大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

守護国家論 現代語訳 01

守護国家論 現代語訳 01

 

守護国家論   

正元元年(1259)  三十八歳

 

(注:『守護国家論』は、日蓮上人の初期の代表的な著作であり、これをもとに、翌年、『立正安国論』が記されて、幕府に奏上された。しかし、それをきっかけに、日蓮上人に対する迫害が激しくなり、さらに、次第に元寇の危機が現実となっていく中、上人の思想表現も、当然それに対応したものとなっていった。しかし、人を動かすのは、その根底にある思想である。むしろ、日蓮上人の生涯において、まだ比較的平穏が保たれている初期の著作にこそ、その思想が明らかに、そして読みやすい形で表わされているのは間違いない。したがって、この書を読むことによって、日蓮上人の根底にある動かない土台を知ることができるのである)。

 

序章

(注:この序章という見出しを含め、以下、第一章・第一節などは便宜上のものであり、原文にはない)

 

じゅうぶん、数えきれないほどの悪しき世界のどこかに生まれて来るはずのところ、それを免れて、私たちは奇しくもこの日本に生を受けたのではないか。しかし、せっかく日本に生まれて来ても、結局、多くの人々は死後、数えきれないほどの悪しき世界に堕ちてしまうことは疑いがない。

さらに、この生の後に、悪しき世界に堕ちてしまう理由は、今の日本においては、ひとつやふたつではない。妻子や親族などを思うため、あるいは、殺生や悪しき行ないによる重い業のため、あるいは、国主となっても民衆の歎きを知らないため、あるいは、仏の教えについての正しい解釈や誤った解釈を知らないため、あるいは、間違った悪い師を信じてしまうためである。

この中でも、この世の善悪については、目の前にあることなので、智者ではなくてもわかるものである。しかし、仏の教えの正しい解釈や誤った解釈や、誰が良い師であるか悪い師であるか、ということは、悟りを開いたとされる聖人でさえ、それを知らない。ましてや、この悪しき世の一般人はなおさらである。今や、釈迦仏はすでに昔にインドで亡くなっており、その教えがこの東の国に伝えられて以来、龍樹や天台大師や妙楽大師や伝教大師などの方々が残された智慧の灯は日々減じて、仏法の流れの月は濁って行く。真理の経典である『法華経』に対して迷ってしまっている学者たちは、月に雲を掛けているようなものであり、『法華経』以外の経典に執着している解釈家たちは、『法華経』の珠を砕いて、他の経典と同じような石としてしまっている。

インドではない中国の学者たちに誤りが入り込まないわけがないのだから、まして辺境の地である日本の学者たちの誤りは多く、実が結ばれることは少ないのは当然である。したがって、その誤った教えを学ぶ人たちは、龍の鱗の数よりも多いが、正しく学んで悟る人は、龍の角の数より稀である。

その理由は、『法華経』以外の経典を拠り所としているためであり、あるいは、時機不相応の教えによるためであり、あるいは、聖なる教えと俗の教えを分別しないためであり、あるいは、仮の教えである権教を真実の教えである実教とするためであり、あるいは、教えの高下を知らないためである。このように、真理を知らない者の習性として、仏の教えを学んでいても、かえって生死の業を増してしまうことの理由はひとつやふたつではない。

さらに具体的に言えば、少し前、誤った教えを持つ法然上人が出て、この末の世の愚かな人々に向けて、『選択本願念仏集』一巻を著わした。中国の浄土教の祖となる曇鸞道綽や善導の三師によって、釈迦一代の教えを二門に分け、真実の経典である実経を、仮の教えの権経だと記し、わが法華真言の正しい道を閉じて『浄土三部経』の曲がった道を開いた。また、『浄土三部経』の正しい解釈にも従わず、仮の教えの権教と真実の教えの実教を正しく理解しない教えを形成し、永遠に龍樹や天台大師や妙楽大師や伝教大師の四聖人の種を断って、阿鼻地獄の底に人々を落とし込む教えを広めている。

(注:ここで日蓮上人は、『浄土三部経』の教え自体が誤っていると言っているのではなく、『法華経』(実教・実経)を中心として、それらの経典(権教・権経)を正しく解釈すべきだということを主張していることに注目である。したがって、阿弥陀仏に対する信仰が誤っていると言っているのではないのである)。

しかしこの誤った教えに、世の多くの人々は従ってしまっている。それはたとえば、大風が小樹の枝をなびかせあるようであり、その門弟がその師を尊敬することは、多くの天が帝釈天を敬うようなものである。一方、この誤った教義を批判するために、また多くの書物が著わされたのも確かである。園城寺の公胤上人は『浄土決疑抄』を著わし、天台宗の定照上人は『弾選択』を著わし、華厳宗明恵上人は『摧邪輪(ざいじゃりん)』を著わした。これらの書を著わした人たちは、みな徳の高い僧として天下に知られているといっても、おそらくはまだ、『選択集』がどのように正しい教えを破ってしまっているか、ということの根源を表わしていないと思われ、かえって、これによって悪しき教えが広まってしまったのである。それはたとえば、ひどい旱魃の時に小雨があれば、かえって草木が枯れ、弱い兵を敵に向かわせば、敵兵はかえって勢いを増すようなものである。

私はこれらのことを嘆く間、一巻の書を著わして『選択集』の誤った教えの根源を明らかにし、その題名を『守護国家論』とした。願はくは、すべての僧侶や在家の人々は、一時の世の流行に流されるのではなく、永遠の良い苗の種を蒔くべきである。ここでは、経典や論書をもって、正しい教えと誤った教えを明らかにする。信じるか排除するかは、仏の教えに任せて、自らの考えを述べるのではない。

全体は、七門に分ける。第一は、如来の経典の教えによって、権教と実教の二教を定め、第二は、正法と像法と末法の三つの時代において、教えがどのように発展荒廃するかを明らかにし、第三は、『選択集』の誤りの原因を明らかにし、第四は、誤った教えを広める者を退ける証拠の文を出し、第五は、正しい教えに導く善知識の人、ならびに真実の教えにはめぐり会うことは難しいことを述べ、第六は、究極的な教えである『法華経』と、最後の経典である『涅槃経』の教えを拠り所とする修行者の心得を明らかにし、第七は問答形式で述べる。