大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

開目抄 その4

日蓮は、「日本に仏法が伝わってすでに七百年余り、ただ伝教大師一人ばかりが『法華経』を読む人である」と言っているが、人々はこれを受け入れない。ただし、『法華経』には、「もし須弥山を取って、他方の無数の仏国土に投げることも、まだ難しいとは言えない。しかし、仏の滅後の悪世の中において、よくこの『法華経』を説くことは難しい」とある。日蓮が主張することは、まさにこの経文に普合しているのである。『法華経』を広めるために説かれた『涅槃経』には、末代の濁世に謗法の者は十方の国の土ほどに多いが、正法の者は爪の上の土ほどしかいないであろう、と説かれているので、どうすることもできないことである。日本の人々が爪の上の土なのか、日蓮が十方の国の土なのか、よくよく考えるべきである。賢王の世には道理が勝ち、愚主の世には非道が先立つものである。聖人の世にこそ、『法華経』の真実の義が表われると心得るべきである。

ここまでは、『法華経』の迹門と『法華経』以前の経典を相対させて述べた。以前の経典の方が強いように思えるが、もしそうならば、舎利弗などの諸の二乗は永久に成仏することができない者となってしまう。どれほど嘆くことであろうか。

次に、『法華経』の本門と迹門を相対させて述べる。教主釈尊は住劫第九の減、人の寿命が百歳の時、師子頬王の孫、浄飯王の嫡子として生まれ、童子の時の名前は、悉達太子であり、意味は一切義成就菩薩である(注:釈迦の幼名はシッタールダであり、すべて成就するという意味である)。十九歳の時に出家され、三十歳の時に悟りを開き(注:実際は二十九歳出家、三十六歳に悟りを開いたという説が主流である)、世尊は最初、寂滅道場において、実報土(じっぽうど・悟りの功徳がそのまま表わされた国土)である蓮華蔵世界の王の形を示して『華厳経』を説き、十玄六相・法界円融・頓極微妙の大いなる教えを説かれ、十方の諸仏も現われ、一切の菩薩も雲集した。その国土といい、聴衆といい、諸仏といい、最初といい、どうして大いなる教えを隠す必要があるだろうか。したがって、経文には「自在の力を表わし、円満の経典を説く」とある。『華厳経』の一部六十巻は一字一点すべて円満経である。たとえば、如意宝珠は一つでも数限りなくあっても、共に同じようなものである。一つでも万宝を生じさせ、数万でも万宝を生じさせる。『華厳経』は一字でも万字でも同じである。「心仏及衆生是三無差別」の文は、華厳宗の肝心であるのみならず、法相宗三論宗真言宗天台宗の肝要でもある。これほど重要な経典に何を隠すというのだろうか。しかし、二乗と一闡提は成仏できないと説かれていることは、珠の傷と思われ、また仏はこの世で悟りを開いて成仏したと三箇所に記されており、久遠実成の「如来寿量品」の教えは隠されたままである。まるで、珠が壊れてしまったかのようであり、月に雲がかかったようであり、日食のようなものである。不思議なことである。

阿含経』・「方等経」・『般若経』・『大日経』なども仏説であるので重要だが、『華厳経』に比較すれば言うまでもないことである。『華厳経』にさえ隠されていたことが、これらの経典で説かれているわけがない。したがって、『雑阿含経』には、「最初に悟りを開く」などとある。『大集経』には、「如来が仏となって十六年」などとある。『浄名経』には、「最初、仏は菩提樹に坐って努めて魔を下す」とある。『大日経』には、「私は昔道場に坐って」などとある。『仁王般若経』には、「二十九年」などとある。これらについては言うまでもない。ただ、耳を驚かすことは、『無量義経』に、『華厳経』の「唯心法界(ゆいしんほうかい・すべてはただ心から生じている、ということ)」、「方等経」・『般若経』の「海印三昧(かいいんざんまい・瞑想によって静まった心には、大海にすべてが映し出されるように、すべてが明らかとなるということ)」・「混同無二(こんどうむに・すべては縁起によって関係し合っており、他から独立したものなどない、ということ)」などの大いなる教えを記し、これらの教えは、まだ仏の真実が説かれていない、あるいは、気の遠くなるほどの期間の修行を経なければならない、などと批評しながらも、「私は昔、道場の菩提樹の下に端坐すること六年、阿耨多羅三藐三菩提(最高の悟りという意味)を成就した」と、最初に悟りを開いたという『華厳経』の「始成」の文と同じことが記されている。これは不思議だと思うが、この『無量義経』は、『法華経』の序分にあたる経典なので、『法華経』の核心を記すはずもないわけである。

そして、『法華経』の本文において、概略的に三乗を開いて一乗に帰す、あるいは詳細に三乗を開いて一乗に帰す時の「唯仏与仏乃能究尽諸法実相」などの文、、「世尊法久後」などの文、「正直捨方便」などの文に対して、多宝仏は、この迹門八品を指して「皆是真実」と証明され、ここで何も隠すことがないように思えるが、久遠実成の「如来寿量品」を隠し、「我始め道場に坐し樹を観じて亦経行す」と述べられている。これは、最も第一の大不思議である。

(注:もともと『法華経』は大きく分けて二つの最初は別々だった経典が合わさったものである。それが、迹門と本門といわれる二つの箇所である。日蓮上人が不思議と言うのも無理はない)。

したがって、弥勒菩薩は「従地涌出品」において、四十年間見たことのない大菩薩たちを今見て、仏が「この菩薩たちは私が教化して悟りを求める心を起こさせた」と語ったことに対して疑いを起こし、「如来は太子であられた時に釈氏の宮を出て伽耶城の近くの道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成就されました。それからまだ四十年余りしかたっていません。世尊よ。どうしてこの短い期間に、このような大いなる仏事をなさいましたか」と言った。そこで、教主釈尊はこれらの疑いを晴らそうと、「如来寿量品」を説くにあたって、それまで迹門において述べてきたことをあげて、「一切世間の天人および阿修羅はみな、この釈迦牟尼仏は、釈氏の宮を出て伽耶城の近くの道場に坐して、阿耨多羅三藐三菩提を成就されたと言っている」と語られた。そしてまさしくこの疑いに答へて、「しかし善き男子よ。私は実に成仏してよりこのかた、無量無辺百千万億那由佗劫が過ぎている」と語られたのである。

華厳経』からはじまって『般若経』・『大日経』に至るまで、二乗作仏を隠すのみではなく、この久遠実成をも隠されているのである。これらの経典に二つの欠けたところがある。一つは、「修行の段階を述べているので、未だ方便の権教を開いていない」と、迹門の一念三千を隠している(注:迹門には一念三千の教えは説かれていない。これはあくまでも天台教学の止観における実践項目の教えである)。二つは、「この生での悟りを述べるため、未だ方便の迹を発していない」と、本門の久遠を隠している。これらの二つの大法は、釈迦一代の大綱であり骨子であり、一切経の心髄である。迹門の「方便品」は一念三千・二乗作仏を説いているので、『法華経』以前の経典の二種の欠けたうち、一つは免れている。しかし、未だに発迹顕本していないので、真実の一念三千も表われず、二乗作仏も定まらず。水に映った月を見るようなものである。根なし草が波の上に浮かんでいるようなものである。

(注:天台大師の『法華玄義』では、迹と本は不二であると繰り返し述べられている。迹門より本門を重要視することは、天台大師の教えではない)。

本門に至って、この生で初めて悟りを開いたということは破られ、四教(『華厳経』、『阿含経』、「方等経」、『般若経』)の果である仏果を破る。四教の果が破られれば、四教の因である修行も破られる。このように、『法華経』以前の迹門の十界の因果を打ち破って、本門の十界の因果を説き表わすのである。これがすなわち本因本果の法門である。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わって、真実の十界互具・百界千如・一念三千となる。このように見るならば、『華厳経』の蓮華蔵世界の台上の十方世界や、『阿含経』の釈迦、「方等教」・『般若経』・『金光明経』・『阿弥陀経』・『大日経』などの権仏などは、この「如来寿量品」で説かれる仏が、天の月のように、しばらくその影を大小の器に浮かべているのを、諸宗の学者たちは、目の前の自宗に迷い、遠くは『法華経』の「如来寿量品」を知らず、水に映った月が実物の月だと思って、そこに入って行って取ろうとし、または縄をつけてつなぎ止めようとしている。

天台大師は、「天の月を知らないで、ただ池に映った月を見る」と言っている。日蓮が考えるに、二乗作仏すら、なお『法華経』以前の経典の方が強いようである。さらに、久遠実成もまた、以前の経典の方が強いように思える。なぜなら、以前の経典が『法華経』と対する時、なお以前の経典の方が分量も多く、説かれた期間も長い。また、以前の経典ばかりではなく、『法華経』の迹門十四品も、同じくこの生で悟りを開いた釈迦を説いていて、以前の経典と同じである。さらに、本門の十四品においても、「従地涌出品」と「如来寿量品」の二品以外は、やはり、この生で悟りを開いた釈迦が説いているのである。沙羅双樹の林における最後の『大般涅槃経』四十巻、そして、その他の『法華経』前後の諸大乗経典にも、久遠実成の一字一句もなく、法身仏の無始無終は説いても、応身仏・報身仏の本を明らかにした教えは説かれていない。どうして、広く説かれた以前の経典や、二品以外の本門迹門、および『涅槃経』などの諸大乗経典を捨てて、ただ「従地涌出品」・「如来寿量品」の二品に付くべきであろうか。

(つづく)