大乗経典と論書の現代語訳と解説

経論を通して霊的真理を知る

法華玄義 現代語訳 134

『法華玄義』現代語訳 134

 

d.麁妙を明らかにする

神通妙について述べるにあたっての四つめは、麁と妙を明らかにすることである。神通をもって人々を導くことにおいては、ただその身を変えて、その聖人の持つ報いに応じた働きをするだけではない。その国土自体を変えて、その国土に応じた報いに対応する。『瓔珞経』に「すべての国土の応を起こし、すべての衆生の応を起こす」いう通りである。もしその持つ報いに応じて変化(へんげ)すれば、十法界の身の変化となる。もしその国土に応じれば、十法界の国土の変化となる。

もし地獄、餓鬼、畜生、修羅の四悪趣に応じれば、悪業を観じる慈悲を用いて、無記化化禅(むきけけぜん・真理に自ら神通があるために、人間の作意は用いられないで自然に成就し、対象をよく照らす禅定)によって地獄等の形と本質に応じる。たとえば、黒い毛で身を覆い、猿や鹿や馬や大鷲やスズメや修羅などの姿を現わし、このようにそれぞれその行為に同化する。また人、天の身体に応じれば、善業を観じる慈悲を用いて無記化化禅によって善道の身となる。悟りを開く直前の段階の菩薩のように(注:歴史的釈迦がそのモデル)、正しい智慧をもって母胎に託し、地に産み落とされてすぐに七歩歩き、手足を洗い、柳の枝をもって自ら身を清め、成人すれば妃を迎えて子を生み、その後、世を嫌って出家する。このように、天における姿も同じようである。このようにそれぞれの行為に同化する。また三蔵教の声聞と縁覚の二乗に応じれば、析空(しゃっく)の慈悲を用いて、無記化化禅によって老比丘の姿を現わし、僧侶たちと行動を共にし、律儀に従うなど、このようにそれぞれの行為に同化する。また通教に応じれば、即空の慈悲を用いて、無記化化禅によって体空観を修す姿を現わし、無生を観じ、苦・空を習得することに応じ、この世のものを実体として認識しない。このようにそれぞれその行為に同化する。また別教に応じれば、即仮・即中の慈悲を用いて、無記化化禅によって漸教や頓教の応を起こして、大河の砂の数ほど多いあらゆる仏法を修す姿を現わす。このようにそれぞれその行為に同化する。また円教に応じれば、即中の慈悲を用いて、無記化化禅によって円頓の応を起こして、一の中の無量、無量の中の一を修す姿を現わす。このようにそれぞれその行為に同化する。

このように、その報いに応じることはすべて測ることはできない。その意義をもって理解するのみで、言葉によって表現することはできない。

この意義をもって、漸教と頓教の五味の教えの喩えによって神通を用いることを述べれば、まず、乳味(華厳時)の教えで用いる神通力は、多い少ないの違いはあるが、一麁(別教)一妙(円教)である。三蔵教(酪味)において神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、一麁(三蔵教)である。方等教(生蘇味)において神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、三麁(三蔵教、通教、別教)一妙(円教)である。般若教(熟蘇味)において神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、二麁(通教、別教)一妙(円教)である。

法華経』(法華涅槃時・醍醐味)の神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、一妙である。そのために『法華経』の序品の中に記されている瑞相(ずいそう・神通力による光景)に十種あるが、みな妙を表わす。その十種(①~⑩)とは、まず、「地はみな荘厳で清らかである」とは理法の妙(=①境妙)を表わし、「眉間から光を放つ」とは②智妙を表わし、「三昧に入る」とは③行妙を表わし、「天より四種の花を降らす」とは④位妙を表わし、「栴檀の香風」とは乗の妙(=⑤三法妙)を表わし、「僧侶と尼僧と男女の在家信者たちは疑った」とは機を表わし、「一万八千の国土を見た」とは応を表わす。すなわちこの二つの妙は⑥感応妙を表わす。「大地が六種に振動した」とは⑦神通妙を表わし、「天の太鼓が自らなり、そして説法をした」とは⑧説法妙を表わし、「天龍や大衆は歓喜した」とは⑨眷属妙を表わす。また「弟子たちがあらゆる修行をすることを見た」とは⑩功徳利益妙を表わす。ここに神通力を用いることは、多い少ないの違いはあるが、共に妙を表わすのである。

法華経』に「今、仏は三昧に入った。これは不可思議であり、希有(けう)の事象を現わした」とあるが、この「希有の事象を現わす」とは妙の神通力である。もし国土に応じれば、二つの意義がある。国土の苦・楽は衆生によることであって、仏によることではない。仏はそこに応じるのみである。もし誤りを破り、正しいことを受け入れるならば、仏は対象を見抜いて、苦しみのある国を作ったり、楽のある国を作ったりする。その視点から言えば、苦・楽は仏によることであって、衆生によることではないのである。

ここでまず、国土の苦・楽は衆生によることであるという意義を解釈する。『大智度論』に「ある国土があって、そこには声聞しかいない。あるいはある国土があって、そこには菩薩しかいない。あるいは菩薩と声聞が共に僧となっている国土があり、あるいは清らかな国土、汚れた国土がある」とある。

このような違いは何によることであろうか。それはみな、教えと戒律に対する緩慢さと熱心さの違いによる。戒律に対しては緩慢で教えに対してもまた緩慢であるならば、これは汚れた国土であり、菩薩と声聞が共に僧となっている。戒律に対して緩慢なために、五濁(ごじょく・五つの穢れのことを指し、劫濁(こうじょく・時代そのものが汚れている)、見濁(けんじょく・思想が汚れている)、煩悩濁(ぼんのうじょく)、衆生濁(しゅじょうじょく)、命濁(みょうじょく・寿命が短い)をいう)であり、汚れた国土である。教えも緩慢なために、声聞、縁覚、菩薩の三乗がいる。しかしそこに教えが熱心である点もあれば、一乗が現われる。それは娑婆(しゃば・この世のこと)である。あるいは、戒律に熱心で、教えに対しては緩慢さと熱心さがあれば、浄土である。戒律に熱心であるために、国土に五濁はない。教えに緩慢さと熱心さがあるために、三乗がいる。しかしそこに教えが熱心である点もあれば、一乗が現われる。それは極楽浄土である。教えが緩慢で戒律に熱心であるので、それは浄土であり、声聞だけがいる。これは知るべきである。戒律が緩慢で教えが熱心であるので汚れた国であり、菩薩だけが僧となる。これも知るべきである。このように清らかであったり汚れたりすることは、すべて衆生側の理由により、その高低苦楽は仏とは関係ない。

もし誤りを破り、正しいことを受け入れるという面の意義において見るならば、国は仏によるものであり、衆生は関係ない。仏は悪を観じる慈悲と無記化化禅が合わさることにより、汚れた国を起こし、地獄、餓鬼、畜生、修羅の四趣の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。善業の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、人と天の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は、析空観や六波羅蜜などの慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは汚れた国を起こし、あるいは清らかな国を起こして、声聞と菩薩の人と天の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は体空観の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは清らかな国を起こし、あるいは汚れた国を起こして、通教の声聞と菩薩の人と天の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は歴別(りゃくべつ・観心を段階的に行なうこと)の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは清らかな国を起こし、あるいは汚れた国を起こして、別教の菩薩の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。仏は即中の慈悲と無記化化禅が合わさることにより、あるいは清らかな国を起こし、あるいは汚れた国を起こして、円教の菩薩の衆生の誤りを破り、良いことを受け入れる。このように、あらゆる国を起こすことについては不同であり、これはみな如来の神通力の転変による。

ここで、この衆生と国土の転変をもって、三蔵教と通教と別教の意識的になされた神通に対して、すべて麁と名付ける。たとえば、絵を描くことにおいて、思いを尽くし力を尽くしても、結局はそれは絵であって実物ではないようなものである。これを麁と名付ける。鏡が姿を写すことにおいて、自然と実物に似るようなものは、妙と名付ける。方便の神通は、この麁である絵の喩えのようである。中道は自然に働き、対象に相対してすぐに応じる。鏡の喩えのように妙とする。

無記化化禅の働くところの神変について麁と妙を論じれば、もし九界の衆生のために、方便の神通力を用いて、清らかさを起こし、汚れを起こすならば、広くても狭くても、すべて麁と名付ける。もし仏法界の衆生のために、真実の神通力を用いて、清らかさを起こし、汚れを起こすならば、広くても狭くても、すべて妙と名付ける。『法華経』にあるように、眉間の光を放って、一万八千の国土を照らし、および三度国土の様子を変えるようなこと(注:『法華経』において、『法華経』の偉大さを証明するために現われた宝塔を開くために、釈迦が三度にわたって国土を浄化したこと)は、他の経典の神通力に比べれば、多いとすることにどうして足らないことがあろうか。ただ大いなる真理を開発(かいほつ)するためのことなので、妙というのである。

また五味の教えにおいて麁と妙を論じれば、乳味の教えは一麁(別教)一妙(円教)、酪味の教えは一麁(三蔵教)、生蘇味の教えは三麁(三蔵教、通教、別教)一妙(円教)、熟蘇味の教えは二麁(通教、別教)一妙(円教)、『法華経』(法華涅槃時・醍醐味)は一妙である。

また諸経の妙は同じであって、麁は異なっている。麁に二種類ある。一つは難転の麁であり、もう一つは易転の麁である。「易転」とは、諸経の中において、妙とすることができるという意味であり、「難転」とは、この『法華経』において、声聞と縁覚の二つの麁がなく、ただ菩薩の一つの妙があるのみという意味である。ただ仏にあって最も大切な教えを説くという因縁だけがあり、他のことはない。たとえ九界の神通力と同じであり、衆生は自分で他のことだと思っても、仏にとっては常にこれは仏のことである。『法華経』にある喩えのように、客人となった長者の息子が自分はみじめな人間となったと思っても、父親の長者はすぐに自分の子だとわかったようなものである。これはすなわち相待妙の神通妙である。

また諸経のあらゆる麁の神通は、妙の神通を隔てるものである。『法華経』の神通はすべてを開権顕実するので、同じく妙の神通である。これは、絶待妙をもって妙の神通を明らかにすることである。以上は略して述べたことであり、詳しい論述ではない。

(注:以上で神通妙は終わる)。

法華玄義 現代語訳 133

『法華玄義』現代語訳 133

 

c.同異を明らかにする

神通妙について述べるにあたっての三つめは、同異を明らかにすることである。たとえば、餓鬼道に生まれることは、業の報いにおける神通である。また、人は薬を飲んで神通を得る。仏教以外の宗教である外道は、根本禅(こんぽんぜん・この世の次元の瞑想)によって神通を発する。諸天は業の報いにおける神通である。声聞と縁覚の二乗は、八背捨(はっぱいしゃ・八通りの執着を捨てる方法)・八勝処(はちしょうしょ・八通りの認識の対象を観じて執着を捨てる方法)・十一切処(じゅういっさいしょ・すべての実在を十種類に分類して観じる方法)によって、十四変化(じゅうよんへんげ・「八背捨」、「八勝処」、「十一切処」は外道も修す「根本禅」からさらに進んだ「出世間禅」で修すものであり、この結果十四通りの報いを受けるとする)。六波羅蜜を修す蔵教の菩薩は、禅定によって五神通(六神通から「無漏通」を除いた五つ)を得て、悟りの道場に座る時、六神通を得る。通教の菩薩は、禅定によって五神通を得て、体空観の智慧によって、無漏通を得る。別教の十地以前の位では、禅定によって五神通を発し、十地に至って正しい無漏通を発して、心のままに常に照らして、相対的な見方では諸仏の国土を見るようなことはなくなる。

(注:このような記述を見ると、神通力と言ってもかなり幅が広く、人が薬を飲んでも神通力を得ると表現されているところから、現代風に表現するなら、日常生活では得られない能力というような意味と解釈して問題はないであろう)。

円教の神通とは、『法華経』および『普賢観経』によって、鼻根と舌根を加えて六神通とする(注:ここまでで見た六神通においては、天眼通は眼根、天耳通は耳根、他心通と宿命通と無漏通は意根、如意身通は身根による神通であった。したがって、鼻根と舌根は除外されていたわけだが、円教に至って、六根がそのまま六神通となる、ということである)。『菩薩処胎経』でも同じことが記されている。他心通と宿命通は意根に属する。しかし『法華経』の文においては、鼻根の神通について詳しく述べられている。六根の互いに備え合うことも妨げがない。また舌根も眼根・耳根・鼻根・身根に通じ、舌根によって出される一つの妙なる声をもって、すべての世界に遍満させる。しかし味を知ることは述べられていない。味を知ることは、業による報いであるからである。『法華経』には、「あらゆる六根は明らかに働き、智慧は明瞭である」とある。六根がみな智慧とされることは、互いに備え合っているという意味である。

そして六根の神通は、事象的な禅定によっては発しない。これはすなわち中道の真理によるものである。真理に自ら神通があって、自然に成就することにより、人間の作意は用いない。このために無記化化禅(むきけけぜん)と名付ける。別に作意がないために無記という。自然に常に明るく照らすことは、自然に奏でられる阿修羅の琴のように、その変化(へんげ)はよく変化するために化化という。中道の真理の神通はこのように自然であって、他の神通とは異なっている。その行なわれるところを論じれば、みな、実相常住の理法を対象とする。『法華経』に「この常(じょう)の眼根が清浄となる」とある。ここにある「この常」は、すなわち本性清浄の常であって、その本性に汚れはない。『阿毘曇毘婆沙論』に「六入(ろくにゅう・眼耳鼻舌身意)が殊勝であることは、もとからそうであるからである」とある。

『鴦掘経』に「いわゆる彼の眼根は、あらゆる如来において常である。完全に備わっていて無減修(むげんしゅ)であり、了了分明見(りょうりょうぶんみょうけん)である」とある。また他も同じく「耳、鼻、舌、身、意は、みなあらゆる如来において常である。完全に備わっていて無減修であり、了了分明聞知である」などとある。「彼」とあるが、仏においては「自」となり、衆生においては「彼」となるのである。衆生は無常であるとするが、如来においては常である。「無減修」とは、禅定によって修行することを減修といい、実相によって修行することを無減修と名付ける。仏性を見ないことを「不了了見」といい、仏性を見ることを「了了見」と名付ける。また実相の絶対的理法を見ることを了了と名付け、法界の相対的事象を知ることを分明と名付ける。この見(けん・目に見ること)に二種ある。一つは相似即の見であり、もう一つは分真即の見である。

相似即の見とは、六根清浄のところで述べた通りである。分真即の見について述べれば、『華厳経』に述べられている仏の眼、耳、鼻、舌、身、意の通りである。この経の中にも、真実の身の神通の相を明らかにしている。いわゆる遍く目に見える身を現わし、すべての衆生が見て喜ぶ身を示現するということは、外に現わされる身の神通である。その身を現わすことは、瑠璃のようである。また、あらゆる方角の諸仏はすべてその身において現われるということは、内現身の神通である。眼、耳、鼻、舌などの内外の示現も、またこれに同じである。これは円教の神通であり、前に述べた他の教のものとは異なる。

問う:六根がそのまま六神通ならば、なぜ功徳に増減があるのか。

答える:『大智度論』の四十には、「鼻、舌、身を同じく覚(がく)とし、眼を見(けん)とし、耳を聞(もん)とし、意を知(ち)とする。鼻、舌、身の三識の知る対象は同じとし、眼、耳、意の三識の知る対象を別とする。眼、耳、意の三識は仏の道法を助けることが多いので別と説き、鼻、舌、身の三識はそうではないので、対象は同じとする。また鼻、舌、身の三識はただこの世のことを知るのみであるために、対象は同じとし、眼、耳、意の三識は同じくこの世のことを知るが、またこの世を出た次元のことを知るために別と説く。また鼻、舌、身の三識は無記(むき・人の作意とは関係がないこと)であるが、眼、耳、意の三識は善、悪、無記などを対象とする。また眼、耳、意の三識は三業(身・口・意)を生じさせる因縁であるため、別と説く」とある。このような意義で見れば、むしろ、聞くことである耳根と、話すことである舌根と、考えることである意根が、さまざまな意義を持つので『法華経』に記されている通り千二百の功徳があり、見る眼根と、嗅ぐ鼻根と、触覚である身根は、意義が多くないのでただ八百の功徳がある。しかしこれは単なる一例に過ぎないので、『法華経』の円教の意義ではない。『正法華経』には、「功徳は平等であり同じく千ある」とある。

法華経』は、六根が互いに他の働きを備え合っていることを表わしており、耳根と舌根と意根の三根の千二百のうちの二百功徳をもって、眼根と鼻根と身根の三根の千から二百足りない部分を補って、互いに働き、自由自在で無礙である。すべてが等しく働くことを『正法華経』では功徳は等しいと説き、足りないところがあることについては、『法華経』のように眼根と鼻根と身根の三根の八百と表現し、満たすことについては耳根と舌根と意根の三根の千二百と表現しているのである。さらに『法華経』には「この経を保てば、その功徳は無量である。虚空に際限がないように、その福は限りがない」とある。六根が互いに働き合うのは明らかである。

法華玄義 現代語訳 132

『法華玄義』現代語訳 132

 

⑦.神通妙

 

迹門の十妙の第七に、神通妙(じんつうみょう)について述べるが、これについて、四つの項目を立てる。一つめは、次第を明らかにし、二つめは、名数を明らかにし、三つめは、同異を明らかにし、四つめは、麁と妙を明らかにする。

 

a.次第を明らかにする

神通妙について述べるにあたっての一つめは、次第である。次第とは、前に述べた感応妙の意義を受けて、その次に述べる意味を明らかにすることである。感応は、ただその機の生じる相と、応の赴く相を論じるものである。正式に、仏の教化の働きが他の人々を利益することを述べるならば、すなわち身輪(しんりん)・口輪(くりん)・他心輪(たしんりん・相手のことを見抜く能力)があげられる。『法華経』の「観世音菩薩普門品」には、この内の二つの文があるが、そこにはこの三つを兼ねている。「(観世音菩薩が)娑婆世界に遊ぶ」とあるのは身輪のことであり、「その者のために説法する」とは口輪のことである。蓮華が大きく咲いているのを見て、池の水が深いことを知るようなものである。もし説法が偉大であれば、その智慧も偉大であることを知る。このために、この二つの輪は他心輪を兼ねて示している。

また、化他は多く身輪と口輪を示し、他心輪を示すことは少ない。数からすれば、二つしかなく、他心輪はない。『維摩経』に「それを見聞する者はすべてみな悟りを得る」とある。身輪を示すとは、すなわち悪を破る薬樹王身であり、善を生じさせる如意珠身を示す。口輪を示すとは、すなわち悪を破る毒の太鼓と善を生じさせる天の太鼓を示すことである。これは慈悲が身と口に現われれば、二つの身と二つの太鼓が挙げられるのである。

もし他心輪を示すならば、随自意・随他意を示すことである。またこれは行妙で述べた病行・嬰児行と同じである。前の感応妙で機と応が互いに関係し合うことを述べたが、それでも妙である真理は現われることは難しい。そのために、仏は神通力を発動して、すばらしい相を顕わして、それによって密かに真理を表わすのである。世の人は、蜘蛛の巣があれば良いことがあり、かささぎが鳴けば旅人が来るという。小さい事ですら、このような表われがあるならば、大いなる真理については、その兆候がないわけがあろうか。身近なことを通して偉大なことを表わすこともこのようである。

 

b.名数を明らかにする

神通妙について述べるにあたっての二つめは、名数である。諸経に記されている神通の名称と数は同じではない。ここでは六種にまとめる。天眼(てんげん)・天耳(てんに)・他心(たしん)・宿命(しゅくみょう)・如意身通(にょいしんつう)・無漏(むろ)などである。

(注:この六種を六神通という。天眼通は、すべての物ごとを見通す力。天耳通は、あらゆる音を聞き分ける力。他心通は、他人の心を知る力。宿命通は、前世を知る力。如意身通は、あらゆる所に身を現わす力。無漏通は、すべての煩悩を滅したことにより生まれ変わりから解放されている力)。

これらをみな神通というのは、『瓔珞経』に「(神通の)神は天心によって名付けられ、通は慧性によって名付けられる」とあることによる。天心とは、自然そのままの心のことである。慧性とは、妨げのない活動である。『阿毘曇論』に「通を妨げる無知がもしなくなれば」とあるのは、すなわちこの慧性を発することである。まさに知るべきである。自然そのままの活動は、上にあげた六種と相応して、よく転変自在となる。このために神通と名付けるのである。『地持経』の「力品」には「(神通の)神は測ることができないことをいい、通は妨げがないことをいう」とある。この解釈は『瓔珞経』と同じである。天心は測ることのできないという意味であり、慧性は妨げがないということである。

しかし、この六種は、修される場合に時間の経過とは関係なく、証される場合に順番はなく、用いられる場合は時に任せられる。このため、あらゆる経典に記される順番などは同じではない。『大智度論』に「幻術は偽りの法である。草木を通して人の目を惑わしても、それは実物を変えることではない」とある。しかし神通はそうではない。実物を変える道理によるものであり、実際に物を変化させる。地が水となるならば、それは道理によるものであり、水に地となる原因があるからである。金銀は火の中に入れば溶け、水は非常に寒い所に置かれれば凍る。火と寒さは溶かしたり固まらせたりする法である。固まる時には固まり、溶ける時には溶ける。もし自然そのままの活動を得れば、転変自在である。火と寒さは、実際に他の物を変化させることができる。これは果報などではなく、ただ神通が一時、作用しただけのことである。

(注:一般に神通力などというと、それこそ、ここに記されている幻術のようなものを連想する人が多いと思うが、天台大師はそうではなく、むしろ今でいう科学的な法則にそったものであると言っている。それは実際に物事そして人々を変えることができるものであり、決して、この世の法則、そして霊的法則を無視したものではなく、むしろその真理の法則の表われだというのである。人が悟るのも、また救われるのも、このような真理の法則によってこそ意義があるのであり、一時的な気休めや自己満足には全く意味がないのである)。

法華玄義 現代語訳 131

『法華玄義』現代語訳 131

 

⑤麁妙を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての五つめは、麁と妙を明らかにすることである。これについて、三つの項目がある。一つめは、機の麁と妙を明らかにし、二つめは、応の麁と妙を明らかにし、三つめは、麁を開いて妙を顕わす。

◎機の麁と妙を明らかにする

楽についても、その間に存在する楽間地獄(らくけんじごく)の楽は、微細な善因による。このために、『立世阿毘曇論』に「人が馬、牛、羊、犬、鶏、豚などの家畜を飼う時に、温かい餌や冷たい餌を適度に与えるなどすれば、熱地獄に堕ちても涼しい時があり、寒地獄に堕ちても暖かい時がある」とある。もしこの意義に従えば、楽間地獄に十法界の機があるということができる。しかし、阿鼻地獄には楽がある時がないので、事象的な善はない。ではなぜ十法界を備えるのだろうか。それは、阿鼻地獄においても、理性(りしょう・理法的な真理の次元における本性)の善は断ち切られていないからである。また近世(ごんぜ・生まれ変わりにおいて経て来た比較的近い転生の世)に事象的な善はなかったといっても、気の遠くなるような過去には善があったはずである。悪が強く善が弱ければ、冥伏(みょうふく・目に見えない状態で存在すること)してまだ発していないのである。もし因縁が合えば、発することがあるが、それも定まることはない。このために、阿鼻地獄に十法界の機を備えることができるのである。

すなわち麁と妙を判別すれば、九界の機を麁として、仏界の機を妙とする。麁の機は方便の応を召す。この機に熟と未熟がある。方便の応に浅と深がある。機の熟している者には応があり、熟していない者には応はない。応の浅深とは、無間地獄から脱して楽のある複数の地獄に行き、それらの地獄から出て畜生に行き、畜生を出て修羅に行き、このような三悪道から出て人・天に行き、人・天を出て、声聞と縁覚の二乗に行くというようなものは、すべて機の熟と未熟、そして応の浅深によるものであり、すべて麁の機に属する。

妙機は究竟の妙応を召す。妙機にまた熟と未熟がある。妙応にも浅と深がある。『雑宝蔵経』に、慈童女が地獄に行って人の代わりに罪を受け、それによって天に生じることが記されているようなものである。これは妙機が浅くしかも熟していて、欲界の天に行った例である。他のことは、これによって知るべきである。

◎応の麁と妙を明らかにする

聖人の慈悲や誓願は、その誓願を行なう場合、物同士が接着剤でつくように、自然と機とつく。このために慈善根力をもって、仏が襲ってくる象に対して獅子を出したようなものである。もし誓願がなければ、苦楽を観じても、それを抜いたり与えたりできない。慈悲の力をもって、機の麁と妙によって、機が先に熟せば先に応じ、後に熟せば後に応じる。

三蔵教や通教の聖人にもまた応があるが、ただ作意された神通力であるのみである。たとえば、絵を写し取るためには、その通りになぞれば完成するようなものである。詳しく論議すると、そこに本体はない。なぜなら、結局、身は灰となって智慧も滅び、常住することはない。どうして応を起こすことができるのだろうか。別入通教のようなものは、別教の惑がまだ断じることがなければ応ずることはできない。たとえ対象に赴いても、それらはみな麁応である。

別教と円教の場合は、初心に惑を抑えても、まだ応じることはできない。別教の初地や円教の初住に三観が現われ、二十五三昧を証し、法身清浄であって、煩悩がないことは虚空のようであり、動くことなくすべてに応じる。思いも念もなく、機にしたがって対応する。空の月が降りて来ることなく、それを映すあらゆる水も昇ることなく、川の長短に従って、その器の大きさに従って、前なく後ろなく、同時に遍く現われるようなものである。これは不思議の妙応である。またきれいな鏡の表と裏が透き通って、一つの像も千の像も選ぶことなく、功徳の力など用いなくても、自然に像を映すようなものである。これを妙応という。これは相待妙をもって感応妙を述べることである。

◎麁を開いて妙を顕わす

九界の機は麁であって、仏界の一界の機は妙であるならば、また法身の応を得ることにはならず麁である。法身の応を受けるのは妙の者である。あらゆる大乗経典や『華厳経』などには、麁妙が互いに隔てることを明らかにしている。声聞と縁覚の二乗が聞かず悟ることがないことは、口のきけない人や耳の聞こえない人のようなものである。『無量義経』に麁と妙を明らかにすることは、一つの真理から無量の麁・妙の機と応を出すことである。一つの真理を妙として、無量の機と応を出すことを麁とする。これは妙から麁を出すことであり、妙と麁は隔たって交わることはない。

法華経』は、無量の機と応が一つとなることを明らかにする。これは開権顕実するとき、麁はそのまま妙となるからである。なぜなら、もともと一つの真理を表わす時、あらゆる方便を用いれば、その方便がそのまま真実である。このために、「あらゆる行為はすべてひとつの事のためである。これは今までも同じである」とある。たとえば、三種類の草と二種類の木は、種類は違っていても、生える土地は同じであるようなものである。すなわち、源が同じであることは機が一つであることである。同じ雨が潤すことを説くことは、受けるものが同じであって、応が一つであることである。愚か者はこのことが理解できない。草木の色や香りや味や肌触りは、もともと土地とは関係ないという。智者は、その四つが生じるのは土地からであり、その四つが消滅するのはただ土地に還るだけだと悟っている。どうして草木が存在するのに、それは土地と関係ないであろうか。これはすなわち権を開いて、実を顕わすことである。『法華経』は声聞の教えを究竟するので、諸経の王である。九界の機は、みな仏界の機である。声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖の応は、そのまま妙応ではないということはない。

 

f.観心を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての六つめは、観心を明らかにすることである。

(注:この箇所の文はない。以上で感応妙は終わる)

法華玄義 現代語訳 130

『法華玄義』現代語訳 130

 

d.相対を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての四つめは、機と応の相対を明らかにすることである。これについて四つの意義がある。一つめは、この世のあらゆる苦楽と聖人の三昧の慈悲の相対についてであり、二つめは、機と応の相対についてであり、三つめは三十六句の相対についてであり、四つめは、別教と円教の相対についてである。

◎苦と三昧の相対について

あらゆる機は多いが、二十五有(にじゅうごう・衆生が流転する世界を細かく二十五種に分けたもの。詳しくは前述あり)を出ることはない。あらゆる応は多いが、二十五三昧(にじゅうござんまい・二十五有の迷いを破るの三昧。詳しくは前述あり)を出ることはない。地獄の衆生に善悪の機があって、無垢三昧(むくざんまい・地獄の迷いを破る三昧。前述あり)の慈悲の応にあずかる。この悪を述べれば、黒業(=悪業。一般的に業というと悪い意味に解釈されるが、実際の業には善業と悪業がある)の悪、見思惑の悪、塵沙惑の悪、無明惑の悪である。善を述べれば、白業(=善業)の善、即空の善、即仮の善、即中の善である。これを地獄の機という。無垢三昧の慈悲を応とするとは、最初、無垢三昧を修して地獄を観じると、因縁観の慈悲、即空観の慈悲、即仮観の慈悲、即中観の慈悲がある。因縁観を修す時は、悲は地獄の黒業の苦を抜き、慈は白業の楽を与える。即空観を修す時は、悲は地獄の見思惑の苦を抜き、慈は無漏の楽を与える。即仮観を修す時は、悲は地獄の塵沙惑の苦を抜き、慈は道種智の楽を与える。即中観を修す時は、悲は地獄の無明の苦を抜き、慈は法性の楽を与える。以上は地獄に善悪の機があって、無垢三昧の応にあずかることである。苦を抜いて楽を与える相対の意義である(注:以上は地獄を例にあげて、その機に相対する三昧について述べたものである。前に「二十五有」に相対する「二十五三昧」が説かれているので、他の「有」についても同様であるので、記されてはいないのである。そして以下も同様である)。

◎機と応の相対について

地獄界の中の黒業の悪に、微(び・これ以降に記されている機の三義(微・関・宜)と応の三義(赴・対・応)は前にすでに述べられたものである。この機の微には微妙に動くという意味があり、それは仏を求める微妙な動きのことであるという)の意義があり、関(かん・機の善と悪には、聖人の慈悲に関わるという意義があるという)の意義があり、宜(ぎ・機の苦には聖人の慈悲にふさわしいという)の意義がある。この三つの機は、すなわち無垢三昧が修される時の慈悲に関わるのであり、そこに赴(ふ・機の微に対応する応の働き。すなわち微のあるところに赴くという意味)の意義があり、対(たい・機の関に対応する応の働き。聖人の慈悲が機に相対するという意味)の意義があり、応(おう・機の宜に対応する応の働き。すなわち、機にふさわしいように応じるということ)の意義がある。

また、地獄の白業に、また機と応の合わせて六つの義がある。すなわち即空は見思惑、即仮は塵沙惑、即中は無明惑に対応する。地獄の黒業の悪に白業が対応することに、この六つの義の相対があるのである。

◎三十六句の相対について

地獄の黒業と白業に、冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応の四句があって、無垢三昧の慈悲に関わる。この四つの応によって聖人が地獄に赴くと(赴)、見思惑には即空、塵沙惑には即仮(=道種智)、無明惑には即中など、みな相対するが(対)、四つの機に四つの応がふさわしく対応する(応)。また地獄に、この冥と顕の四句による三十六句の機があり、無垢三昧の三十六句の応が対する。

◎別教と円教の相対について

もし地獄に段階的に区別される機があるならば、三昧の応もまた段階がある。もし地獄に普遍的に円満な機があるならば、三昧の応もまた普遍的に円満である。

もし段階的に区別される機が起こるならば、三昧は段階的に応じる。それは、次の通りである。一人の業は去っても、他の人の業は必ずしも去ることはない。地獄、餓鬼、畜生の三悪道の思惑は尽くされても、他の人の思惑は必ずしも去ることはない。地獄の見惑を尽くす道種智が明らかとなっても、他の人の道種智は必ずしも明らかとはならない。地獄の仏性は明瞭となっても、他の人の仏性は必ずしも明瞭とはならない。

もし普遍的に円満な機と応について述べるならば、次の通りである。地獄の自在の業がまだ究竟されなければ、他の人の業もまだ究竟されない。一人の見思惑がまだ尽くされなければ、他の人の見思惑もまだ尽くされない。一人の人の道種智がまだ明らかにされなければ、他の人の道種智も明らかにされない。一人の人の仏性がまだ明瞭にならなければ、他の人の仏性もまだ明瞭にされない。一人の人の仏性が明瞭になれば、他の人の仏性も明瞭となる。同じように、一人の人の業が自在となれば、他の人の業も自在となる。地獄の機と応の相対を分別すれば、上に述べた通りである。地獄以外の二十四有の機と応の相対もまた同様である。

問う:善機に悪応があったり、悪機に善応があったり、段階的な機に普遍的に円満な応があったり、普遍的に円満な機に段階的な応があったりするのだろうか。

答える:仏の自由自在の働きにかなえば、またそれもある。『維摩経』に「ある時は風火を現わして、それによって衆生を照らして無常を知らせる」とある。すなわち悪をもって善に応じるのである。『法華経』の妙荘厳王の物語において、王は最初、邪悪な教えを受け入れていたところ、薬王菩薩と薬上菩薩と光照荘厳相菩薩の三菩薩はそれぞれ妻と二人の子となって王を正しく導いたことが記されている。まさに、善が悪に応じたのである。

普遍的に円満な機に段階的な応がある場合とは、一切智の誓願は、普遍的であり何ら失われることはない。普遍的に円満な機は失われることがない。方便として声聞の教えを教えることは、段階的な応である。

段階的な機に普遍的に円満な応がある場合とは、『法華経』にあるように、最初に三つの車を子供に約束して、火宅から出て来た子供たちにそれぞれ同じ一つの立派な車を与えるようなものである。その教えを理解した告白に「この上ない多くの宝は、求めずに与えられた」とある。これはこの意義である。楽を抜き苦を与えることは、これによって知るべきである。

法華玄義 現代語訳 129

『法華玄義』現代語訳 129

 

c.同異を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての三つめは、同異を明らかにすることである。ここに三つの項目を立てる。一つめは、四句について不同を論じ、二つめは、三十六句について不同を論じ、三つめは、十法界について不同を論じる。ただし衆生の能力の違いは千差万別であるので、諸仏の巧みな応も無量である。この違いによって、悟りを得ることも同じではない。このために『法華経』に「名称も形もそれぞれ異なっていれば、種類も多い。上中下の根や茎や葉などがある。この種類の本性にしたがって、それぞれ成長するのである」とある。これはすなわち、機と応が不同であることである。

◎四句について不同を論じる

ここで概略的に述べれば、四つの句がある。一つめは「冥機冥応(みょうきみょうおう)」であり、二つめは「冥機顕応(みょうきけんおう)」であり、三つめは「顕機顕応」であり、四つめは「顕機冥応」である。

一つめの冥機冥応とは、もし過去世において、よく身・口・意の三業を修行し、現在の世においては、まだ身と口にはその利益(りやく)が現われておらず、過去世に積んだ徳によっているだけならば、それを冥機と名付ける。現在の世において、霊的な応を見ないといっても、秘密に法身の利益を受けている。見ず聞かずとも、目に見えない霊的次元においては覚知している。これを冥応とする。

二つめに冥機顕応とは、過去世に善を積んで、目に見えない仏への働きかけである冥機はすでに成就している。すなわち仏に会い、教えを聞くことができ、目に見える形で利益を得る。これを顕益(けんやく)という。仏が初めて世に出て、最初に悟りへと導かれる人がいるが、そのような人は、現在の世においてはそれ以前に修行などできるわけがない。諸仏はその過去世の機を照らして、自らそこに行き、その人を悟りに導くのである。すなわちこのような意味である。

三つめに顕機顕応とは、現在の世において身口を精進し怠らず、その結果、よく感と応が起こることである。経典にあるように、須達長者(しゅだつちょうじゃ)が膝を曲げて願い出れば、釈迦はそれに応じて祇園に赴いたように、また月蓋長者(がつがいちょうじゃ)が体を曲げて願い出れば、観世音菩薩と勢至菩薩が門の所に現われたようなものである。すなわち修行者が道場で礼拝して、よく霊的なしるしを感じるようなものである。これが顕機顕応である。

四つめに顕機冥応とは、人の一生において苦しみ勤め、この世における善を濃厚に積んでも、明らかに仏からの応を感じることがなく、目に見えない利益があるようなものである。これは顕機冥応である。

この四つの意義を解釈すれば、『法華経』にあるように、少しでも仏に対して頭を低くすることや手を挙げることでも、その福は空しく捨てられるようなことはない。一日中、感に対する応を感じることがなくても、その一日を悔いる必要はない。もし殺戮を喜ぶ者が長生きして、施しをする人が貧しくなっても、邪見を生じないようにせよ。もしこれを理解しなければ、努力など無駄であったといって、憂い後悔して真理から遠ざかってしまう。『大智度論』に「今の私の病気はすべて過去世によるものだ。今生(こんじょう)に福を修すならば、その報いは必ず未来世にある」とある。正しい念を持ち続け、ひがむことなく、この四つの意義を得るべきである。

◎三十六句について不同を論じる

上に冥と顕の感応について論じるにあたって、概略的に四句を挙げたが、もしさらに加えて論じれば、四つの機をもって根本とする。それは「冥機」「顕機」「亦冥亦顕機」「非冥非顕機」である。冥は過去世であり、顕は現世であり、亦冥亦顕は過去世と現世であり、非冥非顕は未来世である。仏が一闡提のために説法するようなものである。

冥機・顕機・亦冥亦顕機・非冥非顕機の各の中に、またこの冥・顕・亦冥亦顕・非冥非顕の四つの意義がある。冥機から論じれば、冥機冥応・冥機顕応・冥機亦冥亦顕応・冥機非冥非顕応となり、顕機では顕機冥応・顕機顕応・顕機亦冥亦顕応・顕機非冥非顕応となり、亦冥亦顕機では、亦冥亦顕機冥応・亦冥亦顕機顕応・亦冥亦顕機亦冥亦顕応・亦冥亦顕機非冥非顕応となり、非冥非顕機では、非冥非顕機冥応・非冥非顕機顕応・非冥非顕機亦冥亦顕応・非冥非顕機非冥非顕応となり全部で十六句となる。こうして機が応を召すならば、この応にもまた冥応・顕応・亦冥亦顕応・非冥非顕応があり、また四つの機に対応し、応も合計で十六句があることになる。このようにして機と応と合計して三十二句が成就する。さらにこの三十二句に根本の四句である冥機冥応・冥機顕応・顕機顕応・顕機冥応を加えれば、三十六句の機と応となる。

(注:文字の上だけでみれば、「十六句」しかないことになるが、機の側から見た場合と応の側から見た場合との違いで「三十二句」となる。さらに、この「三十二句」は、冥は過去世であり、顕は現世であり、亦冥亦顕は過去世と現世であり、非冥非顕は未来世であるという見方からのものであり、それに対して③で見た「根本の四句」は、単に冥は目に見える形で現わされていない機と応のことであり、顕は目に見える形で現わされた機と応のこととして「四句」が成り立っている。必ずしも、冥は過去世であり、顕は現世であるということではない。したがって、この「三十二句」に「根本の四句」を加えて「三十六句」としているのである。つまり繰り返せば、表面的な文字の上では「十六句」しかない)。

◎十法界について不同を論じる。

以上は、ただ一人の身業の機について三十六句があると述べただけであり、あらためて、身・口・意の三業についていえば、百八の機となる。さらに、過去現在未来の三世についていえば、三百二十四となる。人界の一法界がすでにこのようであれば、十法界では、三千二百四十の機応の不同がある。そして以上は自らの行である自行についてのことであるので、他を教化する化他もまた同じとなる。合計すれば、六千四百八十の機応である。そしてこれは、各法界が完全に別々であるという前提に基づいている。十法界が互いに具足し合っている真理に基づけば、これを九倍増し加える必要があるので、すべてで六万四千八百の機応となる。

(注:以上は、とにかく多くの数字となるのだ、ということを述べているのではなく、機と応に関しては、これほど数えきれないほどのパターンがあることを示し、自分もどのような状態、すなわちどのような機の状態であったとしても、必ず仏からの応があるのであり、また、それを自覚できる、すなわち顕であっても、自覚できない、すなわち冥であっても、そこに応があることには違いがないのだ、ということを、このような表現を通して説いているのである)。

法華玄義 現代語訳 128

『法華玄義』現代語訳 128

 

b.相を明らかにする

感応妙について述べるにあたっての二つめは、相を明らかにすることである。まず、善悪について機の相を明らかにして、次に慈悲について応の相を述べる。

もし善悪をもって機の相を述べるならば、機は善なのか悪なのか、あるいは善と悪が共にあるのか。これについては解釈する者によって違いがある。ある人は「悪を機とする」という。そして『涅槃経』の「私はすべての衆生のでき物や重病を断じるようとする」という文と、また「七人の子がいたとして、その中に病の子に特に心が注がれる。如来もまた同じである。すべての衆生に対して平等ではないということではない。しかし、罪の者に対しては、心が重く偏っている」という文と、さらに「如来は無為(むい・真理に根差すこと)の衆生のために世に住むのではない」という文を引用する。また無記(むき・仏教では「善」と「悪」と善悪どちらでもない「無記」の三つをいうため、ここで無記をあげている)は、結局、無明であるので悪に属する。すなわち悪をもって機とするのである。

あるいは、善をもって機とする。『涅槃経』の「私は衆生を見るに、老少中年、貧富、貴賤を見ない。善心ある者に対して慈しみの念を持つ」という文を引用する。これはすなわち善を機とすることである。

あるいは、「善悪はどちらも単独では機とすることはできない」という。なぜならば、仏となる直前の心の状態は、すなわち仏そのものである。あらゆる善が集まり、この善の状態を超えるものはない。したがって、この状態を機とすることはできないことになる。仏と仏の念は通じるとはいっても、これは当然のことであり、苦を除いたり楽を与えたりすることではない。このため、善を機とすることはできない。また、悪を機とすることはできないということは、一闡提(いっせんだい・成仏する因縁を持たないとされる者)の極悪は、仏を感じることができないようなものである。また『涅槃経』に「ただ一本の髪の毛だけでは、身を持ち上げることはできない」とある。すなわちこれは人の本性にある理法的な善のことである。これは誰でも機として当てはまることであり、これでは結局、感の意義を成立させない。

あるいは、善悪共に帯びていることを機とすれば、一闡提が悔い改める心を起こすことから始まって、上は等覚の位に至るまで、みな善悪を共に帯びることになる。このために機とすることができる。したがって、機の相とは、善悪を共に帯びているということになる。

次に慈悲について応の相を明らかにすると、慈の一つをもって応とすることができる。『涅槃経』には、釈迦を殺すために放たれた象に対して、釈迦は慈善根の力をもって獅子を出し、象は釈迦を礼拝したことが記されている。このことについて広く説くことは、『涅槃経』の通りである。あるいは、悲のひとつをもって応とすることができる。『請観音経』に、観世音菩薩は地獄に赴いて、大いなる悲をもって代わりに苦しみを受けることが記されている。あるいは慈と悲を合わせて応とすることができる。なぜなら、悲の心は智慧に働きかけ、よく他の者の苦を除き、慈の心は禅定に働きかけ、よく他の者に楽を与えるためである。『法華経』に「禅定と智慧の力をもって荘厳し、これをもって衆生を導く」とある。『法界性論』に「水銀は真金と混ざって、あらゆる像に塗ることができる。功徳は法身に和合して、あらゆる所に応じて身を現わす」とある。水銀だけ、あるいは真金だけで、どのように像を塗ることができるだろうか。まさに知るべきである。慈と悲が合わさって応となるのである。

問う:衆生の善悪に、過去現在未来の三世がある。どの世を機とするのか。聖人の法(注:この場合は教えの意味)にもまた三世がある。どの世を応とするのか。過去はすでに去り、現在は留まらず、未来はまだ来ていない。すべて機とすることができない。また応とすることもできない。どうして善悪をもって機と応を論じることができるだろうか。

答える:もし理法を究めて考察すれば、三世はみな不可得である。このために機もなく、また応もない。このために『維摩経』には「菩提に過去現在未来があるというのではない。ただ世俗の文字や数字によって三世があるというのである」とある。四悉檀の力をもって、衆生に合わせて説くのである。

あるいは、過去の善をもって機とすることができる。このために『法華経』に「私たちは過去の福があって、今、世尊に会うことができた」とある。また五方便の位の人のように、過去の世に方便を学んだ人は、真理を発することが容易で、過去に学ばない人はそれが難しい。このために過去の善をもって機とする。あるいは、現在の善をもって機とすることができる。このために『勝鬘経』に「すなわちこの念を生じる時、仏は空中において現われる」とある。あるいは未来の善をもって機とすることができる。まだ生じていない善法を生じさせるためである。また無漏の人が、その習因がないままによく仏を感じるようなものである。このために『大智度論』に「たとえば、蓮華が水の中にあって、生じているもの、今まさに生じようとしているもの、まだ生じていないものが、もし日光を得ることができなければ、必ず枯れてしまうようなものである」とある。衆生の三世の善も、もし仏に会わなければ、悟りを成就するわけがない。

悪もまたこのようである。過去の罪を今すべて懺悔する。現在にあらゆる悪を行なっていても、今また懺悔する。そして未来の罪に対しては、今懺悔することによって、罪を相続する心を断じる。未来の罪をさえぎるために、これを「救い」と名付ける。なぜなら、過去に悪を行なったことは、現在の善を妨げて、善が起こることがないようにさせてしまう。このような過去に行なった悪は人の手にはどうすることもできないので、過去の悪を除くために、仏に求めるのである。また現在にある過去の悪の果である苦報は、衆生を苦しめて救いを求めさせる。また、未来の悪は今、その時に起こらないようにすることができるので、このために過去現在未来の三世の悪を機とするのである。

応もまた同じである。まず過去の慈悲をもって応とする。『法華経』に「私は昔、誓願を立ててこの法を得させようと願った」とある。次に現在の慈悲をもって応とすることは、すべての天と人と阿修羅などがみな、この場所にいるからである。彼らは法を聞こうとしているために、まだ悟りに導かれていない者を導くのである。また未来の慈悲をもって応とすることは、すなわち『法華経』の「如来寿量品」に記されている未来の世の利益(りやく)である。また「安楽行品」に「私は最高の悟りを得る時、人々を引いてその法の中に住むことができるようにさせる」とある通りである。

総合的に結論付けるなら、三世の善悪をすべて機とするのである。特に述べるならば、未来の善悪に対することのみを正しい機とするのである。なぜなら、過去はすでに過ぎ去っており、現在はすでに定まっている。ただ未来の悪を取り除き、未来の善を生じるようにするためのみである。

問う:未来はまだ来ていない。仏はどうしてそれを照らすことができようか。

答える:如来智慧はそれを知る。この世の次元で知ることができるようなものではない。ただ仰いで信じるのみである。どうして分別して知ることができるだろうか。

問う:感とは、衆生の方で自ら感じることができるのか。仏の働きによって感じることができるのだろうか。また如来は自らよく応じるのだろうか。衆生の感によるために応じるのだろうか。

答える:これについては、まさに四つの言葉を用いるべきである。それは、「自」「他」「共(自と他と共にという意味)」「無因(自でもなく他でもないという意味)」である。この四つの本性はすべて存在しないと否定される。この四つの言葉がないために、「無性」である。無性であるために、その表現としては、ただこの世の文字を用いて、四悉檀の中に感応・能(のう・働きかける側という意味)・所(しょ・その働きを受ける側という意味)などを論じるのである。そして、応を働きかけることは仏に属し、応を受ける側は衆生に属する。また感を働きかけることは衆生に属し、感を受ける側は仏に属する。もしさらに重ねていろいろな言葉を述べるならば、世の言葉は乱れて分別が難しくなる。このように文字にするとしても、もともと文字は実在ではないので、文字によるものはないのである。まさに夢のようであり、幻のようである。

問う:すでに善悪共に機とすれば、そもそも善悪のない者はいない。これはみな漏れなく利益(りやく)を受けることができるということであろうか。

答える:この世の病人は医者を呼ぶが、癒される者もいれば癒されない者もいるようなものである。機もまた同じである。機として成熟した者、まだ成熟していない者、利益から遠い者、近い者がいるのである。