大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その5

法相宗という宗派は、仏滅後九百年、インドに無著菩薩という大論師がおり、夜は都率天(とそつてん)の内院に上り、弥勒菩薩に対面して一代聖教の不審を開き、昼は阿輸舎国(あしゅしゃこく・西域にあったカニャークプジャ国)において法相の法門(唯識)を広めた。その弟子に世親・護法・難陀・戒賢などの大論師がいる。戒日大王(かいじつだいおう・ハルシャヴァルダナ。仏教戯曲ナーガーナンダの著者)は頭を下げて、周囲の国も彼に帰依した。中国の玄奘三蔵月氏国に至って十七年、インドの三十余国を見聞きして、他の諸宗は捨てて、この宗を中国に伝えて賢王である太宗皇帝に授けた。神肪・嘉尚・普光・基などを弟子として、大慈恩寺を中心として、三百六十ヶ国余りに教えを広めた。日本には人王三十七代孝徳天皇の時に、道慈・道昭などが伝え、山階寺を建てて三国第一の宗派となった。

この宗派の人は私に次のように言うのである。

最初の『華厳経』より最後の『法華経』『涅槃経』に至るまで、無性有情(むしょううじょう・仏性のない者)と決定性二乗(けつじょうしょうにじょう・最初から声聞と縁覚が決定している者)は永遠に仏になれないと説く。仏の言語に二言ないわけであるから、一度永遠に仏になれないと定められたならば、太陽や月が地に落ちたとしても、大地がひっくり返ったとしても、それは変わらない。したがって、『法華経』・『涅槃経』の中にも、それまでの経典で成仏できないとされた無性有情や決定性に対して成仏するとは説かれていない。まず眼を閉じて考えて見よ。『法華経』・『涅槃経』に、決定性・無性有情がまさしく仏となるならば、無著・世親ほどの大論師および玄奘・慈恩大師ほどの三蔵法師がこれを見逃しているのだろうか。これを記していないのだろうか。信じていても伝えなかったのか。弥勒菩薩に問わなかったのか。あなたは『法華経』の経文に依っているようだが、天台大師・妙楽大師・伝教大師の偏見を信受して、その誤った見解をもって経文を見るために、以前の経典と『法華経』は水と火のように異なっていると見えるのだ。華厳宗真言宗は、法相宗三論宗に比べものにならないほどの勝れた宗派である。二乗作仏・久遠実成は『法華経』に限らず、『華厳経』・『大日経』にも明らかに説かれている。華厳宗の杜順・智厳・法蔵・澄観、真言宗の善無畏・金剛智・不空などは、天台大師や伝教大師に比べることのできないほどの高位の人であり、その上、善無畏などは大日如来より一糸乱れぬ相承がある。これらの仏菩薩の権化のような人に、どうして誤りがあるだろうか。したがって、『華厳経』には、「釈迦は仏道を成就して、不可思議劫(測ることができないほどの長い歳月)を経る」などとある。『大日経』には、「私はすべての本初である」などとある。どうして、ただ久遠実成が『法華経』の「如来寿量品」に限ったことであろうか。たとえば、井戸の底の蛙が大海を見ず、山奥に住む人が洛中を知らないようなものである。あなたは、ただ「如来寿量品」の一品だけを見て、『華厳経』・『大日経』などの諸経典を知らないのか。その上、月氏国・中国・新羅百済などにも同じように、二乗作仏・久遠実成は『法華経』だけに限って記されているという人はいるのか。

以上が法相宗の人の言い分である。

八年間説かれた『法華経』は、その前の四十年余りで説かれた諸経典とは異なっていると言っても、また、先と後では、後のものが勝れているという常識的判断につくべきだと言っても、なお以前の諸経典が強いように思える。また、ただ世間の常識だけでもそうである上、仏の滅後における論師や人師の多くは以前の経典を支持しているのである。これほど『法華経』は信じ難い上、世も末になれば、聖賢は次第にいなくなり、迷う者は次第に多くなる。世間の些細なことですら誤りが多い。ましてや、出家の深い教えに誤りがないことがあろうか。小乗や大乗の聡明な人であっても、なお大乗経典や小乗経典を誤って理解している。無垢友(むくう)や摩沓婆(まとうば・二人とも5、6世紀の小乗の論師)がいくら優れていると言っても、権実二教を論じることはなかった。正法一千年の内は仏の在世から離れておらず、月氏国の内でのことであって、それでもすでにこのようである。ましてや中国や日本などでは、国も違えば言葉も違い、人の能力も劣っている。寿命も短く、貪瞋癡も倍増している。仏が世を去って長い歳月が過ぎている。仏の経典の解釈がみな誤っている。いったい誰の智慧による解釈が正しいのだろうか。仏は『涅槃経』において「末法においては、正しく教えを受け継ぐ者は爪の上の土、謗法の者は十方の国土の土のようである」と語られている。『法滅尽経』には、「謗法の者は大河の砂の数ほど多く、正しく教えを受け継ぐ者は一二の小石のようだ」と記されている。千年・五百年に一人であっても、正しく教えを受け継ぐ者はいるだろうか。それどころか、世間の罪によって悪道に堕ちる者は、まだ爪の上の土だとしても、誤った仏法の解釈によって悪道に堕ちる者は十方の国土の土のように多いではないだろうか。俗人より僧侶、女人より尼僧が多く悪道に堕ちるであろう。

ここで日蓮は自分自身のことを考える。世はすでに末法の時代に入って二百年余り過ぎた時、田舎の漁村に生を受けた。その上身分など最低であり、その上貧しい身であった。私が六道輪廻する間、人天の大王と生まれて、万民を動かすことは、まるで大風が小さな木の枝を吹くような時があったとしても、仏にはならなかった(注:人として生まれたこと自体が、過去世に仏とならなかった証拠である。ここで日蓮が、神通力などを用いて、自分の過去世のことを思い出していると解釈しては、あまりにも人物崇拝が過ぎる。たとえば、の話である)。大乗小乗の外凡(げぼん・まだ悟りを開いていない者)や内凡(ないぼん・ある程度の悟りを得た者)の者であったが、修行して大菩薩にまでなり、一劫二劫無量劫を経て菩薩の行を成就し、すでに不退(ふたい・二度と修行が後退しないという意味)の位に入ったとしても、強く盛んな悪縁に引っ張られて仏にはならなかった。知ることはできないことだとは言え、大通智勝如来が『法華経』を説かれた世に生まれ、釈迦の在世でその『法華経』を受ける縁をいただきながらも、そこから漏れてしまったのだろうか。それから、気の遠くなるほどの歳月である五百塵点劫の間、転生を繰り返しながら今に至るのだろうか。

この世においては、この『法華経』を実践することによって、世の悪縁・王難・外道の難・小乗の教えにある者からの難などがあり、それらは相手が間違っていることが明らかなので忍耐できたとしても、さらに権大乗(方便の大乗の教え)・実大乗(真実の大乗の教え)の経典を究めたと言われる道綽・善導・法然のような、悪魔がその身に入った者の教えに敵対しなければならない。彼らは、一方では確かに『法華経』は優れた経典だと言っているが、今の末法の世では人々の能力が劣っているので、『法華経』の理法は深いが、それによって解脱する人はいないとして、未だに一人も悟っていない、千人いても一人も悟れないと偽りを言っている。そのような教えを受け入れてしまっては、無量の転生の間、大河の砂の数ほどだまされ続け、大乗であっても権経に堕ち、権経より小乗経に堕ち、さらに外道外典に堕ちてしまい、挙句の果てには悪道に堕ちてしまうと、深くこのことを知ったのである。日本でこのことを知っている者は、ただ日蓮一人である。

しかし、このことを一言でも言い出すならば、父母・兄弟・師匠に対しても、国主の王難が必ず降りかかってしまうであろう。そうかと言って、言わなければ慈悲のない者になってしまうと思い、『法華経』・『涅槃経』などの経文に照らし合わせて見ると、言わなければ今生は無事であっても、後生は必ず無間地獄に堕ちることを知る。また言うならば、三障四魔(さんしょうしま・仏道を進むにあたって起るべきあらゆる妨げ)が必ず競い起ることを知る。どちらを選ぶかと言えば、もちろん言う方を選ぶのである。

国主からの難などで退くくらいならば、最初から言わない方がいいと思い、さらに、『法華経』の「見宝塔品」の六難九易(『法華経』を保つことがいかに難しいかを、常識的には非常に困難な事例をあげて、『法華経』を保つことに比べれば、それらはむしろ容易なのだと説く教え)のことを考えた。私たちのような力のない者が須弥山を投げたとしても、私たちのような神通力のない者が、枯れ草を背負って大火に焼かれなかったとしても、私たちのような無智の者が、大河の砂の数ほどの経典を読破しても、末法の世に『法華経』の一句一偈を保つ方がそれよりも難しい、というのである。

今回の流罪にあたって、さらに強い菩提心を起こして、退くことはすまいと願うばかりである。すでに、今まで約二十年間、この法門を説いて来たが、日々月々年々にさらに災難が重なる。それも少々の災難ならば知らないが、大事の災難は今度が四度めである。最初の二度はしばらく置くとしても、国主からの災難は、すでに二度に及ぶ。今回は、ついに私の身命が危機にさらされた。その上、弟子といい檀那(だんな・支持者のこと)といい、わずかに私の言葉を聞いた俗人であっても、重罪とされる。まるで謀反人のような扱いである。『法華経』第四巻には、「この経典に対しては、如来の在世すら憎む者たちが多い。ましてや、如来の滅度の後はなおさらである」とある。また第二巻には、「経典を読誦し書写し保つ者を見て、軽蔑し憎み嫉妬し、恨みを抱くであろう」とある。また第五巻には、「一切世間において、憎む者が多いために信じることが困難である」とある。また、「あらゆる無智の人から悪口を言われ罵られるであろう」とある。また、「国王や大臣や婆羅門や居士に向かって、謗って私の悪を説いて、これは邪見の人であると言うであろう」とある。また、「たびたび追放されるであろう」とある。また、「杖木瓦石をもって打たれるであろう」とある。『涅槃経』には、「その時に多く無量の外道がいて、集まって共に摩訶陀国(まがだこく)の王の阿闍世(あじゃせ)の所に行った。現在、一人の大悪人がいます。瞿曇沙門(くどんしゃもん・釈迦のこと)です。一切世間の悪人たちも自らの利益のために、彼の所に集まって弟子となって、善を行なうことなく、呪術の力によって、摩訶迦葉および舎利弗・目連たちを従えました」とある。

(つづく)