大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  75

『法華玄義』現代語訳  75

 

◎二諦に対する

次に二諦に対する智を述べるとは、権と実の二智である。先に述べた真諦・俗諦の二諦に七種があったように、この権・実の二諦も七つに分けることができる。三界の内外の相即(そうそく・互いに融合し合うこと)と不相即によって見るなら、三界内の不相即が蔵教であり、三界外の相即が通教であり、三界外の不相即が別教であり、三界外の相即が円教であり、以上、四つとなるのである。そこに、先に述べたように別入通教・円入通教・円入別教の三つが合わさり、七つである。もしこれもすでに述べたことによって分けるならば、蔵教は析空観の権・実の二智、通教は体空観の権・実の二智、別入通教は体空観に中道が含まれる権・実の二智、円入通教は体空観に中道が顕わされている権・実の二智、別教は別教の権・実の二智、円入別教は別教に円教が含まれる権・実の二智、そして円教の権・実の二智である。この七つに随情・随情智・随智の三つがあって、全部で二十一種類となる。

また、この七つの権・実の二智に、それぞれ三種類ある。化他(けた・他の人々を教化すること)の権・実、自行化他(じぎょうけた・自らの修行をしつつ、他の人々を教化すること)の権・実、自行の権・実の三つである。この場合も全部で二十一種類の権・実の二智となる。

○析空観の蔵教の二智

蔵教の析空観の権・実の二智は、森羅万象の区別を照らす智慧を権智とし、森羅万象の真理を明かし尽くすのを実智とする。仏はこの二智を説いて、あらゆる人々に合わせてあらゆる教えを説き、あらゆる欲、あらゆる場合、あらゆる対治、あらゆる悟りに従い、それぞれにふさわしく条件に従って分別する。またあらゆる事柄があっても、すべて析空観の権・実の対象となるので、化他の権・実の二智がある。また、化他の二智は、人の能力に応じる教えであるので、みな合わせて権・智とする。そして、その者の自行をもって得た悟りについては、それが権智であっても実智であっても、共に悟りであるので、合わせて実智とする。このように、自行と化他を相対させて二智とするなら「自行化他の権実」の二智となる。また、自らの悟りの権・実を言えば、ただその悟りは本人のみ明らかなものなので、他の人は見ることができない。ここには照らす智慧の権があり、真理を明かす智慧の実があるので、自行の権・実となる。

さらにこの蔵教において、再びこれについて述べる。蔵教の仏は、声聞と縁覚の二乗を教化する場合、多くの化他の実智を用い、二乗はこの化他の実智を受けて、自行の実智を修し成就する。このことを、仏は弟子の迦葉(かしょう)に「私とあなたとは共に解脱の場に座っている」と証明した。これはすなわちこの意味である。またもし菩薩を教化するならば、多くの化他の権・実の二智を用い、菩薩は化他の権智を受けて修学して自行の権智を成就することができる。仏はまた「私もまたあなたのようである」と言った。この三つの二智は、もし体空観の二智に比較するならば、すべて権である。このために龍樹は「どうして不浄の心の中に、悟りへの道を修することができようか。毒のついた器には食物を盛ることはできない。それを食べれば人を殺すようなものだ」と言っている。これは正しく析空観の意義を破ることである。このために権である。

○体空観の通教の二智

通教の体空観の権・実二智は、認識の対象である神羅万象はすなわち空であると体得する。森羅万象を認識の対象とすることは権智であり、空であるとすることは実智である。『涅槃経』に「認識の対象がそのまま空である。認識の対象がなくなって空になるのではない」とある。これはまさしくこの意義である。教化する人々のために二智を説くとしても、人々はそれぞれ別で同じではないので、また教えもさまざまとなる。また教えはさまざまであるとしても、すべて化他の権・実の範囲内なので、化他の二智がある。さらにこの化他の二智は、すでに随情であるので、すべて権である。本人の悟りの権・実は、すでに自らの悟りであるので、すべて実と名付ける。こうして自行の実智と化他の権智の自行化他の権・実がある。さらに、自らの悟りについて、認識の対象とする権があり、空を明かす智慧の実があるので、自行の権実がある。この三つの二智は、次に述べる別入通教に比べれば、またすべて権智と名付ける。なぜなら、中道がないからである。

○体空観に中道が含まれる別入通教の二智

別入通教の体空観に中道が含まれる権・実二智は、認識の対象はすなわち空であり不空であると体得する。認識の対象を照らすことは権智であり、空であり不空であるとすることは実智である。この二智を説いて無量の人々に赴き、随情によってさまざまに説く。また人々に応じて教えは無量だとはいっても、すべて中道が含まれる権・実二智の範囲内であるために、化他の権・実の二智がある。さらにこの化他の二智は、相手の能力に応じるので権と名付け、自行の二智は実と名付けるので、自行化他の権実となる。さらに自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において、二智を分けるために、自行の権・実の二智がある。この三つの二智は、次の円入通教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、通教における空とその教えは、方便を帯びているからである。

○体空観に中道が顕わされている円入通教の二智

円入通教の体空観に中道が顕わされている権・実二智は、認識の対象は空であり不空であり、すべての実在は空および不空に赴くことを体得する。認識対象を照らすことが権智であり、認識の対象は空であり不空であり、すべての教えは空および不空に赴くことを体得することが実智である。人々のために二智を説いても、人々は無量なので教えも無量である。この無量の教えは、体空観に中道が顕わされている権・実二智の範囲内なので、化他の権・実の二智である。この化他の二智は、人々の能力の違いに応じるので、すべてこれは権である。これに対して、本人の悟りの二智は、すでに自らの悟りであるので、すべて実と名付ける。この自行と化他が相対して自行化他の権・実となる。さらに自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権実の二智がある。この三つの二智は、次の別教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、通教における即空と、その教えは方便を帯びているからである。

○別教の二智

別教の権実の二智とは、認識の対象は空であり不空であると体得することであり、認識の対象と空とは共に権智であり、不空は実智である。この二智をもって百千の人々の能力に従ってあらゆる教えを分別する。分別は多いとしても、すべて空・仮・中を順番に観じる二智の範囲内なので、化他の権実の二智がある。さらにこの化他の二智は、すべて人々の能力に従ったものであるので、権と名付ける。そして自ら行じて悟り得た二智は、自らの悟りであるので、すべて実とし、化他に対するなら、自行化他の権実となる。自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権実となる。この三つの二智は、次の円入別教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、空・仮・中を順番に観じて、その教えは方便を帯びているからである。

○別教に円教が含まれる円入別教の二智

円入別教の別教に円教が含まれる権・実二智は、認識の対象は空であり不空であり、すべての教えは不空に赴くことである。認識の対象と空を権智とし、すべての教えが不空に赴くことを実智とする。この二智をもって、百千の人々の能力に従ってあらゆる教えを分別する。その分別は多いとしても、すべて別教に円教が含まれる二智の範囲内なので、化他の権実の二智がある。さらにこの化他の二智は、すべて人々の能力に従ったものであるので、権と名付ける。そして自ら行じて悟り得た二智は、自らの悟りであるので、すべて実とし、化他に対するなら、自行化他の権実となる。自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権・実となる。この三つの二智は、次の円教に比べれば、みなこれは権である。なぜなら、空・仮・中を順番に観じて、その教えは方便を帯びているからである。

○円教の二智

円教の権・実の二智とは、認識の対象がそのまま空であり不空であり、すべての教えは認識の対象に赴き、空に赴き、不空に赴くことである。すべての教えが認識の対象に赴き空に赴くことは権智であり、すべての教えが不空に赴くことは実智である。このような実智はそのまま権智であり、権智はそのまま実智であり、二ではなく別ではない。衆生を教化するために、人々の能力に従い、欲に従い、都合に従い、対治に従い、悟りに従って、あらゆる教えを説くとしても、すべて円教の二智の範囲内なので、化他の権実の二智がある。さらにこの化他の二智は随情なので、すべて権と名付ける。そして自ら行じて悟り得た二智は、自らの悟りであるので、すべて実として化他に対するなら、自行化他の権・実となる。自らの悟りにおいて、その智慧の照らすところと得た悟りの権・実において二智を分けるために、自行の権・実となり、ここにも化他の権・実、自行化他の権・実、自行の権・実の不同がある。この二智は、円教以外の二智の六種に、それぞれ三つがあるところの全部で十八種の方便を帯びず、ただ真の権であり、真の実であり、これを仏の権・実と名付ける。

法華経』に、「如来の知見は広大深遠にして、方便の完成をすべて備えている」とあるように、これを妙として、前の麁とされた教えに相対させる。

法華玄義 現代語訳  74

『法華玄義』現代語訳  74

 

◎四種の四諦に対する

次に四種の四諦に対する智を述べる。『涅槃経』に「聖諦(=四諦)を知る智慧に二種ある。中智と上智である。中智とは声聞と縁覚の智慧であり、上智とは諸仏と菩薩の智慧である」とある。もしこの文によるなら、体空観と析空観を合わせて中智とし、大乗における能力の高い者と低い者を合わせて上智とする。またもし能力の高い低い、この世の次元と霊的次元と、現象面と真理の面によってみれば、この二つを開いて四つにすることができる。声聞は能力が低いので四諦の現象面を観じる。すなわち生滅の四諦である。縁覚は能力が高いので四諦の真理の面を観じる。すなわち無生の四諦である。菩薩は智慧が低く、現象面の不思議を観じる。すなわち、無量の四諦である。諸仏は智慧が深く、真理の面の不思議を観じる。すなわち、無作の四諦である。これが『涅槃経』の文の意義である。

また「一般の人は苦があり諦がない。声聞は苦があり、苦諦がある」とある。一般の人は苦についての真理を見ないために諦がないという。声聞は無常・苦・空を見るために諦があるという。すなわちこれは生滅の四諦である。

また「菩薩の人は、苦は無苦にして、しかも真諦を理解する」とある。すなわちこれは、苦は苦ではないと体得するために、苦はないという。現象面において真理を見ているので、諦はあるという。すなわちこれは大乗の教えの無生の四諦である。

また「五陰(ごおん=五蘊・認識の生じる過程)は苦であると知り、十二入(じゅうににゅう・感覚器官の六根とその対象の六境)が苦の入って来る門と知ることを、また苦と名付ける。十八界(六根と六境と六識)を苦の範囲と知ることを性と名付け、また苦と名付ける。これを中智と名付ける」とある。前の説によるならば、声聞に属する。

また「あらゆる苦、あらゆる十二入、十八界などを分別するなら、無量の形がある。私(仏)は経においてついにこれを説かなかった。これを上智と名付ける。受・想・行・識においても同じである。あらゆる声聞と縁覚の対象ではない」とある。これはすなわち前の二つの意義と異なる。「これを上智と名付け」、「声聞と縁覚の二乗の対象ではない」とあるのだから、どうして別教の菩薩が、数限りない仏の教えと如来蔵(=仏性)の真理を観じることでないことがあろうか。

また「如来は苦諦ではなく、集諦ではなく、滅諦ではなく、道諦ではなく、諦ではなく、実である。虚空は苦ではなく、諦ではなく、実である」とある。「苦ではなく」とは、虚妄の生死ではないことである。「諦ではなく」とは、声聞と縁覚の二乗の涅槃ではないということである。「実である」とは、すなわちすべての実在の真実の姿である中道の仏性である。また「苦(苦諦)あり、苦の因(集諦)あり、苦の滅(滅諦)あり、苦の対治(道諦)あり。如来は苦ではない、(因ではない、滅ではない)そして対治ではない。このために実という」とある。このように明らかにされた意義は、上の三種とは異なるので、どうして無作の四諦でないことがあろうか。

この苦の一諦を用いて四諦を表現することを例として、他の三諦も同じように表現することができる。すなわち、集(集諦)あり、集の果(苦諦)あり、集の滅(滅諦)あり、集の対治(道諦)あり。滅(滅諦)あり、滅の因(道諦)あり、滅の障(苦諦)あり、滅の障の相(集諦)あり。道(=対治=道諦)あり、道の果(滅諦)あり、道の障(苦諦)あり、道の障の相(集諦)あり。如来はこの四種の四種、合計十六種ではない。ただこれ実であるのみである。

このような智慧をもって四諦を観じると、諦は融合しないので、その智慧と諦はみな麁である。ただ苦ではなく、因・滅・対治ではなく、実あることだけを妙とするのみである。もし諦が他と完全に融合するならば、智慧もまたしたがって完全である。すべて如来の苦ではなく、諦ではなく、実の妙智である。これは絶待妙と相待妙の二つの意義である。

法華玄義 現代語訳  73

『法華玄義』現代語訳  73

 

b.境に対して智を述べる

境に対して智を述べるにあたって、二つの項目を立てる。第一は、「五境に対する」であり、第二は、「境に対して展転して相照らす」である。

 

第一.五境に対する

境に対して智を述べる第一は、「五境に対する」である。

(注;前にも述べたが、境とは智の対象である。そしてそれは、観心においては単なる対象ということではなく、もっぱら心の中に展開する教理である。その教理は、すべての存在の実相を分析して整えられたものである。このように、もともと教理とは、頭の中での理解に留まるものではなく、理解したならば、さらに心の中で観じ、自らを悟りに導くものなのである。ここであげられる五境とは、記されている順番の通りにあげると、十二因縁・四諦・二諦・三諦・一諦である。次に記されているように、十如是は省略されている)。

 

◎十如是に対する

今までの順序で見れば、まず十如是があげられるが、十如是は『法華経』全体に及ぶ教えであり、あちらこちらに述べられているので理解できるであろう。特にここでは述べない。

 

◎十二因縁に対する

次に十二因縁に対する智を述べる。『涅槃経』に「十二因縁に四種の観心がある。下の智観によって声聞の悟りを得て、中の智観によって縁覚の悟りを得て、上の智観によって菩薩の悟りを得て、上上の智観によって仏の悟りを得る」とある。なぜなら、十二因縁はもともと一つの境についての教えであり、人によって理解が同じではないので、四種類となっている。

ここで、四教の意義をもってこれを解釈するならば、三蔵教は声聞と縁覚と菩薩に対する教えであるが、すべて分析的な智慧である析智(しゃくち)をもって、この世の次元での十二因縁によって表わされる物事を観じて(注:これを析空観という)、最初の教えの門となる。しかし、分析的な智慧は浅く弱く、この三種の人の中では、声聞が最も能力が低い。最も能力の低い人を標準とするので、下智と名付ける。通教もまた三種の人がある。⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智とあるように、みな体法(たいほう・物事を分析的に見て実体がないとするのではなく、存在そのものを幻として実体がないとすること)の智慧をもって、この世の次元での十二因縁の真理を観じる(注:これを体空観という)。体法は深いといっても、三蔵教に比べれば巧みではあるが、別教に比べれば巧みとは言えない。この三種の人の中で、真ん中の縁覚が平均的な存在と言える。このように通教の教えであるので、中智である。別教は、仏と菩薩と共に、この世の次元ではなく霊的次元の十二因縁の事実を知る。智慧を段階的に修める菩薩(次第の菩薩)は、仏に比べれば上とは言えないが、通教・蔵教に比べれば上法である。したがって、上智と名付けるのである。円教は、仏と菩薩と共に霊的次元の十二因縁の真理を観じる。円教には段階がないので、初心の者でも、すべての具体的存在に中道を見る。この教えは最も優れているために、仏をもってその名称とする。したがって上上智観というのである。四教をもって以上のように四つの観心について述べたが、このようにすべて教えと一致しているのである。

下智観とは、受(じゅ・感受作用)は触(そく・外界との接触)によって生じ、触は六入(ろくにゅう・眼耳鼻舌身意の六つの感覚器官)によって生じ、六入は名色(みょうしき・その形と名称)によって生じ、名色は識(しき・個別認識)によって生じ、識は行(ぎょう・業のこと)によって生じ、行は無明(むみょう・過去世からの煩悩)によって生じることを観じる観法である。真理とは真逆の連鎖である無明から生じた不善の思惟は、不善の行を生じさせ、地獄・餓鬼・畜生・修羅の識と名色などを感じるようになる。もし善の思惟であったなら、人・天の識と名色などを感じるようになる。この無明を観じるならば、一念一念ごとにそれは存在せず、前後同じではなく、善でも悪でも、それは生じてもすぐに変化して速やかに消え、その形も名称も、すぐに衰えて次のものと入れ替わる。煩悩・業・苦は互いの因縁に過ぎず、すべてひと時も留まることはない。過去の二因である無明・行、現在の五果である識・名色・六入・触・受、現在の三因である愛・取・有、未来の二果である生・老死は、過去現在未来の三世(さんぜ)に巡ること、それは車輪のようである。愚痴と迷いの本を無常・苦・空・無我と悟るなら、無明は消滅する。無明が消滅するならば、あらゆる行は消滅し、最後の老死も消滅する。もし火を燃やすことがなければ煙もない。これを子縛断(しばくだん)という。種子がなければ果実もない。身も心も燃え尽きて灰になるように消え、三界の生存から離れる。これを果縛断(かばくだん)という。以上が下智をもって十二因縁を観じて、声聞の悟りを得ることである。

中智観とは、受は触により、さらにさかのぼって行は無明によることを観じることにおいては、下智観と同じである。しかし、無明は一念の迷いの心そのものであることを観じる。そもそも心とは、形や本質がなく、ただ名称があるだけである。外中、そして内のどこを探しても、名称の指し示す対象を得られず、それは存在するのでもなく存在しないのでもなく、幻化のようであり、虚しく目をだますものである。無明の本質と姿は、もともと自らあるものではない。妄想の因縁が合わさって生じたものである。存在するところがないので、仮に無明と名付けるまでである。不善の思惟は、心の行の作るところである。無明は幻化のようだと悟っていないために、善と不善の思惟を起こし、善と不善の行があって、善と不善の名色・触・受を受ける。無明は幻のようだと悟るために、すなわちあらゆる行もまた化のようであり、幻により識・名色などが生じるので、みな幻のようである。愛・取・有が生じて過去現在未来の三世に転々とし、幻化が移り変わり、そこに何ら真実はない。智慧のある人は、まさにその中において好いたり憎んだりする心は生じさせない。無明は得ることができないので、すなわち無明は生じない。生じなければ、滅びることもない。あらゆる行から老死に至るまで、また生じることもなく滅びることもない。生じないのであるから、新しいということもなく、滅びないのであるから古いということもない。古いということもないのであるから、終わることもなく、新しいということもないのであるから、新たに作り出されるということもない。新しいということがないということは、子縛断であり、古いということがないということは、果縛断である。これが中智をもって十二因縁を観じ、縁覚の悟りを得ることである。

上智観とは、受は触により、さらにさかのぼって行は無明によることを観じることにおいては、下智観・中智観と同じである。そして無明は悟りのない迷いの一念の心ということも同じである。心が迷いであるために煩悩が生じ、煩悩によってあらゆる業が生じ、業によってあらゆる苦が生じる。この煩悩を観じる際、この上智観では、煩悩にあらゆる種類があり、どれも同じではない、と観じるのである。どれも同じではないため、業も同じではなく、業が同じではないため、苦も同じではない。あらゆる行があって、名色も各々異なる。煩悩道・業道・苦道の三道は無量無辺であるが、それぞれは異なっており、混じり合うことはない。「この煩悩」によって「この業」を起こし「この苦」を得るが、「かの業」および「かの煩悩」には関わらないということを知るのである。このような三道は、法身・般若・解脱の三徳を覆い隔てている。この妨げを破る方便も、また無量である。無明が破られれば般若が現われ、業が破られれば解脱が現われ、識・名色が破られれば法身が現われる。愛・取・有・老死も、また同じである。自分のことをよく理解するならば、また他の人も教化することができる。一切種智(いっさいしゅち・あらゆる種類について詳しく知る智慧)において一切智(いっさいち・すべての実在について概括的に知る智慧)を起こし、道種智(どうしゅち・人々を教化するために仏の道の種類を知り尽くす智慧)を起こして、人々を導く。以上が上智をもって十二因縁を観じることである。

上智観とは、受は触により、さらにさかのぼって行は無明によることを観じることにおいては他と同じである。しかし、上上智観では、十二因縁の三道はそのままで三徳であると知るのである。三徳を断ち切って、他の三徳を求めるようなことをすれば、すなわちあらゆる存在の姿を打ち破ることになるであろう。煩悩道はそのままで般若なのである。まさに知るべきである。煩悩は闇ではない。般若はすなわち煩悩であるので、般若も光ではない。煩悩が闇でないなら、なぜ断絶しなければならないのだろうか。般若も光でないならば、なぜ破る対象があるだろうか。闇も本来、闇ではないのだから、それを破るために光はいらない。名医である耆婆(ぎば)は毒を用いて薬を作った。どうして「これ」をすてて「それ」を取るべきであろうか。業道はそのままが解脱なのであり、業道も煩悩の縛りではないことを知るべきである。解脱はすなわち業であるので、解脱したとしても自在になるわけではない。業も煩悩の縛りではないなら、なぜ離れる必要があるだろうか。解脱も自在になるわけではないので、なぜ得るべきであろうか。神通力を持っている人であっても、どうして「これ」を避けて「それ」につくべきであろうか。苦道はすなわち法身であるので、苦も生死ではないと知るべきである。法身はそのまま生死であるので、法身も楽ではなく、苦も生死ではないので、なぜ憂うべきであろうか。法身も楽ではないので、なぜ喜ぶべきであろうか。虚空に得るところがなく失うところがなく、喜ばず憂いがないのと同じである。

このように観じれば、三道は三徳に異ならず、三徳は大涅槃であり秘密蔵と名付ける。これはすなわち仏果である。深く十二因縁を観じることは、すなわち悟りの道場に座ることである。これはすなわち、仏因を備えることである。仏因・仏果をすべて備えることである。その他のことはこれに準じて知るべきである。以上が上上智をもって十二因縁を観じて、仏の悟りを得ることである。

これをもって、まさに麁妙を判別し、麁を開いて妙を表わすべきである。意義はわかりやすいので、記さない。

また以上の四智をもって四種の十二因縁を照らし、境がそのまま悟りに転じないのであれば、その智慧は麁であり、四種の十二因縁がそのまま悟りに転じれば妙境となり、麁智はそのまま妙智となる。これは、相待妙と絶待妙の意義である。

法華玄義 現代語訳  72

『法華玄義』現代語訳  72

 

第六.開

諸智を解釈するにあたっての第六は開(かい)であり、二十智について麁と妙を融合することである。

(注:法華経の中心的教えは、麁を妙と融合することだという観点から、究極的には、すべての智慧も妙の智慧となるのだ、というのである。これは、開あるいは開会(かいえ)などと名付けられる思想である)。

①世智から⑯別教仏の智までの十六の智慧は、もし悟りに到達しないままであれば麁の智慧のままである。しかし、悟りに到達すれば、すべて妙の智慧となる。なぜなら、『法華経』に記されている妙荘厳王(みょうしょごんおう)のように、最初は仏教以外の①世智であったが、『法華経』を聞いて悟りに到達し、誤った状態から正しい霊的状態となり、他のあらゆる教えや見解にも動じずに三十七種の修行(三十七道品・さんじゅうしちどうほん)を行じて、八種類の邪見をそのままに、八正道(はっしょうどう・三十七道品の中の一つ)を修行した。すなわちこれは、①世智をそのままにして妙智に入ることである。その妙智は、⑰円教五品弟子の智と等しくなることもあり、相似即(そうじそく・円教の位は六即とも表現され、これは第四の位)である⑱六根清浄の智と等しくなることもあり、分真即(ぶんしんそく・六即の第五の位)である⑲初住より等覚に至る智と等しくなることもある。

(注:これからも繰り返し述べられるが、円教の位は、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即とも表現される。即とは相即ということであり、究極的真理においては同じという意味である。さらに、このうちの観行即は五品弟子位ともいい、相似即は六根清浄位ともいう)。

②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智、⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑭三蔵仏の智、⑮通教仏の智の蔵教と通教の智慧は、もし悟りに到達しないままであれば麁の智慧のままである。しかし、この権である麁がそのまま実となれば、『法華経』に「あなたがたの修行はそのまま菩薩の道なのだ」とある通り、妙の位となる。この十二の智慧それぞれが、⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智の四智に入り、ある者は⑰円教五品弟子の智に、または相似即に、または分真即に入るのである。また、⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智もそのままで悟りに到達すれば妙智に入る。そのさまざまに入る位は上に説いた通りでる。

このように、①世智から⑯別教仏の智までの十六の麁智は、みな妙智となるのである。それは絶待妙であり、麁と相対することはない。

また次に、麁眼を開いて妙眼となることについて述べる。『法華経』以外の経典は五眼を説いても、それらが妙と融合することは説かない。このために麁とする。『法華経』は肉眼・天眼・慧眼・法眼の四眼を開いて仏眼に入らせる。経文に「父母から生まれた眼は清浄となる」とあり、「大乗を学ぶ者は、肉眼を持っていてもそれを仏眼とする」とある。すなわちこれは、肉眼を開いて仏眼とすることである。『維摩経』に「この世において誰が真実の天眼を持っているだろうか。世尊である仏こそ、相対する次元で諸仏の国を見ない」とある。これは天眼を開いて仏眼とすることである。また『法華経』に「願わくは、世尊のように最も清浄な慧眼を得ることを」とある。これはすなわち慧眼を開いて妙に入ることである。

法眼を開いて妙に入ることについては、⑲初住より等覚に至る智の最終段階が満了することである。肉眼・天眼・慧眼・法眼の四眼を開いて仏眼に入れば、その場を動じずに、しかもすべてを常に照らすのである。したがって『法華経』に、「声聞の教えが開かれれば、そのままで諸経の王である」とある通りである。五眼をすべて備えて悟りを成就し、仏知見を開くために妙とするのである。

問う:仏眼を開くことを妙とするならば、⑱六根清浄の智の位の眼根の清浄は、妙と言えるだろうか。

答える:仏眼はまだ開いていないといっても、すでに⑱六根清浄の智の位では円教を学んで信じ受け入れている。迦陵頻伽(かりょうびんが・伝説上の浄土の鳥)は卵の中にいる時から、その声は他の鳥に勝っているようなものである。すなわちこれは、⑰円教五品弟子の智と相似即の妙である。もしこれが開かれれば、すなわちこれは、分真即と究竟即(くきょうそく)である⑳妙覚の智の妙となるのである。

法華玄義 現代語訳  71

『法華玄義』現代語訳  71

 

第五.判

諸智を解釈するにあたっての第五は判(はん)であり、二十智について麁と妙を判別することである。

前半の十二智(①世智、②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智、⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑭三蔵仏の智、⑮通教仏の智)の智慧は麁であり、後半の八智(⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智、⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智)の智慧は妙とする。

なぜなら、蔵教と通教の仏は自らの存在を無常であるとして、常(じょう・真理の次元は無常ではなく常に存在する、という意味)を説かない。仏がそうであるならば、その声聞と縁覚の二乗と菩薩は、どうやって常を聞き、常を信じ、常を修行することができるのだろうか。このために麁とする。

一方、八智の最初の別教の十信は、最初からすでに常を聞き、常を信じ、常を修行する。そのため、もうその時点で蔵教と通教の仏より優れている。ましてやそれ以外の者より優れているのは言うまでもない。このために妙とするのである。

「『法華経』には仏の身体が常に存在するとは説かれていない」と批判的に言われることは、それはただ三蔵教の仏についての意味である。ここで明らかにすることは、別教の十信は中道を知っており、もうこの意味で蔵教と通教の仏より優れているわけであり、そのためこの別教の十信以降の八智を妙とするのである。

またこの八智の中で麁と妙を判別するならば、別教の四智(⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智)は、三つの麁と一つの妙である。そして、円教の四智(⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智)は、すべてみな妙とする。

なぜなら、地論師(地論宗の人)が「中道の真理は修行の結果表わされるものである。初心の者は、ただこの真理があるということを仰いで信じるだけである。それは蓮の枝を切った時に出る細い糸が須弥山(しゅみせん・仏教の世界観で最も高い山)の頂上に掛かっていたとしても、その事実は見て確認できないのでそのまま信じるようなものである」と言っている通りである。したがって、説かれた教えを信じて修行することは、段階的なことなので、円教ではない。このために別教の十信の智慧は麁なのである。続く十住の智慧は空を中心に修行し、派生的に仮・中を修行する。またそれに続く十行の智慧は、仮を中心に修行し、派生的に中を修行する。またそれに続く十回向の智慧で初めて中を中心に修行する。ここまでの中は抽象的な真理ということに留まり、具体的な真理とはなっていない。そのために麁である。十地に至った智慧は、無明を滅ぼし尽くして中道を見る。それを悟るので妙である。したがって、三つ(⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑯別教仏の智)の麁と一つ(⑬十地の智)の妙である。

(注:別教仏は、あくまでも別教の教えを説く仏なので、円教の妙とは区別される存在ということである。したがって、別教の段階において十地に至れば、円教と同じとなって妙ということになる)。

まとめれば、蔵教・通教の二つは共に正しい仏の道へと進んではいるが、三蔵教の門は程度が低いということである。『法華経』の教えに比べれば、別教もまた同じである。この別教の教えの門は、すべて方便で権であるが、悟ればみな妙である。これに対して、円教の四智(⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智)は、すべてみな妙であるとは、存在の真実ありのままを説き、その教えの通りに信じて、真理に従って修行することである。最初の⑰円教五品弟子の智から最後の⑳妙覚の智に至るまでは、すべて実であり権ではない。これを麁の智慧に対して、妙の智慧を説くというのである。

次に、智慧における知見について麁と妙を判別する。知見とは何であろうか。四つに分けることができる。それは、「知らず見ず」、「知っていても見ていることにはなっていない」、「見ているけれども知っていることにはなっていない」、「知ってかつ見ている」の四つである。

一般の人々は、仏の教えを聞かないので知りようがない。悟りようがないので見ることがない。これが①世智の知らず見ずである。

②五停心・四念処の智と③四善根の智は、聞いてはいるので知ることであり、まだ悟っていないので見ることではない。

⑤支仏の智については、辟支仏(びゃくしぶつ=縁覚)は仏の教えを聞いていないので知っていることにはならないが、自然と悟ったわけであるから見るのである。

④四果の智は、聞いているので教えを知り、悟っているのでこれを見る。以下、このように麁と妙を判別することは順番通りにわかるであろう。

円教の知見について述べるならば、この円教の教えは、人・天・声聞・縁覚・蔵教の菩薩・通教の菩薩・別教の菩薩の七方便(しちほうべん)は、聞いていないので知らず、悟りようがないので見ない。⑰円教五品弟子の智と⑱六根清浄の智は、聞いているので知っており、まだ悟っていないので見ない。ここにもさまざまな場合があり、過去世からの因縁によって悟る者は見るということになり、それでも聞いた教えに従っていないので知らないことになる。円教の教えを受けて悟りに入る者は、知りまた見る者である。これはその場合その場合に麁と妙がある。

究極的には、ここまで述べて来た二十智について、これらを権と実の二つの智慧にまとめることができる。『法華経』に「如来は方便と知見の波羅蜜(はらみつ・完成という意味)の両方をすべて備えている」とある。これはここまで述べて来たあらゆる権の智慧を述べていることである。また「如来の知見は広大深遠である」とある。これはここまで述べて来たあらゆる実の智慧を述べているのである。すでに方便を完全に備えているなら、なぜ欠けたるところがあるだろうか。すでに知見が広大深遠であるならば、なぜ摂取しないところがあるだろうか。境は無辺の淵のようであるから、その淵を満たす智慧の水も測ることはできない。まさに『法華経』に「ただ仏と仏だけがそれらを究める」とある通りである。このような知見は、仏の眼と智慧である。仏の眼は肉眼・天眼・慧眼・法眼・仏眼の五眼を備え、智慧は一切智(すべては平等であるという智慧)・道種智(人々の能力などの違いを知る智慧)・一切種智(「一切智」と「道種智」を同時に働かせる智慧)が一つの心にある。一切種智は実を知り、一切智・道種智は権を知る。仏眼は実を見て、肉眼・天眼・慧眼・法眼は権を見る。この知はすなわち見であり、この見はすなわち知である。ここまで述べて来たあらゆる智慧が麁であり、この仏の知見を妙とするのである。

もし知見の中の意義を理解するならば、これ以上、五眼について述べる必要はない。しかし、まだ理解していない者のために、さらに五眼について麁と妙を述べることにする。

肉眼が閉じていれば、どうして物を見ることができるだろうか。人の話を聞いて、いろいろ想像して見ても、最後まで実物を見ることにはならない。その眼を開かせようとするならば、その網膜を治さなければならない。どうして目が閉じていていいだろうか。いたずらに論争して何の益になろうか。眼を閉じて想像するようなことを麁とし、眼が開いて見るようなことを妙という。天眼がまだ開いていなければ、ついたての向こう側が見えないようなことを麁という。禅定と願智(がんち・願い通りに得られた智慧)を働かせる力は、この世を超越した清らかな能力をもって物を見るために、ついたての内外も透視して、明るさの程度にも左右されない。慧眼がまだ開いていなければ、常に死への道を行く。たとえ想像しても、実物ではないので麁である。煩悩が滅ぼし尽くされれば、真理に対して明瞭になるので妙とする。法眼がまだ開いていなければ、相手の能力に合わせて教えを説くことはできない。舎利弗が相手の能力を間違えて教えを説いたことや、富楼那(るふな・舎利弗と同じ釈迦の弟子)が新しい弟子にふさわしくない教えを説いたことなどが麁である。神通力を発することを妨げる無知を破り、病気に応じて薬を処方することを妙という。仏眼がまだ開いていなければ、存在の真実の姿を見ることはできない。このために『法華経』に、「声聞と縁覚の二乗の人や、悟りを求める心を起こしたばかりの人や、退くことがなくなったばかりの菩薩は知ることができない」とある。⑪別教十信の智の位に至って仏眼と同等の智慧を得て、よく真実の仏の知見を開けば、これを妙とする。多くの教えは肉眼・天眼・慧眼・法眼の四眼を説き、または四眼を用いて仏眼を説くので麁である。『法華経』のみが仏眼を説くのである。このために妙とする。以上、麁に相対して妙を述べた。

法華玄義 現代語訳  70

『法華玄義』現代語訳  70

 

第四.照

諸智を解釈するにあたっての第四は照(しょう・智慧をもってその対象を観じること。智慧を光に喩えるので照らすと表現される)である。もし智によって境を照らし、境によって智を発するならば、有(すべての実在には実体がある)・無(すべての実在には実体がない)・亦有亦無(やくうやくむ・すべての実在には実体がありまた実体はない)・非有非無(ひうひむ)すべての実在には実体があるのでもなくないのでもない)の四句は、すべて実体の中にあることを知る。他に記した通りである。もし四悉檀の因縁をもって境と智を立てれば、ただその名称があるだけである。

問う:智はよく境を照らすのは理解できるが、境もまたよく智を照らすのか。

答える:もしこの世の常識ではなく、不思議の霊的真理によって解釈するならば、互いに相照らすことは意義として問題はない。『仁王般若経』に「智および境について説くことをみな般若(最高の智慧という意味)という」とある。鏡と鏡を照らし合わせると、互いに映し合うことに喩えられる。また大地のひとつの種は芽を生じさせ、またその芽もやがてひとつの種を生じさせるようなものである。また後にこの義を説明するであろう。

(注:ここからは、智が境を照らすことを具体的に説かれている。前にも述べたように、境とは観心の対象であるので、教理そのものが境となる)。

◎二十智(①~⑳)が十如是を照らす

①世智は、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天の六道の十如是を照らす。

②五停心・四念処(ごじょうしん・しねんじょ)の智、③四善根(しぜんこん)の智、④四果(しか)の智、⑤支仏の智、および、⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智の七つの智慧(注:五停心・四念処・四善根・四果・支仏・体法声聞・体法支仏の七つ)は、声聞と縁覚(=辟支仏)の二乗の十如是を照らす。

六度の智、および、通教の衆生教化のために世に出る⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智の智慧は、さらに上の仏の智慧を求めることにおいては菩薩の十如是を照らし、衆生教化においては六道の十如是を照らす。

⑪別教十信の智と⑫三十心の智の合わせて四十心の智慧については、同じく上の仏の智慧を求めることにおいては菩薩の十如是を照らし、衆生教化においては六道の十如是を照らす。

⑬十地の智ついては、四教の順序に従って照らすとすれば、菩薩の十如是を照らし、四教の順序を超越して照らすとすれば、⑭三蔵仏の智、⑮通教仏の智、⑯別教仏の智の仏の十如是を照らす。

⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智の四つの智慧は、みな仏界の十如是を照らす。以上は概略であり、次に詳細を述べる。

◎二十智が四種の十二因縁を照らす

①世智、②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智および、⑭三蔵仏の智の七つの智慧は、思議生滅の十二因縁の境を照らす。

⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑮通教仏の智の五つの智慧は、思議不生不滅の十二因縁の境を照らす。

⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智の四つの智慧は、不思議生滅の十二因縁の境を照らす。ただしここでは、別教の修行の段階と円教の修行の段階が相即することは考慮に入れない。

⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智の円教の四つの智慧は、不思議不生不滅の十二因縁の境を照らす。

◎二十智が四種の四諦を照らす

①世智、②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智および、⑭三蔵仏の智の七つの智慧は、生滅の四諦の境を照らす。

⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑮通教仏の智の五つの智慧は、無生の四諦の境を照らす。

⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智の四つの智慧は、無量の四諦の境を照らす。ただしここでは、別教の修行の段階と円教の修行の段階が相即することは考慮に入れない。

⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智の円教の四つの智慧は、無作の四諦の境を照らす。

◎二十智が二諦を照らす

①世智、②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智および、⑭三蔵仏の智の七つの智慧は、析空の二諦を照らす。

⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑮通教仏の智の五つの智慧は、体空の二諦を照らす。

⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智の四つの智慧、および、⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智の円教の四つの智慧の合計八つの智慧は、中道を明らかにする二諦を照らす。この間にある円入別教については自ずと知るべきである。

◎二十智が三諦を照らす

①世智、②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智および、⑭三蔵仏の智の七つの智慧は中道がない二諦を照らす。これは因縁によって生じるものであり、俗諦に属する。

⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑮通教仏の智の五つの智慧は、その中に中道を含んでいる二諦を照らす。これは即空の義によって真諦に属する。

⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智の四つの智慧、および、⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智の円教の四つの智慧の合計八つの智慧は、中道を表わす二諦を照らす。これは「すなわちこれは仮名(けみょう)である」、「また中道と名付ける」という二句によって中道諦に属する。

(注:三諦になると、中諦を独立して表現することができるので、その中諦が智慧として、空諦・仮諦の二諦を照らすということであり、一方、二諦においては、中道は真諦に含まれているので、やはり智慧が二諦を照らすと表現されるが、これは三諦の場合と言葉は同じであっても内容は違うのである)。

◎二十智が一実諦を照らす

二十智が一実諦を照らすことにおいては、『大智度論』が四悉曇を説いて、これをすべて実諦としていることを引用すべきである。世界悉檀のゆえに実諦であり、最後の第一義悉曇のゆえに実諦である。まさに知るべきである。実諦という言葉は、また四諦に通じる。生滅の四諦のゆえに実諦であり、無生の四諦のゆえに実諦であり、無量の四諦のゆえに実諦であり、無作の四諦のゆえに実諦である。したがって、三蔵教の七つの智慧は生滅の実諦を照らし、次の通教の五つの智慧は無生の実諦を照らし、次の別教の四つの智慧は無量の実諦を照らし、次の円教の四つの智慧は無作の実諦を照らす。

◎二十智の無諦無照

無諦は文字通り、真理があってないようなものである。もし四種の四諦によって真理を悟るならば、真理においては諦も不諦ないために、無諦に通じる。三蔵教の七つの智慧は生生不可説のゆえに生滅の無諦を照らす。次の通教の五つの智慧は生不生不可説のゆえに無生の無諦を照らす。次の別教の四つの智慧は不生生不可説のゆえに無量の無諦を照らす。次の円教の四つの智慧は不生不生不可説のゆえに無作の無諦を照らす。前の三つの無諦は権であり、最後の無諦は実である。しかし、これはあくまでも真理を言葉に表現したためであり、もし妙を悟った聖人の心の中に照らす次元に立つならば、そこに権と実の区別はないので、非権非実である。子供をしかる時、実際に叩かなくても、手を振り上げて見せて導くようなものである。方便をもって権を説き、方便をもって実を説く。真理の次元においては、権実もないので、非権非実として、これを妙とする。

法華玄義 現代語訳  69

『法華玄義』現代語訳  69

 

(注:③「四善根の智」が終り、これより④「四果の智」から最後の⑳「妙覚の智」までとなるが、この箇所の記述は非常に簡潔である)。

④四果(しか)の智とは、四善根に続く同じ蔵教の段階であり、初果は八忍八智(前述の十六心の別名)であり、続く二果・三果・四果の三つは、重ねて思慮の中で真理を対象とすれば、九無礙九解脱の智である。

(注:九無礙九解脱という用語も、これ以降、たびたび用いられるため、ここで解説する。

まず、三界のうちの欲界は一つとされるが、色界には四禅天に分けられ、無色界は四無色天に分けられる。

色界の四禅天とは、初禅と第二禅と第三禅と第四禅である。初禅とは、あらゆる欲望を離れ、それによる喜びと平安がある状態のことであり、第二禅とは、喜びと平安が外に表われず、内面だけに定着した状態のことであり、第三禅とは、喜びもなくなり平安だけの状態であり、第四禅とは、平安もなくなった完全に平穏な状態をいう。

次に、無色界の四無色天とは、空無辺処と識無辺処と無所有処と非想非非想処である。空無辺処とは、精神統一である禅定には果てがないと思惟することであり、識無辺処とは、認識には果てがないとすることであり、無所有処とは、結局何もないとすることであり、非想非非想とは、何もないという思惟さえ通り越して、非常に微弱な精神活動のみが残ることであり、別名を有頂天と言われる。

この一つの欲界と四つの色界と四つの無色界を合わせると、九の世界となり、これを九地という。そして、見惑は前述(『法華玄義』68参照)の十六心で断じ、また悟りが証しされたが、思惑はこの九無礙九解脱によって断じられると説かれる。

この九地の思惑が断じられる際、その思惑が断じられつつある状態を無礙道といい、断じ終わって解脱を得る位を解脱道という。すると、九地の思惑すべてでは九無礙九解脱となる。またこれを合わせて十八心ともいい、さらに前述した八忍八智の十六心と合わせて三十四心という)。

⑤支仏の智には、過去現在未来の三世の苦諦と集諦を明らかにする総相と、十二因縁を明らかにする別相がある。

六度の智とは、六波羅蜜を修行する菩薩であるが、真理による智慧がまだ弱いので、煩悩を抑えても、断じることはできない。目に見える次元での智慧は強いので、体、命、財産を捨てて顧みることはない。それに対して声聞は、よく真理に対する智慧があって聖人の位であるが、まだ自分の衣や鉢についての思いがあり、他との強弱を論じる。

⑦体法声聞の智とは、通教の声聞であり、苦諦と集諦を明らかにする総相を用いて、俗はそのままで真理の姿であると悟る。

⑧体法支仏の智とは、通教の縁覚であり、苦諦と集諦を明らかにする総相と、十二因縁を明らかにする別相を用いて、俗はそのままで真理の姿であると悟る。

⑨体法菩薩入真方便の智とは、通教の菩薩であり、有門・空門・亦有亦空門・非有非空門の四門の総相と別相を用いて、俗はそのままで真理の姿であると悟る。

⑩体法菩薩出仮の智とは、同じく通教の菩薩であり、よくあまねく四門によって仮の世に出て人々を教化する。

⑪別教十信の智とは、十信は、悟りの結果である真如実相(しんにょじっそう・真理のありのままの姿)を信じて、この真理を求めるために十信の心を起こすことである。

⑫三十心の智とは、十信の位に続く十住・十行・十回向のことである。十住は、正しく入空(にっくう)を学び、仮・中を予備的に学ぶことである。十行は、正しく仮を学び、中を予備的に学ぶことである。十回向は、正しく中を学ぶことである。

⑬十地の智とは、初地で中を証し、二地以上で中をさらに重ねて学ぶことである。

⑭三蔵仏の智とは、三蔵教の仏は、一時に八忍八智九無礙九解脱の合計三十二心を用いて、煩悩のすべてを断じ尽くす。

⑮通教仏の智とは、通教の仏は、悟りの道場に座り、禅定と智慧が一致している智慧を持って煩悩のすべてを断じ尽くす。

⑯別教仏の智とは、別教の仏は、金剛のような菩薩の段階の最後の心によって、最後の無明を断じ尽くして、究極の仏となる。また、「無明を断じると言っても、究極的な悟りの境地と同じであり、もはや断ち切るものはない」と悟るならば、円教の等覚の位に等しく、ただ円満な悟りを証得して、悟りの完成の妙覚に備えるのみである。

⑰円教五品弟子の智は円教の位であり、この五品(ごほん)とは、随喜品・読誦品・説法品・兼行六度品・正行六度品であり、五陰の対象である五境の色・声・香・味・触を断じるのではなく、そのままであらゆる感覚器官を清め、煩悩の性質を保ちつつ、よく如来の秘密の豊かな智慧を知る。

⑱六根清浄の智とは、円教の五品に続く位であり、別教の十信と同じであるが、円教では六根が清められ、究極的な悟りに似た中道智を得る。

⑲初住より等覚に至る智は、別教の十住・十行・十回向・十地と同じであり、そして⑯の別教仏の智の中の等覚であるが、円教では初住の位において、如来の一身および無量身を得て、海のような仏の真理の流れに身を任せ、意のままに働くのである。

⑳妙覚の智とは、理解すべきであり、記すことはしない。

(注:以上の位についても、四教によって分類されている。①はこの世の智慧であるので四教の外であるが、②の五停心から④の四果までが蔵教の声聞である。⑤は蔵教の縁覚であり、⑥は蔵教の菩薩である。そして⑦は通教の声聞であり、⑧は通教の縁覚であり、⑨と⑩が通教の菩薩である。そして、⑪~⑬は別教であり、⑰~⑳が円教の位である。そして⑭は蔵教の仏、⑮は通教の仏、⑯は別教の仏である。円教の仏という項目がないことについては、それはまさに絶待妙であり、⑳についても言葉の説明がないように、言葉で説明はできないのである。なお、この修行の段位については、これからも多角的に繰り返し述べられることになるので、この個所ではほぼ名称をあげることで留まっている)。