大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

『法華経』現代語訳と解説 その28

法華経』現代語訳と解説 その28

 

妙法蓮華経安楽行品第十四

 

その時、文殊菩薩は仏に次のように申し上げた。

「世尊よ。この多くの菩薩たちは大変尊い者たちです。仏を敬い従うために、大いなる誓願を立てました。後の悪しき世において、この『法華経』を護持し、読誦し、説くでありましょう。世尊よ。菩薩たる者、後の悪しき世において、どのようにこの経を説くべきでしょうか」。

仏は文殊菩薩に次のように語られた。

「もし菩薩たる者、後の悪しき世においてこの経を説こうとすれば、まさに次の四つに安住すべきである(注1)。

第一は、菩薩の行処(ぎょうしょ)、親近処(しんごんしょ)であって、そこに安住して、衆生のためにこの経を説くべきである。

文殊菩薩よ。どのようなものを菩薩の行処というのか。大いなる菩薩ならば、忍辱の地に住み、柔和善順であり粗暴でなく、心を驚かせず、またあらゆることに執着なく、諸法は如実であるという実相を観じ、また智慧による分別がないようなことをしない。これを大いなる菩薩の行処という。

また、どのようなものを菩薩の親近処というのか。大いなる菩薩は、国王、王子、大臣、官長に親しく近づいてはならない。あらゆる外道、バラモン教ジャイナ教など、および世俗の文筆や歌などの書を作る者たち、また唯物論者、さらに唯物論とは真逆の立場の者に親しく近づいてはならない。またあらゆる戯れごと、格闘技、相撲および変装を楽しむ者に親しく近づいてはならない。また、生き物を殺す者、および家畜を飼う者、狩猟や漁に従事する者たちの悪しき行ないに親しく近づいてはならない。このような人々が自ら来るならば、彼らのために教えを説くのみであり、彼らと交際してはならない。また、声聞を求める僧侶、尼僧、男女の在家信者に親しく近づいてはならない。また自ら訪問することなどはしてはならない。部屋の中においても、廊下においても、講堂の中にあっても、共にいてはならない。もし自ら来るならば、適宜に教を説いて、彼らと交際してはならない(注2)。

文殊菩薩よ。また菩薩は、女への欲望につながる思いを抱いて、教えを説いてはならない。またそのような姿を見ようとしてはならない。他の家に入る際には、少女、処女、やもめなど共に語ることをしてはならない。また男であって男でないような者に近づいて、親しくしてはならない。また一人で他の家に入ってはならない。もしどうしても一人で入らねばならない時は、ただ一心に仏を念じなさい。もし女のために教えを説く時には、歯をあらわにして笑わないようにしなさい。胸を現わさないようにしなさい。そして教えのためにも、親しくしないようにしなさい。もちろんその他のことも同様である。自ら願って、年少の弟子、出家前の子供や幼い子を集めないようにしなさい。また彼らと同じ師につこうと願ってはならない。常に坐禅を好んで、静かな場所にあって心を修練しなさい。文殊菩薩よ。これを最初の親近処という。

また次に菩薩は、すべての存在を認識するにあたって、すべては空であり、そのままが真実の姿であり、倒れず、動ぜず、退かず、転ぜず、虚空のように本性を有することなく、あらゆる言語の表現を越え、生じることなく、出ることなく、起きることなく、名もなく、形なく、何かを所有することもなく、無量であり無辺であり、滞りなく妨げがないと観じるべきである。すべてはただ因縁によって生じるのであり、人がそれらを存在するものだと錯覚することによって生じるのである。このために、常に願って、あらゆる存在に対してこのように観じるようにしなさい。これを菩薩の第二の親近処という」。

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「もし菩薩が後の悪しき世において 心に恐れなくこの経を説こうとするならば まさに行処そして親近処に入るべきである 常に国王 および国王子 大臣官長 凶険の戯者 および旃陀羅(せんだら・注3) 外道梵志を離れ また増上慢の人 小乗に貪著する 三蔵の学者に親しく近づいてはならない 破戒の僧侶 名ばかりの阿羅漢 および尼僧の 戯笑を好む者の 深く肉の欲に執着して 現世における悟りを求める 女の在家信徒に近づいてはならない このような若い女たちが 好意をもって菩薩のところに来て 仏の道を聞こうとするならば 菩薩は何事にも執着しない心をもって 肉の欲望を抱くことなく教えを説くべきである やもめや処女 および諸の不男に親しく近づいて交際してはならない また生き物を殺す者や狩猟や漁をする者 自分の利得のために生き物を殺す者たちに親しく近づいてはならない 肉を売って自活し 女色を商売にする このような人に親しく近づいてはならない 格闘技や相撲 あらゆる遊戯 婬女などに親しく近づいてはならない ひとり部屋の中で 女のために教えを説くことをしてはならない もし教える時には 戯れに笑ってはならない 里に入って托鉢する時には もうひとりの僧侶と共に行きなさい もし僧侶がいなければ 一心に仏を念じなさい これを名づけて 行処(ぎょうしょ)・近処(ごんしょ)という このふたつをもって 安らかに教えを説きなさい 

またこの教えが上だとか中間だとか下だとか あるとかないとか 真実だとか真実ではないとか そのような相対的な次元の議論に左右されてはならない またこれは男だ これは女だという区別をすべきではない あらゆる存在を得ようとはせず 知ろうとも見ようともすべきではない これを名づけて菩薩の行処という すべての存在は空であって 何にも属するものではない 常にあることなく また生じたり滅したりもしない これを智者の親近処という 

すべての存在は有である無である 真実である不真実である 生じる生じないなどということは 真理とは逆の判断によることである 静かな場所において 心を修練し 安住して動かざること 須弥山のようであれ すべての存在を観ずる時 みな属するところなく 虚空のようであり 堅く変化しないものなどなく 生じることなく出ることなく 動かず退くこともない 常にひとつとしてあると悟ることを 近処という もし僧侶がいて 私の滅度の後において この行処および親近処に入って この経を説く時には 恐れたり弱ったりすることはない 菩薩が静かな部屋に入って 正しい憶念をもって 真理に従ってあらゆる存在を観じ 禅定より立って 多くの国王 王子や大臣や民 または婆羅門などのために 真理を開いて教化し広く述べ この経典を説くならば その心は安穏であり 恐れたり弱ったりすることはない 

文殊菩薩よ これを菩薩の 正しい教えに安住して 後の世において 『法華経』を説くという

また文殊菩薩よ(注4)。如来の滅度の後に、末法の中において、この経を説こうとするならば、まさに安楽行に基づいて歩むべきである。口で教えを説き、書かれた書物を読む時、他の人の教えやその経典の間違ったところを指摘してはならない。また他の法師を見下げて軽蔑してはならない。他人の良いところ悪いところ、長所や短所を説いてはならない。声聞の人を名指しで非難したり、また名指しで褒めたりしてはならない。また人に対して嫌悪感を抱いてはならない。よくこの安楽の心を修習すれば、その聴衆も逆らうことはないのである。難問が来たならば、小乗の教えではなく、大乗の教えをもって答え、よく解説して、すべてを知る仏の智慧を得させなさい」。

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「菩薩は常に願って 安穏に教えを説け 清浄の地において座を設け 身に油を塗り 塵汚れを洗い落とし 新しい清い衣を着て 内外共に清くして 法座に安らかに座って 質問に従って説け もし僧侶や尼僧および男女の在家信徒 国王王子 群臣士民が来るならば 妙なる真理をもって 穏やかな表情で説け もし難問が来るならば 真理に従って答えよ 因縁譬喩をもって よく判断して広く述べよ この方便をもって みな悟りを求める心を起こさせ 次第に導いて 仏の道に入らせよ けだるい心や怠ける気持ちを除いて さまざまの思い煩いを離れ 慈しみの心をもって教えを説け 昼夜に常に この上ない道の教えを説け さまざまな因縁 無量の譬喩をもって 衆生に開き示して 聞く者を喜ばせよ 衣服や家具 飲食医薬 そのようなものを欲しがってはならない ただ一心に説法における因縁を念じて 仏の道を成就して 衆生を悟りに導こうと願うべきである これこそ大きな善なることであり 安楽の供養である 

私の滅度の後に もし僧侶がいて この妙法蓮華経を述べ伝えるなら 心に嫉妬や怒りや さまざまな悩みや患難はなく また憂いや悲しみなく および罵詈罵倒する者もなく また脅され 刀杖を加えて来る者もなく また追い出されることもない その者は忍耐に安住しているためである(注5) 

智者はこのように この心を修習すれば 安楽に住まうこと 私が上に述べた通りである この人の功徳は 千万億劫をかけて数えても 比喩をもって説いても 尽くすことはできないのである 

また、文殊菩薩よ(注6)。後の末の世の、教えが滅びてしまう時において、この経典を受持し、読誦しようとする者は、嫉妬や人にへつらう心を抱いてはならない。また、仏の道を学ぶ者を軽蔑したり罵倒したり、その長所短所を指定するようなことをしてはならない。僧侶や尼僧や男女の在家信者、および声聞、辟支仏、菩薩の道を求める者を悩ましたり疑いを持たせたりして、『あなたがたは、道から大変遠く離れている。すべてを知る仏の智慧を得ることは最後までできない。なぜなら、あなたがたは自分勝手な人たちであり、正しい道を求めることにおいて怠けているからである』などと言ってはならない。また、あらゆる教えについて、不必要な議論をしたり、論争をしたりしてはならない。

まさに、すべての衆生に対して、大いなる哀れみの心を起こし、あらゆる如来に対して、慈しみ深い父という心を起こし、あらゆる菩薩に対して、大いなる師匠という心を起こすべきである。あらゆる方角の大いなる菩薩に対しては、まさに常に深く心に敬い、礼拝すべきである。

すべての衆生に対しては、平等に教えを説くべきである。教えに従順であり、必要以上に多く語ったり、少なく語ったりしてはならない。たとえ、教えを深く愛する者がいたとしても、多く語ったりすることがないようにせよ。

文殊菩薩よ。『法華経』を述べ伝えようとする大いなる菩薩は、後の末の世の教えが滅びようとする時において、この第三の安楽行を成就する者は、この教えを説く時、妨害する者はないであろう。そして、共にこの経を読誦する良い同学者を得るであろう。また多くの人々が聞きに来て、聞き終ってそれをよく保ち、よく読誦し、よく説き、よく書き、または人に書かせて、経巻を供養し、敬い、尊び、讃歎するようになるであろう。」

その時に世尊は、重ねてこの内容を述べようと、偈の形をもって次のように語られた。

「もしこの経を説こうとするならば まさに嫉妬や怒りや高慢 へつらいや偽りの悪い心を捨てて 常にまっすぐな正しい行ないをすべきである 人を軽蔑せず また教えにおいて不必要な議論をするべきではない 他人を疑わせたり迷わせたりして あなたは仏にはなれないなどと言ってはならない 仏の子が教えを説くにあたっては 常に柔和であり よく忍耐して すべてを慈悲の心をもって行ない 怠ける心を起こしてはならない 十方の大いなる菩薩は 人々をあわれんで仏の道を行なっているのであり まさに大いなる師匠であるという敬う気持ちを持つべきである 諸仏世尊に対しては この上ない父であるという思いを持ち 高慢の心を持つことなく 仏が教えを説くにあたって妨げがないようにせよ 第三の教えは以上であり 智者はまさに保って守るべきである 一心に安楽行を成就するならば 多くの人々に敬われるであろう。

 

注1・「次の四つ」とは、「四安楽行」と呼ばれるもので、「身(しん・行動)」「口(く・言葉)」「意(い・心)」「誓願」の四つである。第一の身における安楽行は、行処と親近処に分かれる。しかしこれからの本文では、この第一から第四の安楽行についての段落分けがはっきりしていないので、内容から判断しなければならない。なおここでいう親近とは、いわゆる友人関係のような深い交わりを指すのであって、普通の話さえしてはならない、というようなものではない。

注2・『法華経』が説かれている場には、あらゆる人々がいるわけであり、もちろん、婆羅門や声聞たちも数えきれないほどいた、とはすでに記されているところである。しかし、今回の箇所を表面的に見れば、彼らと親しくしてはならない、とあるのはどうしたことか、と思われるであろう。これは、どのような人であっても、『法華経』を聞きたいと思う人々は、それぞれそのままの身分で受け入れられていた、ということである。しかし、『法華経』を聞きたいとは思わず、自分たちの立場でいいのだ、という人々には近づくな、ということなのである。

注3・「旃陀羅」 賤しい身分の者という意味。日蓮上人は自らについて、「日蓮は日本国の東夷東条、安房国の海辺の旃陀羅が子なり」と記している。

注4・ここからは第二の「口」、つまり言葉に関する安楽行についてである。

注5・前には、『法華経』を説く者は、さまざまな迫害にあう、ということが説かれていたが、ここでは一変して、そのようなことはない、と説かれているように見える。しかしそれは、「その者は忍耐に安住しているため」とあるように、迫害を迫害とは感じず、非難や迫害する者と同じ次元に立たないということであることがわかる。あくまでも主観的および霊的な次元のことなのである。ここで説かれている「安楽行」とは、その者の霊的次元を引き上げることに他ならない。

注6・ここからは第三の「意」、つまり心に関する安楽行についてである。