(注5)を具足している。

その仏国土は、このような無量の功徳があり、荘厳な国土である。その劫を宝明(ほうみょう)といい、国を善浄(ぜんじょう)という。その仏の寿命は無量阿僧祇劫であり、その教えが保たれる期間も、非常に長い。また、その仏が滅度した後は、金銀あらゆる宝石の塔廟が立てられ、その国に満ちるであろう」。

その時、世尊は重ねてこの内容を述べようと、偈をもって次のように語った。

多くの僧侶たちよ よく聞くがよい この仏の弟子の道は 方便を学んだために 常識的な思考では理解することはできないのだ ある人々が 劣った教えを願って 大いなる智慧を求めようともしないことを知るならば このような人のために 多くの菩薩たちは 声聞や縁覚となって 無数の方便をもって 多くの衆生を教化して 私は声聞だ 仏の道を遠く離れていると説く このように無量の衆生を悟りに導き みなすべて成就することを得させる 小さなことを願って 熱心ではないと言っても 次第に仏になるよう導く 内側に菩薩の行を秘して 外側では声聞の姿を現わす 少なく願って生死を離れても 実際には自ら仏の国土を清める 人々に貪欲と怒りと無知の三つの毒があると示し また邪見の姿を知らせる 私の弟子はこのように 方便をもって衆生を悟りに導く もし私がいきなり このようにあらゆる形に姿を変えて説くことを明らかにすれば これを聞く衆生は心に疑いを持つであろう 

この富楼那は 昔の千億の仏に仕え 仏の道を勤めて行ない 諸仏の教えを守り述べ伝え 無上の智慧を求めたため 諸仏の所において 弟子の上座にあり 多く聞き智慧あって 恐れなく教えを説き 衆生を喜ばせ 未だかつて疲れたり怠けたりせず 仏のわざを助けた すでに大いなる神通力を得て 妨げのない智慧を持ち 衆生の能力の違いを知り 常に清らかな教えを説き こうして正しい教えを述べ伝え 千億の衆生を教え 大乗の教えに入らせ 自ら仏の国土を清め 未来にもまた 無量無数の仏を供養し 正しい教えを守り述べ伝え また自ら仏の国土を清め 常に多くの方便をもって 教えを恐れなく説き 数えることのできないほどの衆生を悟りに導き すべてを知る智慧を成就する そして多くの如来を供養し 教えの宝の蔵を守り その後に仏になるであろう 名を法明という その国を善浄と名づけ その国は多くの宝で覆われている その仏の出現する劫を宝明という 菩薩たちは非常に多く その数は無量億であり みな大いなる神通力を持ち 威徳の力を備え それらはその国土に満ちる また声聞は無数であり みな神通力を得て あらゆる煩悩から解脱している 彼らがその国土においては僧侶である その国の多くの衆生は 婬欲なく 純粋にその業によって生まれたのであり 姿は整っており荘厳である 純一に変化生にして 相を具し身を荘厳せん 食べ物は教えを喜ぶことと禅定を楽しむことであり 他の食事はする必要はない 女人はなく また悪しき世界のものたちもない 富楼那はこのように 功徳を満たしており その浄土の 聖なる者たちも多い このことを私は今略して説いた」

その時、心の自由を得ている千二百人の阿羅漢は、次のように思った。

「私たちは、このような今までになかったことを知って、喜びに満たされている。もし、世尊が他の弟子たちへ授記されたように、私たちに対してもそうしてくださるなら、さらに素晴らしいことではないか」。

仏は、このような彼らの心を知られ、摩詞迦葉に次のように語られた。

「今、私の目の前にいるこの千二百人の阿羅漢に、私は彼らが阿耨多羅三藐三菩提を得るという記を授けよう。この大衆の中にいる私の大いなる弟子であり僧侶である憍陳如(きょうじんにょ)は、まさに六万二千億の仏を供養し、その後に仏になるであろう。名は、普明(ふみょう)如来といい、供養を受けるべき方であり、遍く正しい知識を持ち、勝れた所行を具え、善い所に到達しており、世間を理解しており、無上のお方であり、人を良く導く方であり、天と人との師であり、仏であり、世尊である。

また、ここにいる五百人の阿羅漢である優楼頻螺迦葉(うるびんらかしょう)、伽耶迦葉(がやかしょう)、那提迦葉(なだいかしょう)、迦留陀夷(かるだい)、優陀夷(うだい)、阿ぬ楼駄(あぬるだ・ぬに相当する漢字出力不可)、離婆多(りはた)、劫賓那(こうひんな)、薄拘羅(はくら)、周陀(しゅだ)、莎伽陀(しゃかだら)たちは、みなまさに、阿耨多羅三藐三菩提を得るであろう。やはりその名も普明如来である(注6)」。

その時、世尊は再びこの内容を述べようと、偈をもって次のように語った。

「ここにいる僧侶である憍陳如は まさに無量の仏たちに仕え 阿僧祇劫の後 この上ない悟りを得るであろう 常に大いなる光明を放ち さまざまな神通力を得て その名はあらゆるところに聞こえ すべての者たちが敬う仏として 常に最高の道を説く その名を普明という その国土は清らかであり 勇猛な菩薩たちがいる その菩薩たちは妙なる楼閣に上り あらゆる国に行き交い この上ない供養のものをもって 諸仏にささげ その供養をささげた後 心に大いなる歓喜をいだいて 瞬時にもとの国に帰るという神通力がある その仏の寿命は六万劫である 正法の期間は その仏の寿命の倍である 像法もまた仏の寿命の倍である そして仏の教えが消える時が来て 天も人も憂うのである 

またこの五百人の僧侶たちも 次第に仏になるであろう 名は同じく普明である 順次に記を授けよう 私が滅度した後に 某甲(それがし・注7)はまさに仏になるであろう その仏が教化する期間は 今の私のようであろう 国土の荘厳で清らかなこと およびさまざまな神通力 菩薩や声聞たち 正法および像法のこと 寿命の劫の多少などについては みなすでに説いた通りである 

摩訶迦葉よ あなたはすでに 心が自在な五百人の者について知った 他の多く声聞たちもまた同じである この場にいない者たちに対しては あなたが説くべきである」

この時、五百人の阿羅漢たちは、仏の前において記を授かり、躍り上がるほど喜んだ。すぐに座より立ち上がって仏の前に行き、頭を仏の足に当てて礼拝し、今までの過ちを悔いて自らを責めた(注8)。

「世尊よ。私たちは『すでに究極の滅度を得たのだ』と常に思っていました。しかし今、自分たちは智慧のない者だった、ということを知りました。なぜなら、私たちは如来智慧を得ていなかったからです。それにもかかわらず、自ら劣った智慧をもって足りているとしていたのです。

世尊よ。たとえば次のようなことです。ある人がいて、親友の家に行き、酒に酔って寝てしまいました。その時、その親友は公の仕事があって出かけねばならず、非常に高価な宝珠を彼に与えるため、彼の衣の裏にその宝珠を縫い付け、そのまま去って行きました。その人は酔って寝ていて、すべてを知りませんでした。やがてその人はそのまま起きて、他の国に行きました。そして、衣食のためにとても苦労しました。もし少しでも得るものがあれば、それで満足していました。その後、その親友がその人に会い、その姿を見て次のように言いました。『なんていうことだ。なぜ衣食のためにこのようなことをしているのだ。私は昔、あなたが楽に生活できるように、あの時とても高価な宝珠を、あなたの衣の裏に縫い付けたのだ。今もあるはずだ。しかしあなたはそれを知らずに、生活のために苦労するとは、とても愚かなことではないか。まさに今、あなたはその宝をもって手広く商売をして、不足のないようにすべきだ』(注9)。

仏もこのようであられます。仏が菩薩であったとき、私たちを教化され、阿耨多羅三藐三菩提を求める心を起こされました。しかし、私たちはそれを忘れてしまい、知ることもなく、思い出すこともありませんでした。すでに阿羅漢の道を得て、自ら滅度したと言い、まるで貧しい人が生活に困窮しているように、少しを得て満足していました。ところが、その阿耨多羅三藐三菩提を求める願いは、消え去ってはいませんでした。今、世尊は私たちを目覚めさせてくださり、次のようにおっしゃいました。『僧侶たちよ。あなたたちが得たものは、究極の滅度ではない。私は遠い昔からあなたたちに仏の善根を植えさせていたが、方便をもって涅槃を示したのだ。しかしあなたたちは、これを真実の滅度を得たと思ったのだ』。世尊よ。私は今知りました。私は真実の菩薩です。阿耨多羅三藐三菩提を得るという記を授かることができました。未曾有のことを得て、大いに喜んでいます」。

この時、阿若憍陳如たちは、重ねてこの内容を述べようと、偈をもって次のように語った。

「私たちは この上ない安穏の授記の声を聞き 未曾有のことを得て喜び 無量の智慧を持たれる仏を礼拝する 今世尊の前において 自ら多くの過ちを悔い 無量の仏の宝において 少しの涅槃の分を得て 無智で愚かな人のように これで自ら満足していた たとえば貧しく困窮している人がいて 親友の家に行ったとする その家は非常に富んでいて 豊かな食事を施し 非常に高価な宝珠を 彼の衣の裏に縫い付けて与え 黙って去った この人は寝ていて気付かなかった やがてこの人は起き上がり 他の国に行って 相変わらず大変苦労しながら衣食を求め 少しのものを得て満足していた 衣の裏に非常に高価な宝珠があることも知らず それ以上の生活を願わなかった その珠を与えた親友は 後にこの貧しい人を見て心苦しく思い この人を責めて 衣に縫い付けた珠に気づかせた この貧しい人はこの珠を見て大いに喜び それからは富む者となり財物も持ち 何ら不自由のない生活をした まさに私たちもこのようなものだ 世尊は私たちを長い間教化せられ この上ない願いを植えられた 私たちは無智だったため 気付くことなく知らなかった 少しの涅槃の分を得て 自ら満足してそれ以上を求めなかった 今仏は私たちを目覚めさせ それは真実の滅度ではない 仏のこの上ない智慧を得てこそ 真実の滅度だと言うのだとおっしゃった 今私は仏に従って 荘厳なる授記について聞き そして順次にそれを受けることを聞いて 身も心も喜んでいる」

 

注1・富楼那と略称される。富楼那は、説法第一として知られる弟子である。さらに、大乗仏教の『維摩経(ゆいまきょう)』においては、この歴史的釈迦の大弟子たちの伝承に基づいて、釈迦の十大弟子の名前が挙げられている。しかしこの『法華経』は、必ずしもその十大弟子ということを意識して書かれているとは思われず、十大弟子の名はすべてそろっていない。これは、『法華経』は『維摩経』よりもさらに初期に属する経典であることによると考えられる。

注2・「過去七仏」 釈迦仏を含めて、過去に現われた仏たちを指す。毘婆尸仏尸棄仏毘舎浮仏・倶留孫仏・倶那含牟尼仏迦葉仏釈迦牟尼仏

注3・「この劫」 大乗仏教においては、一つの国土における時代を大劫というが、さらに大劫は、生成過程の成劫(じょうこう)、存続中である住劫(じゅうこう)、破壊される壊劫(えこう)、国土が存在しない空劫(くうこう)の4つに分かれる。そしてそれぞれがまた細かく分かれる。ここで「この劫」と訳した原語は、「賢劫(けんごう)」であり、この中では住劫の中に位置する。

注4・「法喜食」とは、教えを喜ぶことを食べ物とすることであり、「禅悦食」とは、禅定を楽しむことを食べ物とすることである。

注5・「八解脱」 三明と六神通と八解脱は、声聞が悟りを開いて阿羅漢になるならば得るとされる能力である。八解脱は、禅定の段階を、浅い段階から深い段階へと八つに分けたもの。

注6・記を授かる人々の範囲が、釈迦の大弟子たちから始まって、その他の弟子に及んでいる。しかし、仏となった時の名前が、今までは各人違っていたのが、ここにきて、普明如来という一つの名前に統一されてしまった。これはもちろん、各人の仏の名をあげていくと、非常に多くの紙面を要するからである。ここはとても現実的な理由となっている。しかし、仏は究極的には一つなのであり、名前が違っていても同じであっても、本質的に違いはないのである。仏はさらに滅度という、仏自体の存在が消えてなくなる時が来る。そのことを考えても、名前が同じであろうが、違っていようが、大差ないことが明らかである。

注7・「某甲」 これは名前が省略されていることを表わす。

注8・「今までの過ちを悔いて自らを責めた」とあるが、これは「懺悔した」ということではない。つまり、小乗仏教の人々が大乗仏教の教えを受けて、自分たちがやってきたことは不足だらけのことであった、ということに気づいたということである。

注9・この話は、「衣裏繋珠(えりけいじゅ)の喩え」と呼ばれるものである。言わんとするところは、とてもわかりやすい。しかし、内容的にはかなり非現実的な話だと言わざるを得ない。そもそも、そのような珠が縫い付けられたなら、すぐに違和感を感じて気付くであろうし、また気付かなかったとしたら、服も着替えたり失ったりして、長い間、同じ服を着たまま、再びその親友に会うなどというはあり得ない。その親友も冷静に「それは今でもそこにある」などとは言うわけがない。しかし『法華経』を読むにあたっては、このような箇所は多いのであるから、あまり違和感に振り回されず、言わんとしているところを読み取って、次に進んで行くしかないのである。