大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳  72

『法華玄義』現代語訳  72

 

第六.開

諸智を解釈するにあたっての第六は開(かい)であり、二十智について麁と妙を融合することである。

(注:法華経の中心的教えは、麁を妙と融合することだという観点から、究極的には、すべての智慧も妙の智慧となるのだ、というのである。これは、開あるいは開会(かいえ)などと名付けられる思想である)。

①世智から⑯別教仏の智までの十六の智慧は、もし悟りに到達しないままであれば麁の智慧のままである。しかし、悟りに到達すれば、すべて妙の智慧となる。なぜなら、『法華経』に記されている妙荘厳王(みょうしょごんおう)のように、最初は仏教以外の①世智であったが、『法華経』を聞いて悟りに到達し、誤った状態から正しい霊的状態となり、他のあらゆる教えや見解にも動じずに三十七種の修行(三十七道品・さんじゅうしちどうほん)を行じて、八種類の邪見をそのままに、八正道(はっしょうどう・三十七道品の中の一つ)を修行した。すなわちこれは、①世智をそのままにして妙智に入ることである。その妙智は、⑰円教五品弟子の智と等しくなることもあり、相似即(そうじそく・円教の位は六即とも表現され、これは第四の位)である⑱六根清浄の智と等しくなることもあり、分真即(ぶんしんそく・六即の第五の位)である⑲初住より等覚に至る智と等しくなることもある。

(注:これからも繰り返し述べられるが、円教の位は、理即・名字即・観行即・相似即・分真即・究竟即の六即とも表現される。即とは相即ということであり、究極的真理においては同じという意味である。さらに、このうちの観行即は五品弟子位ともいい、相似即は六根清浄位ともいう)。

②五停心・四念処の智、③四善根の智、④四果の智、⑤支仏の智、⑥六度の智、⑦体法声聞の智、⑧体法支仏の智、⑨体法菩薩入真方便の智、⑩体法菩薩出仮の智、⑭三蔵仏の智、⑮通教仏の智の蔵教と通教の智慧は、もし悟りに到達しないままであれば麁の智慧のままである。しかし、この権である麁がそのまま実となれば、『法華経』に「あなたがたの修行はそのまま菩薩の道なのだ」とある通り、妙の位となる。この十二の智慧それぞれが、⑰円教五品弟子の智、⑱六根清浄の智、⑲初住より等覚に至る智、⑳妙覚の智の四智に入り、ある者は⑰円教五品弟子の智に、または相似即に、または分真即に入るのである。また、⑪別教十信の智、⑫三十心の智、⑬十地の智、⑯別教仏の智もそのままで悟りに到達すれば妙智に入る。そのさまざまに入る位は上に説いた通りでる。

このように、①世智から⑯別教仏の智までの十六の麁智は、みな妙智となるのである。それは絶待妙であり、麁と相対することはない。

また次に、麁眼を開いて妙眼となることについて述べる。『法華経』以外の経典は五眼を説いても、それらが妙と融合することは説かない。このために麁とする。『法華経』は肉眼・天眼・慧眼・法眼の四眼を開いて仏眼に入らせる。経文に「父母から生まれた眼は清浄となる」とあり、「大乗を学ぶ者は、肉眼を持っていてもそれを仏眼とする」とある。すなわちこれは、肉眼を開いて仏眼とすることである。『維摩経』に「この世において誰が真実の天眼を持っているだろうか。世尊である仏こそ、相対する次元で諸仏の国を見ない」とある。これは天眼を開いて仏眼とすることである。また『法華経』に「願わくは、世尊のように最も清浄な慧眼を得ることを」とある。これはすなわち慧眼を開いて妙に入ることである。

法眼を開いて妙に入ることについては、⑲初住より等覚に至る智の最終段階が満了することである。肉眼・天眼・慧眼・法眼の四眼を開いて仏眼に入れば、その場を動じずに、しかもすべてを常に照らすのである。したがって『法華経』に、「声聞の教えが開かれれば、そのままで諸経の王である」とある通りである。五眼をすべて備えて悟りを成就し、仏知見を開くために妙とするのである。

問う:仏眼を開くことを妙とするならば、⑱六根清浄の智の位の眼根の清浄は、妙と言えるだろうか。

答える:仏眼はまだ開いていないといっても、すでに⑱六根清浄の智の位では円教を学んで信じ受け入れている。迦陵頻伽(かりょうびんが・伝説上の浄土の鳥)は卵の中にいる時から、その声は他の鳥に勝っているようなものである。すなわちこれは、⑰円教五品弟子の智と相似即の妙である。もしこれが開かれれば、すなわちこれは、分真即と究竟即(くきょうそく)である⑳妙覚の智の妙となるのである。