大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  74

『法華玄義』現代語訳  74

 

◎四種の四諦に対する

次に四種の四諦に対する智を述べる。『涅槃経』に「聖諦(=四諦)を知る智慧に二種ある。中智と上智である。中智とは声聞と縁覚の智慧であり、上智とは諸仏と菩薩の智慧である」とある。もしこの文によるなら、体空観と析空観を合わせて中智とし、大乗における能力の高い者と低い者を合わせて上智とする。またもし能力の高い低い、この世の次元と霊的次元と、現象面と真理の面によってみれば、この二つを開いて四つにすることができる。声聞は能力が低いので四諦の現象面を観じる。すなわち生滅の四諦である。縁覚は能力が高いので四諦の真理の面を観じる。すなわち無生の四諦である。菩薩は智慧が低く、現象面の不思議を観じる。すなわち、無量の四諦である。諸仏は智慧が深く、真理の面の不思議を観じる。すなわち、無作の四諦である。これが『涅槃経』の文の意義である。

また「一般の人は苦があり諦がない。声聞は苦があり、苦諦がある」とある。一般の人は苦についての真理を見ないために諦がないという。声聞は無常・苦・空を見るために諦があるという。すなわちこれは生滅の四諦である。

また「菩薩の人は、苦は無苦にして、しかも真諦を理解する」とある。すなわちこれは、苦は苦ではないと体得するために、苦はないという。現象面において真理を見ているので、諦はあるという。すなわちこれは大乗の教えの無生の四諦である。

また「五陰(ごおん=五蘊・認識の生じる過程)は苦であると知り、十二入(じゅうににゅう・感覚器官の六根とその対象の六境)が苦の入って来る門と知ることを、また苦と名付ける。十八界(六根と六境と六識)を苦の範囲と知ることを性と名付け、また苦と名付ける。これを中智と名付ける」とある。前の説によるならば、声聞に属する。

また「あらゆる苦、あらゆる十二入、十八界などを分別するなら、無量の形がある。私(仏)は経においてついにこれを説かなかった。これを上智と名付ける。受・想・行・識においても同じである。あらゆる声聞と縁覚の対象ではない」とある。これはすなわち前の二つの意義と異なる。「これを上智と名付け」、「声聞と縁覚の二乗の対象ではない」とあるのだから、どうして別教の菩薩が、数限りない仏の教えと如来蔵(=仏性)の真理を観じることでないことがあろうか。

また「如来は苦諦ではなく、集諦ではなく、滅諦ではなく、道諦ではなく、諦ではなく、実である。虚空は苦ではなく、諦ではなく、実である」とある。「苦ではなく」とは、虚妄の生死ではないことである。「諦ではなく」とは、声聞と縁覚の二乗の涅槃ではないということである。「実である」とは、すなわちすべての実在の真実の姿である中道の仏性である。また「苦(苦諦)あり、苦の因(集諦)あり、苦の滅(滅諦)あり、苦の対治(道諦)あり。如来は苦ではない、(因ではない、滅ではない)そして対治ではない。このために実という」とある。このように明らかにされた意義は、上の三種とは異なるので、どうして無作の四諦でないことがあろうか。

この苦の一諦を用いて四諦を表現することを例として、他の三諦も同じように表現することができる。すなわち、集(集諦)あり、集の果(苦諦)あり、集の滅(滅諦)あり、集の対治(道諦)あり。滅(滅諦)あり、滅の因(道諦)あり、滅の障(苦諦)あり、滅の障の相(集諦)あり。道(=対治=道諦)あり、道の果(滅諦)あり、道の障(苦諦)あり、道の障の相(集諦)あり。如来はこの四種の四種、合計十六種ではない。ただこれ実であるのみである。

このような智慧をもって四諦を観じると、諦は融合しないので、その智慧と諦はみな麁である。ただ苦ではなく、因・滅・対治ではなく、実あることだけを妙とするのみである。もし諦が他と完全に融合するならば、智慧もまたしたがって完全である。すべて如来の苦ではなく、諦ではなく、実の妙智である。これは絶待妙と相待妙の二つの意義である。